All Chapters of 森宮社長、奥様は娘を連れて離婚します: Chapter 281 - Chapter 290

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第281話

澪はれっきとした妻なのに、世間から見れば、紗耶のほうがよほど征司の正式な相手に見える。「申し訳ございません。森宮社長はただいま外出しておりますので、本日はお会いいただけないかと存じます」受付の女性は社長室に電話をかけたあと、完璧な笑顔を浮かべて答えた。征司は本当に不在なのか、それとも自分を取り次がないよう指示されているのか、澪には判断がつかない。「いつ戻りますか?」澪は簡単に引き下がるつもりはない。受付の女性は一瞬ためらってから答えた。「申し訳ございません。林秘書から、森宮社長は今日は恋人の方とお過ごしになるため、日を改めていただきたいとのことです」その言葉で、澪はすべてを察した。征司が電話に出ないのも無理はない。恋人と過ごすのに忙しく、自分に邪魔されたくないのだろう。面会を申し込む際には名前を伝えた。健太は、澪が下で待っていると知りながら通さなかったのだ。そのうえ、征司がどこで何をしているのかまでわざわざ知らせてきた。たぶん、彼女に恥をかかせるか、それとも「空気を読んで引き下がれ」という意味だろう。もちろん澪は受付の女性を困らせるつもりはない。彼女の判断で面会を断っているわけではないからだ。森創のビルを出てから、澪はふと気づいた。もしかして、自分は門前払いされたのだろうか。離婚の条件として征司から森創の株まで譲られたというのに、その会社に足を踏み入れることさえできない。不倫相手でありながら、恋人として堂々と出入りできる紗耶のほうが、よほど自由だ。征司と連絡が取れない以上、澪にも打つ手はない。二回目の入金も、離婚届受理証明書も、ひとまず待つしかなかった。すっかり出鼻をくじかれて戻ったら、澪のもとに宇一から電話がかかってきた。「宇一さん?」電話の向こうで、宇一は一瞬黙り込んだ。「澪、もう少し気楽に呼んでくれないか。そんなによそよそしくする必要はないだろう」澪は呼び方にこだわっているわけではない。ただ、これまで宇一とは仕事上の付き合いしかなく、その呼び方がすっかり癖になっているだけだ。「今日は時間ある?」宇一は無理に呼び方を変えさせようとはせず、穏やかに尋ねた。澪は時刻を確認した。「ありますよ。今日はちょうど休めます」もう一週間も征司との家には帰らず、働き詰め
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第282話

その声を聞くたび、澪は神経を逆なでされ、苛立ちを抑えられなくなる。振り返ると、少し離れたところで、大人二人と子ども一人がちょうど車から降りたところだった。征司と紗耶が律樹を真ん中に挟んで、三人は親密な家族そのものに見えた。今日の征司は、普段よりややカジュアルな装いだ。白いシャツは気品があり、相変わらず近寄りがたい雰囲気を漂わせている。その隣にいる紗耶も、征司と合わせたかのように、高級ブランドの白いツイードのセットアップを着ている。そんな二人が現れれば、いやでも人目を引く。澪は思わず小さく笑った。その目には皮肉が満ちている。征司は、本当に一日中紗耶に付き添っていたらしい。澪が森創で門前払いされた頃、二人はずいぶん楽しい時間を過ごしていたようだ。宇一もそちらへ目を向けた。その目は冷たかった。律樹が声を上げたことで、征司もこちらを振り向いた。その視線が、数秒間ぴたりと止まった。澪と玲衣が仲よくしている様子を、宇一が穏やかに見守っている。まるで、三人が家族のように見えた。紗耶は眉をひそめ、すぐに声を立てずに冷笑した。征司は澪と宇一の上を通り過ぎ、何気なくおとなしい玲衣にも目を向けた。そこで軽く会釈した。「穂積社長」「この子は、森宮社長のお子さんですか?」宇一の問いに、澪もわずかに眉を動かした。征司は表情を変えずに言った。「いや、子どもはいません」宇一は征司を一瞥し、数秒たってからようやくうなずいた。「てっきり結婚を公表していないだけで、もうお子さんがいるのかと思いました。白石さん親子をずいぶん大切にしているように見えますので」その言葉には、どこか引っかかるものがある。澪でさえ、微妙な皮肉が込められているように感じた。ところが、征司は特に気にした様子もない。一方、紗耶はその言葉をむしろ心地よく受け取っている。なにしろ、自分と征司は誰の目から見ても、子供を連れた夫婦のように見えるはずだからだ。「穂積社長、こんなところでお会いするなんて、奇遇ですね。こちらのお嬢さんが、娘さんですか?」紗耶は宇一に軽く笑いかけながら言った。まるで、すぐそばにいる澪など見えていないかのように。征司も玲衣に目を向けた。宇一は何気ない表情で答えた。「ああ。娘の穂積玲衣です」宇一はあえて、玲衣の
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第283話

