All Chapters of 娘より間男を選んだ妻へ、無職の俺が一条財閥の後継者だと知っても、もう遅い: Chapter 31 - Chapter 40

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絶対防壁の幼稚園 ②

 翌朝になり、薄暗い公衆トイレの洗面台で、典子は震える手で安物のファンデーションを顔に塗りたくっていた。 娘の絵里香から「私の人生の邪魔」「ただの疫病神」として切り捨てられ、所持金は底を突きかけている。先日の幼稚園での誘拐未遂による現行犯逮捕で、彼女の社会的信用はすでに塵と化していた。行くあてもなく、雨上がりの街を彷徨う彼女の腹の底で煮えたぎるのは、反省ではなく、ドロドロとした強欲な飢餓感だけだった。(結衣さえ手に入れれば……あの憎き一条隼人から、一生分の金をせびり取れる……!) それが、行き場を失った彼女を突き動かす唯一の原動力だった。 だが、以前のように無防備に幼稚園へ近づけば、即座に通報されることは骨の髄まで理解している。 前夜の泥汚れを必死に洗い落とし、典子は手持ちの服の中で一番見栄えのするジャケットを羽織り、なけなしの金で買ったツバの広い帽子とサングラスを身につけ、上品な祖母を懸命に装った。 高級住宅街の一角に建つ、結衣が通う超VIP幼稚園—— 到着した典子は遠目からその光景を見て息を呑んだ。そこは以前、彼女がゴロツキを引き連れて強引に押し入ろうとした時とは全く異なる、強固な要塞へと変貌していたのだ。 敷地の周囲には一条グループのエンブレムを冠した黒塗りの車両が隙間なく並び、門前にはインカムを装着した屈強な男たちが、威圧的な沈黙を守って立ちはだかっていた。 一条隼人が愛娘を外界の悪意から守るために築き上げた、いかなる侵入も許さぬ、完璧な隔離空間だ。 典子は唾を飲み込み、送迎に訪れた他の保護者たちの列に紛れ込み、顔を伏せながらエントランスのゲートへと足を踏み入れようとした。 だが、その時——「お待ちください」「……な、何よ。私は孫の結衣を迎えに来たの。家族なんだから通しなさい」 典子は声を荒らげず、上品な祖母を演じて微笑んだ。 しかし、警備員はサングラスの奥の視線を一ミリも動かさず、手にしていたタブレット端末を一瞥した。 典子は呼吸を押し殺し、保護者たちの列に紛れ込んでエントランスのゲートへ向かった。顔を伏せ、何食わぬ顔でその敷居を跨ごうとする。 だが、次の歩を踏み出すより早く、死角から現れた二人の警備員が、典子の行く手を完全に塞いだ。「顔認証システムにより、対象者の特定を完了。桐島典子氏ですね。当施設への半径百メートル
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愚者の法廷と王の弁護団 ①

 京都市内、一条財閥が所有する超高級マンションのペントハウス。 そのロビーは美術館のような静寂と、一般人を寄せ付けない重厚な空気に支配されていた。そこに安物の香水と煙草の匂いを纏った一組の男女が、場違いな足音を響かせて現れた。 悪徳弁護士・鮫島は周囲を威圧するかのように胸を張り、受付のコンシェルジュを睨みつけた。「一条隼人に面会を申し込む。……ああ、そうだ。この老婦人の『面会交流権』の侵害、および精神的苦痛に対する賠償請求の件だ。本人が直接出てくるように伝えろ」 コンシェルジュは表情一つ変えず、淡々と応じる。「あいにくですが、一条は多忙にしております。また、当マンションへの立ち入りは許可されておりません。直ちにお引き取りください」「ふざけるな! これは正当な法的権利の行使だ!」 鮫島はわざとらしく声を張り上げ、ロビーにいる他の入居者たちの注目を集めようと画策した。典子もそれに合わせ、芝居がかった手つきで額を押さえる。「孫に会わせないなんて……あの子は私たちの血を引いているのよ! 人権侵害よ!」 彼らがこのロビーで騒げば騒ぐほど、自分が不利になることなど、強欲に目が眩んだ二人には想像もできなかった。 喚き散らす二人に対し、コンシェルジュは一切の表情を崩さなかった。それどころか、淡々と耳元のインカムに指を当て、誰かへ向かって報告を始めた。「——はい。対象者二名による、ロビーでの『威力業務妨害』および『不退去』の明確な言質と映像記録、確保いたしました」「な……に?」 鮫島が怪訝な顔をした直後。 タイミングを見計らったかのように、ロビー奥の専用エレベーターの扉が滑らかに開き、数名の男女が静かに歩み出た。 先頭を歩くのは、一条財閥・地方支社の代理責任者、凜だった。彼女の背後には、一条グループが誇る最強の法務チームが整然と続いている。「な、なぜ一条の幹部がここに……。一条隼人は会社にいる時間のはずだぞ!」 鮫島が狼狽して声を上擦らせた。「ええ、兄さんは執務中よ」 凜はヒールを鳴らして歩み寄り、鮫島たちを心底見下すような冷笑を浮かべた。「わざと兄さんが不在の時間を狙ってマンションへ押しかけ、現場のスタッフに追い返されることで『不当に面会を拒絶された』という既成事実を作るつもりだったのでしょう? 三流の悪徳弁護士が考えそうな、浅知恵ね」「な
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愚者の法廷と王の弁護団 ②

