All Chapters of 娘より間男を選んだ妻へ、無職の俺が一条財閥の後継者だと知っても、もう遅い: Chapter 11 - Chapter 20

56 Chapters

滑稽な勘違い

 白鷺銀行が主催する商業パーティーの会場は、京都でも随一の格式を誇る最高級ホテルのグランドボールルームだった。 天井に輝く巨大なシャンデリア。弦楽四重奏の優雅な生演奏。 会場には政財界の重鎮や名立たる投資家たちが集結している。その中で桐島絵里香と宝生樹は、ひと際華やかな装いでグラスを傾けていた。「素晴らしい夜ね、樹くん。今日の融資審査の通過で、うちの会社の信用は完璧なものになったわ」「ええ。ですが、これはまだ始まりに過ぎません。今夜の最大の目的は、このパーティーの主賓——一条財閥・地方支社のトップとの提携ルートを作ることです。一条の後ろ盾さえ得られれば、僕たちの巨大開発プロジェクトは誰にも止められない」 二人は勝利を確信したように微笑み合い、これから手にするであろう巨万の富と権力に酔いしれた。 その時、会場の入り口付近が俄かにざわめき始めた。 ざわめきは波のように広がり、やがてオーケストラの演奏すらも霞むほどの静寂と、息を呑むような緊張感が空間を支配する。「来たわ。一条財閥の代理責任者、凜様よ」 誰かが囁いた声に絵里香たちも一斉に視線を向けた。 会場に姿を現した凜は、夜の闇を織り込んだような深い黒のロングドレスに身を包み、息を呑むほど研ぎ澄まされたオーラを放っていた。 若き女社長として絶頂にいるはずの絵里香ですら、その圧倒的な格の違いと気品を前にして言葉を失っている。 だが、会場の視線をより強烈に惹きつけていたのは、そんな彼女の隣を微塵の気後れもなく悠然と歩く男——イタリア製の最高級ビスポーク・スーツに身を包み、藍色のネクタイを締めた俺の姿だった。 絵里香は凜の隣を堂々と歩く俺の姿を認めた瞬間、持っていたグラスを取り落としそうになった。「な……っ!? どうして、あいつが……!」 信じられないものを見るように目をひん剥き、次いで、彼女の顔に明らかな侮蔑の色が浮かび上がった。昼間、銀行のエントランスで見た高級車——あの時の歪んだ推測が、彼女の中で確固たる真実へと変わった瞬間だった。 俺たちがフロアの中央へ進み出ると、獲物を見つけたハイエナのように絵里香と樹が足早に近づいてきた。「ちょっと! あなた、こんな神聖な場所で何をしているの!?」 周囲の目を気にしつつも、怒りと優越感を隠しきれない声で絵里香が吐き捨てる。「昼間の高級車を見て
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王の帰還 〜絶望のスポットライト〜

 突如として、会場を包んでいた柔らかな照明が一斉に落ちた。 視界を埋め尽くすほどの、純白の光の柱。それが会場のざわめきを切り裂くようにして、俺の全身を真上から真っ直ぐに照らし出す。 息を呑むような静寂が、ホテルの豪華なグランドボールルームを一瞬にして支配した。数秒前まで俺の周囲を満たしていた耳障りな嘲笑や、見下すような視線が嘘のようにピタリと止まる。 正面に立つ絵里香は、目の前で起きている現実をまったく処理しきれていないようだった。 大きく見開かれた両目は信じられない冗談を聞かされたように釘付けになり、ポカンと半開きになった唇からは間の抜けた空気が漏れている。さっきまで俺を「誰かに養ってもらうことしかできない男」と鼻で笑っていた余裕など、微塵も残っていなかった。「……え? うそ……嘘でしょ……?」 絵里香の掠れた声が、床にぽつりと落ちる。 その隣に立つ樹も同様だった。完璧に張り付いていたはずの、計算高い営業スマイルは無惨に崩れ去っている。動揺のあまり、手に持っていたクリスタルグラスが大きく傾き、中身の高級シャンパンが濡れた床へ滴り落ちていたが、今の彼には気づく余裕すらなさそうだった。 少し離れた円卓で、一条の地方支社と繋がりのある有力者たちに媚びを売っていた義母の典子も、俺の姿を認めて雷に打たれたように完全に硬直している。手に持っていた扇子が床へと力なく滑り落ちた。 俺は彼らの醜い動揺を視界の端に収めながらも、あえて一瞥もくれず、ゆっくりと歩みを進めた。 高級な革靴が磨き上げられた床を叩く。その足音が静まり返った会場に重々しく響き渡った。 先ほどまで俺を「取るに足らない部外者」として冷ややかに見下していた政財界の重鎮たちが、まるでモーゼの十戒のように、俺の進む道から一斉に左右へと退いていく。彼らは一様に、信じられないものを見るような目を向けた後、俺が通り過ぎる瞬間に、直感的な恐怖から深く頭を下げていった。 ステージへと続く階段を上り、中央に用意されたマイクの前に立つ。 壇上に設置されたスピーカーが微かに唸りを上げた後、司会者が興奮と深い畏れを含んだ厳かな声で、マイクに向かって会場全体に宣言した。「皆様、大変長らくお待たせいたしました。ご紹介いたします。本日付けで着任いたしました、一条グループ新任会長——一条隼人様です。今後、本地方支社の
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逆恨みの咆哮 ①