紗耶の巧みな言い回しに、澪は思わず鼻で笑った。いかにも、聞いた者の想像をかき立てる言い方だ。案の定、紗耶の言葉に乗せられ、ある人がさっそく尋ねた。「では、ご結婚も近いんですか?お子さんのことも考えていらっしゃるんでしょう?」紗耶は甘い笑みを浮かべ、少し拗ねたような口調で答えた。「もう、からかわないでくださいよ」そう言ってから、さりげなく澪をちらりと見た。「しばらくは仕事が忙しくなりそうなんです。まだご存じない方も多いと思いますが、瑞穂メディカルで独立したプロジェクトチームを立ち上げることになったんです。今は仕事に集中しなければならないので、プライベートなことはひとまず後回しですね。征司も、私の気持ちを分かってくれてますから」周囲から、再び羨望の声が上がった。誰もが、紗耶の言葉に込められた意味を察している。「森宮社長は本当に白石さんを大切にしてるんですね。何よりも白石さんの気持ちを最優先にしてくれるなんて」「それだけ愛されている自信があるから、迷わず仕事を優先できるんでしょうね。愛されているものならではの余裕だわ」女性が集まれば、どうしてもこうした話題で盛り上がる。紗耶も否定することなく、嬉しそうに笑っている。彼女が何をほのめかしているのかは、澪もはっきり分かっている。――征司は紗耶の仕事が一段落するのを待ってから、結婚の話を進めるつもりでいる、と。澪が顔をそむけると、不意に征司と目が合った。征司はその話題に自ら加わることもなければ、進んで否定することもしなかった。紗耶の言葉に込められた意味に気づいていないのか。それとも、分かったうえで好きに言わせているのか。澪はすぐに目をそらし、宇一に声をかけた。「少し見て回ろうか?」宇一はうなずいた。彼も、くだらない話に付き合う気はないようだ。宇一が澪とともにその場を離れていくのを、紗耶は横目で見ていて、再び征司の方を見た。彼は澪たちを軽く一瞥しただけで、すぐに視線をそらした。澪がわざと目の前でほかの男と親しげにしていても、まるで気にしていないようだ。それを見て、紗耶は満足げに眉を上げて笑った。宇一ほどの男が、バツイチの澪に本気になるはずがない。きっと娘のために、文句一つ言わずに尽くしてくれる継母を探しているだけだろう。澪なら、
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第284話

