All Chapters of 娘より間男を選んだ妻へ、無職の俺が一条財閥の後継者だと知っても、もう遅い: Chapter 41 - Chapter 50

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水面下の闇と刺客

 深夜二十二時。京都市外れに位置する、潮の匂いが混じる廃倉庫街の第三ブロック。 街灯すらまばらなその暗がりに、一台の黒塗りのバンが停まっていた。「あんたたち一条の人間じゃないのか!? 俺を保護してくれる約束はどうなったんだ!」 バンの前でアスファルトに這いつくばり、悲痛な叫びを上げているのは、白鷺銀行の元融資担当の男だ。 彼は数年前、隼人の母の死に関わる不審な資金移動——黒川商会と副頭取の癒着を証明できる唯一の生き証人であり、凜が水面下で接触を図っていた情報提供者だ。 彼をこの廃倉庫街へ呼び出したのは一条ではない。黒川商会が一条の動きを察知し、先手を打って一条の名を騙り、彼を確実な死地へ誘い出したのだ。「悪いな。俺たちの偽のメッセージとも気づかずに、ホイホイ尻尾を振ってやってくるからこういう目に遭うんだよ。一条に泣きつく前に、お前の口を永遠に塞ぐのが俺たちの仕事だ」 男を見下ろすのは、黒川商会が差し向けた裏社会の清掃屋。筋骨隆々の三人の男たちが鉄パイプや特殊警棒を手に、残酷な笑みを浮かべていた。「海に沈む前に、その頭の中にある余計な記憶を、全部この鉄パイプで綺麗に叩き出してやる」「や、やめてくれ……!」 絶望に顔を歪める情報提供者の頭上へ、男の一人が鉄パイプを容赦なく振り下ろした。 鈍い破砕音が響く——はずだった。「——随分と荒っぽい清掃だな」 金属同士が激しく衝突する甲高い音が、夜の廃倉庫街に響き渡る。「な、何だてめぇは!?」 振り下ろされた鉄パイプは、情報提供者の頭を砕く寸前で、暗闇から音もなく現れた男の腕によって完璧に受け止められていた。 ただ受け止めたのではない。男がワイシャツの袖をまくり上げた腕に巻きつけていたのは、一条の警備部隊が使用する防刃・対衝撃用の特殊ケブラー繊維だった。「……てめぇ、一条の犬か! 一人で俺たちを止められるとでも思ってんのか!」 清掃屋の男が怒声と共に、再び鉄パイプを大振りに振り回す。 だが、次の瞬間。 暗闇から現れた男——隼人の身体が常人には目で追えない速度で沈み込んだ。 鉄パイプが空を切った直後、隼人は男の懐へ滑り込むと同時に、鍛え抜かれた拳を男の鳩尾へと的確に叩き込んだ。 大柄な男がカエルが潰れたような呻き声を上げ、白目を剥いてアスファルトへ崩れ落ちる。「なっ……こいつ、ただの警
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狂乱の宴

 一条隼人が母の死に直結する真の黒幕の名前を掴み、その重苦しい殺気に身を沈めていた、まさにその頃—— 彼らから遠く離れた京都市内の超高級ホテルでは、エリカ・パートナーズが主催する華やかな『超大型プロジェクト獲得祝賀会』が盛大に開かれていた。「皆様! 本日は我が社の輝かしい未来への門出に立ち会っていただき、誠にありがとうございます!」 特設ステージの上で、最高級のブランドドレスに身を包んだ絵里香が、高らかに声を響かせた。 黒川商会から引き出した百億円という莫大な資金。それを背景に、彼女はかつての一条の商業パーティーを模倣するかのような、派手で中身のない宴を強行していたのだ。 会場には高額なギャラで雇われたインフルエンサーたちや、利権の匂いを嗅ぎつけて集まった二流の投資家たちがひしめき合っている。 そして最前列のVIPテーブルには、白鷺銀行の副頭取が上機嫌でグラスを傾けていた。「この『未来湾岸総合開発』のプロジェクトを完遂した暁には、エリカ・パートナーズは間違いなく業界のトップに君臨します。……一条グループ? ええ、もはや過去の遺物ですわ。これからは私たちが、この街の経済を牽引していくのです!」 絵里香がこれ見よがしに宣言すると、会場からまばらな拍手と歓声が沸き起こった。 彼女は自分が世界の女王になったと完全に信じ切っている。自社の全株式と全財産を担保に差し出したことなど、その傲慢な脳内からは完全に消去されていた。「素晴らしいスピーチでしたよ、絵里香さん」 ステージから降りた絵里香に、樹が完璧な営業スマイルでシャンパングラスを手渡した。「ありがとう、樹くん! これも全部あなたのおかげよ。見て、あの副頭取の顔! 完全に私たちに頭が上がらないみたいじゃない!」 絵里香は有頂天になってグラスを打ち鳴らす。 だが、彼女の目を真っ直ぐに見つめる樹の内心は、極めて冷静で打算に満ちていた。(これでいい。絵里香が派手に目立てば目立つほど、一条と警察の目は、すべてこの女に向く。……俺は今夜の宴が終わる頃に、すべての資金の送金を完了させて高飛びするだけだ) 彼らが互いを騙し合いながら勝利の美酒に酔いしれている、まさにその時——               *** ——一条財閥・地方支社。 彼らが乱痴気騒ぎを繰り広げているホテルの外、静まり返った執務室
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砂の城からの電話

