جميع فصول : الفصل -الفصل 20

20 فصول

第11話 割れた卵と優しい隣人

「ああ、そうだ、卵……」白石は、はっとしたように足元を見た。「やば。これ、すぐ拭かないと」彼はスーパーの袋を廊下の端に寄せ、申し訳なさそうに頭を下げた。「すみません、ちょっとここ置かせてもらいますね」ぱたぱたと自分の部屋に戻り、すぐに雑巾を持って戻ってきた。しゃがみ込むと、手際よく床を拭き始める。「こういうの、放置すると地味に臭うんだよな……」独り言のように呟きながらも、割れた殻を一つ一つ丁寧に拾っていく。その姿が、妙に優しく見えた。「……手伝います」気づけば、凛はそう言っていた。「え、いやいや、全然大丈夫です!」白石は慌てて顔を上げ、人懐っこい笑顔を向けた。「俺がやらかしただけなんで。本当にすみません……」それでも、彼はテキパキと片付けを続けながら、時々こちらを気遣うように視線をくれる。凛は、その優しい視線に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。(…気遣いができる人なんだなあ)「うわ〜」スーパーの袋を覗き込み、白石は本気で落ち込んだ顔をした。「パックの中の卵も全部割れてる……食べ物を粗末にするなんて、農家の方に申し訳無さすぎる……」その素直な表情に、思わず凛の口元が緩んだ。「あの……」凛は自分でも驚くほど柔らかい声で言った。「卵を一度にたくさん使えるなら、オムレツとか作れますよ」「オムレツ……?」白石はぱっと顔を輝かせ、すぐにしゅんとした。「ええ。良ければ作りましょうか?」「え!そんな!!」申し訳ない、という言葉とは裏腹に、瞳が子犬みたいにキラキラしている。凛はふわりと微笑んだ。(本当に……素直で可愛い人)他愛のないやり取りなのに、こんなに心が穏やかになるのは、久しぶりだった。白石はおずおずと申し出た。「よければ……作り方を教えてもらえませんか? 作ってもらうのはさすがに悪いので」「ええ、良いですよ」凛が答えると、白石は嬉しそうに笑った。その笑顔が、あまりにも純粋で。凛の胸の奥で、何かが小さく、温かく芽吹いた。
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第12話 幸福の香り

白石は手帳を取り出し、真剣な顔でメモを取る準備をした。「材料は、卵とバター、牛乳少々。 卵は使えるだけ……6〜8個で2人分くらいです」「すごい!そんなに沢山!」凛が丁寧に手順を説明していくと、白石は時々「へえ〜」と目を輝かせながらメモを取った。その素直な反応が、なんだか可愛らしかった。「最後に二つ折りにしたら、スフレ・オムレツの完成です」レシピだけで2人の胸の中に、焼きたてのオムレツの香りがふんわりと広がった。バターと卵の、幸せで温かい香り。ぐううう。食欲を主張したのは、凛の胃だった。「ははは。本当に、美味しそうだよね」白石は明るく笑った。「作ってみるから、良ければ食べてみてもらえない?」「え、でも……」「教えてもらって助かったし、8個分の卵を1人で食べるのは、さすがに……ね」そう言うと、白石はスーパーの袋を抱えて自分の部屋へ戻っていった。* * *ビビーッ数十分後、凛の部屋のチャイムが鳴った。訪ねて来たのは白石だった。彼はホカホカと湯気を立てる大きなオムレツを皿にのせて、照れくさそうに立っていた。「さっきは本当にありがとうございました」2つ折りのふわふわとしたスフレ・オムレツ。バターと卵の香りが、廊下いっぱいに立ち込める。「……タンタンとミィミィのオムレツみたい」ポロッと出てしまった言葉に、凛は慌てて口を押さえた。「あはは、『タンタンとミィミィ』の絵本に出てくる、大きなオムレツでしょ? 実は僕も同じこと思ってた」白石は木漏れ日のように柔らかく笑った。「だから、切り分けないで持ってきたんだ。 良ければ……一緒に食べない?」凛の心が、ふるりと揺れた。久しぶりに感じる、温かい人のぬくもり。「……えっと、良かったらどうぞ」凛は小さく微笑みながら、ドアを少し広く開けた。白石の瞳が、嬉しそうに細められる。その瞬間、狭いワンルームに、ほんのりとした幸せの匂いが、静かに満ちていった。
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第13話 白い部屋