隣にいる紗耶まで、驚いて目を見開いた。聞き間違いではないかと自分の耳を疑っている。宇一の娘があんなにも嬉しそうに澪を「ママ」と呼んだのだ。征司の瞳が暗く沈み、刃のように鋭い視線が澪へ向けられた。それに気づいた瞬間、澪の胸が大きく跳ねた。今日は「ママ」と呼ばないよう、玲衣に言っておくのを忘れていた。征司の射抜くような視線に、澪は背筋まですっかり強張ってしまった。紗耶は信じられない様子で眉をひそめた。「穂積社長、もう娘さんに澪さんのことをママと呼ばせているんですか?ずいぶん早いんですね」紗耶が驚くのも無理はない。宇一は澪を遊び相手にしているだけだと彼女は思っていたのだ。それなのに、自分の娘に澪を「ママ」と呼ばせるとは。まさか本気で澪なんかと結婚するつもりなのか。宇一は紗耶に目を向け、逆に問い返した。「娘に誰をどう呼ばせるかまで、白石さんにご意見でも?」宇一の声は穏やかに聞こえるが、紗耶はなんだか居心地の悪さを覚えた。あまりにも驚いたせいで、つい問い詰めるような口調になってしまったのだ。宇一は説明するつもりなどないらしい。征司を一度見てから、軽く会釈した。「森宮社長、俺たちは先に入らせてもらいますよ」征司の瞳の奥からは、何の感情も読み取れない。澪は彼がどんな表情をしているかなど気にせず、すぐに平静を装い、宇一と一緒に玲衣を連れてその場を離れた。紗耶はまだ信じられない思いでいて、征司の表情を窺いながらゆっくりと言った。「澪さん、本当にあの子の継母になるつもりみたいね……さっきあの子にママと呼ばれてすっかりその気になっているようだけど」もし玲衣が本当に澪に懐いているのなら、宇一は本当に澪を受け入れるつもりなのだろうか?澪はそれほど急いで、次の結婚相手を見つけようとしているのだろうか。自分の身の丈も考えず、次から次へと大物ばかり狙う澪の姿勢が、紗耶には気に入らない。だが今、彼女がそれ以上に気にしているのは征司の態度だ。征司はゆっくりと背を向けた。墨を落としたような暗い瞳には一切の光がなく、ただ極めて冷淡に一言だけ放った。「勝手にすればいい」その態度からは、澪のことなどまるで気にしていないようだった。紗耶は思わず笑みをこぼした。宇一にしても……おそらくは、一時的に血迷っ
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第285話

あるいは紗耶と一緒にいるから、わざと電話に出ないのかもしれない。二人の恋愛ごとに巻き込まれるのは、澪もまっぴらだ。征司は気のない様子で「ああ」とだけ答えた。澪はそれ以上の返事を待たず、本題を切り出した。「離婚届受理証明書をいつ渡せるのか、はっきりした日付を教えて」そこでようやく、征司は澪に目を向けた。澪は彼が何を考えているのかには構わず、話を続けた。「それから、アカリ製薬への二回目の支払いも、早く手配してもらう。プロジェクトを遅らせるわけにはいかないから」今日、澪が征司に確認したいことは、この二つだけだ。彼女はまっすぐ彼を見上げた。「あなたも、離婚届受理証明書をいつまでもおばあ様に握られたまま、離婚のことを白紙に戻されるのは困るでしょ。離婚が成立しない限り、紗耶はいつまでも不倫相手のままよ。あなたたちのことにも、私の今後の予定にも差し支える」すると征司は、相変わらず淡々とした口調で尋ねた。「再婚するのに、離婚を証明する書類が必要なのか?」澪は一瞬、言葉に詰まった。征司は、自分が宇一と一刻も早く結婚できるために、離婚届受理証明書を急いでいると思ったのだろうか。そう思ってくれるなら、むしろ都合がいい。そう思わせておけば、離婚届受理証明書を急いでいる本当の理由が玲衣の戸籍の問題だと知られずに済む。「必要になる場面なんて、いくらでもあるでしょ?」澪はすぐに言い返した。戸籍に関する手続きや再婚、住宅の名義変更、勤務先への届け出など、必要になることはいくらでもある。「いつまでに対応できるのか、はっきり答えて」澪は一歩も引かず、征司に返事を迫った。征司は静かに目を伏せ、澪を見下ろした。だが、彼がまだ何も答えないうちに、曲がり角の向こうから紗耶の声が聞こえてきた。「征司?」彼女は征司を捜しているようだ。征司は少しもためらわず、声のしたほうに歩いていった。自分と二人きりでいるところを紗耶に見られたくないのだろう。疑われそうなことは徹底して避け、紗耶を不安にさせるつもりもないらしい。何よりも紗耶を優先する征司の姿勢は、誰の目にも明らかだ。澪は胸が詰まる思いがした。自分のことはいつも後回しになる。結局、征司からは何の返事も得られず、澪の気分は沈んだままだ。会場に
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第286話