 重厚な防音扉が閉まった瞬間、背後で鳴り響いていた万雷の拍手と喧騒が、嘘のようにピタリと遮断された。 一般客の立ち入りが厳しく制限された、ホテル最上階のVIP専用通路。磨き上げられた大理石の床には毛足の長い絨毯が敷き詰められており、そこを歩む俺と凜の足音すら、静謐な空気に深く吸い込まれていく。「見事な宣誓でした、兄さん。会場の人たち、まるで世界の終わりを見たかのような顔をしていましたよ」 一歩後ろを歩く凜が声音に微かな熱を帯びさせて話しかけてくる。その切れ長の瞳には、俺への絶対的な信頼と敵への不敵な愉悦が宿っていた。「あぁ。だが、ここからが本番だ。深く泳がせれば泳がせるほど、獲物は勝手に底なしの罠へとはまっていくからな」 俺は娘の結衣が選んでくれた藍色のネクタイの結び目を少しだけ緩め、VIP控室へと向かって廊下を進んだ。 だが、エレベーターホールへと差し掛かった、その時だった。「ちょっと、待ちなさいよ!」 静かな空間を引き裂く、甲高い金切り声が廊下の奥から響いた。 振り返ると、そこには首まで真っ赤に紅潮させ、荒い息を吐く絵里香が立っていた。華やかなドレスを身に纏っているものの、その端正な顔立ちは屈辱と激しい怒りによって醜く歪んでいる。額には細かい汗が滲み、完璧だったはずのメイクが微かに崩れかけていた。 自分の会社『エリカ・パートナーズ』の不正が暴かれるカウントダウンと、間男である樹の経歴詐称が暴かれる寸前だというのに、彼女の血走った目には、反省や後悔など微塵も存在していなかった。あるのは、ただ強烈な被害妄想と受け入れがたい現実への拒絶だけだ。「騙していたのね……! こんなにお金を持っていたなら、どうして私に黙っていたのよ!」 絵里香はヒールの音を乱暴に鳴らしながら俺との距離を詰め、さも自分が最大の被害者であるかのように指を突きつけて喚き散らした。「最初から一条財閥の人間だって言ってくれていれば、私だってあんなことしなかったのに! 私の稼ぎに縋っているなんて嘘をついて、惨めな主夫ごっこをして私を試していたのね!? 最低だわ、あんたって人は!」 俺の前に立ちふさがり、激しい罵声を浴びせてくる元妻。 その姿を、俺はただ瞬きひとつせず、深い闇のような視線で見下ろしていた。もはや怒りや落胆といった感情すら湧かない。ただ、目の前にいる女の底知れな
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逆恨みの咆哮 ②

