جميع فصول : الفصل -الفصل 70

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第六十一話

 それは、ある夜のことだった。 宙は仕事で出かけていて、帰宅するのは遅くなると言っていた。 渉は一人、宙の部屋にいた。 リビングの大きな窓からは、東京の夜景が一望できる。 何度見ても飽きない。 窓の向こうには無数の光が広がっている。車のライトが流れ、ビルの窓にはそれぞれ違う生活がある。 数ヶ月前まで、渉は壁を目の前にしてノートパソコンを打ち込んでいた。 今は違う。 広くて大きな机。しかも昇降式で、立ったり座ったり、その時の気分で机の高さを変えられる。「これ、便利だな……」 宙のすすめで買ってもらったものだった。最初はこんなものまで必要なのかと思った。 大学の課題をするだけなら、今までの机でも十分だった。 けれど、実際に使ってみると意外と快適だった。 長時間座りっぱなしにならないよう、途中で机を高くして立って作業する。 疲れてくればまた下げる。 椅子も、まるでゲーマーが使うような大きくて座り心地のいいものだった。 ゲームをするわけではない。 けれど、長時間座って勉強しても腰が痛くなりにくい。「これなら勉強も捗るな……」 自分では買おうと思わなかったものばかりだ。でも、一度使い始めると手放せなくなる。 それは家具だけではなかった。 服もそう。靴もそう。食事もそう。 知らなかったものを宙に教えてもらい、与えてもらうたびに、渉の生活は少しずつ変わっていった。 宙がいない時でも、この部屋にいる。 それが最近では当たり前になっていた。 広い部屋に、こんな立派な机と椅子を置いても、まだ窮屈にはならない。「……すごいよな」 改めて部屋を見回す。 自分の一人暮らしのアパートとは、何もかも違う。 いや……。 最近は、自分のアパートへ帰ることのほうが少なくなっていた。 親から仕送りをもらっている以上、勝手に契約を解除するわけにもいかない。 家賃も払っている。 けれど、ここ数日はほとんど宙の部屋で過ごしている。自分のアパートが、なんだか勿体なく感じるほどだった。 課題のレポートを一段落させると、渉は椅子から立ち上がった。 ふとクローゼットの前へ行く。 扉を開ける。中には宙の服が並んでいる。 スーツ。シャツ。コート。 季節ごとにきれいに整理されていた。 けれど、その一角には渉の服もある。最初は数着だった。「ここ
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第六十二話

「……まあ、僕だけじゃないよな」 当たり前だ。 宙には宙の生活がある。過去だってある。 自分がそれを知らないだけだ。 宙は過去について、あまり話そうとしない。 正確には、話さないというより、話す必要がないようにしている。 渉が何気なく、「昔はどこに住んでたんですか?」 と尋ねた時も、「それより渉は? 東京に来る前はどんな生活をしてたの?」 と、いつの間にか自分の話へと変えられていた。 別の日にも同じだった。「宙さんって、昔からああいう仕事してたんですか?」「僕のことより、君の大学の話を聞きたいな」 笑顔でそう返される。 渉は大学に入ってから、人付き合いの中でそれなりに会話術を身につけてきた。 テニスサークルの飲み会。喫煙所での会話。 人に踏み込まれたくない時、どうやって話題を逸らすのか。 逆に、相手が何を隠したがっているのか。 そういうことは、嫌でも少しずつ分かるようになっていた。 だからこそ分かる。 宙は、自分のことをあまり話さない。 でも……。 不思議と嫌ではなかった。宙と話している時間は楽しい。 仕事の話も面白い。海外での話を聞かせてくれることもある。 食事をしながらくだらない話をすることもある。 自分の話をすると、宙は興味深そうに聞いてくれる。 だから、過去を知らなくてもいい。 そう思っていた。「……知らなくてもいいことなんて、いっぱいあるしな」 渉は自分に言い聞かせるように呟いた。 それなのに……今夜だけは、どうしても気になった。 クローゼットの中をもう一度見る。 スーツ。シャツ。ネクタイ。ロングコート。ダウン。 もう冬が近づいているから、厚手の服も増えている。 季節外のものはクリーニング会社のクローゼットに預けているらしい。 どれもきれいに整えられていて、ほんのりといい匂いがする。 ハンガーを一つずつ動かす。 服の間を見る。鞄。帽子。マフラー。セーター。小物。 けれど、過去を知るようなものは何も出てこない。「……何やってんだか」 自分でも呆れてしまった。 宙の過去を知ったところで、何になる。誰と付き合っていたのか。誰がこの部屋にいたのか。 そんなことを知ったところで、今の自分には関係ない。 そう思ってクローゼットを閉じようとした。 その時だった。 渉の手が止まる
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第六十三話