407号室——凛の部屋は、極めて簡素だった。冷蔵庫と小さなテレビ、布団が一組。結婚式後、今月中には部屋を引き払う予定だったから、ほとんど荷物を出していなかった。(……まずい、こんな部屋、普通じゃない……)白石を通したことを、凛は心の底から後悔した。白石は部屋を一瞥すると、柔らかい笑顔のまま言った。「一条さんって……引っ越して来たばっかり?」凛の肩がビクリと震えた。「え?」「オレもさ、引っ越して来たばかりで、先週まで家具がほとんど無かったんだ。 ご飯を食べるのも段ボールを机代わりに使ってた時期もあって…… やっと家具が揃ってきたから、良ければウチに食べに来ない?」白石の声はどこまでも明るく、押しつけがましさは一切なかった。凛は一瞬言葉に詰まったが、ゆっくりと頷いた。「……お邪魔します」* * *404号室、白石の部屋は温かかった。凛の部屋と同じ賃貸住宅の白い壁。その無機質さを、観葉植物が柔らかく和らげていた。手狭なダイニングキッチンには、木目の美しい北欧風のテーブルと座り心地の良さそうな椅子が二脚あり、ペンダントライトが優しい光を落としている。「うわあ……素敵」凛は思わず呟いた。「ありがとう。手を洗うでしょ? 洗面台はそのドアの先だよ」(そっか、洗面台……やっぱり、私の部屋に上がってもらわなくて良かったかも)凛の家の洗面台には、ほとんど物が残されていなかった。タオルも数枚しかない。(……明日、生活用品を買いに行こう)凛はそう心に決めながら、洗面台に向かった。戻ると、白石がすでにオムレツをテーブルに並べ、温かいお茶を淹れてくれていた。「どうぞ、遠慮なく食べてね」白石は人懐っこく笑う。その笑顔と、温かい部屋の空気。血の匂いと冷たい視線に満ちていた三日間が、嘘のように感じられた。凛は小さく息を吐き、椅子に腰を下ろした。初めて、この狭いアパートで、誰かと一緒にご飯を食べるという、ごく普通の時間が訪れていた。
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第14話 オムレツを食べながら

「美味しい……!!」凛はオムレツを一口食べて、思わず声を上げた。「ふわふわで、卵とバターが引き立て合っていて、本当に美味しいです!」白石はその言葉を聞いて、嬉しそうに目を細めた。「一条さん、本当に美味しそうに食べるね。 期待しちゃうな。俺も食べてみよう」そう言って白石もオムレツを口に運ぶ。「……うまっ!!」「美味しいですよね?」「うん、本当に美味しい。卵をこんなに使って大丈夫かなって思ってたけど、いくらでも食べられる」「ですよね」「……フォークが止まらない」二人は無心でオムレツを食べた。美食は、人を無言にする。ひとしきり食べ終わり、白石はカランとフォークを置いた。そして、凛を真っ直ぐに見つめ、はにかみながら言った。「ありがとう。レシピを教えてもらって助かったよ」「いえ……私までご馳走になってしまって、すみません」「卵8個分だからねー。1人では食べ切れなかったよ」「あはは」凛は小さく笑った。(こんなに和やかな時間は、本当に久しぶりだわ)気の置けない人との、何気ないやり取り。胸の奥に、温かいものがゆっくりと広がっていく。凛は、この幸せを、心の奥でそっと包み込んだ。時計の針まで、ゆっくりと進んでいるような夜だったしかし——
こんな時間は、長く続けてはいけない。凛は指先を握った。「白石さんは、テレビはご覧になりますか?」ワイドショーで連日、醜聞を報じられている女——それが自分だ。凛の心は、ヒリリと痛んだ。「テレビ?」白石はキョトンとして答えた。「ああ、ごめん。うちにテレビは無くて。 ドラマやニュースには疎いんだ。 最近、面白い話ある?」(ああ……だから)こんなにも「普通」に接してくれるのか、と凛は思った。この幸せを、手放さなければならない。凛の指先が、冷えていく。それでも、伝えよう。「……実は、私は……」凛の声は、掠れていた。
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第15話 白石の答え

