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第五十二話

Author: 麻木香豆
last update publish date: 2026-09-02 07:01:45

 その夜。

 宙は渉の退勤時間まで待っていた。店を出ると、すでにタクシーが用意されている。

「乗りなさい」

「……はい」

 渉は後部座席に乗り込んだ。窓の外を眺める。

 高層ビル。煌々と輝く看板。夜でも明るい街。

 田舎では見たことのない景色が次々と流れていく。

 やがてタクシーは、高級マンションが立ち並ぶ一角で止まった。

「ここ……?」

「ああ」

 宙が先に降りる。渉も続いた。

 マンションの中へ入り、エレベーターに乗る。扉が閉まる。

 ふたりきりになった。思ったよりも狭い。

 いや、正確には狭く感じる。宙との距離が近い。

 渉は無意識に一歩後ろへ下がった。

 すると宙が、その距離を詰めるように腕を伸ばした。

「……」

 身体が触れる。香水の匂いがした。

 店では気づかなかった、少し甘い香り。渉は戸惑いながら顔を上げた。

 エレベーターのガラス越しに、東京の夜景が見える。

 無数の光。まるで街そのものが星空になったようだった。

「……綺麗」

「夜景が?」

「……はい」

 宙は渉を見る。

「君の瞳も綺麗だよ」

「……」

 じっと見つめられる。その視線に、渉はまた身体を固くした。

「…
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  • 捨てたはずの恋人が今さら執着してきますが、僕は自分の道を描く   第五十二話

     その夜。 宙は渉の退勤時間まで待っていた。店を出ると、すでにタクシーが用意されている。「乗りなさい」「……はい」 渉は後部座席に乗り込んだ。窓の外を眺める。 高層ビル。煌々と輝く看板。夜でも明るい街。 田舎では見たことのない景色が次々と流れていく。 やがてタクシーは、高級マンションが立ち並ぶ一角で止まった。「ここ……?」「ああ」 宙が先に降りる。渉も続いた。 マンションの中へ入り、エレベーターに乗る。扉が閉まる。 ふたりきりになった。思ったよりも狭い。 いや、正確には狭く感じる。宙との距離が近い。 渉は無意識に一歩後ろへ下がった。 すると宙が、その距離を詰めるように腕を伸ばした。「……」 身体が触れる。香水の匂いがした。 店では気づかなかった、少し甘い香り。渉は戸惑いながら顔を上げた。 エレベーターのガラス越しに、東京の夜景が見える。 無数の光。まるで街そのものが星空になったようだった。「……綺麗」「夜景が?」「……はい」 宙は渉を見る。「君の瞳も綺麗だよ」「……」 じっと見つめられる。その視線に、渉はまた身体を固くした。「……代わりになるな」「え?」「なんでもない」 宙が笑った。そして、不意に渉の唇へ自分の唇を重ねた。 温かかった。微かにワインの味がする。 渉は驚いた。けれど、なぜか拒むことができなかった。 むしろ……胸の奥に張り詰めていた何かが、ぷつりと切れた。 涙が頬を伝う。「……え?」 自分でも、なぜ泣いているのか分からない。「なんで泣いてるんだい?」「……なんでも、ないです」 宙の親指が、右目から流れた涙を拭った。「今夜は泊まれるかい?」「……」「まあ、ここから帰るのも大変か」 返事をする前に、エレベーターが止まった。 扉が開く。 渉はしばらく動けなかった。そして、小さく答えた。「……はい」 部屋に入る。広い玄関。広いリビング。大きな窓。そして、カーテンの向こうに広がる東京の夜景。 明かりをつけなくても、街の光だけで部屋の輪郭が分かるほどだった。「……すごい」 渉は思わず呟いた。 自分が暮らしている部屋とは、何もかも違う。けれど、景色に見惚れている暇はなかった。 背後から宙の腕が回ってきた。「君、地方出身だろ?」「……はい」「都会に慣れようと