 弁護士が提示したのは、警察署の発行した『未成年者略取誘拐未遂事件の調書』だった。「桐島典子氏。あなたには幼稚園での誘拐未遂という明白な前科がある。そして、そこの弁護士——あなたは、その略取誘拐犯を正当な依頼人として擁護し、保護命令が出ている当マンションへ強引に連れ込もうとした。これは法律用語で何と言うか、弁護士なら分かりますよね?」 鮫島の顔から、一瞬にして色が消えた。「幇助です。重大な犯罪の計画的実行を支援した、共犯行為とみなされます」 弁護士の淡々とした指摘に、鮫島は額に脂汗を浮かべた。「そ、そんな馬鹿な! 私はただ依頼を受けただけで、彼女が誘拐犯だという確証は——!」「『知らなかった』で済まされるとでも? あなたが結衣様の通う幼稚園の近くで、典子氏に接触した際の映像……我が一条の防犯ネットワークは、対象者である彼女の動向を完全に追跡・記録していましたよ」 鮫島の顔から一瞬にして色が消えた。「警備員が典子氏に対して『接近禁止命令』と『誘拐未遂の前科』を宣告して追い払った現場を、あなたは自分の目で見て、はっきりと認識していた。その上で、このマンションへ押し入る計画を立てた明白な証拠です」「裏路地での行動まで……っ!」 弁護士がテーブルに突きつけたのは、裏路地での接触を捉えた鮮明な写真だった。「この証拠を添えて弁護士会へ懲戒請求を行えば、最低でも長期の業務停止、悪質性を考慮すれば除名処分は免れないでしょう。さらに保護命令違反の教唆、および建造物侵入の共犯として、今ここで警察に引き渡すことも可能です」「嘘だ……そんなはずはない!」 鮫島は書類を掴もうと手を伸ばしたが、その瞬間、背後から音もなく近づいた二人の警備員に、左右から完璧なタイミングで腕を固定された。 乱暴な組み伏せではない。関節を的確に圧迫し、痛みを最小限に抑えつつ、一切の抵抗を許さない——軍隊仕込みの冷徹な制圧術だ。「は、離せ!」「抵抗はおすすめしません。これ以上の言動は、不退去罪および威力業務妨害の証拠として、より厳格に記録させていただきます」 警備員は一切の感情を排した声で宣告し、鮫島を中腰の姿勢のまま、ロビーの端へと静かに誘導した。「ま、待ってください! 私は……私は関係ありません! この女が勝手に嘘をついて、私を騙したんです!」 鮫島は土壇場で典子を指差し、卑
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路傍の石と砂上の王女

