Todos os capítulos de 捨てたはずの恋人が今さら執着してきますが、僕は自分の道を描く: Capítulo 71 - Capítulo 80

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第七十一話

 その夜は、渉のほうが優勢だった。 なぜこんなふうになってしまったのか、自分でも分からない。 きっと……圭の存在だ。 あの名前を宙が口にした瞬間から、どうしても気になって仕方がなかった。 宙は、いつもの余裕を失ったように渉に身を預けている。 悔しそうな表情を浮かべながら、それでも渉を離そうとはしない。その矛盾が、妙に印象に残った。 嫉妬なのだろうか。 それとも、ただ知りたいだけなのか。 あの圭という男を、宙はどんなふうに扱っていたのか。 気づけば、渉は口にしていた。「その圭という男は……どうしたんですか」 宙の表情がわずかに変わる。「……従順なやつでね。一人じゃ何もできない……そんなやつだった」「手を怪我したと……」 宙がハッと渉を見る。「……なぜ、それを?」「圭さんの展示にいた人から聞きました。もうデザインを作れない、あの綺麗な線を描けないって」「……ああ」 宙は一度、目を伏せた。「事故だったんだ」 さっきまで乱れていた呼吸が、少しずつ落ち着いていく。 その変化が、渉には妙に怖かった。 まるで、宙の中で何かのスイッチが切り替わったようだった。「もう右手は使えない。収入もない……」 声は穏やかだった。 けれど、その穏やかさの奥に、渉の知らないものが沈んでいる。「僕を守るために、そうなってしまったんだ。だから僕が面倒を見た」 渉は黙って聞いていた。「なのに……」 宙の声が低くなる。「なのに、出ていってしまった」「……」「恩を仇で返されたよ」 その言葉とともに、宙の腕に力がこもった。 責めるような声ではない。 むしろ静かだった。 だからこそ、渉はぞっとした。「出ていったあとも、あんな手じゃ無理だろうと思った。だから探した」 目つきが変わる。「探して、探して……それでも見つからなかった」 宙の指が、渉の背中をゆっくりとなぞる。 その手つきだけなら、いつもの優しい宙と何も変わらない。 なのに、渉にはそれが妙に不気味に感じられた。「他の男に手助けしてもらって……海外に逃げてしまった」「……海外……」 渉は呟く。逃げた。宙から。 その事実だけが、頭の中に残った。 そして宙は、ぽつりと言った。「……気づけば、探し回るうちに、憎しみより愛しさのほうが強くなっていた」 その言葉を口にし
last updateÚltima atualização : 2026-09-22
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第七十二話

 あれから半年が過ぎた。 三年生になった渉は、気づけば以前と似たような日々を取り戻していた。 タバコはやめたが、以前一緒に吸っていたメンバーとは昼食を食べることもある。少し気を遣うことはあったが、完全に関係が切れたわけではない。 高村教授のレポートも滞りなく提出でき、単位も無事に取れた。 そして、レポートを書くうちに建築デザインそのものにも興味を持つようになった。 三年生のゼミ選択では、高村教授のゼミを選んだ。 周囲には「卒論が楽らしい」という噂もあったが、渉が選んだ理由はそれではない。 建築デザインという、自分の中にはなかった興味が生まれたからだ。 宙の影響がまったくないと言えば嘘になる。それでも、これは自分で選んだことだった。 これまで一緒にいた仲間たちは建築に興味がなく、それぞれ別のゼミへ進んだ。 渉は、そこで初めて顔を合わせる学生たちの中に入り、新しい人間関係を作り始めた。 以前ほど「誰かと繋がっていなければ」と必死になることもなくなっていた。 それが、少し不思議だった。宙にゼミのことを話すと、彼は意外そうな顔をした。「建築を勉強するの?」「うん。ちょっと興味が出てきて」「だったら、僕の仕事ももっと見てみる?」 その言葉から、宙の仕事先へ案内してもらうことになった。 さらに話は進み、渉はインターンとして早い時期から仕事を手伝うことになった。 周囲からは羨ましがられた。 学生のうちから実際の仕事を見られるのだから、当然だと思う。 ……けれど。「君、ちょっと気をつけたほうがいいよ」 インターン先で、そう声をかけられた。「えっ?」「君によくない噂が立ってる」 渉の表情が固まる。「……君、宙さんの恋人だろ?」 心臓が跳ねた。 二人の関係を知っている人間が、ここにいる。「入れ替わり立ち替わり、いろんな人を連れてくるって話は前からあってね」 その言葉に、渉は息を詰めた。「だいぶ前にも、一人の有能なデザイナーに怪我をさせて、酷いことをしていたっていう話がある。君は……大丈夫?」 ……圭。 頭に、その名前が浮かんだ。 あの写真。あのデザイナー。宙が語った過去。 そして、「下僕」という言葉。 渉は手を握りしめた。「……僕は違います」 ようやく出た声は、自分でも驚くほど小さかった。「大切にされてます
last updateÚltima atualização : 2026-09-23
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第七十三話