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     あれから一ヶ月。 渉は大学の試験に追われていた。 講義に出て、ノートをまとめ、過去問を探して、空いた時間があれば図書館へ行く。 単位を落とすわけにはいかなかった。 親から仕送りをもらって大学へ通わせてもらっている以上、遊んでばかりいるわけにもいかない。 そのため、バイトにもほとんど入れなかった。 週一回。それが、この一ヶ月の渉にとって唯一のバイトの日だった。 久しぶりに店へ来た渉は、休憩時間になると賄いを食べた。「うま……」 思わず声が漏れる。久しぶりにまともな食事をした気がした。 試験期間中は食費すら惜しくなって、コンビニのおにぎりやパンで済ませる日も多かった。 それだけに、店の賄いはありがたい。 温かい料理を腹に入れると、ようやく身体の奥から力が戻ってくるようだった。「おい、例の……宙さんが来てるよ」 突然、明先輩が顔を出した。「……え?」「宙さん」 その名前を聞いた瞬間、渉の箸が止まった。 チーフもこちらを見る。 どうやら明先輩から、渉があの男から名刺をもらったことを聞いているらしい。 ……言わないでほしかった。 そう思ったが、今さらだった。こういう話は広まるのが早い。「さっき俺が水を持っていったんだけど、今日は一人だ」 明先輩がニヤニヤする。「それで、渉を呼んでくれって」「……僕を?」「おい、指名じゃんかよ」 明先輩が肘で渉の膝をぐいぐい押してくる。「いや、その……」 渉は困った。 あれから一ヶ月。 結局、宙の家には行かなかった。 連絡もしなかった。事実上、無視していたようなものだ。「何度か来ていたみたいだぞ」 チーフが言った。「……そうなんですか」「ああ」 渉は少しだけ気まずくなった。それでも、今さら逃げるわけにもいかない。 チーフは渉の肩を軽く叩いた。「まだ君は学生だ。何かいいきっかけになるかもしれない」「……」「可愛がってもらいなさい」 その言葉に押されるように、渉は立ち上がった。 制服の襟元を整える。深く息を吸う。 仕事だ。ただ、それだけだ。 そう自分に言い聞かせて、VIP席へ向かった。 ドアの前で一度だけ姿勢を正す。そして、ゆっくりと扉を開けた。「失礼します」「……ようやく会えたね」 そこには宙が一人で座っていた。 以前のように、隣に若い男はいな

  • 捨てたはずの恋人が今さら執着してきますが、僕は自分の道を描く   第五十話

    とある日のことだった。バイトの休憩時間のことである。 バックヤードの隅にある小さな喫煙スペースで、渉は煙草をくわえていた。プハーッと煙を出す。もう慣れたもんである。 もともと煙草を吸うつもりなんてなかった。吸うものではないと思った。 高校時代なら、煙草を吸っている同級生を見ても「あんなもの身体に悪いのに」と思っていたくらいだ。 けれど、大学に入って東京へ出てきてから、少しずつ考え方が変わっていった。 テニスサークルでは煙草を吸う人間が多かった。 喫煙所に集まれば、講義の情報や試験の過去問、教授の癖、飲み会の話など、いろいろな情報が飛び交う。 そこにいなければ、知らないままになることも多い。だから渉も、いつの間にか煙草を覚えていた。 ……こんな都会に馴染む。 それだけのために、身体に良くないものまで取り入れる。 上京してきた学生の中には、渉と似たようなことをしている人間も少なくなかった。 田舎にいた頃なら必要なかったもの。 でも、ここではそれが人間関係を作るためのきっかけになる。 渉も、その一人だった。もっとも、家では絶対に吸わない。そんな余裕はない。 一箱買えば、それだけで昼飯何回分かが消える。 「……高いんだよな、煙草」 渉は小さく呟きながら煙を吐いた。バイト先でも似たようなものだった。 吸う人間と吸わない人間。 完全に分かれているわけではないが、休憩時間に喫煙所へ集まるメンバーには、なんとなく独特の繋がりがある。 今夜、一緒にいるのは二つ年上の大学院生――明先輩だった。 明先輩は渉がこのバイト先で一番よく話す相手でもある。 東京育ちということもあって、渉からすると何となく垢抜けて見える。 ワンレンボブという少し独特な髪型も本人によく似合っている。 服装もおしゃれで、話し方にも妙な余裕がある。 ただ、個性もかなり強い。 渉は最初こそ少し苦手だったが、付き合ってみると面倒見のいい先輩だった。 「そういえば、明先輩」 「ん?」 渉はポケットから一枚の名刺を取り出した。 「こんなの、前にもらいまして」 「名刺?」 明先輩が覗き込む。 「この前、VIP席にいた客から」 「ああ?」 明先輩は名刺を受け取り、表と裏を確認した。 そこには

