All Chapters of 雲城市の黒い契約 ~追放花嫁と檻の帝王~: Chapter 61 - Chapter 70

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第61話 国道

雨は激しさを増していた。大型コンテナ車は夜の国道をひた走る。バックミラーには、なおも複数のヘッドライトが迫っていた。「まだ来ます!」凛が叫ぶ。「数が増えてる……!」怜は後方を見据えたまま、静かに答える。「予想どおりだ。」その声は、不思議なほど落ち着いていた。「神崎さん!」凛はハンドルを握り締める。「どうして、こんなことになってるんですか!」怜は短く問い返す。「お前。この荷物が何だか知ってるか?」「え?」凛は目を丸くした。「知りません!研究所から運ぶようにって言われただけです!」怜は小さく息を吐く。「……だろうな。」「狙われるってことは、それだけヤバい物ってことだ。」「えっ?」その時だった。キィィィッ!後続車が急加速する。「左!」怜の声が飛ぶ。凛は反射的にハンドルを切った。黒いセダンが車体すれすれを駆け抜ける。「きゃっ!」大型コンテナ車が大きく揺れた。ドンッ!凛の耳元で大きな音が弾ける。怜の身体が運転席に傾き、壁に手をついていた。(ち、近い…!!)数センチの距離に迫った怜の顔が、嫌でも視界に入る。雨に濡れた漆黒の髪。端正な顔は街頭に照らされ、睫毛の影が頬に落ちていた。「……すまない…」息が吹きかかる。何事も無かったかのように、怜は座席の後ろへ手を伸ばした。「い、いえ…」(ま、前よ…!前だけ見て、運転に集中しなくちゃ…!!)凛はハンドルを握りしめた。「神崎の第三工場、分かるか?」「分かります!」凛は即答した。配送で何度も出入りした工場だ。道は頭に入っている。「そこへ向かえ。」「はい!」アクセルを踏み込む。大型コンテナ車は雨を切り裂くように夜の街を走り抜けた。「……キリがないな」怜が取り出したのは一本の発煙筒だった。「神崎さん、それ……。」「口を閉じて運転しろ。」怜は迷いなく発煙筒に火を付けた。赤い炎が夜を照らす。次の瞬間。ブンッ!後方へ投げ放った。煙が一気に広がる。赤い煙幕が、夜道を覆い尽くした。「見えない!」後続車が次々とブレーキを踏む。しかし、煙の向こうから、再びヘッドライトが近づいて来た。凛の表情が変わる。前方へ視線を向けたまま、小さく呟く。「……神崎さん。」「どうした。」凛は冷静さを保とうと努める。「……あの。」喉が乾
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第62話 曲がれない

「……たぶん、曲がれません。」凛の声は震えていた。フロントガラスの向こう。黄色いカーブ標識が次々と迫る。雨で濡れた路面。巨大なコンテナ。この速度では、とても曲がり切れない。怜は前方を一瞥した。「……そうか。」「そうかって!」凛は思わず叫ぶ。「曲がれないんですよ!?」怜は答えない。ミラー越しに後続車を見る。「……降りるしかないな」「え?」「ブレーキ!」「は、はい!」凛は力いっぱいブレーキを踏み込んだ。ギャァァァァッ!!タイヤが悲鳴を上げる。巨大な車体が激しく震えた。それでも速度は落ち切らない。「止まりません!」「分かっている。」怜は助手席から身を乗り出した。カチリ。凛のシートベルトが外れる。「神崎さん!?」そのまま凛の身体を引き寄せる。「え……。」距離が一気に縮まった。雨に濡れた黒髪。吐息がかすかに頬をかすめる。凛は何が起きているのか理解できなかった。怜は助手席のドアへ視線を向ける。窓の外は闇。その先は崖だった。(まさか……。)「舌を噛むな。」静かな声だった。次の瞬間。怜はドアを蹴り開けた。冷たい雨風が車内へ吹き込む。凛は目を見開く。「神崎さん――」言葉は最後まで続かなかった。怜は凛を強く抱き寄せる。そして。迷うことなく、夜の闇へ飛んだ。
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第63話 もう敬語なんて使わない

