All Chapters of 捨てたはずの恋人が今さら執着してきますが、僕は自分の道を描く: Chapter 51 - Chapter 60

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第五十一話

 あれから一ヶ月。 渉は大学の試験に追われていた。 講義に出て、ノートをまとめ、過去問を探して、空いた時間があれば図書館へ行く。 単位を落とすわけにはいかなかった。 親から仕送りをもらって大学へ通わせてもらっている以上、遊んでばかりいるわけにもいかない。 そのため、バイトにもほとんど入れなかった。 週一回。それが、この一ヶ月の渉にとって唯一のバイトの日だった。 久しぶりに店へ来た渉は、休憩時間になると賄いを食べた。「うま……」 思わず声が漏れる。久しぶりにまともな食事をした気がした。 試験期間中は食費すら惜しくなって、コンビニのおにぎりやパンで済ませる日も多かった。 それだけに、店の賄いはありがたい。 温かい料理を腹に入れると、ようやく身体の奥から力が戻ってくるようだった。「おい、例の……宙さんが来てるよ」 突然、明先輩が顔を出した。「……え?」「宙さん」 その名前を聞いた瞬間、渉の箸が止まった。 チーフもこちらを見る。 どうやら明先輩から、渉があの男から名刺をもらったことを聞いているらしい。 ……言わないでほしかった。 そう思ったが、今さらだった。こういう話は広まるのが早い。「さっき俺が水を持っていったんだけど、今日は一人だ」 明先輩がニヤニヤする。「それで、渉を呼んでくれって」「……僕を?」「おい、指名じゃんかよ」 明先輩が肘で渉の膝をぐいぐい押してくる。「いや、その……」 渉は困った。 あれから一ヶ月。 結局、宙の家には行かなかった。 連絡もしなかった。事実上、無視していたようなものだ。「何度か来ていたみたいだぞ」 チーフが言った。「……そうなんですか」「ああ」 渉は少しだけ気まずくなった。それでも、今さら逃げるわけにもいかない。 チーフは渉の肩を軽く叩いた。「まだ君は学生だ。何かいいきっかけになるかもしれない」「……」「可愛がってもらいなさい」 その言葉に押されるように、渉は立ち上がった。 制服の襟元を整える。深く息を吸う。 仕事だ。ただ、それだけだ。 そう自分に言い聞かせて、VIP席へ向かった。 ドアの前で一度だけ姿勢を正す。そして、ゆっくりと扉を開けた。「失礼します」「……ようやく会えたね」 そこには宙が一人で座っていた。 以前のように、隣に若い男はいな
last updateLast Updated : 2026-09-01
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第五十二話

 その夜。 宙は渉の退勤時間まで待っていた。店を出ると、すでにタクシーが用意されている。「乗りなさい」「……はい」 渉は後部座席に乗り込んだ。窓の外を眺める。 高層ビル。煌々と輝く看板。夜でも明るい街。 田舎では見たことのない景色が次々と流れていく。 やがてタクシーは、高級マンションが立ち並ぶ一角で止まった。「ここ……?」「ああ」 宙が先に降りる。渉も続いた。 マンションの中へ入り、エレベーターに乗る。扉が閉まる。 ふたりきりになった。思ったよりも狭い。 いや、正確には狭く感じる。宙との距離が近い。 渉は無意識に一歩後ろへ下がった。 すると宙が、その距離を詰めるように腕を伸ばした。「……」 身体が触れる。香水の匂いがした。 店では気づかなかった、少し甘い香り。渉は戸惑いながら顔を上げた。 エレベーターのガラス越しに、東京の夜景が見える。 無数の光。まるで街そのものが星空になったようだった。「……綺麗」「夜景が?」「……はい」 宙は渉を見る。「君の瞳も綺麗だよ」「……」 じっと見つめられる。その視線に、渉はまた身体を固くした。「……代わりになるな」「え?」「なんでもない」 宙が笑った。そして、不意に渉の唇へ自分の唇を重ねた。 温かかった。微かにワインの味がする。 渉は驚いた。けれど、なぜか拒むことができなかった。 むしろ……胸の奥に張り詰めていた何かが、ぷつりと切れた。 涙が頬を伝う。「……え?」 自分でも、なぜ泣いているのか分からない。「なんで泣いてるんだい?」「……なんでも、ないです」 宙の親指が、右目から流れた涙を拭った。「今夜は泊まれるかい?」「……」「まあ、ここから帰るのも大変か」 返事をする前に、エレベーターが止まった。 扉が開く。 渉はしばらく動けなかった。そして、小さく答えた。「……はい」 部屋に入る。広い玄関。広いリビング。大きな窓。そして、カーテンの向こうに広がる東京の夜景。 明かりをつけなくても、街の光だけで部屋の輪郭が分かるほどだった。「……すごい」 渉は思わず呟いた。 自分が暮らしている部屋とは、何もかも違う。けれど、景色に見惚れている暇はなかった。 背後から宙の腕が回ってきた。「君、地方出身だろ?」「……はい」「都会に慣れようと
last updateLast Updated : 2026-09-02
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第五十三話