その瞬間、会場のあちこちから悲鳴が上がった。グラスが崩れ落ち、激しい音を立てて砕け散る音がそれに重なった。あまりの出来事で、誰もすぐには反応できなかった。澪はほんの一瞬で、もう避けられないと悟って、本能的に背を向け、頭や顔をかばおうとした。だが、次の瞬間には黒い影がものすごい勢いで飛び込んできて、澪の視界の光を遮った。たくましい腕に抱き込まれ、澪はよく知っている体温を感じた。そして、何か重いものが彼の背中にぶつかり、その衝撃で彼の体がわずかによろめいた。澪も抱きかかえられたまま、前方のソファへともつれ込むように倒れた。澪は反射的に、彼の胸元のシャツをつかんだ。あまりに速すぎる展開で、考える余裕すらなかった。グラスを支えていた大きな台が大理石のテーブルに激しく倒れ込んで、グラスは一つ残らず床に落ち、粉々に砕け散った。鋭い破片が四方へ飛び散り、そこで大きな手が澪の顔を覆い、こちらに飛んできた鋭い破片を受け止めた。目の前にあるその手には、すでにいくつもの傷ができ、血がにじんでいる。それを見て、澪は息をのんだ。驚きに目を見開いた彼女が視線を上げると、いつも冷ややかな征司の黒い瞳とぶつかった。その瞬間――征司の目に凍りつくような冷たさと怒りが走った。何が起きても動じない男が、今はぞっとするほど険しい表情を浮かべている。澪を破片から守った手のひらからは、今も血が流れている。それでも征司は眉をひそめて、澪の全身を素早く見渡した。そして彼女の腕をつかんで立たせた。「怪我はないか?」征司の声は相変わらず冷ややかだった。澪はしばらく耳鳴りがして、呆然としていた。あまりに突然のことで頭が追いつかなかったが、ようやく我に返り、何か言おうとしたそのとき――「征司!大丈夫?」澪がまだ平静を取り戻せずにいるうちに、横から強く押しのけられた。振り向くと、紗耶がすでに征司の前に立ち、心配そうな顔で彼の傷を確かめている。征司も澪も全身に酒を浴び、ひどくみっともない姿になっていた。紗耶は振り返って、怒りをにじませた目で澪をにらみつけた。「征司まで巻き込まれたじゃない!自分が疫病神だと思わないの?」紗耶は激しく腹を立てている。まるで征司の妻にでもなったつもりで、自分を激しく責め立
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第287話

玲衣はしょんぼりとうつむいた。自分のカチューシャを守ろうとしなければ、ママを怖がらせることも、危険な目に遭わせることもなかったかもしれない。そう思うと、玲衣はたまらなく悲しくなった。そして、赤ワインで白いシャツを濡らした征司に目を向けた。「玲衣は何も悪くないよ。テーブルにぶつかったのも、玲衣じゃないでしょう」澪は玲衣の目をまっすぐ見つめ、一言ずつ、はっきりと言い聞かせた。澪の言葉は明らかに、悪いのは玲衣ではなく律樹だと示している。紗耶は険しい顔で澪を見た。「自分が怪我をしたくないからって、どうして征司を引っ張ったの?」その言葉に、宇一の目も冷たくなった。争いが起きそうなのを察知して、彼は澪に安心させるような目を送ると、そっと玲衣の耳を塞いだ。聞き間違えたのかと思い、澪は振り返って、紗耶と正面から視線を合わせた。周囲の人々もようやく我に返り、誰もが先ほどの出来事にひどく怯えている。あれほど高く積み上げられたグラスタワーが倒れてきたのだから、ただ事で済むはずがない。征司が無関係な女性をかばったことに、人々は驚いていた。しかし、紗耶のその一言で、征司が自ら澪を助けたのではなく、澪が無理やり引っ張っただけなのかと思い直した。だから、征司が澪を守ったように見えたのだろうか。紗耶は顔からすっかり笑みが消えていて、責めるような目で澪を見据えた。「征司のシャツ、あなたが引っ張ったせいでこんなにボロボロになってるじゃない。人を巻き込むのはやめてくれない?」その言葉を聞き、周囲にいる人々も征司に目を向けた。確かに、征司の胸元はしわだらけで、シャツもひどく乱れている。だが、目の前の状況は非常に気まずいものである。一方は森宮社長の恋人で、もう一方は穂積社長が連れてきた女性だ。どちらの機嫌も損ねるわけにはいかない。人々が見ていることに気づくと、紗耶は少し口調を和らげ、寛大なふりをして言った。「征司は私のすぐそばにいて、本当は私の手を引いて逃げようとしたの。でも、澪さんが先に征司を無理やり引っ張っていったせいで、私は危うくグラスの下敷きになるところだった。まあ、結果的にはあなたを助けられたんだから、それはそれでよかったと思う。でも澪さん、感謝するどころか、意味ありげな言い方で誰かに責任を押しつけよう
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第288話