「実は……私は……」凛は振り絞るように、掠れた声で告げた。「神崎家から追放された身なんです」白石の顔を直視することはできなかった。視線をダイニングテーブルに落とす。そこには、まだ温かさが残るオムレツの皿があった。少し前まで、幸せな時間が流れていた場所。今はただ、暖色の光を無機質に反射している。「神崎家……??」白石は少し困惑した声で応えた。「神崎家って、あの、神崎グループの……神崎家?」こめかみを押さえ、背中をダイニングチェアにドサリと預ける。「……はい」凛は静かに告げた。「なので、私とはもう、関わらない方が良いでしょう」それが、この人への最後の恩返しだと思った。肩が小さく震えていた。うなだれた首筋は細く、白く、ダイニングの灯りに照らされて儚く輝いていた。「一条さん……」白石は言葉を失っていた。部屋に、重い沈黙が落ちる。しばらくして、白石はゆっくりと口を開いた。「……それが、今、テレビで報じられている……ってこと?」凛の胸が、ズキンと痛んだ。「……はい」「……そっか……」白石は背もたれから背を離し、ダイニングテーブルに肘をついた。視線はテーブルの上の空になった皿へ落ちる。少し前まで二人で笑っていた食卓。その温もりだけが、まだ部屋に残っていた。神崎家。その言葉だけが、この穏やかな空間に似つかわしくなかった。白石はゆっくりと息をついた。「……オレが、力になれることはないかな」「え?」凛は思わず顔を上げた。そこには、温かな眼差しを向ける白石の姿があった。驚きと、少しの戸惑い。それでも、決して引かない、優しい光。凛の胸が、熱くなった。この人は、神崎家という巨大な影を知っても、まだ自分のことを考えてくれる。指先が震える。喉が熱い。言葉が出てこない。白石は静かに微笑んだまま、凛の震える指先を見つめていた。
「……だからかな」白石は、小さく笑った。「知り合いでも、そういう人がいたんだ」
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第16話 新しい生活

「……だからかな」白石は、小さく笑った。「知り合いでも、そういう人がいたんだ」「え?」凛は白石を見つめる。白石は目を細めて凛を見つめ返した。「いや、なんか、放っておけないな、と思って。一条さんのこと」二人の間に再び沈黙が流れる。しかし、今2人を包み込んでいるのは、真心の温かさだった。やがて、口を開いたのは白石だった。「お茶、もう一杯淹れようと思うんだけど、一条さんも飲む?」「え、あ、はい・・・!」凛は慌てて頷いた。「紅茶とコーヒー、どっちがいい?」「えっと……紅茶で」「了解」白石はキッチンへ向かった。やかんから立ちのぼる湯気を眺めながら、凛は胸の奥が少しだけ軽くなっていることに気付いた。 雲城市の夜は、喧騒に満ちていた。それでも、このアパートの部屋だけは、穏やかな時間が流れていった。***(・・・昨日は、久しぶりに人と話したなあ・・・)凛はぼんやりと思い出していた。温かな部屋。オムレツの香り。そして——白石の何気ない一言。「また作ろうかな」(また……)その二文字が、凛には少しだけ眩しかった。昨日までの自分には、想像もできなかった言葉だ。未来を約束するようなその響きが、胸の奥に静かに残っていた。一条凛は、近所のドラッグストアにいた。ハンドソープにシャンプーに歯磨き粉。生活に必要な物を買い直すためだった。(・・・新しい生活・・・)凛はぼんやりと浮かんだ言葉にハッとした。(そうだ、新しい生活を始めなくちゃいけないんだ)もう誰にも迷惑を掛けず、静かに暮らそう。そう決めたばかりだった。神崎家の花嫁だった生活は終わった。世間だって、しばらくすれば、自分のことを忘れるだろう。(きっと、あの人だって、私のことなんて忘れている・・・)ドラッグストアの明るい棚の前で、凛は小さく息を吐いた。
洗剤も、シャンプーも、歯磨き粉も。
どれも当たり前のものなのに、今の凛には、自分の暮らしを一つずつ取り戻している証のように思えた。同じ頃——黒塗りの高級車が一台、ドラッグストアへと近付いていた。 凛は知らなかった。自分が歩き始めた「新しい生活」が、
すでに別の誰かによって静かに追いかけられていることを。そして、その偶然の再会が、運命を再び動かそうとしていることを。
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第17話 黒い視線