 クローゼットには、特に何もなかった。 渉は扉を閉じると、少しだけ息を吐いた。「……何やってんだか」 人の家の中を勝手に探るなんて、普通ならすることではない。 それでも、さっきまでの自分とは違っていた。 一度、扉を開けてしまった。 宙の過去を知りたいという気持ちを、自分で止められなくなっていた。 ならば……。「……書斎なら、何かあるかもしれない」 渉は廊下の先にある書斎へ向かった。 そこへ入ることを宙から禁止されたことはない。 むしろ、「本は好きに読んでいいよ」と言われている。 ただ、経営学の本は難しく、デザイン関係の本も構図や色彩、建築についての専門的な内容ばかりだった。 だから、宙がいる時以外に書斎へ入ることはなかった。 ドアを開ける。静かな部屋だった。「……ここになら」 宙の過去。 何か、その手がかりがあるかもしれない。 まずは本棚を見る。 日本の建築やデザインに関する本が多い。経営学の専門書もきれいに並んでいる。 アルバムでもあれば、一番分かりやすいのだが……。「ないな……」 次にデスクを見る。 自分が買ってもらったものと同じ昇降式のデスク。 パソコン、辞書、書類。仕事に必要なものばかりだった。 その隣にあるチェストへ目を向ける。引き出しを開けていく。どれも綺麗に整理されていた。 そして、一番下。 渉は少し迷った。ここまで来ておいて、今さら躊躇するのもおかしい。 ゆっくりと引き出しを開ける。 ……あった。 写真。 一枚だけ、そこに入っていた。渉はそれを手に取った。 写っているのは宙と、もう一人の男。以前、バーで見た若い男とは違う。 宙より年上に見える。 整った顔立ちをしているが、表情はどこか暗い。 宙も笑ってはいなかった。二人は寄り添っている。「……誰だ?」 恋人なのか。仕事関係なのか。それすら分からない。 ただ、二人の距離だけは近かった。渉はスマートフォンを取り出した。 カメラを起動する。 画面越しに写真を捉え……シャッターを切った。撮った直後、胸の奥がざわついた。「……」 もう一度、写真を見る。そしてスマートフォンを見る。 自分は何をしているのだろう。勝手に人の過去を探って、勝手に写真まで撮って。 宙に知られたら、どう思われるだろう。 渉は写真を削除しようと指を動
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第六十四話