「ああっ……」 広いベッドの上に、渉は乾き切っていない身体をうつ伏せに押し倒された。 まだ浴室の温もりが身体の芯に残っている。 髪の先からは、わずかに水滴が落ちていた。首筋や肩にもまだ湿り気が残り、シーツに触れた肌がひやりとする。 その上から宙が覆い被さる。温かい。 身体と身体の距離が近くなり、渉は思わず息を止めた。 身体がベッドに沈む。 その瞬間、ふわりと甘酸っぱい香りが立ち上った。 自分の身体からも、同じ香りがする。 渉は少しだけ顔を横に向け、自分の腕に鼻を近づけた。「……」 知らない香りだった。甘いけれど、ただ甘いだけではない。 どこか爽やかで、それでいて肌に残るような柔らかさがある。 香水のようでもあり、石鹸のようでもある。 渉が今まで使ってきた安い石鹸とは、明らかに違った。 自分からこんな匂いがする。 その事実が、妙に現実感を失わせていた。 シーツにも、その香りが残っている。ふっと鼻先をくすぐる。 それだけで、さっきまでいた浴室の光景が鮮明に蘇ってきた。 宙の浴室は、渉がこれまで使ってきたものとは何もかも違っていた。 広いバスタブ。 身体を伸ばしても余裕のあるほどの大きさ。 そして、浴室全体を満たしていた高級な香水のような香り。 渉は最初、落ち着かなかった。 こんな場所に自分がいることそのものが場違いに思えた。 けれど宙は、そんな渉を急かさなかった。 バスタブの中で、渉の身体を丁寧に洗ってくれた。泡を立てて、ゆっくりと。肩から腕へ。 背中へ……そして……疲れて力の抜けた身体を労わるように。 渉は、されるがままになっていた。恥ずかしさはあった。 けれど、それ以上に不思議な感覚だった。 誰かにこんなふうに世話をされることなんて、ほとんどなかったからだ。 いつもならシャワーだけで済ませている。 だから、身体を洗ってそれで終わり。 使っている石鹸だって、近所の店で安く買ったものだ。 香りなど気にしたこともなかった。風呂は身体を綺麗にするためのもの。 ただ、それだけだった。 けれど、この浴室にいると、それすら違って感じられる。 石鹸も。シャンプーも。浴槽も。タオルさえも。 何もかもが、自分の知っているものとは違う。そして何より、肌に残ったこの香り。 湯から上がったあとも消えず、身体を包み
last updateLast Updated : 2026-09-03
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第五十四話