 祝賀会の喧騒が響く中、絵里香はスマートフォンを耳に当て、意地悪に唇を歪めた。『……何の用だ』 数回のコールの後、電話口から隼人の声が響いた。 背後に風の音が聞こえる。どこか屋外にいるようだが、絵里香にとってそんなことはどうでもよかった。「ふふっ、ずいぶんと不機嫌な声ね。一条の会長様ともあろうお方が、元妻からの電話に怯えているの?」 絵里香は手元のシャンパングラスを揺らしながら、これ見よがしな高い声で笑った。『要件がないなら切る』「待ちなさいよ! 教えてあげるわ。今、私たちは超高級ホテルで盛大な祝賀会を開いているの。……あんたたちが水面下で進めていた『未来湾岸総合開発』の権利、私たちがそっくりそのまま奪ってやったわよ!」 絵里香の言葉は、まるで自分が世界の覇者になったかのような絶対的な優越感に満ちていた。「黒川商会から百億円の融資も引き出したわ! これでエリカ・パートナーズは一条グループを完全に超えたの。あんたなんて、もう用済みよ! せいぜい、私が業界のトップに立つ姿を地べたから見上げてなさい!」 一方的に勝ち誇る絵里香。 だが、通話の向こう側にいる隼人は、微塵も動揺を見せなかった。 廃倉庫街の暗闇に佇み、情報提供者を安全な場所へ移送する手配を終えたばかりの隼人は、絵里香の薄っぺらい挑発を滑稽な道化を眺めるような瞳で聞き流していた。『……黒川商会から百億円、か』「そうよ! 悔しいでしょうね。あのダサい主夫ごっこから一条のトップに成り上がったと思ったら、私にあっさりと足元をすくわれたんだから!」『俺の会社からデータを奪ったと言ったな。……それは、お前が自ら黒川商会のネットワークを使って引き出したものか?』 隼人の静かな問いかけ。 それはただの確認ではなく、誘導尋問だった。「ふん。私が直接手を下すわけないじゃない。私の最高のパートナーである樹くんが、黒川商会の凄腕ハッカーたちを使って、あんたの会社のメインサーバーから根こそぎ奪い取ってくれたのよ!」 絵里香は自慢げに間男の手柄をペラペラと喋り続ける。 その言葉の裏にある致命的な事実に、隼人は一瞬で気づいた。 黒川商会という裏社会の組織が、ただの中小企業であるエリカ・パートナーズのために、そこまで便宜を図るはずがない。 彼らの本当の狙いは一条の乗っ取りではなく、別にある。『……
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冷ややかな王

