娘より間男を選んだ妻へ、無職の俺が一条財閥の後継者だと知っても、もう遅い のすべてのチャプター: チャプター 101 - チャプター 110

144 チャプター

消えた妹、氷の男が見せた激昂

 深夜一時を回っても、凜からの定時連絡は届かなかった。 電波の不調か、報告を後回しにできるほどの収穫があっただけではないか。俺は一度、そう思い込もうとした。 だが二時を過ぎ、三時を過ぎても、凜のスマートフォンは呼び出し音を虚しく響かせるだけで、誰も出ることはなかった。 胸の奥で何かが軋む音を立てる。 警備部への緊急招集をかけたのは、まだ空が白む前だった。凜自身が起動させていたはずの発信機の信号は、京都支社の旧社屋付近で途絶えたまま動かない。俺自身が現場へ向かうと告げた時、警備部長が珍しく血相を変えて止めに入った。「せめて護衛を——」 その声を遮り、俺は車に乗り込んだ。 旧社屋の裏手、崩れかけた駐車場の隅に、凜の車は乗り捨てられていた。運転席のドアは半開きのまま、キーは差しっぱなしになっている。フロントガラスには蜘蛛の巣状のひびが走り、地面には引きずられたような擦過痕が二本、建物の裏口へ向かって伸びていた。 シートの上に落ちていた片方だけのイヤリングと、爪先の割れたヒールを拾い上げた瞬間、俺の中で何かが決定的に切れる音がした。 執務室に戻った俺は机上の資料を一気に薙ぎ払った。積み上げられた書類が宙を舞い、ガラス製のペーパーウェイトが壁に叩きつけられて砕け散る。モニターを蹴り倒し、椅子を投げつけた音が静まり返ったフロアに響き渡った。 これまで黒川や絵里香に向けてきた怒りは、常に制御された刃だった。相手の急所を見極め、退路を断ち、確実に仕留めるための計算づくの冷たい怒りだ。だが今、腹の底から突き上げてくるものは、それとは根本から違っていた。理性の手綱を振り切って暴れ出す、剥き出しの激情そのものだった。 呼びつけた重役たちが顔を揃える会議室で、俺は円卓を拳で殴りつけた。硬い木材に亀裂が走る。「凜の身に何かあれば、この場にいるお前たち重役全員を、一条の看板もろとも道連れにしてやる。今すぐ京都中の防犯カメラを洗い直せ」 抑えたつもりの声に、部屋の空気を凍りつかせるほどの圧が纏わりついていたのだろう。並んだ重役の何人かが椅子を鳴らして身を引いた。「し、しかし会長、評議会の承認なしに全社的な捜索網を動かすとなれば、規定上——」 言い終わらぬうちに、俺は目の前の水差しを掴み、壁へ叩きつけていた。飛び散ったガラスの破片に、発言した重役が言葉を失って口を噤
続きを読む

鎖の中で拾われた者の告白

 頬に伝わる床の硬さで、私は意識を取り戻した。 コンクリートの冷たさが服越しに染み込んでくる。右の手首に食い込む重みを探ると、金属の感触があった。鎖だ。壁際の金具に繋がれたそれは、身じろぎするたびに乾いた音を立てる。 薬のせいで頭の芯がまだ痺れている。京都支社の旧社屋、地下資料室、黒ずくめの男たち——記憶はそこで途切れていた。目隠しはされていない。窓のない四畳ほどの部屋、裸電球が一つ、天井から力なく下がっている。それだけの情報を拾い集めるだけで、息が上がった。 壁の鎖は錆一つなく、繋がれた金具の溶接痕も新しい。黒川の清掃屋が使う安物とは違う。この部屋自体が、私を閉じ込めるためだけに用意されたものだ。 分析する頭は恐怖の中でも勝手に動き続けていた。誰が、これだけの手間をかけて私一人を狙ったのか。 ——兄さんは、私の不在に気づいているだろうか。 考えた瞬間、喉の奥が締まった。定時連絡を怠ってから、もう何時間経ったのか分からない。腕時計は男たちに踏み潰され、発信機の行方も知れない。頼れるものが何一つない状況に置かれるのは、いつ以来だろう。 横領の濡れ衣、機密流出の疑惑、そして拉致。すべてが自分一人に向けて計画的に降り注いでいる。円卓を囲んだ評議会で誰も私をかばわなかったあの沈黙が、鎖の重みと共に蘇る。『血の繋がらぬ小娘』 征之の声が耳の奥で反響した。今この瞬間、鎖に繋がれて誰にも見つけられずにいる自分と、あの日の孤立は、地続きの場所にあるように思えてならなかった。 子供の頃から、ずっとそうだった。身寄りをなくした幼い私を、一条の家は屋根の下に向かい入れてくれた。それに関しては感謝している。だが感謝と同時に、消えない問いも抱え続けてきた。血の繋がらない自分は、いつか役に立たなくなった瞬間、無情に切り捨てられるのではないか——その恐怖を誰にも打ち明けたことはなかった。 だから人一倍、働いた。誰よりも早く情報を集め、誰よりも正確に一条の盤面を整えた。役に立つ女であり続けることだけが、この家に居場所を許される唯一の条件だと信じてきたから…… 今度の罠は、まるでその恐怖の正体を見せつけるかのようだった。用意周到に自分だけを標的にした証拠、誰も味方につかない評議会、そして拘束された身。 本当に自分は一条家の人間として認められていたのだろうか。血を分けた家族
続きを読む