紗耶の態度は、後ろ盾がある者の余裕だった。これでは、責任を問い詰めた自分のほうが道化ではないか。何しろ、紗耶には征司という味方がついているのだ。澪の目元に冷ややかな笑みが浮かんで、ゆっくりと征司へ顔を向けた。彼もその視線に気づいたのか、二人は再び目が合った。そのときになって、澪はようやく分かった。先ほど征司が身を挺して助けてくれたのは、男として、とっさに弱い者をかばっただけなのだ。自分が特別だからでも、大切に思われているからでもない。見ず知らずの相手でさえ、善意から助けることはある。七年も夫婦でいた相手ならなおさらだろう。あれが、人として考えるより先に体が動いた結果だったとすれば、今紗耶のためにためらいもなく名乗り出て、施設のオーナーの怒りを収めたのは征司自身の意思だ。自らそうしたいと望んで、考えたうえで紗耶の肩を持った。だから、紗耶もますますいい気になるのだ。澪は、何を言えばいいのか分からなくなった。今さら何を言ったところで、負け惜しみにしか聞こえない気がした。「白石さんの弟さんに代わって責任を取るというなら、森宮社長が弁償するのは当然のことです。白石さんも、森宮社長が後始末をせざるを得なくなったことをご自分への愛情の証しだと喜んでいるわけではありませんよね」宇一が玲衣の手を引いて、ゆっくりと近づいてきた。歩きながらスーツのボタンを外し、上着を脱ぐと、冷えていた澪の肩にかけた。そこで澪は我に返った。自分の服もお酒で濡れている。澪はうなずいて、「ありがとう」と礼を言った。一方、紗耶は宇一の言葉に痛いところを突かれ、浮かべたばかりの笑みが固まった。宇一の言葉には、何か含みがあるように思えてならない。しかし、ここでむきになって否定すれば、かえって余裕のない女に見えるだけだ。しかし、宇一の顔からはわざと嫌味を言っている様子は微塵も読み取れない。征司は視線を落とし、宇一の隣にいる玲衣を黙って見ている。征司の言葉どおりなら、今後は森創がこの施設の宣伝をしてくれる。オーナーにしてみれば、思わぬところで好機が巡ってきたわけだ。彼はさっそく歩み寄って、声をかけた。「ちょうど控室が空いておりますので、森宮社長と白石さんは、そちらでお着替えください。医師もおりますから、ちゃんと診てもらいましょう」
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第289話

