Todos os capítulos de 捨てたはずの恋人が今さら執着してきますが、僕は自分の道を描く: Capítulo 41 - Capítulo 50

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第四十一話

ふと、圭は夢を見た。本当に眠かったのだろう。すぐ夢と分かった。 海斗のような時差ぼけはない。それでも、日本へ戻るまでの慌ただしさや新しい生活への緊張で、身体の奥には疲れが残っていた。 だからだろうか。眠りに落ちた圭は、深いところへ引き込まれていった。 これは……夢だ。すぐにそう分かっていた。 そこは、現実にはないような、ふわふわとした空間だった。 自分がどこかで眠っている。けれど、自分の意思では動いていない。 身体は勝手に動き、決められた場所へ進んでいく。 まるで、自分自身が映画の中に入り込んで、その映像を外側から見ているようだった。 圭は周囲を見回した。そして気づく。 ……ここは、今じゃない。今の夢を見ているわけではないんだ。 過去だ。過去の場面だ。 覚えのある空気。覚えのある匂い。 圭は作業着を着ていた。まだ真新しい。ヘルメットもかぶっている。 周囲には大勢の作業員がいて、建物の骨組みが姿を現している。 「……ここは」 美術ホールの別館。自分のデザインが採用され、建築が進んでいた頃だ。 毎日のように現場へ足を運んでいた。夢の中の圭は、軽い足取りで歩いている。 右手も自由だった。その右手で資料を持ち、指示を出し、時には作業員に声をかける。 何の不自由もない。 その光景を見ている圭の胸がざわついた。 「……ダメだ」 声にならない声が頭の中に響く。 「ダメだ、進むな……」 けれど、身体は止まらない。 まるでフィルムが決められた速度で回り続けるように、時間は進んでいく。 天気のいい日だった。青空が広がっていた。 ところが突然、空が暗くなった。激しい雨が降り出す。 風まで強くなり、現場は一時騒然となった。 やがて雨は嘘のように上がった。空には再び陽が差し込む。 「変な天気だな」 誰かが笑った。 圭も周囲の人間に挨拶をされ、それに応える。 いつもと変わらない。何も変わらない一日。 ……そのはずだった。 圭の鼓動が少しずつ速くなる。 「……ダメだ」 分かっている。この先に何が起こるのか。 身体が覚えている……空気。匂い。風の流れ。 そして、あの時の感覚。ふと左手の時計を見る。 午後一時半を少し過ぎた頃。昼休憩が終わったばかりだっ
last updateÚltima atualização : 2026-08-25
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第四十二話

肌が汗ばんでいることに気づき、圭はシャワーを浴びようとベッドから起き上がった。 身体が重い。 まるで本当にあの場所にいたかのように、全身に疲労感が残っていた。 夢なのに、妙に生々しかった。 「……なんで、あんなに……」 圭は額に手を当てた。夢の中の空気も、雨の匂いも、木材が落ちてくる音も。周囲の人間の声。足元の感覚。 そして……右手に走った、あの痛みまで。 まるで身体が記憶していたものを、もう一度再生されたようだった。 でも初めて見る夢ではない。 これまでも何度か、あの日の夢を見たことはあった。 けれど、いつも決まっていた。 木材が右手に落ちる。その瞬間に目を覚ます。 痛みと恐怖だけが残る。それがいつもの夢だった。 今回も、きっとそうだと思っていた。 けれど違った。事故が起こる前の時間まで、はっきりと覚えていた。 宙と話していたこと。空の色。突然変わった天気。周囲の人たちの声。 ……そして、事故が起きた瞬間。 その後の病院。白い天井。動かない右手。自分の名前を呼ぶ声。 そして……ベッドの横で泣きじゃくる宙。 「……僕は、あの言葉を受け取って……宙のそばにいるようになったんだっけな」 圭は小さく呟いた。 あの時の宙の顔は、今でも覚えている。普段の強気な態度とはまるで違っていた。 泣いていた。何度も自分の名前を呼んでいた。 そして、「俺が面倒を見る!その手……俺のせいだから」 そう言った。 あの言葉が、当時の圭には救いだった。 自分の生活も。仕事も、これからの人生も。何もかも失ったと思っていた時だったから。 宙が手を差し伸べてくれたことが、本当にありがたかった。 だから圭は、その手を取った。その先に何が待っているのかも知らずに。 圭は小さく息を吐いた。 「……今なら、少し違って見えるのかな」 けれど、まだ答えは出せなかった。浴室へ向かおうとリビングへ出る。 すると、そこには海斗がいた。 ソファに座り、ノートパソコンを開いている。 仕事をしているのかと思ったが、画面を覗き込んだ圭は少し驚いた。 「無理しすぎだよ。疲れたでしょ」 「大丈夫。仕事じゃないから」 「え?」 海斗が画面を少しこちらへ向ける。 「圭の病院のことを調べてた
last updateÚltima atualização : 2026-08-26
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第四十三話