「一条が用意した、底なしの地獄の入り口だ」 その言葉を最後に、無機質な電子音だけを残して通話が切れた。 華やかな音楽と乾杯の声が飛び交う祝賀会場の隅で、絵里香はスマートフォンを耳に当てたまま、完全に硬直していた。(何よそれ……。数百億円規模の土壌改良費? 絶対に回収不可能な負債?) 隼人の感情の抜け落ちた声が、呪いのように耳の奥で響き続ける。 一瞬、背筋を這い上がった悪寒に、絵里香は手元のシャンパングラスを取り落としそうになった。だが、彼女はすぐに頭を振り、その恐怖を強引に振り払った。「ば、馬鹿みたい! あいつ、私に出し抜かれたのが悔しくて、あんな見え透いたハッタリを口走ったのよ!」 絵里香は自らの都合の良いように解釈し、無理やり勝ち誇った笑みを浮かべ直した。「無職のヒモだったくせに、一条のトップになった途端に偉そうな口を叩いて。……でも、ちょっとだけ確認しておいた方がいいわね」 一抹の不安を消し去るため、絵里香は足早に会場を見回し、樹の姿を探した。 エントランスへ向かう廊下の隅で、樹が焦った様子でスマートフォンを操作しているのを見つけて駆け寄る。「樹くん! ちょっと、あの持ち出したデータの『最終条項』ってやつを確認したいんだけど!」 絵里香が肩を叩くと、樹は一瞬全身を硬直させ、慌ててスマートフォンの画面を隠した。「……えっ? 最終条項?」「そうよ。さっき隼人に電話したら、開発予定地に有害物質が埋まっていて、数百億の追加費用がかかるなんて負け惜しみを言ってきたの。念のため、元のデータを確認して!」 絵里香の言葉を聞いた瞬間、樹の額から滝のような冷や汗が吹き出した。(一条隼人に電話しただと!? この馬鹿女、自ら『黒川のハッカーを使ってデータを盗んだ』ことを話したんじゃないだろうな。もしそうなら、もう一条の追跡班が動いているに違いない……!) データの最終条項に罠があるかどうかなど、今の樹にはどうでもよかった。 一条が事態を完全に把握している以上、この会場に一条の制圧部隊や警察が踏み込んでくるのは時間の問題だ。あと数分で自分の海外口座への全額送金が完了する。それさえ終われば、こんな泥船の会社も、絵里香という寄生先も、すべて用済みだ。「……絵里香さん」 樹は極度の焦燥を必死に押し隠し、いつもの完璧な営業スマイルを顔に貼り付けた。
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暴かれた黒幕

 タブレットの画面に表示された男の顔。 白髪交じりのオールバックに仕立ての良いスーツ。表向きは「黒川グループ」という健全な投資会社の代表理事を務める男、黒川龍臣(くろかわりゅうしん)。 だが、その裏の顔は政財界の暗部と深く癒着し、邪魔者を物理的に排除する清掃屋を束ねる、真の巨大な悪だった。「……母さんは、やはり事故で死んだわけではなかった」 隼人の声が広大なリビングの空気を重く沈ませる。 凜が手元の資料をめくり、無駄のない動作で事実を並べ立てた。「はい。数年前、一条の地方支社を視察中だったお母様は、白鷺銀行の副頭取と黒川商会による、数百億円規模のマネーロンダリングの証拠を掴みました。それが現在彼らが絵里香たちを隠れ蓑にして進めている『未来湾岸総合開発』の初期投資金です」「それを隠蔽するため、母さんの車のブレーキに細工をし、崖から転落させたのか……」 隼人の手に込められた強い力により、タブレットの硬質なプラスチックが軋む音が鳴った。彼の視線は画面に釘付けになったまま、瞬きひとつしない。「しかも黒川商会は、警察の上層部や政治家にも太いパイプを持っています」 凜が眉間を寄せ、険しい表情で続けた。「彼らの手口は極めて狡猾です。私が裏ルートで集めた証拠や、廃倉庫街で確保した情報提供者の証言を警察に持ち込んだとしても、上層部の圧力で揉み消される可能性が高い。下手に法で裁こうとすれば、彼らは即座に清掃屋を放ち、私たちや結衣ちゃんを標的にするでしょう」 これが隼人の前に立ちはだかる新たな、そして最大の壁だった。 ただの浮気妻と間男への復讐劇ではない。相手は法すらも自分たちの都合の良いように捻じ曲げる、裏社会を牛耳る強大なシンジケートだ。正面からぶつかれば、愛する娘を危険に晒すことになる。「……法で裁けないのなら、法が及ばない場所で完全に息の根を止めるまでだ」 隼人はタブレットをテーブルに置き、ゆっくりと立ち上がった。 彼の背中から発せられる威圧感は、かつてないほど濃密だった。「奴らの力の源泉は金と裏のネットワークだ。ならば、そのすべてを一条の経済力という盤上で搾り取り、二度と這い上がれない、どん底へ突き落とす」「兄さん、具体的にはどのように動きますか。あの間男・宝生樹は既にエリカ・パートナーズの資金を抜き取り、海外へ逃亡する準備を完了させていま
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亡き母の遺志と王の誓い