 到底支払うことができない数字が記された賠償請求書を握りしめ、ロビーの大理石にへたり込んだ典子は、ガタガタと全身を震わせるだけで、もはや声すら発することができなかった。「払えなければ、どうなるか分かっているわね?」 無価値な残骸を見下ろす凜の口から、一片の慈悲もない宣告が紡がれる。「あなたの全資産、そして隠し持っている貴金属や骨董品に至るまで、一条グループの法務部が法的手段をもって徹底的に差し押さえるわ。つまみ出しなさい。二度と、一条の所有地へ足を踏み入れさせないように」 凜が冷淡に指を鳴らすと、屈強な警備員たちが典子の両脇を無機質に掴み上げた。「い、いやっ! 離して! 私は絵里香の母親よ! まだ……私は……!」 警備員が典子の両脇を抱え、ロビーの外へと強引に引きずり出していく。彼女の虚ろな瞳は一点を見つめたまま、焦点が合うことはなかった。 それから、わずか数日後のことである。 京都市外れにある、築五十年は下らない薄汚れた木造アパート。そのカビ臭い四畳半の一室に、身をすくませて震える典子の姿があった。 一条の凄まじい法網により、銀行口座から住む場所、隠し持っていた貴金属に至るまで、すべての財産を完全に差し押さえられた彼女は、最終的に生活保護にすがることでしか生き長らえることができない身へと転落していた。 だが、長年染み付いたセレブ気取りの浪費癖は抜けず、支給されたなけなしの保護費すらあっという間に使い果たしてしまう。その日の食事にすら困窮し、目先の現金欲しさに手を出してしまった非合法の闇金が、彼女を地の底まで追い詰める。「あぁ? その立派な社長様からはな、『その人物とはすでに縁を絶っております。当社とは一切無関係ですので、二度と連絡してこないでください』って、ガチャ切りされて着信拒否されてんだよ。実の娘に捨てられて哀れなもんだな、あんた。さあ、今月の保護費は全額置いていってもらおうか。足りない分は臓器でも何でも売って、きっちり耳を揃えろや」 柄の悪い男たちに胸ぐらを掴まれ、典子は畳の上に無様に投げ出された。 かつてハイブランドの服を着込み、他人を見下して傲慢に振る舞っていたセレブの面影は、もはや微塵もない。誰からも相手にされず、実の娘にも見捨てられ、終わりのない暴力と借金取りの恐怖に怯えるだけの日々—— 結衣を食い物にしようとした強欲な
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ハイブランドの遭遇

「とりあえず、今日はこれくらいにしておくわ。車に積んでおきなさい」 銀座の一等地に構える、最高級子供服ブティック。エリカ・パートナーズの社長として本物のセレブの仲間入りを果たしたと錯覚している絵里香は、山のように積まれたブランド品の紙袋を見下ろし、満足げな吐息を漏らした。「桐島社長、本日は当店を貸し切りにしていただき、誠にありがとうございました」 店長が恭しく頭を下げる中、絵里香は取り巻きのインフルエンサーたちに向けて自慢げに微笑む。「いいのよ。これくらい、今の私にとってはポケットマネーみたいなものだから。業界トップに立つ人間としては、身につけるものにも責任を持たないとね」 彼女が惜しげもなく使っている金は、黒川商会から自社株を担保にして引き出した、破滅と隣り合わせの命懸けの裏金である。だが、その自覚すら失い、彼女は勝利の美酒に完全に酔いしれていた。 自分が選んだ間男の樹が、すでに全資金を奪って逃亡する準備を進めていることなど、露ほども疑っていないのだ。 だが、絵里香の薄っぺらい優越感は、突如として店内の空気が一変したことで遮られた。 フロアの最奥に位置する、さらに格式高いロイヤル・VIPルーム。絵里香ですら通されなかった、その重厚なマホガニーの扉が音もなく恭しく開かれたのだ。「……何よ。今日は私が貸し切りにしたはずじゃないの?」 絵里香が不満げに眉をひそめると、店長が慌てて顔を引きつらせた。「も、申し訳ございません。あちらのお部屋は、当ブランドの最上位顧客専用の特別室となっておりまして……本日は別口での、ご案内となっております」 扉の向こうから姿を現したのは、絵里香の安っぽい自己顕示欲を一瞬で粉砕するほど、圧倒的な美貌と気品を纏った女性だった。 深いネイビーの洗練されたビスポーク・スーツを身に纏い、一切の無駄がない静かな歩みでフロアに現れる。その顔を見た瞬間、絵里香の心臓が大きく跳ねた。(あの女……たしか、商業パーティーの時に隼人の隣にいた……!) 一条財閥の地方支社を統括する代理責任者、凜である。「凜様、本日は誠にありがとうございました。結衣お嬢様のために、パリとミラノから取り寄せた新作のコレクション、すべてご自宅のペントハウスへ配送させていただきます」 副店長が最敬礼で付き従うその後ろには、絵里香が先ほど買った量の何倍もある
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砂上の女王と本物の威光