「……宙。この写真……」 渉が振り返る。 宙は何も言わず、渉の手から写真を取り上げた。しばらく写真を見つめ、それから小さく息を吐く。「……書斎に入ってもいいとは言ってたからね。ちゃんと片付けておけばよかったかな」「……その人……」「その様子だと、この写真は前にも見たんだね」 図星だった。 嘘をついても仕方がない。渉は黙って頷いた。「圭だよ。この写真しか残ってなくてね」 宙は写真を指先でなぞった。 その表情は、渉が今まで見たことのないものだった。懐かしさとも、寂しさともつかない顔。「……この写真を見ると、今でも思い出すよ」「……」「いろいろあったからね」 宙はそれ以上を語ろうとはしなかった。ただ写真を見つめている。「今は海外にいるって知ってる。どうやら、デザインの仕事をしているらしい」「……そうなんだ」「よかったよ。僕がデザイン会社を立ち上げておいて」 渉はその言葉に引っかかった。「……会社を?」「うん。彼のためでもあったから」 宙は写真を持ったまま、書斎を出ていく。渉も後を追った。「彼は事故で利き手を怪我してね。以前のようにはデザインができなくなった」 一年前の展示会。 斗真の言葉が蘇る。 ……事故で手が使えなくなった。 ……もう何もできない。 ……下僕。「僕を助けてくれたんだよ、圭は」 宙の声は穏やかだった。「だから僕も、彼の面倒を見た。仕事も、生活も。この家だって、彼と暮らすために買ったんだ」 渉は部屋を見回した。 広いクローゼット。広い浴室。二人分の生活を想定したような空間。 今まで何となく感じていた違和感が、少しずつ形になっていく。「……だから、あんなに広かったんだ」「そうだね」 宙は笑った。「優しい人だったよ。ちょっと調子に乗って、僕も冷たくしてしまったけど」「……冷たく?」「それでも、ずっと僕のそばにいてくれた」 渉は息を詰めた。 それは、斗真が言っていた「下僕」という言葉と重なった。「……だったら」 気づけば、渉は口を開いていた。「だったら、海外まで追いかければよかったんじゃないの」 宙が黙った。ゆっくりと渉を見る。「……そうだね」「場所も分かってるんでしょう?」「分かってるよ。本当はね」「じゃあ、どうして……」 宙はしばらく答えなかった。やがて、写真
last updateÚltima atualização : 2026-09-24
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第七十四話