 その頃、グランドボールルームの裏手に位置する、薄暗い関係者控室—— 宝生樹は、完璧に整えられていた高級スーツのネクタイを乱暴に引きちぎるようにして緩め、額から止まらない冷や汗を手の甲で何度も拭っていた。「くそっ、どういうことだ……! あの無職のヒモ男が一条のトップだと!? そんな馬鹿な話があるか!」 デスクを激しく叩き、手元にあるスマートフォンの画面を血走った目で凝視する。 先ほど隼人が壇上で放った「再審査」という言葉が、樹の脳裏を激しく殴り続けていた。自分の華々しい経歴の大半が巧妙な偽造であること、そしてエリカ・パートナーズの裏金流用…… 一条が本気で動き出せば、それらが白日の下に晒されるのは時間の問題だ。 そうなれば、自分は詐欺罪で刑務所に送られるか、あるいは——自らの背後にいる、あの底知れない投資グループの黒幕から口封じのために消されるかのどちらかだ。 ガチガガと歯を鳴らしながら、樹は震える指で、先ほど融資の手続きを終えたばかりの白鷺銀行の融資担当者へと連絡を入れた。「……もしもし! 俺だ、宝生だ! 状況は最悪だ。一条の新会長に完全に目を付けられた! どうにかして融資の実行を急がせてくれ、早く金を海外の口座へ……!」 電話の向こうの相手と、蜘蛛の糸ほどの活路を見出そうと必死に足掻く。 やがて通話を切った樹の目に、廊下からふらふらと控室へ戻ってきた絵里香の姿が映った。彼女の顔には、かつての夫である隼人への異常な逆恨みと、娘の親権への妄執がベッタリと張り付いている。 その様子を見た瞬間、樹の脳内で、ひとつの極めて邪悪で計算高い、新たなシナリオが組み上がった。「絵里香さん……」 樹は歪んだ笑みを浮かべ、絵里香の震える肩を優しく抱き寄せた。そして瞬時にいつもの優しいエリートの表情を取り繕うと、怯える彼女の肩をそっと抱き寄せ、耳元でひどく甘く、そして悍ましい声で囁いた。「大丈夫です。まだ我々は完全に負けたわけではありませんよ」「樹くん……でも、あいつが一条のトップだなんて、私の会社はもう……」「奴がどれほど巨大な権力を持っていようと、明確な弱点があります。……結衣ちゃんですよ」「えっ? どういうこと?」「さきほど、あなたが奴に突きつけた親権——あれは最高の武器になります」 物を見つけた爬虫類のように、樹の口の端が歪に吊り上がる。
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一条の牙とネットの罠

 翌朝。一条財閥・地方支社の最上階にある豪奢な執務室—— 全面ガラス張りの窓から眼下に広がる京都の街並みを見下ろしながら、俺は手元のタブレットへ視線を落としていた。「兄さん、ご指示通り、提携企業の再審査を本格始動させました」 俺の後方に控える凜が淡々と報告を上げる。「特に、株式会社エリカ・パートナーズから提出された財務資料は、文字通り穴だらけでした。架空取引による利益の水増し、用途不明の巨額の仮払金……。あの宝生樹という男が手掛けた偽装工作は素人を騙せても、我が一条の監査部の目は決して誤魔化せません。このままいけば、彼らは現在進行中の『未来湾岸総合開発計画』から完全に締め出され、莫大な違約金を抱えて即座に破綻します」「あぁ。当然の結果だ」 俺は熱の無い声で応え、デスクの上のコーヒーカップへ手を伸ばした。 奴らが一条の威光を利用して甘い汁を吸おうとした時点で、すでに自らの首に縄をかけていたのだ。あとは俺が指先ひとつでその足場を蹴り飛ばすだけでいい。 だが、破滅の足音が耳元まで迫った時、追い詰められた愚か者どもは、予想外の方向へと卑劣な牙を剥いた。 同日の午後になり、俺のスマートフォンに、一条の広報部から緊急の通知が飛び込んできた。『会長、至急ネットのニュースサイトとSNSをご確認ください』 眉を顰めながら画面を開くと、そこには目を疑うような見出しが乱れ飛んでいた。【独占スクープ】一条グループ新会長の歪んだ復讐劇! 権力を私物化し、元妻の会社を不当に弾圧か!【悲劇の女社長】『彼は無職時代に私に寄生していた』——元夫からのモラハラと、大企業による卑劣な圧力の真実。 記事には俺が昨日就任したばかりであること、そして離婚の私怨を理由にエリカ・パートナーズへの融資や提携を一方的に打ち切ろうとしているという、悪意に満ちた偏向報道が書き連ねられていた。インタビューに答える絵里香の「娘のためにも、会社を潰されるわけにはいかない」という涙ながらの嘘の証言まで掲載されている。 さらにSNS上では無数の匿名アカウントが一斉に動き出していた。『一条のトップ、器小さすぎだろ』『頑張ってる女性起業家を個人的な恨みで潰すとか、最低』『こんなパワハラ企業が開発事業とか許されない』 同情は絵里香へ集まり、一条と俺に対する強烈なバッシングが、ネット上で猛烈な勢いで
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歪んだ母性と偽りの日記

