All Chapters of 雲城市の黒い契約 ~追放花嫁と檻の帝王~: Chapter 41 - Chapter 50

89 Chapters

第41話 再会の眼差し

神崎グループ本社最上階。会長室。大きな窓の向こうには、朝の雲城市が広がっていた。神崎蓮は執務机に向かい、報告書に目を通している。その向かいには神崎怜が立っていた。「青海財閥との業務提携は保留にするのか?」「はい」怜は資料を閉じた。「条件は悪くありません。ただ、気になる部分があります」「NDAは結んであるんだろう?」「はい。私の権限で」蓮は小さく頷いた。「まあ、用心に越したことはないな」その時だった。コンコンコン。扉が叩かれる。「会長、社長がお見えです」蘇我美玲の声だった。「新任のIT推進部長のご挨拶を、と」怜が僅かに眉をひそめる。「IT推進部長……」そんな人事異動が発令されていただろうか。蓮も首を傾げた。「初耳だな。通してくれ」扉が開く。「失礼します」神崎次郎が入室した。その後ろに一人の男が続く。「次郎、異動の発令は事前に——」蓮の言葉が止まった。怜もまた言葉を失う。朝日が差し込む会長室。そこに立っていたのは。「紹介します」次郎は穏やかに言った。「新任のIT推進部長、白石悠真です」白石は一礼する。「白石です。どうぞよろしくお願いいたします」静寂。蓮はただ白石を見つめていた。「白石……」その眼差しは温かかった。まるで長い冬を越えて差し込む朝日のように。だが、それ以上の言葉は出て来ない。白石もまた黙っていた。怜は二人の様子を見守り、次郎へ視線を向けた。次郎は小さく頷いた。「白石君、外で待っている。話が終わったら声を掛けてくれ」「……承知しました」怜も立ち上がる。「失礼します」扉が閉まった。会長室に残されたのは父親と実の息子ーーその二人だけだった。しばらく沈黙が続く。蓮は言葉を探した。しかし、なかなか見つからない。やがて蓮は観念したように本心を告げた。「……綾子は元気か?」「はい」白石は答えた。「母は元気です。苦労もしましたが」蓮は小さく頷く。「そうか」そして続けた。「君は?」白石は少しだけ笑った。だが、いつもの木漏れ日のような笑顔ではない。「……ご覧の通りです」「そうか……」蓮は噛み締めるように言った。「そうか」再び沈黙が落ちる。やがて蓮は静かに尋ねた。「君は、これから何をしたいんだ?」「え?」白石は僅かに目を見開いた
Read more

第42話 幸せの在処

白石は答えられなかった。「それで、君はどう幸せになるんだ?」会長室は静まり返っている。(どう幸せになるか、だって?そんなこと、どの口が言うんだーー?!)神崎家が、どれだけの人を苦しめて来たか……白石は拳を握りしめて言葉を探した。だが見つからない。神崎グループに入る理由なら説明できる。会社を変えたい。自分の力を試したい。だが——。自分がどう幸せになるのか。そんなことを考えたことはなかった。蓮は静かに言った。「ハッキリさせておく」白石は顔を上げる。「オレは家族より会社を優先する」その声に迷いはなかった。「安全な職場。従業員の命。そういうものが第一だ」窓の外に広がる雲城市を見ながら続ける。「収益はそのための手段に過ぎん」白石は黙って聞いていた。「仕事と仲間への敬意」蓮は淡々と言う。「オレはそれだけで生きている」静かな言葉だった。だが不思議な重みがあった。「だから」蓮は白石を見る。「お前に父親らしいことをしてやれるとは思わん」白石は何も言わない。「白石悠真、君が神崎グループに加わるというなら、仲間として歓迎しよう」長い沈黙。やがて蓮は立ち上がった。「話は以上だ」そして付け加える。「IT分野には期待している。存分に励むように」僅かに笑った。次郎と怜は待合室で控えていた。「悠真は、これまでどうしていたんですか?」怜が尋ねる。「何だ、知らないのか?」次郎は肩を竦めた。「システムエンジニアだよ」「……」「雲城市で神崎グループ以外の資本でも生きていける数少ない仕事だ」次郎は笑う。「もっとも取引先はほぼ神崎グループだがな」怜は黙った。次郎は続ける。「よっぽど嫌いだったんだろうな。神崎家が」「……」怜は静かに尋ねた。「なぜ呼び戻したんです?」次郎は目を瞬いた。「いやいや」苦笑する。「あいつが応募して来たんだよ」「……」「本当に偶然だ」怜は黙って次郎を見つめる。「……悠真には、穏やかに暮らして欲しかった」怜がポツリと言う。「会長もそうお思いのはずです」しばらく沈黙が続いた。「あー……その……」次郎は胸元から銀色の缶を取り出した。カシャカシャと振る。「ミントタブレット、食べる?」その時。会長室の扉が開いた。
Read more