事故の後、宙が自分を助けてくれたことまで否定することになるような気がした。 「圭」 海斗の声で我に返る。 「……うん」 「無理に今、答えを出さなくていい」 海斗は圭の顔を見ていた。まるで考えていることが分かっているようだった。 「まずは先生に会ってみよう。それからでいい」 「……うん」 圭は小さく頷いた。 それでも右手が震え始めた。指先から手首へ。小さな震えが少しずつ広がっていく。 海斗は何も言わず、その手の上からそっと自分の手を重ねた。 「……まずは、会ってみよう」 「うん……」 圭はもう一度頷いた。けれど震えはなかなか収まらない。 「すまない。君も疲れているのに」 「大丈夫だよ」 海斗は立ち上がった。 「温かいミルクでも飲むか?」 「……うん」 「じゃあ、ちょっと待ってろ」 海斗がキッチンへ向かう。 圭は一人になったテーブルで、もう一度画面を見る。 新城医師の専門分野。そこに並んだ言葉を、ゆっくり読み返した。 デートDV。モラハラ。精神的支配。 それらの言葉を、今まで自分の人生と結びつけて考えたことはなかった。 けれど……。 少なくとも、何かを確かめる必要はあるのかもしれない。 知らないままにしておくことが、本当に自分を守ることなのか。 圭は画面を閉じた。 「お待たせ」 海斗が戻ってきた。両手で温かいミルクの入ったカップを持っている。 「ありがとう」 圭は両手でカップを受け取った。 一口飲む。 温かさが身体の中へゆっくり広がっていく。さっきまで強張っていた肩の力が、ほんの少し抜けた。 すると、背後から海斗の腕が回った。突然だったが、不思議と驚かなかった。 「大丈夫だよ、圭」 背中に伝わる体温。 「時間がかかってもいい」 海斗の声は静かだった。 「君が自分の心を取り戻せるように、一緒にやっていこう」 「……海斗さん」 圭は目を伏せた。その言葉が胸に沁みた。 心を治す。傷を消す。 そう考えていたけれど。 もしかしたら、取り戻すというほうが近いのかもしれない。 事故の前の自分。 宙と出会う前の自分。 そして、本当はずっと心の奥にいた、自分自身。 それを少しずつ取り戻していく。 そんな治療になるのかもしれ
last updateÚltima atualização : 2026-08-26
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第四十四話