神崎グループの黒塗りの高級車は、雲城市の中心街を滑るように走っていた。神崎怜は、今朝、自宅で執事から受けた報告を反芻していた。「一条凛は、3日ぶりに外出されました。 病院からの報告通り、怪我はごく軽症で、生活に支障はない様子でした」初老の執事・垂水は淡々と説明した。「そうか……それは……」怜は低く応えた。窓枠に置いた手に、知らず知らずのうちに力が入る。(彼女には、申し訳ないことをした。オレが巻き込んでしまったばかりに……)「彼女にも、新しい人生を歩んで欲しい」(自分からは、なるべく遠い人生を……)怜は遠くを眺めた。窓の外には、朝日に輝く新緑が広がっていた。「ええ、仰る通りです。」垂水は控えめに続けた。「一条凛が出掛けた先は、3軒隣のアパートの一室です。すでに、新しい人生を歩み始めているようですよ」「……は?」怜は思わず振り返った。一瞬、車内の空気が凍りついたような気がした。「住人は若い男性のようです。調べましょうか?」怜の指が、ゆっくりと握り締められる。表情は完璧に無表情を保ったままだったが、胸の奥で、何かが激しく軋んだ。(……若い…男?)頭を鈍器で殴られたような衝撃が、怜を襲った。「彼女には新しい人生を歩んで欲しい」そう願っていたはずだった。それなのに、その相手が「若い男」だと聞いた瞬間、胸の奥が説明のつかない痛みに襲われる。(……なぜだ)数百億規模の事業整理。海外企業との交渉。役員会での激しい議論。どれ一つとして、心が乱れたことはなかった。それなのに、「一条凛」の存在だけが、冷静な思考を容易く奪っていく。怜はゆっくりと息を吐き、冷たい声で短く答えた。「……必要ない」冷たい声は、誰に言い聞かせるでもないように静かだった。その視線は、遠く窓の外へ向けられていた。「承知いたしました」垂水は静かに頭を下げた。その横顔には、どこか困ったような笑みが浮かんでいた。黒塗りの車は、ドラッグストアを通り過ぎ、ゆっくりと交差点へ近づいていく。その頃、一条凛もまた、同じ交差点へ向かって歩いていた
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第18話 シグナル

「はあ、洗剤って一度にまとめて買うと、ちょっと重いよね……」凛は交差点の信号を見上げた。ちょうど、赤に変わるところだった。「あー、間に合わないかー。まあ、ゆっくり行こう」凛は歩く速度を落とした。肩の傷は完全に癒えたわけではない。それに、今の凛に急ぐ理由など、なかった。交差点に差し掛かる。「あ、白石さんから連絡が来てる」凛はスマートフォンを取り出した。「洗剤、買えた?だって。」白石からのメッセージに、凛の心がふんわりと温かくなった。「ふふ。買えましたーっと。家に帰ったら、返信しよう」自然と笑顔が溢れる。その目の前を——黒塗りの乗用車と大型バスが走り去った。乗用車の方がスピードが速く、歩道側を走っていたバスを抜き去る。「あれ、なんか、今……」一瞬、何かに気付いたような気がした。「……なんだったんだろう?気のせいかな?」信号が青になる。凛はゆっくり歩き始めた。***「今のは——!」神崎怜は、思わずつぶやいた。乗用車の車窓から、交差点でビニール袋を下げて佇む女性が、一条凛のように見えたからだ。「どうされました?」同乗していた部下が、驚いたように尋ねる。怜はハッと我に返った。「いや……」(どうかしている——!)今朝から自分はおかしい。そう自覚していた。(仕事に集中できない。 挙げ句の果てに、一条凛の姿を探している、だと!?)交差点をもう一度見ようとするが、大型バスに遮られ、歩道は見えなかった。次の瞬間——「……止めてくれ」自分の言葉に、怜自身が驚いた。車がゆっくりと減速する中、怜は拳を強く握り締めていた。胸の奥が、熱く疼いていた。
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第19話 すれ違う残像