激しい雨音。二人は崖の斜面を何度も転がり、ようやく木の根元で止まった。「……っ!」凛は咳き込む。泥だらけだった。全身が痛い。何が起きたのかも分からない。「一条!」怜が凛の肩を掴む。「怪我は!」「え……。」凛が答えるより早く、怜は腕や肩を確認していく。骨折はない。出血もない。怜が深く息を吐く。「……危なかったんだぞ。」低い声だった。「え?」凛は目を丸くする。怜は珍しく感情を抑え切れていなかった。「どれだけ心配したか……。」その一言で、凛の中の何かも切れた。「はぁ!?」凛は勢いよく立ち上がった。怜は目をしばたたせる。「……言わせてもらうけど! あなたと出会ってから、私、ずっと危ない目に遭ってるんだけど!?」怜は黙っている。その無表情が、余計に腹立たしかった。「銃で撃たれて!仕事もクビになって! やっと見つけた仕事では、変な車に追い掛け回されて!!」凛は一歩踏み出す。「挙げ句の果てには崖から飛び降りるって何なのよ!!」息が切れる。それでも止まらない。「全部!全部あなたのせいじゃない!!」沈黙。雨だけが降り続く。やがて怜が小さく口を開いた。「……なんだ。」凛が睨み返す。「随分と変わったな。」「変わるわよ!!」即答だった。「もう、あなたに敬語なんか使わない! 顔を見てるだけでムカムカしてきた!」怜は思わず吹き出しそうになる。「……。」「何よ!」「いや。」ほんの少しだけ口元が緩む。「その方が、お前らしい。」「はぁ!?」凛はさらに腹が立った。「笑わないで!」その時だった。ドォォォン!!崖の上から、鈍い爆発音が響く。二人は同時に振り返る。炎が夜空を赤く染めていた。コンテナ車だった。
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第64話 火遊び

翌朝。神崎邸。朝の光が静かなダイニングへ差し込んでいた。「おはようございます。」執事・垂水が一礼する。怜も小さく頷いた。「おはよう。」垂水は主人の顔を見つめる。「体調にお変わりはございませんか。」怜は小さく笑った。「昨夜、少し帰りが遅くてね。」「左様でございましたか。」垂水はそれ以上何も聞かない。「それでは朝食は軽めにいたしましょう。」怜は静かに首を振った。「いや、今日はいい。」「……かしこまりました。」少しだけ間が空く。怜は垂水を注意深く見つめる。「……垂水は何でもお見通しだな。 俺の火遊びも把握しているんだろう?」垂水は穏やかに微笑む。「まさか。滅相もございません。」「そうか。」怜は視線を外さない。「なら、そういうことにしておこう。」垂水は一礼し、静かに部屋を後にした。扉が閉まる。足音が完全に遠ざかったことを確認すると、怜はゆっくりとジャケットをめくった。白いシャツは、脇腹の辺りまで赤黒く染まっている。昨夜の傷だった。「……っくそ!」応急処置はした。だが、まだ血は滲んでいる。怜は傷よりも、別のことを考えていた。(あのコンテナには機密情報が積まれていた。  おそらく一条研究所のデータ……!)静かに目を閉じる。(してやられた。)情報は奪われた。追跡は読まれていた。(運転手を見過ごしていれば……。)凛を助けようとしなければ。コンテナを追うこともできたかもしれない。だが。その考えはすぐに消えた。(……いや。)小さく息を吐く。(彼女が無事で良かった。)それだけは、本心だった。ふと、昨夜の光景が脳裏をよぎる。大型コンテナ車を迷いなく操る凛。怒鳴り返してきた凛。「もう敬語なんか使わない!」声が蘇ると、思わず口元が緩んだ。「……それにしても、コンテナ車の運転手、か。」静かな独り言。「どこまで遠くへ行くんだろうな。彼女は。」その瞳は、どこか遠くを見つめていた。* * *同じ頃。工場地帯の埋立地。雨はまだ降り続いている。小さな運送会社の事務所。凛は静かにドアノブへ手を掛けた。そして――その扉を開けた瞬間。「……!」彼女は、新たな窮地へ立たされることになる。
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第65話 運行責任