独自網、たどり着く合言葉

 画像が届いてから、まだ十分と経っていない。 目隠しをされ、椅子に縛り付けられた凜の姿が瞼の裏に焼き付いて離れなかった。しかし、取り乱している暇はない。震える指先を握り込み、俺は自分にそう言い聞かせる。 本家の正規の指揮系統には、もう頼ることはできない。 凜一人を狙い撃ちにした罠は、あまりにも精巧すぎた。評議会の中の誰かが、凜の承認履歴を寸分違わずなぞり、証拠を偽装する権限を持っていた証拠だ。捜索の指示を正規の指揮系統へ流した瞬間、情報はそのまま敵の耳へ届く。評議会のどこまでが重蔵の駒になっているか分からない以上、頼れるのは俺自身の手足だけだ。 執務室の隅、誰の目にも触れない専用回線から、俺は三つの相手へ連絡を入れた。 一つ目は、樹が最後に吐いた「満月の夜、白鷺は北へ渡る」——この合言葉に関するものだ。押収済みの通信記録との照合作業は、既に凜の指示で下準備が進められている。 二つ目は、黒川の元配下——かつて清掃屋のリーダーとして凜に刃を向けた男だった。地下の監視棟に呼び出すと、男は俺の顔を見るなり視線を伏せた。「使い捨て端末を毎回切り替える手口は、こちらでも使っていました。中継地点を三つ以上挟めば発信元の特定はまず不可能です……が、末端で中継業者を担える人間は限られています。合言葉さえ分かっているなら、囮を流して食いつかせるのが一番早い」 淡々と手口を語っていた元清掃屋の男の声が、そこで初めて揺れた。「凜さんを、俺はこの手で傷つけかけた。せめてもの償いに、知っていることは全部吐きます」 三つ目は、俺が独自に雇っていた追跡専門のチームだった。一条の看板を出さず、金の出所すら追えないよう法人を幾重にも挟んで契約した、元公安と元傭兵崩れの混成部隊。裏社会との死闘の先を見越して密かに抱えてきた、凜にすら明かしていなかった俺自身の保険だ。「合言葉を使った囮の通信を複数の経路から同時に流します。向こうが食いついた瞬間、発信元の基地局を割り出す」 深夜二時。 凜の発信機が途絶えた京都支社の旧社屋を起点に、暗号化された囮のメッセージが放たれた。 一度は偽の経由地点に誘導されかけたが、途中で反応が途切れた。息を詰めて見守る中、数分の沈黙の後、モニターに新たな信号が浮かび上がる。「食いつきました。中継を三つ経由した先で応答が止まっています。この先へ飛ばさ
続きを読む