 渉はうつ伏せになった。 けれど、胸の奥で激しく鳴っている心臓は、なかなか落ち着いてくれなかった。 身体の内側まで熱を持っているような感覚がする。呼吸を整えようとして、ゆっくり息を吸う。そしてふぅ、と吐く。 それでも鼓動は耳のすぐそばで鳴っているように大きく感じられた。止まらない、激しい鼓動が。 そして、その熱を感じているのは渉だけではなかった。 背中越しに、宙の体温が伝わってくる。すぐ近くにいる。 その事実を意識するだけで、また心臓が大きく跳ねた。 渉は目を閉じた。 久しぶりだった。こんなふうに、人の温もりに包まれるのは。 東京へ出てきてから、ずっと一人だった。 大学でも、サークルでも、バイトでも、それなりに人と話してきた。 それでも、自分の弱さを預けられるような場所はなかった。 だからなのかもしれない。 今になって、堪えていたものが一気に込み上げてきた。 目の端から、涙がこぼれる。「……」 頬を伝って落ちた涙が、シーツに小さな跡を残した。「大丈夫かい?」 渉は答えようとした。けれど、声が出てこない。 何が大丈夫なのか、自分でも分からなかった。 苦しいわけではない。怖いわけでもない。 ただ、今まで張り詰めていたものが、少しずつほどけていく。 その感覚に、自分自身が戸惑っていた。 しばらくしてから、渉は小さく頷いた。「……はい」 ようやく、それだけを返す。声は少し震えていた。それでも息はできる。 さっきまで速かった心臓の鼓動も、少しずつ普段の速さへ戻っていく。 大丈夫。 そう自分に言い聞かせるように、もう一度ゆっくり息を吐いた。 すると、宙の手が渉の手を探すように伸びてきた。 指先が触れる。そして、そのまま手を握られた。「……っ」 途端に、また鼓動が速くなる。 さっきまで落ち着きかけていたはずなのに。胸の奥が大きく跳ねる。渉は握られた手を見つめた。 その手の温かさが、妙に鮮明だった。 宙は何も言わない。ただ、手を握っている。その温もりを感じながら、渉は目を閉じた。 まだまだ……。 まるで、身体のほうがそう告げているかのようだった。 まだ、完全には落ち着けない。まだ、この温もりに慣れるには時間が必要なのだと。 それでも渉は、その手を振りほどかなかった。ゆっくりと渉は仰向けになり宙と目を合わ
last updateLast Updated : 2026-09-04
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第五十五話

 朝、渉は目を覚ました。ぼんやりと天井を見上げる。 しばらくして、自分が何も身に纏っていないことに気づいた。少し体が冷えてる。「……」 昨夜のことが、一気に頭の中へ戻ってくる。 渉は思わずシーツを少しだけ引き上げた。何をしたのか、ちゃんと覚えている。頭でも身体でも。少し身体に痛みもある。 ただ、覚えているからこそ、どう受け止めればいいのか分からなかった。 初めて会ったのは、あのバーだった。 名刺を渡されて。家に来ないかと言われて。一ヶ月近く断った末に、昨日ようやくついてきた。 そこまでは、自分でも分かる。 でも……。昨夜、自分は何を求めていたのだろう。 ただ疲れていた。大学のこと。サークルのこと。バイトのこと。都会で一人で暮らしていくこと。 何もかもが思っていたより大変で、それでも弱音を吐ける相手なんていなかった。 そんな時に、宙は自分のことを見透かすようなことを言った。 「無理するな」と。 その言葉が、思った以上に胸に響いた。そして抱きしめられて。激しくキスをされて。 気づけば、張り詰めていたものが切れたように涙が出ていた。 あれほど泣いたのは、いつ以来だっただろう。宙は微笑んで泣いていいと言った。 その言葉に甘えてしまった。 だから、その先のことも……。渉は顔を覆った。「……俺、何やってるんだろ」 後悔しているわけではない。少なくとも、今のところは。 けれど、手放しで嬉しいとも言えなかった。自分は宙のことをほとんど知らない。 どうしてあんな場所にいて、なぜ自分に声をかけたのかも。 それなのに、一晩でこんなにも距離が近くなってしまった。 それが怖い。同時に……少しだけ嬉しい。 その二つの感情が、渉の中でぐちゃぐちゃに混ざっていた。 ふと隣を見る。そこにはもう誰もいない。「……宙さん……どこ?」 そう呟いた瞬間、胸の奥が妙にざわついた。 昨夜はあれほど近くにいたのに。重なり合った肌、温かい温度、心臓の鼓動……。 朝になると、一人だった。まるで夢だったような気さえする。 けれど、身体には確かに昨夜の名残がある。 ドレッサーに映った自分の顔は、寝癖だらけで、目の周りも赤い。 あくびが出る。喉も渇いている。そのせいか声が枯れている。 鏡に映った自分は情けない姿だ。 それなのに、鏡の中の自分を見ていると
last updateLast Updated : 2026-09-05
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第五十六話