 ハッと、圭は目を覚ました。 目に入ったのは、自分の部屋の天井だった。 「……?」 ぼんやりと瞬きをする。カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいる。 朝……。 圭はゆっくり身体を起こした。 だが、すぐに違和感に気づく。 「……あれ?」 さっきまでリビングにいたはずだった。海斗と一緒に病院について話していた。新城という心療内科の医師のこと。 海外で診てもらっていた医師との連携。 そして温かいミルクを飲んだ。海斗に後ろから抱きしめられて……。 そこまで思い出して、圭は眉を寄せた。 「……待って」 その先がない。どうやって自分の部屋に戻ったのか。ベッドに入った記憶もない。 そもそも…… 「一回夢を見て……起きて、汗をかいて……シャワーを浴びようとして……リビングに行った?」 圭は頭を押さえた。 「……あれも夢?」 混乱する。 そして、もう一つ。隣を見る。 そこには海斗が眠っていた。 「……え?」 思わず固まる。海斗もリビングにいたはずだ。 自分と一緒に病院のことを話していた。なのに、なぜ今、自分の部屋で寝ているのだろう。 もちろん、海斗が隣で寝ていること自体は嫌ではない。 海外で暮らしていた二年間も、仕事や体調の関係で同じ空間で眠ることはあった。 先日の京都旅行でも、同じベッドだった。 だから、今さら隣で寝ていることに驚く必要はない。 それでも自分が眠りに落ちたところから記憶がすっぽり抜けていることが気になった。 圭はそっとベッドから出る。 カーテンを開けると、朝の日差しが一気に部屋へ入り込んだ。 「……朝か」 その光に反応するように、隣で海斗が身じろぎした。 「……ん……」 しばらくして、海斗が目を擦りながら身体を起こす。 「おはよう……圭」 「おはよう」 海斗は特に驚く様子もなく、いつもの朝のように挨拶をした。 その自然さに、逆に圭のほうが戸惑う。じっと海斗を見つめていると、海斗が苦笑した。 「なんだよ、朝から」 「え?」 「顔に何かついてるか?」 海斗は自分の頬を触る。 「目ヤニとか?」 「それじゃなくて」 圭は少し笑った。 「この状況……というか。海斗さん、なんでここで寝てるのかな
last updateÚltima atualização : 2026-08-27
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第四十五話

「そろそろ朝ごはん作るか」 海斗が布団から出ようとする。 「今日も仕事だぞ」 「そうでしたね……」 圭も起き上がる。 「僕、味噌汁と焼き魚がいいです」 「和食だな」 「日本に帰ってきたばかりですから」 「じゃあ僕は目玉焼きにしようかな。ハムとベーコン、どっちがいい?」 「……ベーコン」 「即答だな」 「好きなので」 「分かった。ベーコンな」 海斗が立ち上がろうとする。しかし圭はまだベッドの上にいる。 「……」 「圭?」 「はい」 「まだ眠いのか?」 「いや、たくさん寝たと思うんですけど」 「じゃあ、なんで出てこないんだ?」 「……」 圭は少しだけ布団を握った。海斗も何となくその気持ちを察したのか、時計を見る。 「……あと十五分くらいならいいか」 「え?」 「ちょっとくらいダラダラしても」 「ダラダラタイム?」 「ああ。僕もまだ眠い」 海斗がもう一度布団に入る。圭も笑って隣に横になった。 「……いいですね。十五分だけ」 「十五分だけな」 二人で天井を眺める。何をするわけでもない。 話すこともない。ただ隣にいる。 それだけなのに、不思議と心が落ち着いた。圭は目を閉じる。 そして……ふと、過去の朝を思い出した。 宙と暮らしていた頃。朝起きたら、まず宙の機嫌を確認した。まだ眠っているのか。起こしても大丈夫なのか。何か気に障ることをしていないか。 物音を立てないように。機嫌を損ねないように。そんなことばかり考えていた。 そして、もし宙の機嫌が悪ければ。 その日の朝から、圭は宙の感情に振り回された。 自分がどうしたいかなんて考える余裕はなかった。ただ、宙がどうしたいのか。それだけだった。 圭は強く目を閉じる。 「……違う」 小さく呟いた。海斗が横を見る。 「どうした?」 「……なんでもない」 圭はゆっくり目を開ける。ここは違う。今は違う。 隣にいるのは宙ではない。海斗だ。自分の機嫌を取らせることもない。 自分の意思を奪うこともない。ただ隣にいて、一緒に笑っている。海斗の手が伸びてきて、圭の髪を軽く撫でた。 「……眠そうだな」 「少しだけ」 「十五分だけだからな」 「分かってます」
last updateÚltima atualização : 2026-08-27
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第四十六話

