جميع فصول : الفصل -الفصل 10

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第1話

妊娠がわかると、青木紗季(あおき さき)は早く白石颯真(しらいし そうま)にこの嬉しい知らせを伝えたかった。けれど、オフィスのドアを開けた途端、颯真に腕の中へ引き寄せられ、深いキスをされた。熱を帯びた手が服の内側へ滑り込み、シャツのボタンも外されていく。紗季は受け止めきれず、慌てて彼の悪戯な手をつかんだ。「颯真、今日はだめ。私……」颯真は片眉を上げ、低く艶めいた声で言いながら、紗季の手を取って自分の腰元へ導いた。「生理?でも、君の顔を見るだけで苦しくなるんだ」紗季の顔は一瞬で赤くなった。颯真の瞳の奥に、抑えきれない欲情が渦巻いていたからだ。紗季は数秒ためらってから、小さな声で言った。「じゃあ、別の方法で……してあげる」そう言うと、紗季は素直に膝をつき、颯真のベルトを外した。颯真は、紗季が懸命に受け入れようとする姿を見つめ、目を細めて低く息を漏らした。すべてを吐き出したあと、颯真はスマホを置き、紗季の唇の端をそっと拭った。その声は満ち足りた愉悦を帯びていた。「なあ、紗季。俺のためなら、何だってできるくらい好き?」紗季は颯真の手を取り、そっと指を絡めた。見上げる瞳には、どうしようもないほどの想いがあふれていた。「うん。颯真のこと、本当に大好き」颯真は笑い、紗季の髪をやさしく撫でた。その眼差しがかすかに揺れる。颯真の胸から響く力強い鼓動を聞いて、紗季はようやく今日ここへ来た目的を思い出した。口を開こうとした瞬間、颯真のスマホがまた鳴った。颯真は画面を一瞥すると、一言だけ残して足早に出ていった。「会議がある。先に帰ってて」紗季はまだ甘い余韻の中にいて、急に冷えた颯真の声に心が追いつかなかった。しばらく呆然としたあと、紗季は立ち上がって帰ろうとした。けれどオフィスを出たところで、颯真が休憩室へ入っていくのが見えた。紗季は吸い寄せられるように足を向けた。後を追った途端、中から低く押し殺したすすり泣きが聞こえてきた。「颯真、紗季に本気になったんじゃないでしょうね?私、見たのよ。あなたたちがベッドで抱き合ってるところ。約束したじゃない。紗季を惚れさせて、最後に惨めに捨てるだけだって。それなのに、どうして何度も抱いたのよ!」たったそれだけの言葉に、紗季は全身を打たれたように立ち尽くした。惚れさ
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第2話

白石グループのビルを出ると、紗季はタクシーで病院へ向かった。道中、頭の中は怜司のことでいっぱいだった。会ったことはない。知っているのは、名前と噂だけだった。若くして事業を任され、判断は冷静で、やり方は容赦がない。ビジネスの世界ではすでに一目置かれる存在で、颯真でさえ、四つ年上のその兄には逆らえないらしい。巡り巡って、自分は白石家に嫁ぎ、颯真の義姉になるというのか。紗季はどこか現実味のないまま、もう覆らないこの結末を受け入れようと、自分に言い聞かせた。ぼんやりしている紗季を見て、看護師が少し声を張った。「ご主人は?予約されている中絶手術には、パートナーの同意書への署名が必要です」紗季はそこでようやく我に返った。「必ず家族の同意が必要なんですか?私の署名ではだめですか?」「だめです。手術を受ける以上、相手の方にも知らせておく必要があります」紗季の胸がずしりと沈んだ。結局、その同意書を持って病院を出るしかなかった。紗季は家で一晩待ったが、颯真は夜通し帰ってこなかった。戻ってきたのは翌朝になってからだった。この十数時間で、紗季の心は何度も引き裂かれた。それでも颯真の姿を見た瞬間、胸の奥にはまだ鋭い痛みが走った。どこへ行っていたのかは聞かなかった。ただ疲れ切った彼の顔を見つめながら、探るように同意書を差し出した。「ここにサインして」颯真は一睡もしていなかったせいで、目を開けているのもつらそうだった。目がしょぼつき、同意書に何が書かれているのかよく見えないまま、ペンを取ってサインし、それからようやく紗季に尋ねた。「これ、何?」紗季は書類を引っ込めようとした手を一瞬止め、静かに嘘をついた。「この前、西山の別邸を私にくれるって言ってたでしょう?」颯真には、たしかにそんな約束をした覚えがぼんやりとあった。だが、不動産の譲渡書類が、こんな薄い紙一枚で済むものだろうか。颯真は手を伸ばして取り戻し、きちんと見直そうとした。けれど紗季はすでにそれをバッグにしまっていて、彼の指先に触れたのは、白く細い紗季の手だけだった。その瞬間、颯真は自分が何をしようとしていたのか忘れてしまった。少し力を込めて紗季を腕の中に引き寄せ、また口づけようとする。「いい子だから、俺に……」昨日耳にした言葉を思い出した途端、
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第3話