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    (VIPがこういうの頼むの、珍しいな) 少し意外に思いながら、個室の扉を開ける。 「失礼します。お待たせしました」 「おう、来たか」 中にいたのは、一人の男だった。黒のスーツ姿。 年齢は三十代くらいだろうか。 落ち着いた雰囲気を漂わせているが、すでにワインのボトルが二本、テーブルの上に並んでいた。 そして、その隣には若い男が一人。顔を赤くしていて、シャツの襟元も少し乱れている。 (もう二本開けてる……) 渉は内心で驚いた。料理もほとんど手をつけていない。 隣の若い男は酒ではなく、ソフトドリンクらしい。 「テーブルに適当に置いてくれ」 「……はい」 適当に、というのが一番困る。渉は空いている場所を探し、料理を置いた。 そのときだった。 ふと視線を向けると……二人がキスをしていた。 「……」 渉は何も思わなかった。この店には個室もある。 カップルが利用することも珍しくない。 少し親密な客がいても、いちいち気にしていたら仕事にならない。 見なかったことにして、テーブルの上の空いたグラスを確認する。 すると……。 「君」 「はい?」 「綺麗な顔してるね」 突然、スーツの男から声をかけられた。 「……ありがとうございます」 渉は営業用の笑顔を作った。ホストクラブではない。ここはあくまで飲食店だ。 客から声をかけられることはたまにあるが、余計な会話はせず仕事をする。 そう思っていた。 「もう少し、こっちを見せてくれないか」 「……はい?」 渉は仕方なく男のほうへ顔を向ける。男はじっと渉を見つめた。 隣にいた若い男が、渉を睨んでいる。 ……なんだ? 嫉妬でもしているのだろうか。 「綺麗な顔をしているな。オールバックにしても、その顔立ちが分かるとは……」 男は興味深そうに渉を見る。 「君、名前は?」 渉は胸元のネームプレートを見る。 店員のプライバシー保護のため、そこに書かれているのは一文字だけだ。 「……渉です」 「渉、か」 男は満足そうに頷いた。そして、胸ポケットから名刺を取り出した。 「俺は……こういう者でね」 差し出された名刺を、渉は受け取った。 「宙、と呼んでくれ」 「宙さん……」 名刺には、有名企業の系列グループ名