 久しぶりに、渉は自分の部屋へ戻った。 まったく戻っていなかったわけではない。 換気のために時々立ち寄っていたし、ポストに溜まった郵便物を取りに来ることもあった。 けれど、それだけだった。 大学から帰れば宙の部屋へ向かう。朝になれば、宙の部屋から大学へ行く。 いつの間にか、それが当たり前になっていた。 自分の部屋は、眠る場所ですらなくなっていた。 だから久しぶりに玄関のドアを開けた時、渉は妙な感覚に襲われた。 懐かしいような。 けれど、もう自分の家ではないような。「……こんな感じだったっけ」 靴を脱ぎ、部屋の中へ入る。 空気が少し重い。 窓を開けるためにカーテンを引くと、差し込んだ光の中に細かな埃が舞った。 渉は思わず目を細める。「うわ……」 自分で思っていた以上に、部屋は荒れていた。 テーブルの上には読みかけの本。 ソファの脇には脱いだままの服。 キッチンには、しばらく使っていなかった食器が置かれている。 冷蔵庫を開ける。「うげっ……」 奥に残していた食材が傷んでいた。 いつ買ったものなのかも、すぐには思い出せない。 渉は眉をひそめ、ひとつずつ取り出していく。「これは……もう無理だな」 ゴミ袋に入れる。 それだけの作業なのに、妙に時間がかかった。 冷蔵庫を拭き、シンクを洗う。 窓を開け、掃除機をかける。 掃除機の音が、久しぶりの部屋に響いた。 宙の部屋では、こういうことをする必要がほとんどなかった。 掃除サービスが入ることもあったし、宙自身が人を雇って部屋を整えさせることもあった。 何もかもが整っていた。 家具も。食器も。服も。 自分が何かをしなくても、生活がきれいに保たれていた。 それが心地よかった。 いや。 心地よいと思っていた。 渉は掃除機を止めた。 その考えが頭に浮かんだことに、自分でも少し驚いた。「……何考えてるんだ、僕」 再び掃除機を動かす。 床に溜まっていた埃を吸い込んでいく。 掃除を終えると、今度はベッドのシーツを外した。 天気がいい。 せっかくだからと、布団とマットレス、カーペットまでベランダへ運び出す。 何度も往復するうちに、額に汗が滲んできた。「重……」 最後のカーペットを干し終える。 ベランダから見える空は、思っていたよりも高かった。 風
last updateÚltima atualização : 2026-09-25
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第七十五話

 宙が全部嘘だったなんて、そんなことはない。 少なくとも、優しくしてくれたことは本当だ。 自分を必要としてくれたことも。 あの時間まで全部偽物だったわけではない。 だからこそ、余計に分からない。 愛情と執着。優しさと支配。 その境目が、いつから曖昧になったのか。渉にはもう分からなかった。 スマートフォンを取り出す。 そこには、あの日撮った写真が残っている。 圭と宙。 二人が並んで写っている写真。何度も消そうと思った。 けれど、消せなかった。画面に映る圭を見つめる。 以前なら、もっと知りたいと思った。 何があったのか。なぜ逃げたのか。 宙は、圭にどんなふうに接していたのか自分と同じように、大切にされていたのか。 それとも……でも、今は違った。 知りたくない。 これ以上知ってしまえば、自分も同じ場所へ連れていかれる気がした。 渉はスマートフォンを伏せた。 そして、初めて自分の部屋をゆっくりと見渡した。 狭い。 宙の部屋に比べれば、何もない。家具だって古い。収納も少ない。キッチンだって小さい。 それでもここには、自分で選んだものしかない。 自分の机。自分の本。自分が買った服。大学の講義でもらった資料。読みかけの建築雑誌。 どれも、誰かに与えられたものではない。 自分で選んで、ここに置いたものだ。 渉は机の上に置かれた一冊の本を手に取った。 大学に入ったばかりの頃、なんとなく買った建築の本だった。 当時は、こんなものを読むとは思っていなかった。 けれど今は違う。ページをめくる。 写真を眺めているだけなのに、少しだけ呼吸が楽になる。「……僕、こういうの好きだったんだ」 小さく呟いた。 宙と出会ってから、自分の興味まで宙を中心に考えるようになっていた。 宙が好きなもの。宙が興味を持っているもの。宙が認めてくれるもの。 でも、これは違う。 これは自分が見つけたものだ。 自分が面白いと思ったもの。自分がもっと知りたいと思ったもの。 それだけだった。 渉は本を机の上に戻す。そして、部屋の中央に立った。「……僕の部屋、だったんだな」 今さらのような言葉だった。 けれど、その一言が妙に胸に残った。 宙の部屋では、いつも宙の気配がしていた。 それが安心だった。 宙がいる。宙に必要とされている。宙の
last updateÚltima atualização : 2026-09-26
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第七十六話