紗季には、それを考える勇気などなかった。紗季はうつむいたまま、差し出された手を無視した。莉緒とは目も合わせず、部屋の隅の席にひとり腰を下ろした。室内は一瞬だけ静まり返ったが、すぐにまた騒がしくなった。皆はゲームをしようと言い出し、親睦を深めるためだと言って、紗季まで無理やり参加させた。ゲームが始まると、紗季はルールもよくわからないまま、最初の一回で負けてしまった。「このカードを引いた罰ゲームは、ロックのウイスキーを十杯ね」紗季の顔から血の気が引いた。まだ痛む下腹部を押さえ、か細い声で言った。「今、生理中なの。別の罰ゲームにしてもらえない?」莉緒は楽しそうに目を細め、わざとらしく声を弾ませた。「青木さん、生理だから無理とか、そんな古い言い訳で逃げるつもり?罰ゲームくらい受けなよ。せっかく盛り上がってるのに、しらけるじゃん。ねえ、颯真先輩?」その言葉に、颯真はようやく紗季へ目を向けた。そこで初めて気づいた。紗季の顔からは血の気が引き、唇まで青ざめている。今にも倒れそうなほど、ひどく弱って見えた。颯真の薄い唇がわずかに動いた。長い沈黙の末、ようやくゆっくりと言葉を吐き出した。「負けは負けだ」その一言は、重い石のように紗季に叩きつけられ、全身が痺れるほどの衝撃を与えた。紗季の目に涙が込み上げた。紗季はもう言い訳せず、テーブルの上のグラスを手に取り、顔を上げて飲み干した。一杯、また一杯。冷たい酒が体に流れ込み、腹の痛みをさらに強くしていく。胃の中を激しくかき回されるようで、吐き気が止まらなかった。最後の一杯を飲み終えると、紗季はグラスを置き、ふらつきながら立ち上がって化粧室へ向かった。便器にしがみつくようにして吐いたあと、紗季は裂けそうに痛む胸と、激しく痛む下腹部を押さえた。痛みは少しも終わらなかった。引いたと思った次の瞬間には、また腹の奥をえぐるように襲ってくる。気を失ってしまえたら楽なのに、紗季にはただ歯を食いしばって耐えることしかできなかった。どれほど経ったのかわからない。痛みが少し引いてから、紗季は壁に手をついて外へ出た。個室の前まで戻ると、中から冷やかすような声が聞こえてきた。「颯真、やっと負けたな!どれどれ、このカードは本音ゲームだ。俺たちの質問三つ、正直に答えろよ!」「一
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第4話