奪還、そして交わした誓い

 ヘッドライトを消した四台の車列が、山道の闇を縫うように滑り込んでいく。助手席の窓ガラスに映る自分の顔を、俺は一瞬だけ見た。表情という表情が、すべて削げ落ちている。「会長、正面はこちらで抑えます。裏手の警備は追跡チームが」 警備部長の声に、俺は短く応じた。「いや、俺が先頭に立つ」「しかし——」「凜を最初に見つけるのは、俺でなければ意味がない」 反論を許さない声色だったのだろう。警備部長はそれ以上何も言わず、拳を胸に当てて道を譲った。 塀の外で車を止め、明かりの消えた別荘を見上げる。監視カメラの死角は追跡チームが事前に洗い出していた。合図と共に俺たちは音もなく塀を越えた。 裏口に立つ黒ずくめの男が振り向くより早く、俺はその腕を極め、足を払って、声を上げる間もなく地面へ沈めた。廊下の先でもう一人、無線機に手を伸ばしかけていた男の喉元へ肘を打ち込む。呻き声すら闇に溶けて消えた。 一条の看板の下で積み上げてきた研鑽は伊達ではない。重蔵配下の監視員たちは、一人、また一人と声を発する間もなく制圧されていった。 地下へ続く階段を降りるほどに、空気が湿り、冷たくなっていった。突き当りの鉄扉の前に立つ男の首筋へ手刀を落とし、崩れ落ちる体を支えながら床へ横たえる。 鉄扉に手をかけた瞬間、指先が微かに震えていることに、俺は初めて気づいた。 錆びついた蝶番が軋む音を立てて、扉が開く。 裸電球の下、壁際の金具に鎖で繋がれた凜がいた。頬に泥の跡が残り、手首には赤黒い擦り傷が浮かんでいる。それでも顔を上げた凜の目には、まだ光が残っていた。「——兄さん」 声を絞り出した凜の瞳が驚きに見開かれる。 俺は駆け寄り、膝をついて鎖の金具に工具を差し込んだ。指先がうまく噛み合わず、金属の擦れる音だけが虚しく響く。何度もやり直し、ようやく鈍い音を立てて鎖が外れた瞬間、凜の体が力なく俺の腕の中へ崩れ落ちた。 抱き止めた体は驚くほど軽く、そして冷たかった。これまで幾度となく黒川や絵里香を追い詰めてきた俺の中に、あの時とはまるで違う感情が渦を巻いている。安堵と腹の底から突き上げる激しい怒り——その両方が同時に押し寄せ、喉の奥を締め付けた。「兄さん、ごめんなさい。勝手に一人で……これ以上、兄さんの手を煩わせるわけにはいかないと思って」 擦れた声で紡がれた謝罪に、俺は首を振った
続きを読む

覆された濡れ衣、女王の決意

 救出から三日後、俺は本家評議会を再招集した。 円卓に並べたタブレットには、あの夜押収したすべてが収められている。別荘の警備を担っていた男の自供、使い捨て端末の通信履歴、そして征之が経営するペーパーカンパニーへ流れ込んだ多額の裏金の記録——どれも、言い逃れの余地を残さない代物だった。「凜の横領履歴も機密流出の証拠とやらも、すべて征之、お前が評議会内の権限を使って偽装したものだ。監査部の人事に手を回し、凜のIDで動く承認履歴に細工を仕込ませたのも、お前だな」 俺がタブレットの画面を突き付けると、征之の顔から見る見る血の気が引いていった。「な、何を証拠に……言いがかりも大概にしろ!」「言いがかりかどうかは、これを見てから言え」 俺の合図で警備部の一人が縛られた男を円卓の前まで連れてくる。凜を監禁していた別荘の警備を担っていた男だった。「征之様から直接、監禁と監視の指示を受けておりました。報酬の振込先も、すべて記録に残しています」 男の証言に、円卓を囲む重鎮たちの間に動揺が走った。「そ、それは出鱈目な証言だ!」「出鱈目かどうかは、お前の携帯端末の解析結果が証明してくれる」 俺は静かに告げた。 踏み潰された端末の破片から通信記録の一部が復元されていたことを、征之はまだ知らない。「凜、お前の意見を聞きたい」 俺が水を向けると、凜は円卓の中央でまっすぐに征之を見据えた。「私が横領も情報流出も行っていないことは、この場にいる皆様が既にご存じの通りです。証拠は、そちらの椅子にお座りの征之様が、ご丁寧に全て用意してくださいました」 凜の声には静謐さが纏わりついている。 先日まで「血の繋がらぬ小娘」と唾を吐くように言い放っていた重鎮の一人が、真っ先に椅子から立ち上がり、深々と頭を下げた。「凜様、この度は誠に……知らぬこととはいえ、あのような無礼な発言を……」 その一言を皮切りに、円卓を囲んでいた老人たちが次々と席を立ち、我先にと頭を垂れていく。 数日前まで凜を糾弾する側に回っていた者たちの豹変ぶりに、俺は内心で苦笑した。樹や絵里香が転落した時と全く同じ顔だ。都合が悪くなれば手のひらを返し、強い者に尾を振る。「代理責任者としての権限を即刻停止し、正式な査問にかけるべきだと進言する——先日、そう仰っていたのはどなたでしたか」 凜の一言に、頭を下
続きを読む