「掃除でもしてたのか。ちゃんと布団干してて偉いな」 玄関を入るなり、明先輩はベランダに目をやった。干された布団、そして風に揺れる夏用の掛け布団、シーツ……。「……まあ、久しぶりに戻ってきたので」「そりゃ掃除も必要だわな」 そう言って、明先輩は手にしていた袋を持ち上げた。「ほら。これお土産」「これ……ですか、ありがとうございます」 中にはビールが何本か入っていた。なんとなく察しはついているが……。「店のやつ。店長がまた勉強しろってくれたから」「……勉強って」「酒の勉強……と言う名目ですよね? いつものように」 明先輩は笑った。 昔からそうだった。店長は時々、売れ残りや試飲用の酒を「勉強のため」と言って明先輩に持たせていた。 明先輩もそれを断ることなく、ありがたそうに持って帰っていた。 渉はビールを一本取り出して眺める。昼から飲むわけにもいかない。 かといって、今ここで飲みたいとも思わなかった。「冷蔵庫、入れとく?」「ああ。好きな時に飲めよ」「ありがとうございます」 渉が冷蔵庫を開ける。 さっきまで傷んだ食材が入っていた場所に、新しいビールが並んだ。 それだけのことなのに、少しだけ部屋の雰囲気が変わった気がした。 明先輩は部屋の中を見回している。その視線が、渉には少し気になった。 普段、明先輩と会うのは夜だった。 バーのカウンターの中にいる明先輩は、いつも店の雰囲気に合わせた服装をしていた。 けれど今日は違う。柄の派手なシャツにジャンパー。 首元にはアクセサリーがいくつも重なっていて、手を動かすたびにじゃらじゃらと音がする。 香水もかなり強い。 飲み会の時などには、こういう格好をしていることもあった。 けれど、昼間に見るのは初めてに近い。 しかも、この部屋の中で見ると余計に派手に感じた。 質素な家具。使い込んだ机。必要最低限のものしか置かれていない部屋。 そこに明先輩が立っていると違和感しかなかった。「……何だよ」「いえ、特に……なんでもないです」「見すぎだろ」「昼間に会うこと、あまりなかったので」「ああ、そうか。確かにそうだな」 明先輩は自分の服を見下ろして笑った。「俺、昼間はだいたい寝てるからな」「そうでしたね」「お前も前は夜しか店に来なかったし」「……はい」 その会話が、妙に懐
last updateÚltima atualização : 2026-09-26
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第七十八話(番外編終わり)

「……ちゃんと将来のこと考えた方がいいぜ」 明先輩が言った。 「って、俺も人のこと言えないか」 「……?」 「バーのバイトしてるフリーターが何言ってんだって話だよな」 明先輩は苦笑する。 大学院を出た後、どこかに就職するのかと思っていた。 けれど、結局そのままバーの仕事を続けているらしい。 「正社員になるのは、あと数年とか言ってましたよね」 「ああ。まあ、そんな感じ」 明先輩は肩をすくめる。 「でも、今も正社員みたいな働き方してるじゃないですか」 「まあな」 渉には分かっていた。 明先輩は適当に見えて、店ではかなり働いている。 新人の面倒も見る。一見の客の顔でさえも覚えている。 店長から頼まれれば、営業時間外の仕事だって引き受ける。 本人がフリーターと呼んでいるだけで、働き方だけを見れば、とっくに店の中心にいる人間だった。 「……そういう明先輩に言われると、なんか変な感じですね」 「うるせえよ」 明先輩が笑う。 「でも、お前もそろそろ考えた方がいいぞ」 「……そう思って」 渉は一度、部屋を見渡した。 「こうして家に戻ってきました」 「そ、そうだったんだ……」 明先輩が少しだけ目を丸くした。 「まあ、就活も三年からだしさ。遅くないよ」 「……そうですね」 他愛のない話だった。 渉は、少し拍子抜けしていた。 わざわざここまで来たのだから、何か特別な話があるのかと思っていた。 宙のことを聞きに来たのかもしれない。 何か知っているのかもしれない。 けれど、明先輩はそんなことを聞くでもなく、店の愚痴を話し始めた。 最近入った新人がどうだとか。店長がまた無茶なシフトを組んだとか。常連客が酔いつぶれて大変だったとか。大学院時代の知り合いが結婚したとか。 そんな話を、明先輩は思いつくまま話していく。 渉は相槌を打ちながら聞いた。 そして、ふと思う。いつもは喫煙所だった。煙草の煙が漂う狭い場所。 明先輩が煙草を吸いながら話して、渉も隣で煙草を吸う。 それが二人の時間だった。 でも煙草がなくても、こんなに話は続くのだ。 「……不思議」 「何が?」 「いえ、何でもないです」 渉は笑った。 宙といる時とは違う
last updateÚltima atualização : 2026-09-27
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第七十九話