 凍てつくような凜の冷笑と、その圧倒的な威圧感を前にして、絵里香は一瞬だけ息を呑み、怯んだ。 だが、背後には自分を『本物のセレブ』と持て囃す取り巻きのインフルエンサーたちがいる。ここで引き下がることは、肥大化した彼女のプライドが絶対に許さなかった。「とぼけないでちょうだい。どうせ隼人に泣きついて、そのカードを持たせてもらったんでしょう? あんな無職だった男の金で着飾るなんて、本当に哀れな女ね」 絵里香はわざと周囲に響き渡るような声で嘲笑い、これ見よがしに自分が身につけているハイブランドのジュエリーを見せつけた。「私はあなたと違って、エリカ・パートナーズの社長として、自分の力でここまできたの。つい先日もね、『未来湾岸総合開発』っていう、一条グループすら手を出せないような超大型プロジェクトの権利をもぎ取ったばかりなのよ」 絵里香は勝ち誇った顔で、自らの輝かしい功績を語り続ける。 しかし、その言葉を聞いた凜の切れ長の瞳の奥で、嗜虐的な光が瞬いた。(『未来湾岸総合開発』……よくもまあ、あんな致死量の毒餌を嬉しそうに口に含んで、誇れるものね) 絵里香が「自分の手柄」だと信じて疑わないそのプロジェクトは、彼女の会社を確実に破滅させるために、隼人と凜が用意した死の契約だ。 一条という巨大な獣の胃袋に向かって、自ら喜んで飛び込んでいく哀れな獣。凜の目には絵里香の存在がいかに滑稽で、底の浅い生き物であるかが透けて見えていた。 その時、凜の耳元に装着された超小型のインカムが微かに振動し、一条財閥のシステム監査部からの暗号通信が飛び込んできた。『凜様。一条のメインサーバーに対し、外部から高度なサイバー攻撃の兆候を検知しました。宝生樹、および黒川商会のハッカー集団と推測されます』(……ついに動き出したか)『現在、隼人会長が直接防衛ラインに立ち、敵の侵入をコントロールしつつ誘導中です』 凜は表情一つ変えず、微かに口角を上げた。 絵里香の背後にいる間男は今頃、一条のシステムから機密情報を奪い取り、「完全に出し抜いた」と歓喜していることだろう。 だが、それこそが一条を統べる真の王・隼人が、あえて仕掛けた罠だ。間男のハッキングすらも、すべては隼人の掌の上で踊らされているに過ぎない。 凜はインカムを二度タップして通信を切り、目の前で喚き散らしている道化へと再び冷や
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絶対的格差と追放

「——彼女たちを、外へ」 その一言が落ちた瞬間、店長の動きは迅速だった。 彼は額の冷や汗を拭うことすら忘れ、絵里香たちの前に立ちはだかり、深く頭を下げた。「桐島社長。誠に恐れ入りますが、本日の貸し切りはキャンセルとさせていただきます。直ちにご退店ください」「は……?」 絵里香は自分の耳を疑った。「ちょっと、正気!? 私がどれだけこの店でお金を使っていると思っているの! 私は業界トップの『エリカ・パートナーズ』の社長よ!」 激昂し、金切り声を上げる絵里香。 しかし、店長は悲痛な顔をしながらも、一歩も引かなかった。「申し訳ございません。ですが、そちらの凜様は、当百貨店グループの筆頭株主である一条財閥の『最高幹部』でいらっしゃいます。凜様のご意思は、この店舗の存続そのものを決定づける絶対的なものなのです」「さ、最高幹部……!?」 絵里香の目が驚愕に見開かれた。元夫に媚びを売ってカードを持たせてもらった愛人などではない。目の前に立つこの若く美しい女自身が、一条という巨大な権力の中枢に君臨する存在だというのだ。「勘違いしているようだから教えてあげるわ」 凜は絵里香の顔を冷然と見据え、手元のブラックカードを指先で弾いた。「このカードは家族や愛人に対する家族カードや家族会員などという安いものではないわ。一条一族の最上位の人間と、その代理権を持つ最高幹部にのみ発行される、限度額の存在しない特注品。これ一枚で、このビルを丸ごと買い取ることも可能よ」 圧倒的な格の違い。 自分が先ほどまで「ポケットマネー」と誇っていた買い物が、凜の前では砂粒以下の価値しかなかったという事実を突きつけられ、絵里香は言葉を失った。 さらに凜は追撃を放つ。「それに、あなたが先ほど誇らしげに語っていた『未来湾岸総合開発』の件。自社の全株式を闇金まがいの黒川商会に担保として差し出し、法外な利息で引っ張ってきた命懸けの借金で手に入れた権利のようね」「どうして、それを……!」 絵里香の顔から完全に血の気が引いた。極秘裏に進めていたはずの資金調達の裏側を、どうしてこの女が知っているのか。「中身のない会社を大きく見せるために、借金でインフルエンサーを雇い、こうしてブランド品を買い漁る。あなたの会社の資金繰りは、もう限界を迎えている。計算すればすぐに分かることよ。来月の十五日、あ
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破滅への招待状