女王の初陣、単独の采配

 一条地方支社、最上階の会議室。 窓の外には、まだ再建の途上にある街並みが広がっている。 今日、この円卓に兄さんの姿はない。相手方への根回しも、資料の読み込みも、すべて私一人でここまで整えてきた。誰かの威光を借りずに采配を振るうのは、これが初めてだった。 準備には二週間を費やした。徹夜で財務資料を読み込み、地道な人脈を辿って裏取りを重ね、相手の弱みを一つずつ拾い集めてきた。かつて兄さんの手足として動いていた頃とは違う、私自身の名前で口説き落としてきたアナリストたちの伝手が、今日初めて本領を発揮する日だ。その積み重ねを、この場で使い切る。 円卓に着く直前、握りしめた掌にじわりと汗が滲んでいるのに気づく。だが弱気は誰にも悟らせない。深く息を吸い、背筋を伸ばして席に着いた。 円卓の向かいに座る男が値踏みするような目で私を見た。「凜さん、でしたか。此度は横領の嫌疑をかけられ、挙句には拉致まで。……いやはや、大変な半年でしたね」 海外資本、ハイランド・キャピタルの極東担当責任者、レイン。白鷺銀行が破綻した今、その融資枠の受け皿を狙って一条の地方支社へ接近してきた男だ。「所詮は本家の後ろ盾があるだけの小娘に、まともな経営判断ができるとは思えませんが」 隣に控える通訳を介さず、レインは流暢な日本語で笑みを浮かべた。侮りを隠す気すらない、値踏みの笑みだった。「会長ご本人ではなく、借り物の権限を持つ代理の方が交渉の席に着かれるとは。御社も随分と人材にお困りのようだ」「今日は兄——会長は同席しません。私一人で十分だと判断しましたので」 私は資料を一枚も開かず、穏やかに言葉を返した。動揺は指先一つ見せない。「ほう。それは頼もしい」 レインの口元がさらに緩む。格下だと決めてかかった相手の余裕を崩すのはこれからだ。半年前、征之の企みで拘束されていたあの夜から、私はずっと、この日のために情報を集め続けてきた。誰の手も借りず、自分の力だけで盤面を握る日のために……「御社が持ちかけている融資枠の件、白鷺銀行が抜けた穴を埋める提案としては、確かに魅力的です。ですが……御社が北米で抱えている不良債権の処理、まだ終わっていませんね」 レインの笑みが凍りつく。「な、何を根拠に、そのような……」「証拠がなければ、この場に、その話題を持ち出すはずもありません」 私は動じ
続きを読む

崩れゆく牙城 〜重蔵の焦燥〜

 一条本家、母屋から渡り廊下で繋がった離れ。 障子の向こうでは、幾日も降り続く雨の音が絶えない。かつて、この四畳半で隼人と凜、二人を没落させるための盤面を静かに組み立てていたあの夜とは、もはや何もかもが違っていた。 表向きは隠居した老人の茶室に過ぎないこの四畳半こそが、一条財閥の裏側を数十年にわたって操り続けてきた本当の玉座だった。 一条重蔵——「本家の良心」と一族の誰もが疑わず、宴席では孫を可愛がるように隼人へ祝いの品を欠かさなかった老人。その裏の顔を知る者は今なお、この家に一人もいない。だが、盤石だったはずのその仮面に、初めて明確な亀裂が走ろうとしていた。 茶筅を置いた重蔵の指先が珍しく乾いた音を立てて震える。 数十年前、この座敷で同じように茶を点てながら、京都支社の帳簿を調べていた一人の女の顔をどうしても潰しきれなかったことを思い出す。あの女さえ黙らせておけば、今頃この揺らぎすらなかったはずだ。忌々しい記憶を振り払うように、重蔵は湯呑みを一度強く握り直した。「大叔父様、ご報告がございます」 障子の外、膝をついた楢崎の声には、これまでにない硬さが滲んでいた。「征之様の取り調べにおいて、監査部内の協力者の名が漏れ始めております。当方の息のかかった者が次々と当局に接触を図っている模様です」 重蔵は無言のまま、湯呑みへ目を落とした。「加えて、あの非公開別荘の登記情報からも、出資者を辿る動きが出ております。ペーパーカンパニーの名義を三重に重ねてはおりますが……専門の調査チーム相手では、時間の問題かと」「もう一つ、耳の痛いご報告が」 楢崎が続けた。「ハイランド・キャピタルとの一件、凜様が単独で退けられたとのこと。こちらの筋を通して融資枠に楔を打ち込むはずが、逆に弱みを握られ、話そのものを白紙に戻された模様です」 本丸である隼人たちを直接崩す前に、周囲から包囲網を狭めておくつもりで放っていた一手——ハイランド・キャピタルの一件までが、次々と意図しない形で崩れていく。 畳みかけるような悪報に重蔵の眉間へ深い皺が寄る。 凜の拉致は完全な失敗に終わり、あれほど便利に使ってきた征之という駒も、今や自らの首を絞める証言台に立たされている。数十年かけて張り巡らせてきた隠れ蓑が、日を追うごとに一枚、また一枚と剥がされていく…… これまで一度たりとも味わ
続きを読む