 圭と海斗は、いつものように出社すると、並んでコーヒーを飲んでいた。 そこへ斗真がやってきた。「おはよう」「おはようございます」 いつものように、他愛のない会話をする。 ここでは、仕事終わりに飲みに行くような習慣はなかった。 だから二人が海外で過ごしていた頃の話は、こうして朝のコーヒーを飲みながら、ふと思い出したように話すことが多かった。 二杯目のコーヒーを飲み終えようとした頃、圭がふと思い出したように言った。「そういえば、あっちにいる時に、メールで『作品を見ました』っていう連絡が何件か来てたんです」「僕も見たよ」 海斗が笑う。「作品を売ってほしいっていうメールもあったけど、圭がいつ作品を出したんだろうって思ってた」「あー」 斗真が声を上げた。「それ、たぶん俺のせいだわ」「え?」「建築の展示会でさ。ちょっと空きスペースができたことがあって」 斗真は悪びれもせず続けた。「圭くんのラフとかデッサン、出させてもらったんだよね」「……えっ?」 圭の目が丸くなる。「いつの間にそんなことを!」「いやあ、空きを出しちゃダメでさ」 斗真は頭を掻いた。「無断で出しちゃった。ごめんごめん」「もう……なんてことするんですか!」 圭が呆れたように笑う。 海斗も声を上げて笑った。 そんな三人のところへ、技術チームの一人が資料を抱えてやってきた。「お話中すみません。例の京都の旅館の件ですが……」 三人は何事もなかったかのように仕事の顔に戻った。「インフラ設備を整えて、明日からリモートで旅館側と現地の施工会社と打ち合わせができるよう手配しました」「さすが」 海斗が資料を受け取る。「その辺りを任せてよかったよ。リモートがあれば現地へ出向く回数も減るし、スムーズに進められる」「……ですね」 技術チームの男が苦笑する。「行くたびに京都土産を持たされるのも……」「それは確かに」 海斗と圭が顔を見合わせる。 そして同時に笑った。 その様子を、斗真は少し離れたところから見ていた。 打ち合わせはそのまま続いていく。 いつもの朝だった。  その後もいくつかの案件をこなし、圭は自分の席でデッサンを続けていた。 左手で描くことにも、ずいぶん慣れてきた。 以前より線も安定している。 それでも時々、右手を使おうとしてしまう
last updateÚltima atualização : 2026-09-28
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第八十話