 翌日の週末。 俺は約束通り、結衣を連れて都内屈指の高級ショッピングモール『グラン・ルミエール』へと足を運んでいた。 一条グループが開発に深く関わり、実質的なオーナー権を握るこの複合商業施設は、一流ブランドのブティックや高級レストランが立ち並ぶ洗練された空間だ。「パパ、あのお洋服かわいい!」「そうだな。結衣に似合いそうだ。着てみるか?」「うんっ!」 特大のケーキを食べて笑顔を取り戻した結衣は、ショーウィンドウに飾られた子供服を見て目を輝かせている。 現在、ネット上では絵里香や宝生樹が仕掛けた工作により、俺に対する理不尽なバッシングが吹き荒れている。しかし結衣の前では、一人の優しい父親でありたかった。 買い物を終え、吹き抜けの広場にあるカフェスペースで休憩しようとした、その時だった。「あ、いたわ! ちょっとあんた、勝手に私の娘を連れ回さないでよ!」 耳障りな金切り声が、モールの優雅なBGMを切り裂いた。 振り返ると、派手なブランド服で着飾った絵里香と、その母親である典子が、鬼の首を取ったような顔で足早に近づいてくる。絵里香の片手には、不自然にカメラアプリが起動されたスマートフォンが握られていた。(ネットのニュースで悲劇の女社長を演じた手前、今度は健気な良き母親のアピール材料でも欲しくなったか……) 俺は呆れを通り越し、怒りすら覚えながら、怯えて俺の足元に隠れる結衣を庇うように一歩前に出た。「ママが迎えに来たわよ、結衣。さぁ、こんな男のところから離れて、ママと一緒に写真を撮りましょう」 絵里香は猫撫で声で結衣の腕を強引に掴もうとする。だが、結衣は「やだっ!」と叫び、俺のコートを強く握りしめた。 思い通りにならない娘の態度に絵里香の表情が一瞬険しくなるが、周囲に人がいることに気づくと、すぐさま大げさに声を震わせ、悲劇のヒロインを演じ始めた。「ひどいわ……! 無職で私に寄生していたくせに、離婚された腹いせに娘を誘拐するなんて! 無職の男に育てられるより、女社長の私が育てた方が結衣のためよ!」「皆様、聞いてください! この男は娘の稼ぎを食いつぶした挙句、親権もないのに、私の孫を無理やり連れ去った誘拐犯なんです!」 典子もわざとらしくハンカチで目頭を押さえながら、周囲に響く声で加勢する。 その言葉に休日のショッピングモールは俄かにざわめ
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甘い譲歩の罠 ①

「……以上が、桐島絵里香氏が求める『親権者変更』に伴う、穏便な解決のための条件となります」 わざとらしく重々しい声が、一条財閥・地方支社の特別応接室に響き渡った。 磨き上げられた黒檀のテーブルを挟んで、俺と凜、そして一条グループが誇る専属弁護士団が並んで座っている。向かい側には、全身をハイブランドで固めて勝ち誇った顔の絵里香と、彼女が雇った強欲そうな弁護士がふんぞり返るようにして座っていた。 テーブルの中央には、家庭裁判所から届いたばかりの『親権者変更調停』の申立書が置かれている。 離婚の際、自らの自由と間男との生活を優先してあっさりと放棄した結衣の親権を、俺が一条のトップだと知った途端、強引に取り戻そうというのだ。「一条会長。本日はお忙しい中、お時間をいただき光栄です。単刀直入に申し上げましょう」 絵里香の弁護士が、もったいぶった態度で口を開いた。「過去数年間にわたる、あなたからの経済的・精神的苦痛……いわゆるモラハラの決定的な証拠として、依頼人である桐島絵里香氏の日記が残されております。現在、一条グループの会長として世間の注目を集めているあなたが、このまま調停、あるいは裁判で争うことになれば……あなたの社会的信用にも、取り返しのつかない傷がつくかと存じますが?」 巧妙に偽造された手帳を盾にした、あからさまな脅迫…… 隣で絵里香が腕を組み、冷笑を浮かべて俺を見据えた。「そういうことよ、隼人。あなたがどれだけ巨大な財閥のトップになろうと、過去に私を精神的に追い詰めた事実は消えないの。結衣の本当の母親は私よ。でもね、私も鬼じゃないわ。穏便に済ませてあげてもいい」「……穏便に、だと?」「ええ。あなたが結衣の親権を私に譲り、エリカ・パートナーズへの白鷺銀行の融資と、一条グループとの提携を確約するなら……月に一度くらいは、結衣に会わせてあげてもいいわよ」 親権を人質に取り、一条の莫大な資金と権力を要求する。あまりにも自己中心的で、極めて傲慢な取引だった。 背後に控える凜の全身から、文字通り凍てつくような殺気が立ち上るのが分かった。一条の弁護士団も不快感に眉をひそめ、俺に向かって即座に進言してくる。「会長。このような恐喝まがいの要求を呑む必要は一切ございません。即座に法的手段をもって叩き潰すべきです。あのような偽造証拠など、我々の調査力をもって
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甘い譲歩の罠 ②