 銀座の裏路地から逃げるようにタクシーに乗り込み、エリカ・パートナーズの社長室へ転がり込んだ絵里香の姿は、ひどく無惨だった。 雨と泥にまみれた高級ドレス、完全に崩れたメイク。しかし、彼女の目を血走らせているのは惨めさではなく、一条隼人と凜に対する常軌を逸した憎悪だった。「樹くん! あいつら……絶対に一条を見返してやる!」 社長室のデスクに突っ伏し、ヒステリックに喚き散らす絵里香。 その泥にまみれた背中を、樹は虫けらでも見るような冷ややかな目で見下ろしていた。だが、彼はすぐにいつもの完璧な営業スマイルを貼り付け、絵里香の肩を優しく抱き寄せた。「落ち着いてください、絵里香さん。……ちょうど良い話があります。奴らを確実に地獄へ送るための、極上の手土産を手に入れましたよ」 樹はそう言うと、自身のノートパソコンの画面を絵里香に向けた。 黒い画面の上を、無数の英数字とプログラムのコードが滝のように流れていく。そして中央には『データ抽出中』というプログレスバーが表示されていた。「これは……?」「一条グループのメインサーバーの中枢です。黒川商会のネットワークと、彼らが抱える裏社会の凄腕ハッカー集団を動員して、一条のセキュリティの突破口を開きました」 樹の言葉に、絵里香は息を呑んだ。「今、まさに一条グループが水面下で進めている『未来湾岸総合開発』の極秘資料……彼らの入札価格から、隠し持っている提携先のリストまで、すべてを抜き出している最中です」「一条の極秘資料……!」「ええ。あなたが手に入れた開発の権利を一条は巨大な資金力で強引に奪い返そうとしていた。ですが、黒川商会のネットワークを使えば、一条の裏をかいて、この利権を独占できるんです」 甘く、ひどく魅力的な毒の囁き。 すべてを失う寸前だという自覚もない絵里香は、目の前に提示された「一条への完全勝利」という麻薬に酔いしれた。「素晴らしいわ、樹くん! これであいつらの弱点を完全に握ったも同然ね! 私に恥をかかせた代償、たっぷりと払わせてやるわ!」 絵里香は狂喜し、社長室に響き渡るほどの甲高い高笑いを上げた。 狂喜乱舞する絵里香の背後で、樹は眼鏡の奥の瞳を冷酷に細めた。(馬鹿な女だ。このデータは、俺が一条からの追及を躱し、黒川商会で更にのし上がるための最高の手土産だ。……データの抽出が終わり次第、全
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毒餌の調合