第43話 すれ違う視線

第43話 すれ違う視線「ありがとうございます」白石は深く一礼し会長室を出る。廊下の先には神崎怜と神崎次郎がいた。「……悠真」怜は、無意識にその名を呼んだ。白石が足を止める。ゆっくりと振り返る。2人は初めて、真正面から向き合った。白石の瞳は冷たい。傷付き、失った者だけが宿す静かな光。怜は言葉を探す。(……これまで、どうしていた。)(苦労はしなかったか。)聞きたいことはいくらでもあった。けれど、何一つ口にできない。白石もまた、怜を見つめていた。(一条さんを撃たせた男。)(婚約者を捨てた男。)(……一条さんは、この男のために傷付いた……)胸の奥に、怒りとも悲しみともつかない感情が静かに沈んでいる。目の前にいるのは兄ではない。ただ、それだけだった。長い沈黙。やがて怜が静かに口を開く。「……元気だったか」その一言だけだった。白石の表情は変わらない。「神崎常務。」あえて肩書きで呼ぶ。「申し訳ありません。子どもの頃のことは、よく覚えていないんです。」その声は穏やかだった。だからこそ冷たかった。「失礼します。」軽く頭を下げる。そして怜の横を通り過ぎた。その瞬間——怜は佐伯の言葉を思い出した。(一条凛が会っている男、気になるだろ?)(……白石悠真)二人の肩がすれ違う。白石は振り返らない。怜も呼び止めなかった。ただ——白石を目で追いかけていた。「へえ……」次郎はポツリと、そう溢した。(これは、根が深そうだ)
Read more

第44話 戻れない場所

大型トラックの長距離輸送を始めて一か月。一条凛は運行管理者の平野から、新たな打診を受けていた。「牽引免許ですか?」「そう。今、大型トラック運転してもらってるけど、ゆくゆくはコンテナ専用車を担当して欲しいな……と思って。」「コンテナ専用車……」「船にそのまま積み込める、コンテナを輸送する車輌だね」「へえ……」「牽引免許があると、トレーラーが運転できるから。取得してみない?」「はい!」凛は嬉しそうに頷いた。「そしたら、今月、シフト減らして教習に通ってくれて良いよ。教習時間も給料出るから。」「はい。よろしくお願いします!」凛は深く頭を下げた。久しぶりに自由な時間が増える。(そうだ。)自然と一人の顔が浮かんだ。白石悠真。最近は、お互い仕事が忙しく、ほとんど顔を合わせられていない。(また、一緒にご飯食べられるかな。)凛は少しだけ嬉しくなった。スマートフォンを取り出す。『こんにちは! 牽引免許の教習が始まるので、しばらく昼間の勤務になりました。 もしご都合が合えば、また一緒にご飯でもいかがですか?』送信。「えへへ。」小さく笑う。返事が来るのが楽しみだった。* * *神崎グループ本社。昼休み。白石のスマートフォンが静かに震えた。(プライベートの方か……)白石は多忙を極めていた。朝から会議が詰まり、ひっきりなしにメールとチャットが届く。しかし、プライベートの連絡は久しぶりだった。(誰からだろう?)画面を覗き込むと、表示された名前に思わず口元が緩んだ。(……一条さん……!)メッセージを開く。一文字ずつ読み進める。「……相変わらずだなあ……」初秋の風のような笑顔が溢れる。その爽やかさに、オフィスはざわつく。だが、白石は全く気付いていなかった。(……会いたい。)胸の奥から、素直な気持ちが溢れる。あの食卓。温かいスープ。他愛もない会話。一条凛の笑顔。(でも……。)白石は静かに目を閉じた。今の自分は、あの頃とは違う。神崎家へ戻った。復讐のために。——いや、未来を変えるために。もう、一条凛の前で何も知らなかった頃の自分には戻れない。(“メシ友”のままでは、もういられない。)スマートフォンを握る手に力が入る。ゆっくりと返信を打った。『ごめんなさい。 最近、仕事が立て込んで
Read more