工業地帯の外れの小さな運送会社事務所。プレハブ小屋の中には、珍しくテレビが流れていた。「おっ、凛ちゃん。」平野が手を振る。「おはようございます。」凛は少しぎこちなく頭を下げた。(昨夜の事故の説明をしよう。……にわかには信じてもらえないかもしれないけれど。)意を決して、平野に話しかける。「あの、ご報告がありまして……」その時だった。「あー、この話?」平野がテレビを指差す。ニュースは、事故現場を映していた。「あ……!」凛は目を丸くする。車は無残な有様だった。カーブで横転し、トレーラーは原型を留めていない。コンテナ部は焼け焦げている。ただしーー「うちのマーク、ばっちり映っちゃってるね。」「え……?」凛は思わず画面を見る。車体には、運送会社のロゴがはっきりと映っていた。『昨夜、雲城市郊外で大型コンテナ車が炎上――』アナウンサーの声だけが静かに流れる。凛は思わず息を呑んだ。(昨日の……。)平野は腕を組みながら苦笑した。「でも、不思議なんだよな。」「え?」「普通、横転して炎上したら、エンジンから火が出るだろ?」「普通??」(横転事故なんて、滅多に無いと思うんだけれど。)「でも、これは、コンテナ部分の焼失が激しいんだよな。」「はあ。」「さらに、これだけ大きな事故なのに、われわれに一本のお叱りの電話もない。」「え?」「警察も、お役所も、荷主も。 誰一人、何も言ってこない。」その言葉に、凛の背筋が冷たくなる。(……やっぱり。)昨夜、怜が言っていた。『それだけヤバい物なんだろう。』その意味を、今になって理解する。平野は小さく笑った。「いやー。夢じゃ無いかなって、今でも思ってるんだよね。本当なら、会社にも事情聴取が来るし。荷主から電話も鳴りっぱなし。そりゃー、もう、大変だよ。」「うっ……。」凛は運転手としての責任を感じた。しかし、不思議と謝る気持ちにはなれなかった。(前までなら、すぐに謝っていたのに。私も図太くなっちゃったのかも。)「まあ、そんな訳で。今日は病院行って、そのまま休んで良いよ。」「え?」「見た感じ大丈夫そうだけど、一応、ね。 タクシー代と病院代は経費で落とすから、領収書もらって来て。」そう言って平野は何枚か紙幣を凛に渡した。「ありがとうございます。」「…
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第66話 ニュースの男

病院の待合室。テレビでは朝のニュースが流れていた。凛は診察券を握ったまま、ぼんやりと画面を見つめる。(あのまま、運転席にいたら……私、今頃、どうなっていたんだろう……。)凛は無意識に、自分の腕へ触れた。するとーー昨夜、強く抱き寄せられた感覚が蘇る。(温かかった……あの人。)神崎怜の体温だけが、不思議なほど鮮明に残っていた。(神崎さんがいなかったら……)そこまで考えて。「はあ?」凛はスンと正気に戻った。「神崎怜がいなかったら? 私はもっと平和に穏やかに暮らしていたわよ。」(なんで、神崎怜のことなんて思い出すのよ!)それでもーー「……危なかったんだぞ。」深い吐息、低い声。「どれだけ心配したか……。」昨夜の声に、胸がざわつく。「心配するくらいなら……!」言葉が不意に途切れた。凛ははたと思考を止める。「……心配、していたの?あの人が?」その時。『続いてのニュースです。』画面が切り替わる。『神崎グループは本日、新たな役員人事を発表しました。』(……神崎グループ。)凛は反射的に顔を上げる。画面いっぱいに映し出された人物を見て、息が止まった。「……白石さん?」スーツ姿で記者会見に立つ白石悠真。テロップが流れる。《神崎グループ 新役員 白石悠真》凛は言葉を失った。つい先日まで、隣の部屋に住んでいた人。オムレツを一緒に食べた人。その人が今、テレビの向こうにいた。
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第67話 祝杯