 ポンッ、と軽快な音が弾け、最高級シャンパンの芳醇な香りが夜の社長室を満たしていく。「乾杯、樹くん! あーっ、あいつの怯えきった顔、最高だったわ!」 絵里香は満面の笑みでグラスを打ち鳴らした。昼間の応接室で見せた元夫の屈服——その余韻に彼女は完全に酔いしれていた。「やっぱり結衣を引き合いに出せば、あいつは何もできないのよ。私たちの完全な勝ちね!」 絵里香と樹は最高級のシャンパンの栓を抜き、高らかにグラスを打ち合わせて勝利の祝杯を挙げていた。「ええ、素晴らしい手腕でした。一条の莫大な資金と提携ルートは、もはや我々エリカ・パートナーズのものです」 樹は完璧なスーツ姿のまま、眼鏡の奥で狡猾な光を煌めかせ、絵里香の肩を甘く抱き寄せた。「絵里香さん。一条の資金と提携が確約された今、我々は現状維持で満足するべきではありません。エリカ・パートナーズを、業界トップに押し上げる絶好の機会です」「トップに……? でも、どうやって?」「現在進行中の『未来湾岸総合開発』ですが、競合である中堅企業を我が社で買収して、プロジェクトの利権を独占するんです。買収資金は、私の太いパイプである『黒川商会』から、巨額のつなぎ融資を即座に引き出せます。条件は一つ……我が社、エリカ・パートナーズの自社株を担保に入れることだけです」「自社株を担保に? もし買収後にプロジェクトが上手く回らなくて、返済が滞ったら……」「普通なら、そのリスクを恐れて誰も手を出せません。ですが、我々には一条という絶対的な後ろ盾ができた。万が一資金繰りがショートしても、一条から無尽蔵に金を引っ張ればいいのですから。結衣ちゃんという最強の人質がいる限り、我々にリスクなど一つもありませんよ」 甘い囁きと、欲望を刺激する言葉の連続……「……ふふっ、そうね。樹くんの言う通りだわ。一条の金がいつでも引き出せるんだから、恐れることなんて何もない。やりましょう! エリカ・パートナーズを、あいつが見上げるほどの大企業にしてやるわ!」 絵里香は完全に金と優越感に酔わされ、間男に促されるまま、自らの会社そのものを担保に差し出す危険な融資契約書にサインをした。 それが一条の仕掛けた罠だとも知らず、自ら破滅の底なし沼へと頭まで沈み込んでいく愚かな女の背後で、樹の狂気に満ちた歪な笑みだけが暗い社長室の中に不気味に浮かび上がってい
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闇に消えた母性