第45話 偶然

免許センターの自動ドアを抜けると、凛は大きく伸びをした。「終わったあ……!」牽引免許の取得手続きも無事に終わった。これで、コンテナ専用車にも乗ることができる。新しい仕事。新しい景色。そんな未来を思うと、自然と笑みがこぼれた。「……あれ?」門の前に、一人の男性が立っていた。グレーのスーツに白いシャツ。柔らかな茶色の髪。「白石さん?」白石は少し照れくさそうに笑う。「……偶然だね」「えっ?」凛は目を丸くした。「近くまで来る用事があって。」「あ、そうだったんですね!」屈託なく信じる凛を見て、白石は心の中で苦笑した。(……ごめん、一条さん。)一時間以上前から待っていたことは、さすがに言えなかった。「良かったら……ご飯でもどう?」「はい!ぜひ!」凛は嬉しそうに頷いた。* * *二人が入ったのは、駅前の小さなビストロだった。「牽引免許って難しいの?」「バックが難しかったです!」凛は身振りを交えて笑う。「トレーラーって曲がる時の感覚が全然違うんですよ。」「へえ。」「でも、運転できる車が増えるのは嬉しいです!」その笑顔に、白石も自然と頰を緩めた。「白石さんこそ、新しい職場はどうですか?」「ああ……忙しいよ。」苦笑しながら肩をすくめる。「毎日会議ばかり。」「ふふっ。」「でも、やりがいはあるかな。」「そういえば。」凛はふと思い出したように言った。「白石さんと外で会うの、初めてですね。」「え?」「どこでも自然体なんだなあ……って思って。」ふわりと微笑む。「あ、ああ……。」白石は少しだけ視線を逸らした。(あの悪趣味なスーツは着替えて来て良かったな……。)心の底からそう思う。「一条さんも、全然変わらないね。」「ありがとうございます!」凛は照れくさそうに笑う。「でも、今、前を向いて働けているのは……白石さんのおかげなんです。」その言葉に、白石は静かに息を呑んだ。「……立ち入ったことを聞いてもいい?」「ええ、何ですか?」「一条さんは……どうして結婚したの?」凛の笑顔が、少しだけ曇る。「あの、答え難かったら忘れて……」「いえ。」凛は小さく首を横へ振った。少しだけ目を伏せる。そして、静かに息を吸う。「……正直に話しますね。」白石は黙って頷いた。凛は唇を噛み締める。「軽蔑
Read more

第46話 凛の過去

「軽蔑されるかもしれませんが……」凛は静かに目を伏せた。「……お金のためだったんです。」白石は言葉を失う。店内には穏やかな音楽が流れていた。それなのに、その一言だけが胸へ重く落ちてくる。「母は身体が不自由で、弟はまだ学生でした。」凛はゆっくりと言葉を紡ぐ。「治療費も、学費も必要で……私には、お金が必要だったんです。」「……」「神崎怜は、当時の上司でした。」その名前に、白石の指先がわずかに動く。「一年前、一緒に仕事をした時に、一年間の契約結婚を提案されて……私は、それを受け入れました。」「契約……結婚。」白石は小さく繰り返した。「今思えば、本当に世間知らずだったんです。」凛は自嘲気味に笑う。「お金さえあれば何とかなると思っていました。」「でも、現実は違いました。」結婚式。銃声。流れた血。病院から一人、ドレスを引きずって帰った夜。一つ一つを思い出すように、凛は静かに語った。「だから……」凛は顔を上げる。「白石さんには、もう終わったことだと思っていただけたら嬉しいです。」そう言って笑おうとした。けれど、その指先だけは小さく震えていた。2人の視線が絡まる。(触れたい……)白石の瞳は揺れた。(彼女の震えを止めたい)(でも……)その手を伸ばす資格は、自分にはまだない。(……いや)白石は凛を静かに見つめた。「……そんな、一条さん。」声が少し震える。「ごめん。ツラい話を思い出させて。」「いえ……。」凛は慌てて首を横に振った。「本当に、もう終わったことなので。」そう言って明るく笑おうとする。その姿が、かえって痛々しかった。白石はゆっくりと息を吸う。(もう、今までの関係ではいたくない。)その想いだけは、はっきりしていた。「……一条さん。」「はい?」少し照れくさそうに笑う。「良ければ……オレのことは、悠真って呼んでよ。」凛は目を丸くした。「……え?」
Read more