 床に落ちていた自分の下着を見つけ、渉はそれを拾い上げて身につけた。 まだ身体には昨夜の余韻が残っている。立ち上がると、少し足取りが重かった。 眠ったはずなのに、身体の奥には妙な疲労感が残っている。 それでも、今はとにかく水が飲みたかった。 喉がひどく渇いている。渉は部屋を出て、リビングへ向かった。 朝の室内は静まり返っていた。 昨夜は宙がいて、話し声も、足音も、何もかもが近くにあった。 それなのに今は、広い部屋に自分一人しかいない。宙がいないだけで、こんなにも静かなのか。 渉はそんなことを思いながらキッチンへ向かった。 冷蔵庫を開ける。 中には飲み物や食材が整然と並んでいた。 見たことのないメーカーの飲み物。高そうな調味料。どれも、自分の一人暮らしの冷蔵庫とはまるで違う。 その中から、ラベルに「WATER」と書かれたペットボトルを見つけた。「これ……かな」 蓋を開け、そのまま口をつける。 ごく、ごく、と喉を鳴らして飲んだ。冷たい水が、乾ききった喉を通っていく。 あまりにもおいしく感じて、気づけば一本をほとんど一気に飲み干していた。「……はぁ」 そして、水を飲んだことで今度は空腹を自覚する。 冷蔵庫の中には、いくつか食材がある。 冷凍庫を開ければ、電子レンジで温めるだけで食べられそうな冷凍食品もいくつか入っていた。 パッケージを見るだけでも分かる。……高そうだ。「……」 渉はしばらく、その冷凍食品を見つめた。 食べてもいい。 宙のメモには、はっきりそう書いてある。飲み物や食べ物は好きにしていい。 それでも。「さすがに、これは……」 初めて来た家で、勝手に高そうなものを食べるのは気が引けた。 もう一度冷蔵庫を眺める。 すると、端のほうにバナナが何本か置いてあるのが目に入った。「……これなら」 渉は一本取り出してかじった。「……うまい」 渉はそのまま、ゆっくりと食べ続けた。 静かな朝。広すぎる部屋。そして、誰もいないリビング。 ふと、渉は部屋の奥へ目を向けた。「……誰かと住んでいたのかな」 一人で暮らすには、やはり広すぎる。 家具の配置を見ても、誰かが一緒にいることを前提にしているように感じる。 そこで、昨日のことを思い出した。 店で宙の隣にいた若い男。あの男は、ここへ来たのだろうか。
last updateLast Updated : 2026-09-06
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第五十七話

「……え?」 渉は思わず声を漏らした。もう一度、お金を見る。 間違いなく二万円ある。「二万円……?」 大学生の渉にとって、二万円は決して小さな金額ではない。 光熱費の支払いにも使える。食費にもなる。サークルの飲み会なら、何度か参加できる。新しい服を買うこともできる。 そこまで考えて、渉はふと黙った。 自分が何に使うかを考えていることがおかしくなった。 そして、メモを裏返す。 そこに、また短い文章が書かれていた。『お金も好きなように使ってくれ』「……」 渉は、その文字をじっと見つめた。 二万円。 好きに使っていい。これは何なのだろう。ただの厚意なのか。それとも……。「……昨晩一緒にいて、その対価がこれなのかな……」 小さく呟く。けれど、すぐに首を振った。「……なわけないか」 そんな簡単な話ではない。 自分から何かを求めたわけでもない。宙からも、そんな説明をされたわけではない。 昨日、自分はほとんど宙に身を委ねていた。 この二万円をどう受け取ればいいのか分からない。財布へ入れることには抵抗があった。 結局、渉は二万円をそのまま置いておくことにした。 メモも元の場所へ戻す。  その後、渉は身支度を整えて部屋を出た。 玄関で靴を履きながら、もう一度部屋の中を見る。 昨夜は夢のように感じた場所。今は、ただ静かな誰かの部屋だった。「……また来るのかな、俺」 自分でも答えが分からないまま、渉は玄関のドアを閉めた。 外へ出ると、朝の東京はすでに動き始めていた。  ところが駅へ向かう途中、渉は突然足を止めた。「……あ」 スマートフォンを確認する。午前中の講義。 完全に忘れていた。「……やば」 時計を見る。もう間に合わない。いつもの渉なら、ここで必死に焦るところだった。欠席したらどうしよう。単位は大丈夫か。ノートを誰かに見せてもらわないと。 そんなことを考えるはずだった。 ……けれど。「……まあ、いいか」 なぜか今日は、そう思った。 その日の午後。テニスサークルからメッセージが届いた。 いつもの飲み会の誘いだった。画面には、何人ものメンバーが楽しそうにやり取りしている。 渉はしばらく、その画面を眺めた。 今までなら、断る理由を考えながらも参加していた。 楽しいからいるわけではない。好きだから続
last updateLast Updated : 2026-09-07
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第五十八話