一族を喰う古狸、最後の巻き返し

「緊急の一族会議、ですか」 秘書室から届いた一報に、俺は思わず聞き返した。差出人は評議会でも古参に数えられる一条忠興。 招集の名目は「一条本家における家督継承の混乱収拾」——回りくどい言葉を剥ぎ取れば、要は俺の当主としての資質と、凜への人事采配そのものを問題視するという話だった。 差出人の名に重蔵の名はない。だが、これが誰の描いた絵かは考えるまでもなかった。「あの老人が正面から出てくるとは思えない」 隣で書類を睨んでいた凜が呟く。俺も同じ考えだった。 重蔵は決して舞台に立たない。一族を憂う忠実な長老、という体裁を保ったまま、他人の口を借りて矢を放つ——それが、あの男の流儀だ。表向きは体調を理由に、今日の会議も欠席するという。「兄さん、私も出席させてください」 凜が硬い表情でそう申し出たが、俺は首を振った。「今日は俺一人で行く。お前が同席すれば、連中の的になるだけだ」「私の存在が兄さんを追い落とすための口実に使われていることが悔しい」 凜が残念そうに呟く。「分かってる。だからこそ、連中の口実そのものを潰すんだ」 凜は納得しきれない顔のまま、頷いた。               *** 会議室に集められた一族の重鎮たちは、十二人。開口一番、忠興が切り出した。「隼人殿、あなたが当主となって、まだ日が浅い。若さゆえの拙速な経営判断も目立つ。加えて、外様の凜殿を重用しすぎているという声も決して少なくはない」「拙速とは、具体的にどの判断を指しておいでですか」 俺は問い、そして続けた。「白鷺銀行との一件、そして黒川商会の処理——結果として、すべて一条の利益に繋がっている。もし異論がおありなら、具体的な数字でお示しいただきたい」 忠興は言葉に詰まった。座を埋める重鎮たちの視線が一斉に彼へ集まる。 抽象的な不安だけを並べ立てる論法に、俺は資料を示しながら一つずつ具体的な反証を突きつけていった。凜の采配についても同様だ。ハイランド・キャピタルの一件を単独で退けた実績、横領の濡れ衣が完全に征之の偽装だったという事実——並べれば並べるほど、相手の足場は崩れていく。「そもそも忠興殿は、凜を重用しすぎているとおっしゃるが、この半年で本家に利益をもたらしたのは、他ならぬ凜の交渉手腕だ。血の繋がりだけを基準に据えるなら、そちらの理屈の方がよほど時代錯誤
続きを読む