第47話 宵越しの思い

「……え?」凛は思わず目を丸くした。白石は照れくさそうに笑う。「友達はみんな、そう呼ぶから。」「あ……。」凛は耳をほんのり赤く染めた。「ありがとうございます……悠真さん。」その一言だけで、白石の胸はいっぱいになった。思わず笑みがこぼれる。「そういえば。」凛は照れ隠しのように笑う。「私たち、ずっと苗字で呼び合っていましたね。」「そうだね。」「私のことも、凛って呼んでください。」白石は少しだけ目を丸くした。「……いいの?」「はい。」凛は照れくさそうに微笑む。「友達ですから。」その言葉に、白石は少しだけ苦笑した。(友達……か。)胸が少しだけ痛む。それでも今は、それでいい。ゆっくりと息を吸う。「……凛ちゃん。」照れくさそうに呼ぶ。「はい。」凛は嬉しそうに笑った。その笑顔を見ているだけで、胸の奥が温かくなる。(この笑顔を……守りたい。)* * *食事を終えた二人は店を出た。「今日はありがとうございました。」凛はぺこりと頭を下げる。「こちらこそ。」白石も穏やかに笑う。「また、ご飯でも行こう。」「はい!」凛は嬉しそうに頷いた。夕暮れの街に、二人の笑い声が溶けていく。その頃。神崎怜は取引先との打ち合わせを終え、一人で歩いていた。ふと、通りの向こうに見覚えのある後ろ姿が目に入る。(……悠真。)こんな時間に珍しいな。そう思った、その瞬間。悠真の向かいに立つ女性が視界へ入った。「……!」一条凛だった。二人は何かを話している。凛が笑う。それを見た悠真も、穏やかに笑った。(……そうか。)怜には十分だった。凛が笑っている。それだけで…。(あの幸福の灯の中に、オレはいない方がいい。)静かにその場を立ち去ろうとする。その時だった。胸の奥に、身を切るような痛みが走る。「……?」怜はわずかに眉をひそめた。(……何だ?この胸の痛みは……)理由は分からない。(……気のせいか)そう結論づけると、何事もなかったように夜の街へ消えていった。
Read more

第48話 プリンス誕生

朝。白石悠真がアパートの玄関を開けると、騒がしい声が耳に飛び込んできた。「白石さん!」「こちらをお願いします!」「神崎家とのご関係について、一言いただけませんか!」フラッシュが一斉に光る。十人近い記者とカメラマンが、アパートの前を取り囲んでいた。「うわっ!」白石は思わず足を止める。何が起きたのか分からない。だが次の瞬間、反射的に視線は隣の部屋へ向いていた。407号室。ドアは閉まったままだ。(……良かった、まだ出てきていない。)小さく息を吐く。「白石さん!」記者たちが距離を詰めてくる。「後継者候補という報道は事実ですか!」「神崎会長とのご関係は!」(まずい……。)一条凛だけには知られたくなかった。神崎グループへ戻ったことも。自分が神崎家の血を引く人間だということも。何より——。神崎家という名前そのものが、凛にとって苦い記憶でしかない。(こんなところを見られるわけにはいかない。)白石は手で顔を隠すと、記者の間をすり抜け、足早に会社へ向かった。* * *神崎グループ本社。出社すると、社内も朝からざわついていた。社員たちがスマートフォンを片手に何かを話している。「白石部長、おはようございます。」「おはよう!」どこかぎこちない空気。「……?」自席へ着いた白石は、ようやくスマートフォンを開いた。そこには大きく見出しが躍っていた。《神崎グループ”幻の御曹司”現る》《新たなプリンス誕生》《後継者は白石悠真か》「……何だ、これは。」思わず呟く。どの記事も、神崎蓮の実子であり、新任IT推進部長となった白石悠真を大きく取り上げていた。本人の意思など、お構いなしに。(誰が、こんなことを……。)その時だった。「白石部長。」静かな声が背後から響く。振り返ると、美玲が立っていた。アイボリーのスーツ姿は今日も隙がない。「報道の件ですが。」白石は思わず身構えた。「……何でしょう。」「止めましょうか。」あまりにも自然な口調だった。「……出来るんですか。」「もちろんです。」美玲はスマートフォンを取り出し、短く電話をかける。「私です。はい。」整った顔が一瞬、ピクリと動く。「…お分かりでしょう?ええ、お願いします。」それだけだった。三十秒も掛からない。通話を終えると、何事もなかった
Read more