一瞬、その場の空気が張り詰めた。澪は何となく違和感を覚えたが、征司にはそれ以上目を向けず、宇一に声をかけた。「そろそろ行こう」宇一も征司から視線を外した。「ああ」玲衣は征司を見ると、きちんとお礼を言った。「おじさん、ありがとうございます」ママにも柴崎おじいちゃんにも、礼儀正しくするように言われている。このおじさんはさっきママを守ってくれたし、律樹も止めてくれたから、お礼を言わなきゃと玲衣は思った。可愛らしい声で「おじさん」と呼ばれ、征司の目元がかすかに動いた。澪と宇一は軽く会釈をして、そのまま外へ歩き出した。少し歩いたところで、突然背後から悲鳴のような声が上がった。するとすぐに、紗耶の叫び声が響いた。「征司?!」澪は一瞬足を止めたが、結局、振り返らなかった。ー宇一と一緒に玲衣を隆一の家に送り届け、澪が征司と暮らす家に戻った頃には、もう遅い時間になっていた。まだ羽織っている宇一の上着は、洗って返さなければならない。自分の服もすっかり汚れてしまっている。澪はシャワーを浴びると、そのまま横になった。その夜、征司は帰ってこなかった。澪もどこにいるのか尋ねようとはしなかった。もう、彼の行き先を詮索できる立場ではない。翌朝。せっかくの週末だ。澪が目を覚ました時、ちょうど森宮家の本家から電話がかかってきた。房江から受話器を渡される。今はもう、美佐子と話すこと自体が苦痛だ。それでも澪はぐっと堪えて電話に出た。「征司はどうして怪我をしたの?入院までしたって聞いたけれど」澪は驚いた。入院?まさかそこまで酷い状態だとは思ってもみなかった。昨日の征司は、そんなふうには見えなかった。痛がるそぶりさえ少しも見せていなかったのに。「まさか、知らなかったの?」美佐子はそう尋ねると、不満げに続けた。「澪、もう少し自分の夫を気にかけなさい。私の耳にまで入っているのに、あなたはまだ家にいるの?病院に行って、少しは征司の世話をしてあげなさい。本当に離婚届受理証明書を受け取りたいなら、意地を張っている場合ではないわよ」澪は眉間を揉んだ。そもそも、昨日の騒ぎを起こしたのは律樹だ。自分だってとばっちりを受けただけなのに、玲衣まで怖い思いをした。他人の心配なんてしている余裕がある
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第290話

その笑い声はひどく耳障りで、嘲りの色を微塵も隠そうとしていなかった。澪はドアノブを握る手に力を込め、振り返った。いつの間にか、背後に蓮が立っている。澪を馬鹿にするような目で見ながら、彼女の手にしている弁当箱には、ことさら視線を注いでいる。澪には、なぜそんな態度を取られるのか分からない。自分は蓮に何か嫌われるようなことをした覚えもないし、揉めたことすらないのに、最近彼の態度は明らかに以前よりも悪くなっている。以前なら、彼はたとえ自分を良く思っていなかったとしても、最低限の表面的な取り繕いはしていたはずだ。今や、取り繕うことすらやめてしまったようだ。「料理を届けただけで、ずいぶんな言い方だね。それなら、お母さんもお父さんに相手にされないのに尽くして、あなたを産んだの?」澪は一歩も引かず、むしろさらに鋭い言葉を返した。何かにつけて人を見下すようなこの人たちの態度に、澪は心底うんざりしている。自分の行動すべてに「品がない」とレッテルを貼られ、徹底的に踏みにじらずにはいられないらしい。だからこそ、彼女も容赦なく言い返すことにした。夫婦の間でさえ、こんなことをしただけですり寄っていると言われるのなら、蓮は世の夫婦すべてを侮辱したことになるではないか。澪が口達者であることは蓮も多少は知っている。ただ、自分がここまで言い返されたことはほとんどない。不意を突かれて、蓮は眉をひそめた。「澪、いくら何でも言いすぎだろう」澪は呆れて、思わず鼻で笑った。「自分で言ったことをそのまま返されただけで傷つくの?そんなにメンタル弱いなら、人のためにでしゃばるのなんてやめたほうがいいよ」蓮の顔色が変わった。澪が、自分が紗耶の「番犬」に成り下がったと言われていることに気づいたのだ。澪はそう言い捨てると、そのままドアを押し開けて病室に入った。改めてノックする気にもなれなかった。この人たちに礼儀を尽くす価値などない。病室に足を踏み入れた途端、思いがけず征司と目が合った。その黒い瞳からは何を考えているのか読み取れない。征司は背中に当てたクッションに気だるげにもたれている。自分と蓮の言い合いが聞こえていたのかどうかは分からない。疲れたような顔で、何事にも関心がなさそうだ。容姿は非の打ちどころもないほど整っているのに、どこか人
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