乗用車は交差点の少し先で、ゆっくりと停車した。「失礼」運転手がドアを開けるより早く、怜は自らドアを開けた。交差点の方を見る。一条凛の面影を見た、あの交差点を。しかし、そこには——誰もいなかった。信号はすでに青に変わり、歩行者たちは行き過ぎた後だった。「どうされました?」部下が慌てて怜に駆け寄る。「ああ……」怜はハッと我に返った。「すまない……何でもなかった」怜は再び車に乗り込み、ドアを閉めた。表情は完璧に無表情を保っていたが、膝の上の拳は強く握り締められていた。(……どうかしている)車を止めさせた理由など、自分でも説明できない。もし本当に一条凛だったとしてーー今さら会ってどうするのか。彼女に合わせる顔はない。謝りたい?一目元気な姿を見たい?そんな資格など、自分にはない。(一条凛……お前を壊すのが、俺じゃなければよかった)あの日、彼女に告げた言葉が蘇る。(……自分とは、違う世界で生きて欲しいと願った)怜は窓ガラスに映る自分の横顔を見つめた。(……しかし、彼女のいない世界は、あまりにも……)「あまりにも……何だというんだ?」車が再び走り出す。艶やかな漆黒の車体は、雲城市の町並みを鏡のように映していた。大通りを彩る新緑の光は、車内まで届かないようだった。怜は窓の外を見つめながら、静かに息を吐く。胸の奥が、疼くように熱かった。* * *街路樹から木漏れ日が差し込む。凛は穏やかな日差しを見上げた。(あの人に声をかけられたのも、こんな新緑の季節だったな)凛は、神崎怜との奇妙な出会いを思い出した。1年前のある日。凛は神崎グループの新規事業部で営業アシスタントをしていた。会議室の空気は、ヒリヒリと張りつめていた。巨大なテーブルの上座に、神崎怜が座っていた。冷たい視線、完璧なスーツ、感情を一切見せない横顔。その場にいる誰もが、自然と息を潜めていた。凛は資料を配りながら、そっと怜の姿を盗み見た。近づくことすら許されない、遠い存在。それが、当時の凛にとっての神崎怜だった。(あの時は、まさか自分がその人の「妻」になるなんて、夢にも思わなかった……)それは、凛の人生を大きく変えた、初夏の出来事だった。
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第20話 初夏のレビュー

(うう・・・緊張する…なんで私が・・・)凛は胃が痛かった。資料を配り終え、説明者席に座る。役員レビューの説明者。華々しい仕事と言えばその通りであるしかし、相手は「事業整理家」として知られる無情な役員である。そして・・・その役員こそが、神崎怜であった。(この人、私とそんなに歳が違わないのに、重役なんだ・・・)しかし、親しみやすさはまるで感じなかった。「事業整理家」「コストカッター」そうした通り名にふさわしい、無慈悲な雰囲気を漂わせていた。「本日はお時間をいただき、ありがとうございまひゅ!」事業部長は揉み手で挨拶をし、緊張のあまり語尾を噛んだ。「それでは、一条より説明させていただきまひゅ!」また噛んだ。しかし、凛は緊張のあまり、その言葉をあまり聞いていなかった。「ーー以上が、本事業の今期スケジュールとなります。ご質問はありますでしょうか」凛は淡々と説明を終えた。怜は冷たい目で資料を一瞥する。収益見通しのページで手が止まっている。凍りついた時が流れる。トン・・・トン・・・トン・・・机を叩く音だけが響く。やがて、怜は口を開いた。「事業部長」「はひい!」「2、3確認したいことがある。追ってメールする」「はひい!」「あと・・・説明者の君、名前は?」「い、一条凛です!」「・・・一条君」怜は少し考え込んだ。「君にも、事業発表会に来てもらいたい。上長に話は通しておく。準備は垂水と話してくれ」(事業発表会ーー!?)それは今月末に予定されている、事業部で最も重要なイベントであった。(私も、裏方として出席予定だけれど・・・)凛は上司の方をチラリと見る。上司はバネ式玩具のように、首を縦に振り続けていた。(ダメだ、誰もフォローしてくれる気配がない)「承知いたしました」何が分かったのかよく分からないまま、凛はこれ以上ないくらい明瞭な返事をした。
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