 バイトは、いつも通りそつなくこなした。 注文を聞き、料理を運び、空いたグラスを下げる。 仕事をしている間は、余計なことを考えなくて済む。客の顔色を窺う必要もない。与えられた仕事をきちんとこなしていれば、それでいい。 閉店までまだ時間はあったが、休憩に入り、渉は喫煙所へ向かった。 煙草に火をつける。煙を肺に入れ、ゆっくり吐き出す。 そこでふと、思い出した。「……そういえば」 宙は煙草を吸っていなかった。 あの夜、部屋には酒の匂いと香水のような香りは残っていたが、煙草の匂いはなかった。 渉は煙草を指に挟んだまま、宙からもらった名刺を思い浮かべた。 名刺は持っている。住所も書いてある。 けれど、電話番号は登録していなかった。「……どうすればいいんだろ」 来てくれ、と言われた。鍵まで渡された。 だが、「いつでも」と言われても、いつ行けばいいのか分からない。 こちらから連絡していいものなのか。そもそも、連絡先すら知らない。 そして……お金。 あの夜、結局受け取らなかった。 二万円。 あれが何を意味するのかも、まだ渉にはよく分からなかった。 煙草を灰皿に押しつけたところで、喫煙所のドアが開いた。「お、いたいた」 明先輩だった。「渉、テニスサークルやめたって?」「……はい」「だから最近シフト増やしたのか?」「来月から、少し多めに入ろうかなって」 明は渉の顔を覗き込んだ。「……そんなに金、困ってるのか?」「え?」「いや、だって急にサークルやめて、バイト増やすって」「別に、そういうわけじゃ……」 渉は苦笑した。「サークルも、あんまり楽しくなかったし。それならここで働いて、いろんな人と出会ったほうがいいかなって」「ああ」 明は煙草をくわえたまま、ニヤリと笑った。「例の人の家に行ったのか」「……え?」 渉の心臓が跳ねる。 なぜ分かった。顔に出ていたのかもしれない。「どうだった?」「どうって……」「広かった?」「……広かったです」「なんかもらったか?」「……」 渉は答えに詰まった。明はその沈黙を肯定と受け取ったらしい。「マジかー。勇気あるな、お前」「……」「俺、お前が今度あの人の横に座ってる立場になるのかと思ったよ」 その言葉に、渉の脳裏へ、あの夜の若い男の姿が浮かんだ。 宙の隣にいた
last updateLast Updated : 2026-09-08
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第五十九話