三方から迫る包囲網

 一族会議から三日。俺はペントハウス地下の会議室に、弁護団、財務・調査チーム、法務部の責任者を集めていた。 長机には資料の束が積み上がり、誰の顔にも寝不足の色が濃い。忠興という駒一つを退けたところで、盤面そのものは何一つ変わっていない。ならば、盤面ごと作り替えるまでだ。今度こそ、逃げ場のない場所まで重蔵を追い詰めなければ。「まず、刑事事件の側面からご報告します」 弁護団の主任が資料を配りながら切り出した。「征之の供述と、押収した通信記録・振込記録を突き合わせました。凜様への横領工作、拉致の実行指示——すべて征之単独の犯行として立件は十分に可能です。ですが……」 主任は一呼吸置き、次の一枚をめくった。「資金の振込先口座の構成、監査部の人事に手を回せる立場、征之を切り捨てても自分だけは残る仕組み——これらは、征之の権限だけでは動かせません。何者かの教唆がなければ、この形にはならない」「重蔵だ」 俺は静かに言った。会議室の誰も否定しなかった。「証拠として突きつけられる形に固めろ。奴が一言の言い逃れも許されないところまで積み上げるんだ。教唆及び共犯として立件できる足場を今夜中に完成させろ」 続いて財務チームが端末をこちらへ滑らせた。「本家の帳簿から抜き取られた資金の流れを、三十年分すべて洗い直しました。総額はおよそ二百十億円。香港、シンガポール、ケイマンなど、計七か国、十一のペーパーカンパニーを経由し、最終的にすべてが重蔵個人の口座へ収束します」 画面に映る資金経路図は無数の線が蜘蛛の巣のように絡み合いながら、たった一つの名前へ収斂していた。三十年という歳月の重みが、そこに凝縮されている。「海外への資産移転を試みた瞬間、すべての口座が凍結されるよう手筈を整えました。国内の不動産も含め、逃がせる資産はもう一円も残っていません」 最後に法務部長が立ち上がった。「家督継承規程の穴ですが、忠興が持ち出した『当主権限を一時的に制限する条項』は、評議会規則の改定によって既に無効化しています。以後、後見役を立てる動議自体が二度と成立しません。次に誰を担ぎ出そうと、法の上でその手はもう使えないということです」 一族の意思決定機関そのものを法の側から掌握し直す。それが、忠興の再来を許さないための最後の布石だった。 刑事、経済、家督継承。三つの包囲網が同時に
続きを読む

初めての対峙、暴かれる沈黙

 障子の前に立つと、微かな衣擦れと湯の沸く音が伝わってきた。迷う理由は、もうどこにもない。 両手をかけ、一息に開け放つ。 灯りの下、正座した重蔵が茶筅を動かしていた。こちらへ一瞥もくれず、碗の中の抹茶を泡立てる手つきに乱れの一つも見当たらない。まるで俺の来訪など、とうの昔に織り込み済みだったとでもいうように…… 庭の池は雨上がりの闇を映し、灯りの輪だけが畳の上に淡く伸びていた。 数十年、一族の裏側でこの老人と正面から向き合う日が来るとは、誰も想像しなかっただろう。母でさえ、この座敷の奥に誰が座っているのか、最後まで知らなかったのかもしれない。 京都支社の帳簿を一人で追い続けていた母は、まさか、その大本がこの四畳半に座っているとは、夢にも思わなかったはずだ。「随分と派手にやってくれたな」 重蔵が口を開いたのは、茶筅を置いてからだった。皺の刻まれた横顔に動揺の色は微塵もない。碗を静かに脇へ寄せ、初めてこちらへ目を向ける。「茶には興味はないようだな。上等だ、付き合ってもらう気もない」 俺は座敷の中央、重蔵と向き合う位置に腰を下ろした。畳の目の一本一本まで数えられそうなほど、意識が研ぎ澄まされている。「一族を心配する好々爺を演じるのは、もう終わりにしろ」 俺の一言に、重蔵の眉がわずかに動いた。「儂が、いつ演じたと言うのだ。宴席で祝いの品を贈ったのも、お前の門出を喜んだのも、すべて本心からのことだ」「その本心とやらの下で、母を消した」 言葉を挟ませず、俺は懐から端末を取り出し、重蔵の膝先に置いた。「征之はすべて話した。凜を陥れた指示の出所、口座を動かした名義をな。財務チームは、あんたが三十年かけて本家の帳簿から抜き取った資金の流れを七か国のペーパーカンパニーまで遡って洗い出した。総額二百十億。評議会の規則も、忠興に持ち出させた抜け穴もろとも、もう二度と使えない形に塗り替えてある」 感情を乗せる必要はなかった。積み上げてきた事実だけで、この老人を追い詰めるには十分だ。「もう逃げ場はない」 湯呑みへ伸びかけた重蔵の指先が、ほんのわずかに止まる。長年一族の裏側で君臨してきた男が初めて見せた綻びだった。「……儂を脅しているつもりか」「脅しじゃない。事実を並べているだけだ」 重蔵の口の端がかすかに持ち上がるが、目の奥までは笑っていない。「若
続きを読む
前へ
1
...
910111213
...
15
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status