温かな血がどくどくとあふれ出し、内臓をかき回されるような激痛が紗季を襲った。あまりの痛みに息もできず、全身が痙攣し、呼吸はだんだん弱くなっていく。視界は真っ暗で、じわじわと押し寄せる脱力感に、意識は少しずつ沈んでいった……どれほど時間が経ったのかわからない。再び目を覚ましたとき、紗季は看護師がほっと息をつくのが聞こえた。「目が覚めてよかった……このまま意識が戻らなかったら、彼氏さんまで倒れてしまうんじゃないかと思うくらいでしたよ。昨日運ばれてきたときは本当に危なくて、輸血用の血液も足りなくて大変だったんです。でも彼氏さんが必死に手配してくれて、なんとか助かりました。一晩中、眠らずにそばについていましたよ。すごく大事にされているんですね」紗季は黙って聞いていた。やがて、かすれた声で口を開いた。「彼氏ではありません」言い終わるより早く、颯真がドアを開けて入ってきた。こちらを見る目には、心配の色がにじんでいた。「紗季、ごめん。俺が悪かった。昨日、俺がそばについていれば、君が酔って事故に遭うことなんてなかったのに」颯真の姿を見た瞬間、紗季は昨夜耳にした言葉を思い出し、無意識に手を握りしめた。颯真は紗季がまだ怯えているのだと思ったのか、慌てて紗季をきつく抱きしめ、なだめるように囁きながら、何度も口づけた。バーで、紗季を「あんなの何でもない」と切り捨てた男と、目の前で必死に彼女を気遣う颯真は、まるで別人のようだった。胸がひどく痛んだ。紗季は胸元を強くつかんだまま、しばらく息をすることもできなかった。それから数日、紗季の回復が思わしくないと見るや、颯真は仕事をすべて後回しにし、病室にこもるようにして彼女のそばにいた。さらに特別病棟のワンフロアを丸ごと貸し切り、専属の医師や看護師を手配し、二十四時間体制で紗季を看てもらった。二度と紗季に何か起きないよう、細心の注意を払っているようだった。周りの人たちは皆、紗季は幸運だと言った。こんなにも一途で深く愛してくれる恋人に出会えたのだから、と。けれど紗季は、ずっと無表情のままだった。「どうしたの?気分が晴れない?入院が長くて退屈になったんだろう?あと二日したら退院できるから、そしたら気晴らしに連れていってあげる。欲しいプレゼントがあるなら、何でも買ってあげるよ」紗季
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第5話

紗季は足を止めた。目を閉じ、胸の奥で暴れ出しそうな感情を無理やり押し込めた。再び目を開けたとき、追いかけてきた颯真を見ても、彼女の表情はもう静まり返っていた。「少し外の空気を吸いたくなっただけよ。二人で話していたみたいだから、邪魔しないほうがいいと思って。どうかした?」その淡々とした表情と口調に、颯真の胸にあった不安はわずかに薄れた。それでも完全には安心できなかったのか、颯真は急いで言い訳を並べた。「莉緒は、君が酒に酔って事故に遭ったって聞いて、ずっと気にしていたんだ。だから病院まで見舞いに来たいって言ってくれて、少し世間話をしていただけだよ。君の怪我が重いと知って、つらくなって泣いてしまったから、俺が慰めていたんだ。変なふうに考えないで」莉緒もその言葉に乗るように、わざとらしく謝り始めた。「青木さん、ごめんね。お酒が飲めないなんて知らなかったし、本当に生理中だなんて思わなかったの。あのとき、もっとちゃんと言ってくれればよかったのに。そしたら、私たちだって無理やり飲ませたりしなかったよ。そういえば、事故からもう何日も経ったけど、轢いた人、捕まった?」紗季の指先がかすかに震えた。目を上げ、颯真を見た。「いいえ」なぜだろう。その目が合った瞬間、颯真の胸にふいに落ち着かないものが広がった。颯真はこれ以上その話を続けたくなくて、すぐに話題をそらした。「警察がまだ調べている。しばらくすれば結果が出るよ。紗季、もう時間も遅いし、検査に行こう。俺が付き添う」そう言って、颯真は紗季を支えて戻ろうとした。だが莉緒に呼び止められた。「颯真、まだ少し話したいことがあるの。今、いい?」颯真はしばらく黙ったあと、紗季の手を宥めるように撫でた。「先に上へ戻って検査を受けておいで。すぐ戻るから」紗季は何も言わず、ひとりで病室へ戻った。時間は一分、一秒と過ぎていった。けれど颯真は戻ってこなかった。それから二日間、颯真の姿はどこにも見えなかった。けれど莉緒のSNSを見れば、二人が一緒にいることはすぐにわかった。颯真は莉緒に付き合って映画を観に行き、買い物をし、話題のスポットを巡っていた。二人で夕日を眺め、海辺を歩き、夜には花火を見ていたらしい。莉緒が載せる写真の端には、カクテルを注ぐ颯真の手や、寒そうにする莉
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第6話