夜。雲城市を一望できる高層ホテル。最上階のステーキハウス。「こちらでございます。」案内されたのは、一番奥の個室だった。磨き上げられた木の扉。窓の向こうには、夜景が宝石のように広がっている。部屋にはすでに神崎次郎が座っていた。「やあ、白石君。」穏やかな笑みを浮かべる。「役員就任、おめでとう。」白石は静かに一礼した。「ありがとうございます。ですが、私のような若輩者が役員など……正直、困惑しております。」「君らしいな。」次郎は声を上げて笑う。「座ってくれ。」白石は勧められるまま椅子へ腰を下ろした。テーブルには、ナプキンとプレート、銀食器が燦々と輝いている。やがてウェイターがメニューを運んできた。次郎はページを開きながら笑う。「この店はね。個室を使う時には結構注文しないといけないんだ。」(最低1,000ドルだな。どうやったら2人でそんなに食べられるんだよ。)白石は冷ややかな眼差しを向ける。「今日は、じゃんじゃん頼もう。」次郎は迷うことなくシャンパンを注文する。「前菜は……シーフードの盛り合わせ。これが好きなんだ。あと、キャビアも。ああ、キャビアも盛り合わせがあるのか。じゃあ、それも。」白石は淡々とその様子を眺めていた。(……悪趣味だ。)料理を楽しみたいわけではない。金を使うこと、そのものが目的なのだろう。そう思えた。シャンパングラスがサーブされ、シャンパンが注がれる。きめ細かい泡が立ち上がっては消えた。沈黙を溶かすように。「白石君。」「なんでしょう。」「君は、神崎家が嫌いだろう。」唐突だった。白石は答えない。次郎は笑みを崩さない。「もちろん、私のことも嫌いだね?」白石は次郎を真っ直ぐ見た。数秒。沈黙が続く。やがて白石は静かに答える。「ええ。」その返事には一切の迷いがなかった。次郎は小さく笑った。「うんうん。素晴らしい。」白石は眉一つ動かさない。「……どういう意味でしょう。」次郎はグラスを持ち上げる。「では、改めて。役員就任に乾杯。」グラスが静かに触れ合う。小さな音だけが個室へ響いた。次郎は一口シャンパンを飲み、満足そうに息を吐く。「さて。」グラスを置く。「今日、君を呼んだのは祝いの席だけではない。」白石は何も言わない。次郎はゆっくりと微笑んだ。「私に、
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第68話 身を引いた男

個室には静かな音楽が流れていた。運ばれてきた前菜へ、二人ともほとんど手を付けない。次郎はワイングラスに口を付けてから、ゆっくりと話し始めた。「君のお母さん――綾子とは、幼い頃からの付き合いだった。」白石は黙って耳を傾ける。「神崎家と綾子の実家である白石家は、昔から交流があってね。」次郎は少し懐かしそうに笑った。「気付けば、いつも隣にいた。」窓の外には、雲城市の夜景が広がっている。「初めてお互いを意識し始めたのは、学生の頃だな——自然と付き合うようになったよ。」その口調は穏やかだった。まるで、誰か別の人間の思い出話をしているように。「私は、綾子と結婚するものだと思っていた。」白石は表情を変えない。次郎は小さく肩をすくめた。「ところが現実は、そう簡単じゃない。」シャンパンを一口飲む。「家同士の話し合いでね。綾子は、兄――神崎蓮と結婚することになった。」静かな沈黙が流れる。白石は何も言わなかった。次郎は笑みを浮かべたまま続ける。「最初は、さすがに腹も立ったよ。若かったからな。家なんて関係ない、駆け落ちでもしてやろうかと思ったこともある。」思わず自分で笑う。「もちろん、本気じゃない。そんな勇気は、私には無かったし——綾子が幸せになるとも思えなかった。」白石は初めて口を開く。「……後悔は、なかったのですか。」次郎は少しだけ考えた。そして静かに首を振る。「いや。兄を見ていると、無かったな。」その答えは迷いがなかった。「身内の自慢で恐縮だがね、兄は昔から、俺の憧れだったんだよ。まず、人望がある。誰よりも責任感が強い。綾子を誰よりも幸せにするだろう——そう思えたんだ。」遠くを見るような目になる。「きっと幸せな家庭を築く。だから身を引いた。」白石は黙っていた。次郎は苦笑する。「格好良く聞こえるだろう?」白石も苦笑した。「自分で言わないでくださいよ。」「……本当は、兄から奪う勇気が、私には無かったんだ。」ワイングラスを見つめる。シャンパンの泡は、ただ静かに立ち上っていた。「それでも。君が生まれたと聞いた時は、嬉しかった。」白石の視線がわずかに動く。「綾子が——君のお母さんが選んだ人生なら、それで良かったと思えたからだ。」個室に静寂が落ちた。やがて料理が運ばれてくる。ウェイターは雰囲気を察し
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第69話 知りたいこと