 渉を見つけると、すぐに笑顔になる。「渉」 まるで、ずっと会いたかったと言うように。「仕事終わったかい?」「いえ、まだです」 渉は戸惑いながら答えた。「お店に入らないんですか?」 宙は首を横に振った。「君を迎えに来た」「迎えに……?」「そう」 宙は穏やかに笑う。「迷惑だったかな?」「そんな……大丈夫です」 そう答えると、宙の表情が少しだけ曇った。「昨夜のこと……嫌だったかい?」「……い、いいえ」 渉は慌てて首を横に振る。「僕も……つい甘えてしまって」「たくさん泣いてたもんね」「……」「可哀想だったから、慰めてあげたんだ」 その言葉を聞いて、渉は昨夜のことを思い出す。 自分でも驚くほど泣いた。 都会に来てからずっと張り詰めていたものが、宙の前では一気に崩れてしまった。 それが恥ずかしくもあった。 けれど……嫌だったわけではない。「……また、宙さんの家に行っても……いいんですか?」 気づけば、そんな言葉が口から出ていた。 宙は目を細めた。「もちろん」 そして、少し笑う。「そんなこと言わなくてもいいだろう? 鍵、あげたんだから」「はい……」「それに」 宙は渉の顔を見つめた。「お金。なんで持っていかなかったの?」「……お金は……」 言葉が続かない。どう答えていいのか分からなかった。 宙はそんな渉を見て、ふっと息を吐いた。「渉」 そして、自然な動作で渉を自分のほうへ引き寄せた。「このバイト、やめたほうがいい」「え……?」「誘惑が多すぎる」 宙はそう言って、店のほうを見る。 ちょうど常連客らしい男性が店へ入っていくところだった。「あの人も……どこかの社長さんだって聞いたことあります」「そうだろうね」 宙は淡々と答えた。「でも、君にはもっといい仕事がある」「……仕事?」「僕の秘書として働かないか?」「えっ……」 渉は顔を上げた。「秘書……僕が?」「ああ」「でも、僕、まだ大学生で……」「だからこそだよ」 宙は笑う。「何も目的もないまま、ここで働き続けるよりいいと思わないか?」 渉は何も言えなかった。 大学。 テニスサークル。 バイト。 そのどれもが、最近の自分にとっては惰性になりつつあった。 それなら……。「それだったら、お金も受け取れるよね?」
last updateLast Updated : 2026-09-09
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第六十話

 宙の生活は変わりつつあった。 サークルも、バーのバイトもやめて……しかし流石に授業はしっかり出る。 不思議なことに、今まで誰かと繋がっていないと講義やテストなどの情報は手に入らないと思っていたが、そうでもなかった。 ふと誰かに声をかければ教えてもらえることもある。 サークルは辞めたため、一部の人とは気まずくなった。それでも数人にはまだ声をかけてもらえたし、必要な情報も入ってくる。 ついでにタバコもやめた。 タバコを吸わなくても、新しくできたコミュニティから情報は得られる……かと思ったがなかなか入り辛い。でも一人でもなんとか情報は賄える。 しかしあれほど必死になっていた自分はいったいなんだったのかと思うほどだった。 これまでなら、講義の情報を得るために誰かと無理に付き合い、飲み会にも参加していた。 けれど今は、それをしなくても何とかなる。 それが分かってからというもの、渉は以前ほど人間関係に神経を使わなくなった。 その代わり気づけば、宙のことを考えている時間が増えていた。 授業が終われば、今日は宙がどこにいるのかを確認する。 次の予定まで時間があると分かれば、自然と宙のところへ向かう。 宙から連絡が来ていないか、スマートフォンを何度も確認することも増えた。 返信がないだけで何かあったのではないかと落ち着かなくなる。 そして、宙から短いメッセージが届けば、それだけで妙に安心した。 そんな自分を、渉はまだ特におかしいとは思っていなかった。 むしろ今までの自分より、ずっと楽になったと思っていた。 サークルやバイトをしない分、宙のそばにいることにした。 宙も、授業はしっかり出た方が良いという理解はあり、授業がない時に宙のそばにいるようになった。 宙と一緒にいる時間が増えるほど、渉の生活は変わっていった。 付き人というか、フォーマルなところにはスーツカジュアルな服や靴を身に付けさせてもらった。 自分がなけなしの金で買った服たちよりも、なんだか質も良い。「これが本物か……」 服を着て鏡の前に立つたび、そんなことを思った。 宙に選んでもらった服を着ていると、以前よりも自分がまともな人間になったような気がする。 それだけではない。 宙と一緒にいることで、知らなかった世界を見ることができた。 デザイン会社を立ち上げるために、
last updateLast Updated : 2026-09-10
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