その頃、宙はまだ眠っていた。 寝室には厚いカーテンが閉められ、朝の光はほとんど差し込んでいない。 ベッドの両側には、昨晩から一緒にいた若い男たちが眠っていた。二人とも深い眠りに落ちているようで、目を覚ます気配はない。 部屋には、脱ぎ散らかされた衣服や空になったグラスなどが残されていた。 静かな部屋。時計の針だけが、淡々と時間を刻んでいる。 そんな中……。 「……う……」 宙が小さく声を漏らした。眉間に皺が寄る。 「……違う……」 眠っているはずなのに、何かに怯えるように顔を歪める。 「……圭……」 その名前を口にしたところで、身体がびくりと動いた。 「……宙さん?」 隣で眠っていた男の一人が目を覚ました。 まだ眠そうな目で宙を見る。 「宙さん、大丈夫?」 肩に触れようとしたが、宙は反応しない。 「……う……あ……」 苦しそうな声だけが続く。もう一人も物音に気づき、身体を起こした。 「どうした?」 「宙さん、なんかうなされてる」 二人は顔を見合わせた。 「……無理に起こさないほうがいいんじゃないか」 「でも……」 「起こしたら余計に機嫌悪くなるかもしれないし」 その言葉に、もう一人も黙った。昨晩の宙は、いつも以上に荒れていた。 機嫌が悪いというより、何かに苛立ち続けているようだった。 酒が入っていたこともある。けれど、それだけではない。 何度も誰かの名前を口にしていた。そのたびに、二人には何のことなのか分からなかった。 「……もう帰ろう」 「うん」 二人はベッドから離れ、散らかった部屋の中から自分たちの衣服を探した。 その途中、一人が腰を押さえる。 「……痛っ」 「大丈夫か?」 「まあ……ちょっとな」 「病院、行ったほうがいいぞ」 「……そうする。学校が終わったら行く」 「それがいい」 二人は身支度を整える。 玄関へ向かう前、片方がもう一度寝室を振り返った。 「宙さん、まだ寝てるな」 「……放っておこう。今は起こさないほうがいい。また機嫌悪くなったら何をしでかすかわからないぞ」 「うん……」 「金さえもらえればいいんだから良い関係持たないとな」 静かにドアが閉まる。 部屋には、宙だけが残された。それでも宙の表情は険しいままだった
last updateÚltima atualização : 2026-08-28
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第四十七話 番外編 渉の場合1

窪木渉、大学二年生。 上京してきて一人暮らしを始めて、もう二年目になる。 経済学部に通いながら、親からの仕送りでなんとか生活している。 家賃にガス、水道、電気代。 最低限の生活費はどうにか賄えているものの、都会で暮らす学生には、それ以外にも何かと金がかかる。 昼食代。教材費。友人との付き合い。 そして、大学生らしい遊びにもそれなりに出費がある。 「……都会って、思ったより金かかるな」 渉は一人暮らしの部屋で財布の中身を確認しながら、何度そう思ったことか。 実家にいた頃は、電気代がいくらだとか、食費が一食いくらかかるだとか、そんなことを真剣に考えたことなどなかった。 コンビニで飲み物を買う。大学帰りに友人と飯を食う。気になった服を買う。 たったそれだけのことでも、積み重なれば結構な金額になる。 しかも東京にいると、周りがみんな少しだけおしゃれに見える。 地元にいた頃なら普通だと思っていた服装でも、大学ではなんとなく浮いているような気がする。 別に誰かに何かを言われたわけではない。それでも、気になってしまう。 大学生というのは、そういう妙なところで見栄を張ってしまうものなのかもしれない。 高校時代はテニス部だった。 大学に入ってからも、その経験を活かしたいと思い、テニスサークルに入った。 大学生活といえばサークル。サークルといえば、仲間と楽しくテニス。 そんな程度に考えていた。 ところがこれが、思っていたものとかなり違った。 テニスよりも、合コン。練習よりも、飲み会。試合よりも、男女の出会い。 いわゆる「出会い系サークル」と呼ばれるような雰囲気だった。 最初の新歓で、なんとなく違和感はあった。 しかし、大学に入ったばかりで右も左も分からない。 「まあ、大学のサークルなんてこんなもんか」 そう思って、そのまま入ってしまった。 入部してしばらく経ってから、ようやく自分が思っていた「テニスサークル」とは少し違うことに気づいた。 入る前に、もっとちゃんと調べておけばよかった。そう思ったところで、もう遅い。 とはいえ、今さら別のテニスサークルを探して入り直すのも面倒だった。 特別仲のいい友人ができたわけでもない。かといって、辞めるほど嫌なわけでもない。 たま
last updateÚltima atualização : 2026-08-28
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第四十八話