個室にはリブアイ・ステーキの香りが漂っていた。「……母から、その話は聞いています。あなたが母と交際していたこと。そして、母が神崎蓮と結婚したこと。」白石は淡々と続ける。「母が神崎家を出た後も——あなたが何かと気にかけてくれたこと。」“次郎さんは繊細なのよ、昔から。のらりくらりしているけれど、一度懐に入れてしまうと、忘れられない人なのね。"母は笑ってそう話していた。その笑顔に、恨みも悲しみもなかった。(母は神崎次郎の想い人ではあった。それは確かだろう。しかし——)白石は静かに次郎を見つめる。「ですが——あなたは私にすべてを話しているわけではないでしょう?」次郎は何も言わない。白石は続ける。「今日、あなたが私をここへ呼んだ理由も。今話されたことも。……私はまだ聞いていないように思います。」次郎はステーキを切る手を止め、白石を見つめ返した。「どうして、そう思う?」「神崎社長は、無駄なことをする方ではありません。役員就任を祝うだけなら、このような席は必要ない。十万円の個室も、高級ワインも、昔話も、すべて目的があって用意されたのでしょう。」次郎は楽しそうに笑った。「……兄貴に似てるな。物事の見方が。」白石は表情を変えない。「私は踊らされるのはごめんです。」真っ直ぐな声だった。「ですから聞かせてください。——本当の狙いは何ですか。」長い沈黙が流れる。次郎はグラスを傾け、小さく息を吐いた。「今、話したことがすべてだよ。」白石は首を横に振る。「違います。」その声には迷いがなかった。「あなたは、まだ何かを隠している。」次郎はしばらく白石を見つめていた。やがて、小さく笑う。「……鋭いな。だが、今日はそこまでだ。」次郎はワイングラスを煽り、静かに口を拭いた。(——今日はこの辺りが落とし所か。)白石もグラスに口を付ける。「一つだけ。教えていただけませんか。」「何かな。」白石は少しだけ視線を落とす。その表情だけが、今までとは違っていた。「私は、母に聞けずにいることがあります。二十年前、母はなぜ神崎家を去ったのですか?」その問いに、初めて神崎次郎から笑みが消えた。
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第70話 去った理由

「二十年前、母はなぜ神崎家を去ったのですか。」神崎次郎は答えなかった。ワイングラスを見つめたまま、長い沈黙が流れる。窓の外では、雲城市の夜景が静かに瞬いていた。やがて次郎は、小さく息を吐く。「……私にも正確な理由は分からない。」白石は目を細める。「分からない?」「綾子は、何も話さなかった。」その声は先ほどまでとは違っていた。冗談も、余裕も、もうそこにはない。「兄も話さなかった。ただ、ある日突然、君を連れて神崎家を出た。」白石は息を呑む。個室には静かな音楽が流れていた。神崎次郎はワイングラスを静かに置く。「白石君。二十年前、神崎グループの工場で大きな事故があったことは知っているね。」白石は頷いた。「ええ。粉塵爆発による有毒ガス漏洩事故——雲城市では知らない者はいません。」「そうだ。」次郎は窓の外へ目を向ける。「だが、あまり知られていないことがある。」少しだけ間を置いた。「事故当時、あの工場の責任者だったのは——白石所長、君のお祖父様だ。」白石は目を見開いた。「……祖父が。」「そう、そして綾子の父親でもある。」初めて聞く話だった。次郎は静かに続ける。「事故のあと、世間の批判はすべて彼へ向かった。新聞も、テレビも、遺族も、誰もが責任者を責めた。」足元から冷気が立ち上る。「白石所長は、人一倍真面目な人だった。責任感も強かった。だから、自分自身を誰よりも責めた。」白石は黙って耳を傾ける。「彼は、最後まで逃げなかった。」次郎はゆっくりと息を吐いた。「すべての事後処理が終わったあと——彼は倒れた。」白石は静かに拳を握る。「世間では、過労が原因だと言われている。だが実際は……。」そこまで言って、次郎は言葉を止めた。「……。」白石は何も尋ねなかった。聞かなくても、分かってしまった。幼い頃から母が何度も繰り返していた言葉。"人を恨んではだめよ。恨んでも、誰も幸せにならないから。"(……そういうことだったのか。)母は事故で父親を失っていた。(だから家を出たのか……)そして、誰のことも恨むなと、息子にそう教え続けた。白石はゆっくりと目を閉じる。その瞳の揺らぎを、次郎は静かに見つめていた。
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