 確かに以前、自分には気の置けない友人がいないとは話した。 けれど、大学で誰とも話していないとは言っていない。「……心配で大学に行って、君を見てた」「……え?」 渉の身体がわずかに強張った。「本当に君は一人なんだね。挨拶する友達もいない。教室でも、休み時間でも一人」「……」 どうして、そこまで知っている。 自分の大学での姿を、見られていた。その事実が怖い。 けれど同時に……。 自分がどれだけ一人なのかを、宙だけは知っている。 そんな考えが浮かんでしまった。宙の手が渉の身体に触れる。「でも大丈夫」 耳元で囁かれる。「こうして一緒にいられる人がいるじゃない」「……」「ね?」 答えを求められる。渉の身体が震える。 どうしてそんなことを言うのか。 自分が宙の過去を探ったことを知られているのか。 それとも、最初から自分のことを信頼していなかったのか。 考えれば考えるほど分からなくなる。「体がこんなに震えてる」 宙が優しく言う。「大丈夫。大丈夫だよ」 その声に、渉は目を閉じた。自分は一人だ。 もし宙にまで見放されたら……。 また、一人になる。 だから……渉は宙の背中に手を回した。「……いい子だ」 宙がそう囁く。 その言葉に、渉は小さく頷いた。 そして、その夜も二人は互いの温もりに身を預けた。  夜が深くなった頃。 宙は隣で眠っていた。渉はなかなか寝つけなかった。 身体にはまだ疲れが残っている。 それでも目を閉じると、昼間見た写真が浮かぶ。 宙と、あの男。 あの男は誰だったのだろう。 何をしていた人なのだろう。 どれくらい宙のそばにいたのだろう。 そして…… 自分と同じように、宙から大切にされていたのだろうか。 そう考えた瞬間、胸の奥が痛んだ。 知りたくて探ったくせに、知ったら知ったで苦しくなる。 そんな自分が嫌だった。隣を見る。 宙は安心しきった顔で眠っている。「……どうして、こんなふうに」 渉は小さく呟いた。抵抗できなかった。 弱みを握られているような気がしていた。 けれど、それだけではないことにも気づき始めていた。 自分から宙のそばにいることを選んでいる。 そのことが、余計に怖かった。 しばらくして宙が寝返りを打つ。 そして、眠ったまま小さく呟いた。「……けい…
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第六十五話

 渉は「ケイ」という名前を気にしていた。 あの写真の男なのか。それとも、これまで宙のそばにいた別の男なのか。 ただ、長く宙のそばにいたという男なら、あの写真の人物なのかもしれない。 なぜ、そんなに長く一緒にいたのだろう。 写真の中の男は、幸せそうには見えなかった。宙も笑っていない。寄り添っているのに、二人の間にはどこか張り詰めたものがあった。 渉はふと、窓ガラスに映った自分の顔を見る。 自分は……どうなのだろう。 少なくとも、不幸せではない。 大学にも通えている。食事にも困らない。お金の心配もしなくていい。 宙もいる。 それなのに、胸の奥には小さな不安が残っていた。 宙の過去。 もう終わったことなのだろう。 それでも、宙は眠りながら時々その名前を呼ぶ。 ……ケイ。 本人に聞けばいいのだろうか。 だが、きっとまた巧みに話をかわされる。 そう思うと、聞くこともできなかった。 とある日。 授業を終えた渉が廊下を一人で歩いていると、背後から声が飛んできた。「よっ、渉!」 振り返ると、同期生たちだった。 サークル仲間であり、以前は喫煙所でも一緒に過ごしていた連中だ。「よっ……」 渉は軽く手を上げ、そのまま歩こうとした。 今日は授業が終わったら宙の部屋へ行く予定だった。 そこで静かにレポートを書きたい。 しかし、進行方向を塞がれる。「最近つれないなー」「授業も一人で座ってるし」「サークルも来ないどころか、グループから抜けるし」「喫煙所にも来ないしな」「……」 一気に言われ、渉は困ったように笑った。 すると一人が渉の服を見て言う。「それになんか最近オシャレじゃん。金回りいいのか?」 肩に手を置かれ、鞄まで掴まれる。 渉はその手を払いのけた。「……関係ないよ」「わかった! 彼女ができたんだ!」「なるほどなー」「違うって」 笑いながら言われても、渉は困るばかりだった。 宙に連絡すれば迎えに来てもらえるかもしれない。 けれど、そんなことをするのは躊躇われた。 自分の大学の友人たちに、宙の存在を知られたくない。 何より、今は宙のそばにいることを優先したかった。「……変わったな」 一人がそう言って、タバコの空箱を取り出した。「俺も就活前にやめたんだ。まだ早い気もするけどな」「実は僕もやめた
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第六十六話