紗季は横目で颯真を見た。どうしても、聞かずにはいられなかった。「あなた、しばらくは関係を公にしたくないって言ってたよね?こんなパーティーを開いたら、周りの人たちに私たちのこと、知られちゃうんじゃないの?」颯真は一瞬だけ言葉に詰まった。けれどすぐに、何事もなかったような顔に戻る。「俺はただ、君に24歳の誕生日を楽しく過ごしてほしかっただけだよ。ほかのことは、どうでもいい」その言葉を聞いた瞬間、なぜか紗季の胸に嫌な予感がよぎった。ホテルに着くと、広い会場には大勢の招待客が集まっていた。手の込んだケーキやスイーツが並び、壁一面には紗季の誕生日写真が飾られている。丁寧に用意されたその光景を見れば見るほど、胸のざわつきは強くなっていった。紗季が隙を見て会場を抜け出そうとした、そのときだった。入口のほうから、ざわめきが広がった。莉緒が数人の取り巻きを連れて突然現れ、会場中の視線を集めた。莉緒は笑みを浮かべたまま紗季のもとへ歩いてくると、悪びれもせずに手を取った。「青木さん、今日誕生日なんだってね。勝手に来ちゃったけど、別にいいよね?プレゼントも用意してきたの。開けてみてよ」莉緒の背後には、人の背丈ほどもある大きな箱が置かれていた。それを見た瞬間、紗季のまぶたがぴくりと震えた。紗季は思わず颯真を見た。颯真の顔には、いつものように莉緒を甘やかすような表情が浮かんでいた。「紗季、開けてみたら?」紗季は顔から笑みを消し、やんわり断ろうとした。けれど莉緒は、紗季の返事を待つことなく勝手に箱を開けた。次の瞬間、十数匹の黒猫が箱の中から一斉に飛び出し、会場中を走り回った。招待客たちは悲鳴を上げて逃げ惑った。シャンパンタワーは倒れ、飾られていた調度品はめちゃくちゃになり、壁に飾られていた誕生日写真まで人の波に押されて床へ落ち、割れてしまった。混乱の中、誰かが紗季の背中を押した。紗季はそのまま倒れ込み、割れたガラスの上に体を打ちつけた。肌に破片が刺さり、あちこちから血がにじむ。その隙を狙ったように、莉緒は猫を捕まえるふりをして、ケーキを紗季のほうへ押し倒した。崩れたケーキが紗季の体にぶつかり、クリームが全身にべっとりとついた。莉緒の取り巻きたちは、人の流れをわざと紗季のほうへ向かうようにしていた。
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第7話

ひとりで病院へ行き、傷の手当てを済ませてから、紗季は家に戻った。紗季が真っ先にしたのは、颯真に関わるものをすべて捨てることだった。二人で撮った写真、おそろいのパジャマやカップ、編みかけのマフラー、颯真から贈られたプレゼント……ひとつも残さず、全部捨てた。最後の荷物を捨て終えたところで、ちょうど颯真が帰ってきた。ゴミ箱の中のものを見て、颯真は一瞬固まり、信じられないという顔で紗季の手をつかんだ。「紗季、どうして全部捨てたんだ?今日のことは謝る。埋め合わせなら何でもする。だから、怒らないでくれ」ここまで来ると、紗季はもう颯真を見ても怒りすら湧かなかった。怒りはもうなかった。あるのは、胸の奥まで冷えきった失望と、どうしようもない諦めだけ。口から出た声は、自分でも不思議なくらい静かだった。「引っ越すつもりだから、全部捨てただけ。埋め合わせはいらない。あなたの荷物も片づけておいて」颯真は、紗季が自分のもとを離れるなど考えたこともなかったのだろう。その言葉を聞いても、ただ反射的に答えた。「この前買った西山の別邸に移るのか?そのときは使用人に、俺たちの荷物を全部運ばせるよ。君はさっき怪我をしたばかりなんだから、無理に動くな。傷口が開いたら、俺がつらい」つらい?自分が倒れたとき、颯真が遠くから冷ややかに見ていた姿を思い出すと、紗季には皮肉にしか聞こえなかった。何を言えばいいのかわからなかったし、実際、もう言うことなど何もなかった。紗季は黙って部屋へ戻った。それから数日、家の中のものは少しずつ片づけられていった。颯真は何に忙しいのか、二、三日に一度しか帰ってこなかった。紗季も問いただすことはなかった。自分の荷物を青木家へ送り返していると、突然、颯真から電話がかかってきた。電話に出ると、聞こえてきたのは颯真の秘書の焦った声だった。「青木さん、白石社長が事故に遭って重傷を負い、今、病院で救命処置を受けています。意識がない中で、ずっとあなたの名前を呼んでいるんです。来ていただけませんか?」その知らせを聞いた紗季が最初に思ったのは、また何かの復讐劇なのではないか、ということだった。けれど秘書は何度も頼み込み、電話の向こうからは確かに救急のモニター音も聞こえていた。紗季はやむなく病院へ向かった。病院に着くと
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第8話