 一条グループ地方支社会長室。アンティークの掛け時計が、午後五時ちょうどを知らせる鐘の音を鳴らした。「本日の業務はここまでだ」 俺はデスク上の決裁書類に最後のサインを書き入れると、立ち上がってジャケットを羽織った。「お疲れ様でした、兄さん。……それにしても、あの凄まじい決裁の速度、本社にいた頃より、さらに研ぎ澄まされていませんか?」 背後に控えていた凜が、呆れたような、それでいて誇らしげな笑みを浮かべてコートを手渡してくる。「結衣がペントハウスで待っているからな。無駄な残業に付き合っている暇はない」 俺がネクタイを締め直していると、凜が手元のタブレットを開き、声を一段階落とした。「その結衣ちゃんについてですが……絵里香側が雇った弁護士が厄介な動きを見せています」「厄介な動き?」「ええ。彼らは現在、探偵を雇ってペントハウスの周辺や結衣ちゃんが通う幼稚園での『隠し撮り』や『聞き込み』を行っています。狙いは一つ。『一条グループの新会長という激務の男に、まともな育児など不可能。現在、結衣ちゃんはシッターに丸投げのネグレクト状態にある』という実績をでっち上げるつもりです」 親権調停において、「現在の養育環境が劣悪である」という主張は、親権変更の強力な武器になる。あの間男・樹の入れ知恵だろうが、相変わらず浅知恵で小賢しい手を打ってくる。 俺は鼻で笑い、袖口のボタンを留めた。「愚かな。俺が何のために、一条の権力を使ってまで自分のスケジュールを完全にコントロールしていると思っている」 現在、俺は結衣との時間を最優先するため、毎朝、自らの手で朝食を作り、結衣を幼稚園へ送り届け、午後五時には必ず退社して娘を迎えに行っている。夕食を共に囲み、絵本を読んで寝かしつけているのだ。 それは無職の主夫時代から何一つ変わっていない。俺にとって最も尊い日常だ。「その通りです。連中が雇った三流の探偵は、すでにこちらの息がかかっていますからね。彼が向こうの弁護士に送っている報告書は、兄さんが結衣ちゃんと笑顔で手をつないで歩く姿や、一緒にスーパーで楽しそうに夕飯の買い出しをする姿ばかりです。見事なまでに『理想の父親』の記録映画を見せられて、向こうの弁護士も頭を抱えていることでしょう」 凜がくすくすと冷ややかに嗤う。「相手が偽造した日記帳でモラハラをでっち上げ、こちらを貶
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白鷺銀行の暴走と新たな脅威

「融資が保留だと!? ふざけるな、約束が違うじゃないか!」 エリカ・パートナーズの社長室に、スマートフォンを握りしめた樹の怒号が響き渡った。 一条グループの提携を後ろ盾にした彼らの通常の融資自体は、一条の指示通り、驚くほどスムーズに通っていた。だが、一条の金を引き出せると完全に有頂天になった樹が、さらなる欲をかいて申請した『自社株を担保にした巨額の買収(M&A)資金』——その異常な追加融資に対して、銀行の現場が突如としてストップをかけたのだ。「どうしたの、樹くん……!?」 顔面を蒼白にさせた絵里香が、すがりつくように問い詰める。「最悪です。このままでは、黒川商会から引いた巨額のつなぎ融資の返済に間に合わず、会社が不渡りを出します。担保に入れたあなたの自社株が完全に奪われてしまう……!」 樹の額に滝のような冷や汗が浮かぶ。(ここで一条の資金を取り逃がせば、俺は黒川商会から確実に消される……!) 絶望的な焦燥に駆られた樹は、すがるように画面を乱暴に叩き、どこかへ電話をかけた。「……俺だ。白鷺銀行の現場がビビって止まった。あんたのコネで、副頭取を直接動かしてくれ。一条の監査が入る前に無理やりにでも決裁を通すんだ!」 背後にいる黒幕の力を借りてでも、強引に金を奪い取る。それは彼らが一条という巨大な獣の顎に、自ら深く頭を突っ込む愚行に他ならなかった。                    ***『申し訳ございません、一条会長!』 一条財閥・地方支社の執務室。デスク上のスピーカーから、白鷺銀行の支店長の切羽詰まった声が響いた。『以前ご指示いただいた通り、奴らには通常融資を行っていたのですが、数日前、突然黒川商会という怪しげな名が絡む、極めてリスクの高い巨額の追加融資申請がありまして……。いくら泳がせるとはいえ異常な案件のため、会長にご相談しようと一時保留にしておりました』「なるほど。お前の判断は正しい」『ところが先ほど……当行の副頭取から直接、この異常な融資を即刻実行しろと厳命が下りまして……!』「副頭取……」 俺の後方に控えていた凜の目が、押し殺したような鋭い殺意を帯びた。「お母様が亡くなられる直前に接触していた、あの貸金庫の写真の男ですね。よほど焦っているのか、強引に現場のルールを捻じ曲げてきました」『一条会長! 私から本社に掛け合
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