 展示会へ向かう途中、電車の中で仲間たちと分かれて立ち、そのうち二人と渉は話していた。「最近、渉つれないからさ。なんかあったのかと思ってたんだけど」「特に何もないよ……」「実はバイト先にも行ったんだよなー」「え、あの店にも?」 渉は思わず聞き返した。 自分の変化を心配してくれていた人がいたことに、少し驚く。「スッゲーいい店で働いてるよな。なんつーか、世界観が違うっていうか。サークルのみんなで一回行ったけど、やっぱ学生の俺らには敷居が高いというか」「うんうん。ああいうところで働くと、なんか違うんかなー。俺も働こうかな」「夜遅いから絶対きついぞ。よくやってたよなぁ。疲れたんだろ、渉」「……そうかな」 渉は曖昧に返し、電車の窓へ視線を向けた。 流れていく景色。会話への反応が薄い渉を見て、二人が笑う。「相変わらずだな。そういうところが渉って感じ」 ……そういうところ。 それが自分なのだろうか。自分自身のことなのに、よく分からない。 周りから見た自分が、どんな人間なのかも。 電車がトンネルへ入る。窓ガラスに、自分の顔が映った。 数ヶ月前より、顔つきが変わった気がする。服も、持ち物も。 そして生活も。 けれど、自分が変わった理由を、この二人には話せない。 いや……話す必要もない。 そう思いながら、渉は窓から目を逸らした。 目的の駅に着き、電車を降りる。会場まではすぐだった。 駅を出たところから、人が多い。「着いたぞ。ぼやっとするなよ」「あ、うん……」 渉は仲間たちについて入口へ向かった。 初日の夕方だというのに、かなりの人で賑わっている。「きっと講義受けた生徒も何人か来てるよ」 仲間の指差す先には、見覚えのある学生たちが何人かいた。 受付へ並んでいる間にも、別のメンバーと話す。「やっぱ彼女できたんじゃね?」「でも渉って、合コンの時も女の子にグイグイ行かないじゃん」「サークルでも聞いたけど、誰かと付き合ってるって話はなかったし」「どっちかっていうと、グイグイされたんじゃね? 渉」「はははっ」 渉は苦笑した。……確かに。 宙にグイグイと迫られた。 もし相手が男だと知ったら、彼らはどう思うだろう。想像すると、胸の奥がざわついた。「まあ、バイトも辞めたことだし、また飲み会とか合コンしようぜ」「……時間が
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第六十七話

 展示されているのは、海外から来た建築技術や新しい素材、都市設計についてのもの。 講義で見た図面と似たものもあった。「これ授業でやったやつじゃん」「ほんとだ」 仲間たちが足を止め、スマートフォンを向ける。渉もつられて撮影した。 画面越しに見ると、建物の形や構造がより分かりやすく見える。 けれど、渉自身は建築に詳しいわけではない。説明を読んでも、専門用語が多くて正直よく分からない。 それでも、実物を見ると不思議と目が離せなかった。 紙の上ではただの線だったものが、ここでは立体になっている。 人が暮らす場所になる。誰かが考え、誰かが作り、誰かがそこで生活する。 そう考えると、ただの模型には見えなかった。「こっちもあるよ」 仲間に呼ばれて振り返る。 今度は日本人の建築家やデザイナーを紹介するブースだった。 さっきまでの展示とは少し空気が違う。スーツ姿の人が多く、作品を見ながら話をしている。 名刺交換をする人。作品について説明する人。商談らしい会話をしている人。 ここにいる人たちは、ただ展示を見に来ているわけではない。 この先の仕事につながる何かを探している。「俺らも来年には就活だからなー」「こういうところから仕事決まったりしないかな」 そんな声が聞こえてくる。 就職活動。 その言葉が渉の中に残った。自分は何をしたいのだろう。 東京の大学に来たのも、とりあえずいい企業に入って、地元より高い給料をもらうため。 親にもそう言われてきた。けれど、具体的に何になりたいのかは分からない。 今はただ、宙のそばにいる。 大学に行って、宙の部屋に戻って、宙と食事をして、宙と過ごす。 それが当たり前になりつつある。 あと数年したら、自分もここにいる人たちのように仕事を探すのだろうか。 それとも……。 渉はそこで考えるのをやめた。 そのときだった。一つのブースの前で、渉の足が止まった。「……」 なんとなく、目を奪われた。 他にも優れたデザインはいくつもある。 けれど、これは違った。まっすぐに引かれた線。余計なものを削ぎ落としたような構成。細部まで行き届いた丁寧さ。 建築には正確さが必要なのだろう。 それでも、これは単なる正確さを超えているように感じた。 渉は一歩、展示に近づいた。図面を見る。 細い線がいくつも重なり
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第六十八話