目を覚ましたあと、紗季は看護師に颯真の容体を尋ねた。そして弱りきった体を引きずるようにして、颯真の様子を見に行こうとした。けれど病室の前まで来たところで、中からどっと笑い声が聞こえてきた。「はははは、まさかあのバカ女が本当に引っかかるとはな。颯真が重傷だと思い込んで、気を失うまで血を差し出すなんて!颯真、あの女はそこまでお前を愛してるんだな。命だって差し出しそうじゃないか。俺たちが苦労してこの芝居を仕組んだ甲斐があったってもんだ」「これで、青木紗季がどうしようもないくらいお前に溺れてるのははっきりしたな。四年かけて仕掛けた罠も、そろそろ引き上げていいんじゃないか?これ以上付き合う必要もないだろ」病人らしく見せるためのメイクを落とした颯真は、何事もなかったかのようにベッドに横たわっていた。うつむいたまま、何を考えているのかわからない。莉緒は颯真の表情をうかがいながら、手を伸ばして彼を軽く引いた。「颯真、お兄さん、もうすぐ結婚するんでしょう?結婚式の日は、きっと知り合いも大勢来るはずよ。紗季には、家族に会わせるって言って連れていくの。そして式が終わったら、みんなの前で紗季を捨ててやって。最初からただの遊びだったって、そう言ってくれない?」颯真は唇を固く結び、暗い目をしたまま何も言わなかった。莉緒の目に涙がにじみ始めるのを見て、ようやく颯真は折れたように、そっと莉緒の手を取った。「わかった。全部、お前の言うとおりにする」病室の外に立ったまま、紗季はそのやり取りをすべて聞いていた。全身から血の気が引き、指先まで冷たくなっていく。信じられない思いで目の前の光景を見つめ、肩が大きく震えた。重傷で助かるかどうかわからないという話も、紗季がどれほど颯真を愛しているのかを試し、最後にとどめを刺すために仕組まれた茶番だったのだ。紗季は歯を食いしばり、今すぐ中へ入って問い詰めたい衝動を、どうにか飲み込んだ。果てしない苦しさとやりきれなさが胸いっぱいに押し寄せ、紗季を完全にのみ込んでいく。紗季は壁に手をつき、音もなくその場を離れた。頭の中に残っていたのは、たったひとつの思いだけだった。四年前の初対面で、颯真は紗季を救ってくれた。これで、その恩は完全に返した。これから先、二人の間には、もう何の貸し借りもない。次に会う
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第9話