 深夜のペントハウス。外界の喧騒が届かない執務室で、隼人はデスクの上に置かれた一つの品をじっと見据えていた。 白鷺銀行の貸金庫から回収した、年季の入った黒いUSBメモリ。 数年前の記憶が鮮明な色彩を伴って脳裏に蘇る。 当時、一条財閥の地方支社は本家の目が行き届かず、深刻な腐敗が進行していた。支社の立て直しを命じられた母は、単身でこの京都へ乗り込み、巨大な組織の暗部にメスを入れようとしていた。 だが、そこはすでに白鷺銀行の副頭取と、裏社会を牛耳る黒川商会が結託し、一条の莫大な資金をマネーロンダリングの隠れ蓑として食い物にする魔窟と化していたのだ。 母は孤立無援だった。味方であるはずの幹部たちすら買収され、常に命の危険に晒されていた。 それでも母は決して屈することなく、執念で敵の資金ルートの証拠をかき集めていた。『隼人。もし私に何かあったら、これを本家の監査部に渡しなさい。決して、感情に任せて動いては駄目よ』 最後に会った夜、母はひどく疲労した顔で、このUSBメモリを隼人に託した。 それが母と交わした最期の会話となった。 数日後、母の乗った車はブレーキに細工を施され、ガードレールを突き破って崖下へと転落した。警察は上層部からの圧力により、早々に不慮の事故として処理を打ち切った。 雨が打ち付ける事故現場に立ち尽くした日のことを、隼人は今でも忘れていない。 胸の奥底から込み上げた、世界を焼き尽くすほどの凄まじい殺意と憎悪。一条の権力と財力を使えば、裏社会の清掃屋を雇い、関わった人間を全員排除することは容易かった。 だが、それでは意味がないのだ。 暴力による復讐は、末端の手下を排除するだけで終わってしまう。黒川商会という巨大な悪の根源を絶ち、一条の内部に広がる腐敗を完全に切除するには、彼らが最も執着する金と権力の表舞台へ引きずり出し、すべての財産と社会的地位を奪い尽くさなければならない。 だからこそ、隼人は自らの殺意を腹の奥底へ厳重に封じ込めた。 素性を隠し、定職に就かない主夫という路傍の石に擬態して、この街に潜伏した。絵里香という女の歪んだ虚栄心に寄生され、毎日「甲斐性なし」と自尊心を削り取られる屈辱的な日々も、すべては敵の懐深くに潜り込み、黒幕の決定的な尻尾を掴むための布石に過ぎなかったのだ。 隼人はデスクの上のUSBメモリを手に取り、
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偽りの承認と舞い上がる道化

「……やった! ついに本承認が下りたわ!」 京都市内の超高級ビル、その最上階に構えられたエリカ・パートナーズの社長室。 大きな窓から差し込む朝日を浴びながら、絵里香はデスクの上のノートパソコンを見つめ、狂喜の叫びを上げた。 画面に表示されているのは、『開発権利の落札および、エリカ・パートナーズへの正式譲渡』を知らせる通知メールだ。送り主は『未来湾岸総合開発』の事業権を管理する特区開発局だ。 送り主が、一条が裏で完全に操っているダミー組織であることなど、彼女は知る由もない。「これでもう、このプロジェクトの初期利権は完全にエリカ・パートナーズのものよ! あの一条財閥を相手に私たちが真っ向から競り勝ったの!」 絵里香は両手を突き上げ、社長室中に響き渡るような高笑いを上げた。 彼女が勝ち取ったと信じて疑わないこのプロジェクトは、隼人が仕掛けた「絶対に不渡りを出す契約」という猛毒だ。だが、完全に自己肯定感の肥大化した絵里香には、そんな事実など想像もつかない。 一条が意図的に承認を出したことなど露知らず、「自分の実力で天下の一条を出し抜いた」と信じ込んでいるのだ。「おめでとうございます、絵里香さん」 向かいのソファに座っていた樹が、コーヒーカップを片手に完璧な営業スマイルを浮かべた。「これで名実ともに、あなたは業界のトップです。黒川商会から引き出した百億円の融資も、このプロジェクトの利権があれば、すぐに何倍にもなって返ってきますよ」「ええ、そうね! あんな無職のヒモだった隼人なんて、もう足元にも及ばないわ!」 絵里香は興奮冷めやらぬ様子で、デスクの引き出しから一枚の重厚なカードを取り出した。 黒川商会から送られてきた、百億円の融資口座に直結するブラックカードだ。彼女はそれを頬にすり寄せ、陶酔したような目を閉じた。「……樹くん。この歴史的な勝利を、もっと世間に知らしめなくちゃ。来月の十五日に本契約の調印式があるって言ってたわよね?」「ええ。ですが、実務上の手続きだけなら、弁護士を介して書面を交わすだけで十分ですが……」「駄目よ! そんな地味なことじゃ!」 絵里香はカードをデスクに叩きつけ、血走った目で樹を見据えた。「この京都で一番格式高い超高級ホテルを貸し切って、大々的な『本契約調印式兼、祝賀パーティ』をやるの! メディアも投資家も全員呼ん
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死地への招待状