「知ってますか? 彼のこと」 そう言われて、渉はハッと顔を上げた。「いえ……初めてです」 そう答えたものの、胸の奥がざわついた。初めて聞く名前のはずだった。 なのに、なぜか引っかかる。 ……ケイ。 昨夜、宙が寝言で呼んでいた名前。 そして昼間、宙の書斎で見つけた写真に写っていた男。「まぁ、この業界の人じゃないと分からないかもね。君は建築やデザイン専攻?」 渉は首を横に振った。「ああ、そうなんだ。学生さんだよね。どこの大学?」 学校名を告げると、斗真は頷いた。「ああ、なるほど……高村教授のところか。教授から課題を出されて、ここに来てる感じかな」「……はい」 図星だった。 もともとは建築やデザインに興味があったわけではない。 教授の講義はレポートを出せば単位が取りやすい……そんな話を先輩から聞いて、選んだだけだった。 けれど、授業を受けているうちに少しずつ興味は湧いていた。 そして今、目の前にある作品を見ていると、なおさらだった。「まぁ、あまり興味がなくても、このデザイナーのことは知ってほしいかな。凄さだけでも分かってもらえればいいと思ってる」 渉は頷き、改めて展示を見る。 デザインだけではない。 横に並べられたデッサンやラフも、目を引いた。ラフなのに、線が乱れていない。 一本一本が迷いなく引かれている。「……すごい」「そうでしょう?」 斗真が少し嬉しそうに笑う。「ささっと描ける人でね。頭の中ではもう出来上がっていて、それをすぐ紙に描き出す。……有望な人だったよ」 また、その言葉だった。「ほら、このデッサンも。これだけでも欲しいって、さっき言われましてね。まぁ、お断りしましたけど」「どうしてですか?」「本人の許可なしには渡せないからね」 本人。その言葉に、渉は名刺へ目を移した。 降谷圭。 宙が寝言で呼んだ名前。 写真の男。 そして、今はここに作品だけが残されている。活動していない理由も分からない。 どうして宙の家に写真が一枚だけ残っていたのかも。 ただ、渉の中では少しずつ一つの疑問になっていた。……この人は、宙にとって何だったのだろう。 以前、宙が連れていた若い男とは違う。 斗真の話では、もっと長く宙のそばにいた人間らしい。 それなのに今はいない。宙はその名前を眠っている時にだけ呼ぶ。
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第六十九話