「だが、お前が三歳のとき、詩音が身を寄せていた男が交通事故で亡くなった。すると詩音は、また私の前に現れた。もう一度やり直したい、と言ってな。私は断った。だが、それからというもの、詩音は何度も私のもとへ来るようになった。あげくに、莉緒は私の娘だと言い出したんだ。もちろん、私は親子鑑定を受けた。結果ははっきりしていた。私と莉緒の間に血のつながりはない。おそらく、あの子はその男との子だろう。ただ、詩音はそのころから少し心を病んでいたのかもしれない。莉緒には幼いころから、私が妻子を捨てたせいで母娘二人が不幸になったのだと、ずっと言い聞かせていたらしい。……まったく、親の因縁ほど厄介なものはないな」真相を聞いた瞬間、紗季の目から涙がこらえきれずにあふれ出した。紗季はファイルを開き、その親子鑑定書を見た。そこには、莉緒と遠志の間に血縁関係はないと、はっきり記されていた。一瞬、紗季は笑い出したくなった。けれど同時に、鼻の奥がどうしようもなくつんと痛んだ。長い時間をかけてようやく気持ちを落ち着かせると、紗季は家へ戻った。玄関のドアを開けると、そこには颯真がいた。紗季を見るなり、颯真は歩み寄ってやさしく抱きしめ、口づけてきた。紗季の体がこわばる。本能的に颯真を押しのけようとしたが、彼はさらに強く抱きしめ、口づけもいっそう激しくなった。耐えきれず、紗季は必死に逃れようとした。その拍子に、うっかり颯真の首筋に赤い傷跡をつけてしまった。颯真は小さく息を呑んだ。再び紗季を見る目には、複雑な色が浮かんでいた。「紗季、このところどうしたんだ?俺が怪我をしていたのに、君は病院にも見舞いに来なかった。秘書から聞いたよ。俺が救命処置を受けているとき、君が1200ミリリットルも血をくれたんだってな。疲れすぎて来られなかったのか?どうしてそんな無茶をしたんだ。一人でそんなに血を抜くなんて」紗季は目を伏せた。沈んだ声からは、感情が読み取れなかった。「四年前、あなたは私を助けてくれた。だから今度は、私があなたを助けた。颯真、これで貸し借りはなしね」颯真の体がびくりとこわばった。次の瞬間、彼は紗季をさらに強く抱きしめた。「何言ってるんだよ。君は俺の彼女だろ。貸し借りとか、そんな言い方するなよ。ずっと、俺たちのことをちゃんと紹介してほしがって
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第10話

紗季は裾を引くほど華やかな白いドレスに身を包み、精巧なメイクを施していた。その美しさは、言葉にできないほどだった。手に百合のブーケを抱え、優雅な足取りで壇上の新郎へと歩いていく。颯真の兄、怜司のもとへ。颯真は勢いよく席から立ち上がった。指先には無意識に力が入り、手にしていた二枚の紙はくしゃくしゃに握り潰されていた。周囲から向けられる驚きの視線にも構わず、颯真は祭壇へ駆け上がろうとした。宗一郎はすばやくそばのボディガードに目配せし、颯真を席へ押し戻させると、低い声で叱りつけた。「何をしている!」「父さん!紗季は俺の彼女だ!どうして兄貴と結婚させるんだ!」それを聞いた宗一郎は、困ったように首を振った。「この件については、紗季さんから私たちも聞いている。以前、あの子がお前に本気だったのは確かだ。だが、お前はいつまで経っても関係を公にしようとしなかった。そのうえ、お前にとってはただの遊びで、本当は別に想う相手がいると知って、あの子もようやく諦める決心をしたんだ。結局、お前があの子を裏切った。そして怜司は、どうしても両家の昔からの約束を果たすと言って譲らなかった……」颯真の頭の中で、ひどい耳鳴りがして、思考が一瞬で乱れた。紗季は、どうして知っていたんだ。式の進行がひと通り終わると、紗季は衣装を替えて披露宴へ戻るため、控室へ入った。ほとんど初対面と言っていい新郎を前に、紗季はドレスの裾を持ち上げながら、少し気まずそうにしていた。怜司と颯真は、顔立ちも性格もまるで違っていた。颯真の顔立ちはどこか妖艶な美しさを帯びている。一方の怜司は端正で、いかにも育ちの良い好青年といった容姿だった。性格も、颯真はどこか奔放で気ままなところがあり、怜司は物事に対して堅実で落ち着いている。怜司は紗季の気まずさを察したのか、穏やかに笑った。そして席を外すとき、気遣うようにそっとドアを閉めてくれた。実のところ、紗季にはこの新郎について聞きたいことがたくさんあった。以前、紗季は後ろめたさから、怜司が帰国したあと、わざわざ個人的に食事の席を設けた。そして怜司と両家の父親の前で、これまで自分と颯真の間にあった愚かな出来事をすべて打ち明けたのだ。遠志は怒りと呆れをにじませながら、紗季の浅はかさを叱った。宗一郎は憤りと気まずさをに
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