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    とある日のことだった。 いつものように、テニスサークルのグループチャットに飲み会の誘いが入っていた。 《今日空いてるやつ集合!》 《おいー!渉も来いよ》 《てか渉、最近付き合い悪くね?》 画面を眺めながら、渉は小さくため息をついた。 「悪い、今日バイト」 短く返信する。 《また?》 《ほんっとー、ノリ悪いなー》 《せっかくの華金なのに》 次々とメッセージが飛んでくる。 「華金って……大学生に関係あるのかよ」 スマホをポケットにしまい、渉は大学を出た。 サークルの連中は、これからどこかの店で飲むのだろう。 女子たちは気に入られようと男子に媚び、男子たちはそれを見て調子に乗る。 そんな光景を少し離れたところから見ていると、渉はどうにも疲れてしまう。 別に嫌いなわけではない。ただ、自分には合わない。 だから今日も、そんな場所ではなくバイト先へ向かう渉にとっては、そのほうが気楽だった。 バーレストランには、本当にいろいろな客が来る。 普通に大学生活を送っているだけなら、まず出会わないような人間も珍しくない。 大手からそうでもない様々な会社員。どっかの経営者。芸能関係者。大学教授らしき人。外国人の客。 中には、誰が見ても「この人、普通の会社員じゃないだろ」と思うような雰囲気の人物までいる。 先輩から聞いた話では、ここで働いていたOGが、たまたま来店した企業の重役と話をしたことをきっかけにインターンへ誘われ、そのまま就職したこともあるらしい。 芸能関係者に声をかけられて、モデルや役者になった人もいる。 実際、今では準主役級としてドラマに出ている俳優が、昔この店で働いていたという話も聞いたことがあった。 「世の中、何がきっかけになるか分からないよな」 先輩はそう言っていた。 だが、渉にはあまり関係のない話だった。芸能界にも興味はない。名前を出されても有名人にも疎い。 そもそも、テレビをほとんど見ないので、目の前に芸能人が座っていても気づかないことすらある。 渉にとって大事なのは、ここが落ち着いて働ける場所だということだった。 夜の店。照明は少し落とされている。 客の話し声も、店内に流れる音楽に混ざってほどよく聞こえる。 昼間の大学とは違う。誰かに合わせて笑う必要も

  • 捨てたはずの恋人が今さら執着してきますが、僕は自分の道を描く   第四十七話 番外編 渉の場合1

    窪木渉、大学二年生。 上京してきて一人暮らしを始めて、もう二年目になる。 経済学部に通いながら、親からの仕送りでなんとか生活している。 家賃にガス、水道、電気代。 最低限の生活費はどうにか賄えているものの、都会で暮らす学生には、それ以外にも何かと金がかかる。 昼食代。教材費。友人との付き合い。 そして、大学生らしい遊びにもそれなりに出費がある。 「……都会って、思ったより金かかるな」 渉は一人暮らしの部屋で財布の中身を確認しながら、何度そう思ったことか。 実家にいた頃は、電気代がいくらだとか、食費が一食いくらかかるだとか、そんなことを真剣に考えたことなどなかった。 コンビニで飲み物を買う。大学帰りに友人と飯を食う。気になった服を買う。 たったそれだけのことでも、積み重なれば結構な金額になる。 しかも東京にいると、周りがみんな少しだけおしゃれに見える。 地元にいた頃なら普通だと思っていた服装でも、大学ではなんとなく浮いているような気がする。 別に誰かに何かを言われたわけではない。それでも、気になってしまう。 大学生というのは、そういう妙なところで見栄を張ってしまうものなのかもしれない。 高校時代はテニス部だった。 大学に入ってからも、その経験を活かしたいと思い、テニスサークルに入った。 大学生活といえばサークル。サークルといえば、仲間と楽しくテニス。 そんな程度に考えていた。 ところがこれが、思っていたものとかなり違った。 テニスよりも、合コン。練習よりも、飲み会。試合よりも、男女の出会い。 いわゆる「出会い系サークル」と呼ばれるような雰囲気だった。 最初の新歓で、なんとなく違和感はあった。 しかし、大学に入ったばかりで右も左も分からない。 「まあ、大学のサークルなんてこんなもんか」 そう思って、そのまま入ってしまった。 入部してしばらく経ってから、ようやく自分が思っていた「テニスサークル」とは少し違うことに気づいた。 入る前に、もっとちゃんと調べておけばよかった。そう思ったところで、もう遅い。 とはいえ、今さら別のテニスサークルを探して入り直すのも面倒だった。 特別仲のいい友人ができたわけでもない。かといって、辞めるほど嫌なわけでもない。 たま

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