 一条財閥が所有するペントハウスの執務室。 重厚なマホガニーのデスクの上に、場違いなほど派手な金箔押しの封筒が置かれていた。「……呆れて言葉も出ません」 封筒を持ってきた凜が、深くため息をついて頭を振った。「エリカ・パートナーズからの招待状です。来月十五日、市内の最高級ホテルを貸し切って行う『未来湾岸総合開発・本契約調印式および祝賀パーティ』へ、兄さんを主賓として招きたいと。ご丁寧にも、絵里香からの傲慢なメッセージカードまで添えられています」 隼人は封筒からカードを引き抜き、そこに書かれた文字へ視線を落とした。『私が業界のトップとしてサインする姿を特等席で見せてあげる。無職だったあなたが決して辿り着けない本物の頂点を、指をくわえて見上げていなさい』 傲慢と虚栄心で塗り固められた、ひどく歪んだ文字。 自らの会社が一条の仕掛けた罠によって完全に首を括られているとも知らず、あろうことか、自ら断頭台のスイッチを押すような真似をしているのだ。「自ら断頭台の階段を上り、ご丁寧にそのスイッチまで手渡してくるとは……。彼女の底知れぬ愚かさには心底呆れ果てますね」 凜の目は、もはや哀れな虫けらを見るような色を帯びていた。 だが、隼人の表情は極めて静かだった。 怒りも、呆れもない。ただ、目の前の盤上に散らばっていたピースが、一つの完璧な地点へ収束していくのを冷静に見極めていた。「いや、都合がいい。この祝賀会を母さんの無念を晴らすための『本物の処刑場』として完璧に利用させてもらう」 隼人はメッセージカードをデスクへ放り投げた。「絵里香と宝生樹、そして裏で糸を引く黒川龍臣と白鷺銀行の副頭取。すべての標的を逃がさず捕らえる『巨大なふるい』に掛ける」 しかし、ただ罠にかけるだけでは不十分だ。 黒川商会は警察の上層部や一部の政治家に対して多額の裏金を手渡し、強固な防波堤を築いている。もし会場で彼らを追い詰めたとしても、黒川商会の息がかかった警察や政治家が介入し、強引に逃走ルートを確保される危険性があった。 法と権力を悪用する巨悪を完全にすり潰すためには、次々と立ちはだかる壁を実力で突破し、物理的、そして電子的な完全包囲網を構築する頭脳戦に勝たなければならない。「凜。祝賀会が行われるホテルの防犯システムとネットワークを、当日までに一条の権力と情報網を総動員して
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寄生虫の逃走準備