第49話 美玲の視点

「どうして、神崎怜の妻の時は止めなかったんですか。」白石の問いに、美玲はしばらく黙っていた。やがて静かに口を開く。「私も具申いたしました。」「ですが――放っておけ、と。」「……放っておけ、だって?」白石の声が思わず強くなる。「そんな……!」その表情には驚きと怒りが入り混じっていた。しかし、すぐに我に返る。「……すみません。少々、驚いてしまって。」小さく頭を下げた。「それは、誰の指示で?」「神崎常務です。」「……神崎常務。」白石はゆっくりとその名を繰り返した。(神崎怜が……そんな指示を。)拳を握る。許せなかった。傷付いた一条凛を放っておくなど。そんな判断を下した男が。白石の様子を、美玲は静かに見つめていた。その視線に気付き、白石は苦笑する。「はは……。」「神崎家の考え方には、慣れないといけませんね。」そう言って笑う。けれど、その笑顔はどこかぎこちなかった。(許せない。)胸の奥では、怒りが静かに燃えていた。しばらく沈黙が続く。やがて、美玲がぽつりと呟いた。「……でも。」白石が顔を上げる。「常務は、きっと奥様のことを大切に思われていますよ。」「……え?」白石は目を見開いた。あまりにも予想外の言葉だった。「今、思えば。」美玲は静かに続ける。「あのような眼差しを向けられていたのは、奥様だけでしたから。」英絵伯母様との会食。二人で出席したチャリティーイベント。当時は説明のつかなかった違和感。(誰も気付かなかった――私も思いも及ばなかった。)けれど今なら分かる。あの人は、いつも奥様だけを目で追っていた。それは執着でも、所有欲でもない。もっと静かで、もっと不器用なものだった。美玲は確信していた。神崎怜の心は――ずっと、一条凛へ向いていたのだと。(……そう、ずっと前から……)美玲はスッと椅子を引いた。「では、そろそろ副会長とのアポイントのお時間ですね。」静かに立ち上がる。「長居いたしました。失礼いたします」
Read more

第50話 白い劇場

角部屋の窓から、雲城市の街並みが見えていた。神崎次郎は役員会資料をめくりながら、ふと笑った。「最近、人気者らしいじゃないか」向かいに立つ白石は表情を変えない。「何の話ですか」「君の話だよ」次郎は資料を閉じた。「物流部の若手が言っていた。『白石部長と仕事がしたい』だそうだ」白石は黙っている。「営業も製造も、同じことを言っている」次郎は面白そうに続けた。「システム部門の人間なんて嫌われ役になりやすいものだが」「現場の皆さんが協力的だからです」模範解答だった。次郎は吹き出す。「つまらない答えだな」カシャリ。ミントタブレットを手に落とした。「年寄り連中は別のことを言っているぞ」白石の視線がわずかに上がる。「若い頃の会長によく似ている、だそうだ」沈黙。数秒。白石は何も答えなかった。次郎はその反応を見て笑う。「最初は母親似だと思ったんだがな」カシャ。タブレットを口へ放り込む。「人を惹きつけるところも兄貴そっくりだ」白石の表情は変わらない。しかし空気だけが少し冷えた。次郎は楽しそうだった。「まあ、頭脳なんてものは歳と共に衰える」窓の外へ目を向ける。「だが人望は違う」雲城市の街並みが広がっていた。「兄貴は昔から人に好かれた」そして視線を白石へ戻す。「君も同じだ」白石は静かに答えた。「買い被り過ぎです」「そうか?」次郎は椅子にもたれた。「私には、今にも神崎グループをぶっ壊してやると言いたそうな顔に見えるが」執務室の空気が張り詰める。長い沈黙。やがて白石は小さく笑った。「……まさか」その笑みは冷たかった。次郎は愉快そうに声を上げる。「ははっ」髪を掻き上げながら言う。「若いうちは、それくらいが丁度いい」白石は答えなかった。トントンと資料を揃えて言う。「……事前説明のお時間をいただき、ありがとうございました」「ああ。まあ、そう身構えずに。来週の役員会議、よろしくな」
Read more
PREV
1
...
34567
...
9
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status