とある日のことだった。 いつものように、テニスサークルのグループチャットに飲み会の誘いが入っていた。 《今日空いてるやつ集合!》 《おいー!渉も来いよ》 《てか渉、最近付き合い悪くね?》 画面を眺めながら、渉は小さくため息をついた。 「悪い、今日バイト」 短く返信する。 《また?》 《ほんっとー、ノリ悪いなー》 《せっかくの華金なのに》 次々とメッセージが飛んでくる。 「華金って……大学生に関係あるのかよ」 スマホをポケットにしまい、渉は大学を出た。 サークルの連中は、これからどこかの店で飲むのだろう。 女子たちは気に入られようと男子に媚び、男子たちはそれを見て調子に乗る。 そんな光景を少し離れたところから見ていると、渉はどうにも疲れてしまう。 別に嫌いなわけではない。ただ、自分には合わない。 だから今日も、そんな場所ではなくバイト先へ向かう渉にとっては、そのほうが気楽だった。 バーレストランには、本当にいろいろな客が来る。 普通に大学生活を送っているだけなら、まず出会わないような人間も珍しくない。 大手からそうでもない様々な会社員。どっかの経営者。芸能関係者。大学教授らしき人。外国人の客。 中には、誰が見ても「この人、普通の会社員じゃないだろ」と思うような雰囲気の人物までいる。 先輩から聞いた話では、ここで働いていたOGが、たまたま来店した企業の重役と話をしたことをきっかけにインターンへ誘われ、そのまま就職したこともあるらしい。 芸能関係者に声をかけられて、モデルや役者になった人もいる。 実際、今では準主役級としてドラマに出ている俳優が、昔この店で働いていたという話も聞いたことがあった。 「世の中、何がきっかけになるか分からないよな」 先輩はそう言っていた。 だが、渉にはあまり関係のない話だった。芸能界にも興味はない。名前を出されても有名人にも疎い。 そもそも、テレビをほとんど見ないので、目の前に芸能人が座っていても気づかないことすらある。 渉にとって大事なのは、ここが落ち着いて働ける場所だということだった。 夜の店。照明は少し落とされている。 客の話し声も、店内に流れる音楽に混ざってほどよく聞こえる。 昼間の大学とは違う。誰かに合わせて笑う必要も
last updateÚltima atualização : 2026-08-28
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第四十九話