 病院へは、一人で向かった。 海斗が付き添えないことを、少しだけ心細く感じていた。 けれど、いつまでも誰かに付き添ってもらうわけにはいかない。 受付を済ませ、診察室へ入る。いつものように、手の状態を確認される。 痺れ。震え。右手の動き。左手で描くことへの適応。 どれも少しずつ良くなっている。 けれど、完全ではない。「神経そのものの回復は、順調だと思います」 医師はカルテを確認しながら言った。「ただ、圭さんの場合は、まだ心因性の部分がかなり強いですね。心療内科の先生とも連携して診ていますが……」「はい」 圭は小さく頷いた。 過去のこと。宙とのこと。 そこには、簡単には人に話せないことが多すぎる。 日本にいた頃も、海外にいた頃も、何人かの医師に相談してきた。 その全員が理解してくれたわけではない。 医者だからといって、必ずしも自分のことを受け止めてもらえるわけではなかった。 露骨に嫌悪を示されたこともある。 逆に、必要以上に哀れむような目を向けられたこともあった。 そのたびに、圭は自分の話をすることが嫌になった。 最近になって、ようやく違う。内心で何を思っているかまでは分からない。 それでも、目の前の医師は圭の話を聞いてくれる。 手の神経についてだけではない。 心療内科の医師とも連携しながら、心理的な部分まで含めて診てくれている。 圭にとっては、それだけでもありがたいことだった。「それと……」 医師が少し言葉を選ぶように顔を上げた。「今、圭さんには恋人や、身体の関係を持っている方はいませんよね?」「……はい」「身体の状態としては、どうですか?」 圭は少し考えた。「特に今は……そこまで、そういう気持ちにはならないです」「恋愛感情もない?」「……ないですね」「性的な衝動も、今はあまりない」「はい」「仕事に集中している、ということですね」「……確かに、そうかもしれません」 医師はカルテに何かを打ち込んだ。「ただ、仕事に集中するのも悪いことではないんですが、疲労やストレスが溜まると、逆に急に性的な衝動が強くなることもあります」 圭は黙って聞いていた。「趣味は、何かありますか?」「趣味……」 圭は少し考える。「これといって、ないですね」「いつも一緒に来られる方も、お忙しいですよね」「はい
last updateÚltima atualização : 2026-09-29
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第八十一話

 クラブに入るのは、初めてではなかった。けれど、久しぶりだった。 扉を開けた瞬間から、大音量の音楽が身体にぶつかってくる。 耳がまだ慣れない。 酒の匂い。煙草の匂い。そこに甘ったるい香水まで混じっている。 照明は暗く、色のついた光が絶え間なく動いている。 そこにいる人たちも、最近圭が会ってきた人たちとは少し違っていた。 若い人。仕事帰りらしいサラリーマン。派手な服装の男女。 みんな、それぞれに仕事のストレスをここへ置いていくように騒いでいる。 宙といた頃にも、たまにこういう場所へ連れてこられた。 そのとき斗真が一緒だったこともある。 けれど圭は、いつも席から動かなかった。派手に酒を飲み、周囲と笑い合う宙。 その姿を眺めながら、ただ、 ……早く帰りたい。 そう思っていた。 自分は、ああいう盛り上がりの中には入れない。そう決めつけていた。「何か頼むか?」 斗真にメニューを渡される。開いてみると、酒が中心だった。 バーカウンターの向こうには、身体の大きな外国人のバーテンダーがいる。 海外生活が長かった圭でも、その威圧感には少し身構えてしまう。 酒は飲まないように言われている。 薬との飲み合わせもある。しばらく飲んでいなかった。「ノンアルで、おすすめのものはありますか?」 英語で尋ねると、バーテンダーは少しだけ顔をしかめ、それからメニューを裏返した。「こっちにある」 いくつかノンアルコールのものが載っている。「酒は飲まないのか?」 斗真はそう言いながら、すでにビールを注文していた。「俺は飲むけど。強制したらアルハラになるかー。好きなの頼めよ」「じゃあ……これで」 圭はおすすめと書かれていた、ジンジャーエールをベースにしたノンアルコールカクテルを選んだ。 斗真から煙草を差し出される。「吸う?」「いえ」「そか。吸わなかったもんな」 斗真はそれ以上勧めなかった。圭はグラスを持ったまま、店内を見回した。 まだ花金でもない。 それなのに、こんなに人がいる。 みんな、何かから逃げるようにここへ来ているのだろうか。 そう思いながら壁にもたれていると、斗真が手招きした。「圭、こっち」「え?」「紹介する」 連れていかれた先には、何人かの男女がいた。 斗真は慣れた様子で彼らと話している。 圭も紹介されたが
last updateÚltima atualização : 2026-09-30
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