「扉を開けるとは……まさか、敵にデータを明け渡すおつもりですか!?」 一条のシステム防衛チーフが信じられないという顔で絶叫した。 一条財閥の根幹とも言える巨大プロジェクト『未来湾岸総合開発』の極秘データ。それが敵の手に渡れば、数千億円規模の損失と、一条の絶対的な信用が失われる致命的な事態になりかねない。 だが、メインコンソールの前に座る隼人の横顔は焦るどころか、底知れない絶対的な自信に満ちていた。「勘違いするな。くれてやるのは、奴らが喜んで飲み込むための毒入りだ」「毒……?」 チーフが呆然とする中、隼人の長い指がキーボードの上で目にも止まらぬ速さで踊り始めた。 画面上に無数のコマンドプロンプトが展開され、一条の深層システムが隼人の意志に従って瞬時に組み換えられていく。 それは単なる防衛プログラムではない。敵のハッキングの経路を逆算し、相手の思考を読み切りながらリアルタイムで罠を構築していく、まさに神業のようなハッキング・カウンターだった。「……敵の侵入ルート、第四ポートに限定しました」 隼人の流れるようなタイピングに合わせ、モニターの赤い警告サインが一つ、また一つと規則的な青い光へと変わっていく。「素晴らしい手捌きです……! 敵の攻撃を完全にコントロールしている……!」 先ほどまでパニックに陥っていたスタッフたちが、その人間離れした技術に息を呑んだ。 無職の主夫として絵里香に見下されていた男の真の姿は、経営のトップというだけでなく、情報戦においても他を寄せ付けない圧倒的な実力者だった。「敵のハッカーは三流ではないが、少々強欲すぎるな。目の前に美味しそうな金庫があれば、疑うことなく手を突っ込んでくる」 隼人は口の端を酷薄に吊り上げ、最後のエンターキーを静かに叩いた。 瞬間、モニターに『ダミーファイル展開・転送開始』の文字が緑色で表示される。「今、奴らが必死にダウンロードしているのは、一条の本物の極秘データに、巧妙なフェイクと致命的な欠陥——つまり『絶対に不渡りを出す契約条項』を混ぜ込んだ、特製の毒餌だ。……せいぜい、一条を完全に出し抜いたと錯覚して喜ぶがいい」 隼人は背もたれに深く寄りかかり、画面上でじわじわと進むデータ転送のプログレスバーを、氷のような眼差しで見据えた。               *** 同じ頃、エリカ・パ
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後戻りできない契約

「ここにサインと実印をいただければ、黒川商会からの追加融資百億円が、即座にエリカ・パートナーズの口座へ振り込まれます。……ただし、条項にある通り、あなたの会社の全株式と、代表者個人の全資産が担保となりますが」 翌日の昼下がり。エリカ・パートナーズの広大な社長室には、仕立ての良いスーツを着た黒川商会の幹部が座り、分厚い契約書をテーブルへ滑らせていた。 裏社会の金特有の、血の匂いがこびりついたような異様な重圧感。並の経営者であれば、その異常な担保条件を見た瞬間にペンを置くだろう。 だが、絵里香は全く躊躇しなかった。 彼女の脳内は、昨夜手に入れた一条の極秘データによって、すでに業界の頂点に立ったという強烈な全能感で完全に麻痺していた。「問題ないわ。一条のプロジェクトを横取りして利権を独占すれば、百億なんて一ヶ月で返せるはした金よ。……ほら、これでいいんでしょ?」 絵里香は勝ち誇った笑みを浮かべ、万年筆を手に取ると、契約書の署名欄に迷いなく『桐島絵里香』と書き入れた。 そして己の全存在を売り渡す実印を、乾いた音を立てて強く押し付ける。 それは彼女自身が、自らの首を絞める縄を限界まできつく結び上げた瞬間だった。「ご契約、確かに承りました。桐島社長の今後のご活躍を期待しておりますよ」 黒川商会の幹部は契約書をアタッシュケースに収め、爬虫類のような冷たい笑みを浮かべて社長室を後にした。「見た!? 百億円よ、樹くん! これで私は完全に一条を超えたのよ!」「ええ、お見事です、絵里香さん」 絵里香はインターネットバンキングの画面に表示された莫大な桁数の残高を見て、狂ったように高笑いを上げた。その横で、樹もまた完璧な営業スマイルを浮かべ、彼女を称賛する。 だが、樹の内心は全く異なっていた。(……よし。これで黒川商会の狙い通り、この女にすべての借金を背負わせることに成功した。あとは俺が海外へ飛ぶだけだ。一条の報復も、借金の取り立ても、すべてはこの愚かな女一人が被ることになる) 絵里香は自分が世界の女王になったと信じて疑わず、樹はそんな彼女を完璧な使い捨ての盾として見下している。 二人の愚か者は、互いに相手を出し抜いたと錯覚したまま、すでに足元から崩れ落ちている砂の城で勝利の美酒に酔いしれていた。               *** 同時刻—— 一条
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