 十五日の調印式まで、あと三日と迫った昼下がり。 エリカ・パートナーズの社長室。絵里香はデスクの上に広げた高級ブランドのカタログを熱心に見つめていた。「樹くん、調印式で着るドレスはどれがいいかしら? メディアのカメラがたくさん入るんだから、一条の凜とかいう女を完全に霞ませるくらい、最高に華やかなものにしないと」「どれも絵里香さんの美しさを引き立ててくれますよ。ですが、やはりこの真紅のドレスが、業界の頂点に立つ女王に一番相応しいかと」 樹が完璧な営業スマイルで応じると、絵里香は満足げに頷いた。「そうね! さっそく取り寄せるわ。……ああ、早く当日にならないかしら。一条隼人が悔しさに顔を歪める瞬間が待ち遠しいわ!」 絵里香はドレスの手配をするため、上機嫌で社長室を後にした。 重厚な扉が閉まり、ヒールの足音が完全に遠ざかった瞬間。 樹の顔から張り付いていた優しい笑みが滑り落ちた。そこには、欲深き寄生虫の本来の姿である、冷淡で打算的な顔だけが残っていた。「……本当に、救いようのない馬鹿な女だ」 樹は吐き捨てるように呟くと、絵里香のパソコンではなく、自身が持ち込んだ暗号化済みの専用ノートパソコンを開いた。 黒い画面に複雑なコマンドを打ち込んでいく。 彼がアクセスしたのは、黒川商会から引き出し、現在エリカ・パートナーズの法人口座にプールされている百億円の管理システムだ。 樹は素早いタイピングで、資金の移動ルートを設定していく。 経由するのは、世界中のタックスヘイブンに設立した数十のダミー会社。そして最終的な着金先は樹個人が管理するスイスの匿名口座だ。「実行時刻は……十五日の午後八時」 樹は送金プログラムのタイマーを、祝賀パーティの調印式が完了する直前の時刻にセットした。 彼が企てた逃走計画は完璧だった。調印式という最も華やかな舞台で、絵里香が一条への勝利を宣言した瞬間、裏では百億円の資金が完全に消滅する。 資金が消えたことに黒川商会が気づき、怒り狂って取り立てに来た頃には、樹はすでに偽造パスポートを使って海外の空の上だ。一条の報復も、黒川商会の凄惨な暴力も、すべてはあの頭の空っぽな女社長一人が背負うことになる。「エンターキーを押せば、タイマーが起動し、これで俺は一生遊んで暮らせる」 樹の指がエンターキーの上で止まる。 ここから先は後戻り
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Xデー前夜の空虚な城

 日付は十四日の夜—— 京都市内のインテリジェントビル最上階、エリカ・パートナーズの経理室では、数名の社員が頭を抱え、モニターの数字を見て完全に血の気を失っていた。 法人口座の残高を示す数字は、文字通りゼロに等しい状態まで目減りしていた。 黒川商会から引き出した百億円という莫大な資金。それがわずか数週間のうちに消滅した理由は明らかだった。一条グループの威光を傘に着た異常なペースでのオフィス移転費、実務能力のないインフルエンサーたちの高額な人件費、そして連日のように行われた高級ホテルでの祝賀会やブランド品の買い漁り。 さらに致命的だったのは、黒川商会への法外な利息の支払いと、一条が仕掛けた『未来湾岸総合開発』のダミー契約に伴う初期維持費の引き落としだった。これらが同時に重なり、会社の資金は一円残らず底を突いたのだ。「桐島社長……! 大変です!」 経理担当の社員が血相を変えて社長室へ飛び込んだ。 だが、広い社長室の中央に立つ絵里香は、そんな社員の焦燥など、どこ吹く風だった。彼女の視線は、部屋に運び込まれたばかりの豪奢な真紅のドレスに釘付けになっていた。明日の調印式のために、海外から急遽取り寄せた最高級のオートクチュールだ。「騒々しいわね。ノックくらいしなさいよ」 絵里香はドレスの生地を指先で触れながら、不機嫌そうに振り返った。「も、申し訳ありません。しかし、法人口座の資金が完全にショート寸前です! 明日の朝には取引先への支払いが滞り、不渡りを出してしまいます! 黒川商会への利息も、もう払えません!」 経理担当が悲痛な声を張り上げる。 しかし、絵里香は鼻で笑い、全く動じる様子を見せなかった。「馬鹿ね。そんなことで慌てないでちょうだい。明日は『未来湾岸総合開発』の本契約の調印式よ。私がサインをすれば、白鷺銀行からプロジェクトの本格的な本融資が何十億円も振り込まれる手筈になっているの。たった一日の辛抱じゃない」「し、しかし、もし万が一、その融資が遅れたら……」「遅れないわよ。ねえ、樹くん?」 絵里香が視線を向けると、ソファに座っていた宝生樹がゆっくりと立ち上がり、完璧な営業スマイルを浮かべて経理担当を見下ろした。「社長の言う通りですよ。白鷺銀行の副頭取とは、私が直接話をつけてあります。明日の調印式で契約が完了した瞬間に莫大な資金が当社の口座
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