(VIPがこういうの頼むの、珍しいな) 少し意外に思いながら、個室の扉を開ける。 「失礼します。お待たせしました」 「おう、来たか」 中にいたのは、一人の男だった。黒のスーツ姿。 年齢は三十代くらいだろうか。 落ち着いた雰囲気を漂わせているが、すでにワインのボトルが二本、テーブルの上に並んでいた。 そして、その隣には若い男が一人。顔を赤くしていて、シャツの襟元も少し乱れている。 (もう二本開けてる……) 渉は内心で驚いた。料理もほとんど手をつけていない。 隣の若い男は酒ではなく、ソフトドリンクらしい。 「テーブルに適当に置いてくれ」 「……はい」 適当に、というのが一番困る。渉は空いている場所を探し、料理を置いた。 そのときだった。 ふと視線を向けると……二人がキスをしていた。 「……」 渉は何も思わなかった。この店には個室もある。 カップルが利用することも珍しくない。 少し親密な客がいても、いちいち気にしていたら仕事にならない。 見なかったことにして、テーブルの上の空いたグラスを確認する。 すると……。 「君」 「はい?」 「綺麗な顔してるね」 突然、スーツの男から声をかけられた。 「……ありがとうございます」 渉は営業用の笑顔を作った。ホストクラブではない。ここはあくまで飲食店だ。 客から声をかけられることはたまにあるが、余計な会話はせず仕事をする。 そう思っていた。 「もう少し、こっちを見せてくれないか」 「……はい?」 渉は仕方なく男のほうへ顔を向ける。男はじっと渉を見つめた。 隣にいた若い男が、渉を睨んでいる。 ……なんだ? 嫉妬でもしているのだろうか。 「綺麗な顔をしているな。オールバックにしても、その顔立ちが分かるとは……」 男は興味深そうに渉を見る。 「君、名前は?」 渉は胸元のネームプレートを見る。 店員のプライバシー保護のため、そこに書かれているのは一文字だけだ。 「……渉です」 「渉、か」 男は満足そうに頷いた。そして、胸ポケットから名刺を取り出した。 「俺は……こういう者でね」 差し出された名刺を、渉は受け取った。 「宙、と呼んでくれ」 「宙さん……」 名刺には、有名企業の系列グループ名
last updateÚltima atualização : 2026-08-29
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第五十話

とある日のことだった。バイトの休憩時間のことである。 バックヤードの隅にある小さな喫煙スペースで、渉は煙草をくわえていた。プハーッと煙を出す。もう慣れたもんである。 もともと煙草を吸うつもりなんてなかった。吸うものではないと思った。 高校時代なら、煙草を吸っている同級生を見ても「あんなもの身体に悪いのに」と思っていたくらいだ。 けれど、大学に入って東京へ出てきてから、少しずつ考え方が変わっていった。 テニスサークルでは煙草を吸う人間が多かった。 喫煙所に集まれば、講義の情報や試験の過去問、教授の癖、飲み会の話など、いろいろな情報が飛び交う。 そこにいなければ、知らないままになることも多い。だから渉も、いつの間にか煙草を覚えていた。 ……こんな都会に馴染む。 それだけのために、身体に良くないものまで取り入れる。 上京してきた学生の中には、渉と似たようなことをしている人間も少なくなかった。 田舎にいた頃なら必要なかったもの。 でも、ここではそれが人間関係を作るためのきっかけになる。 渉も、その一人だった。もっとも、家では絶対に吸わない。そんな余裕はない。 一箱買えば、それだけで昼飯何回分かが消える。 「……高いんだよな、煙草」 渉は小さく呟きながら煙を吐いた。バイト先でも似たようなものだった。 吸う人間と吸わない人間。 完全に分かれているわけではないが、休憩時間に喫煙所へ集まるメンバーには、なんとなく独特の繋がりがある。 今夜、一緒にいるのは二つ年上の大学院生――明先輩だった。 明先輩は渉がこのバイト先で一番よく話す相手でもある。 東京育ちということもあって、渉からすると何となく垢抜けて見える。 ワンレンボブという少し独特な髪型も本人によく似合っている。 服装もおしゃれで、話し方にも妙な余裕がある。 ただ、個性もかなり強い。 渉は最初こそ少し苦手だったが、付き合ってみると面倒見のいい先輩だった。 「そういえば、明先輩」 「ん?」 渉はポケットから一枚の名刺を取り出した。 「こんなの、前にもらいまして」 「名刺?」 明先輩が覗き込む。 「この前、VIP席にいた客から」 「ああ?」 明先輩は名刺を受け取り、表と裏を確認した。 そこには
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