 会場内を、そこからは足早に見ていった。 良いデザインも他にはあった。けれど、やはり渉の心に残っているのは、圭のデザインだった。 いや……デザインだけではない。 あの作品を作った人間。宙が寝言で呼んだ名前。写真の中で宙の隣にいた男。 そして、斗真が口にした「事故」と「下僕」という言葉。 それらが頭の中で何度も重なってしまう。「渉、元気ないなー。また授業でな」「サークルも、気が向いたら戻ってきてな」「あー、レポートか。だっるいけど頑張ろうなー」「うん……」 仲間たちはようやく展示会を見終え、出口でホッとしたように息を吐いた。 そのまま現地解散になった。渉も彼らに軽く手を振り、その場を離れる。 向かう先は決まっていた。 もちろん、宙の元へ。 スマートフォンを見る。宙からメールが来ていた。『まだ部屋にいないのかい?』 その文字を見ただけで、さっきまで張り詰めていたものが少し緩んだ。『今から帰る』 そう打ち込む。 ……帰る。 送信ボタンを押す直前、その言葉に渉は少しだけ戸惑った。 宙の「部屋」なのに。 いつの間にか、自分にとっても「帰る」場所になっている。 自分のアパートではなく。宙のいる場所へ。 渉はそのことに気づきながらも、送信ボタンを押した。 そして、そのまま宙の部屋へ向かった。 部屋に着くと、もう宙は戻っていた。 玄関の扉を開ける。「おかえり」 入った途端、宙が抱きついてきた。「……ただいま」 自然にそう返した。 その瞬間、渉の身体から力が抜けた。 展示会にいた時は、ずっと息が詰まっていたような気がする。 圭のこと。宙の過去。自分が知らないこと。 けれど今は宙がいる。 それだけで、ようやくホッとできた。 渉は宙の胸元に顔を寄せる。 けれど、頭の隅から圭のことは消えなかった。あの男は誰だったのだろう。どうして宙の寝言にまで出てくるのだろう。「さぁ、お風呂入ろうか」 宙が優しく頭を撫でる。「……うん」 渉は頷いた。 その手の温かさに安心しながらも、ふと斗真の言葉が蘇る。 ……下僕。 あれは、どういう意味だったのだろう。「どうしたの?」 宙が顔を覗き込む。「ううん、なんでもない……」 渉は笑って誤魔化した。 聞けばいい。圭という人のことを。 そう思う。 けれどもし聞い
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第七十話

 浴槽の中で、また身体を洗ってもらう。 足の指の間を丁寧に洗われると、一番くすぐったくて、渉は思わず笑ってしまった。「くすぐったい……」「そう?」 宙は楽しそうに笑いながらも、手を止めずに丁寧に洗ってくれる。 その繊細な手つきを感じながら、渉はふと思った。 圭という男が「下僕」……どうして。 目の前の宙は、こんなにも優しい。 人の身体に触れる時も、壊れ物を扱うように丁寧だ。 そんな宙と、斗真が言っていた「下僕」という言葉が、どうしても結びつかなかった。「今日はどこか行ってたんだね……一人で?」 やはり聞いてきた。 渉は首を横に振る。 背中を洗ってもらっているのが気持ちよくて、そのまま答えた。「大学のクラスメイトと、レポートを書くために展示会へ行ってたんだ」「……ほぉ。クラスメイトと」 宙はそれ以上でもそれ以下でもないような声で繰り返す。「なんの展示会かな」「建築デザインの……展示会だよ」「ああ。中央フォーラムでやってるやつ?」 渉は少し驚いて頷いた。やっぱり知っている。「僕も行きたいと思ってたんだ。ビジネスパートナーも、そこで手伝いをしていると言っていたし」 ……ビジネスパートナー。 それは、あの斗真という男だろうか。 顔が広そうな男だった。宙には、他にもそういう人間がいるのかもしれない。「何か気になった展示はあったかな」「……いろんな人のデザインを見て、すごいなぁって」「なるほどね」 宙の手が背中を滑っていく。「特に印象に残ったものは?」 また聞いてくる。 渉は少しだけ戸惑った。今は首元を洗われていて、声も出しづらい。「……綺麗なデッサンの人がいてね」 正直、圭の展示以外はあまり印象に残っていなかった。 ラフなのに、すでに完成した作品のようだった線。 迷いのなさ。 そして、あの写真。 そこまで思い出した瞬間、宙の手が止まった。「綺麗な、とは……どんなのかな」 声が、ほんの少し低くなった気がした。 渉はその変化に気づく。「……ラフなのに、もう作品そのものみたいで。線もすごく綺麗で……」「……あっ」 宙が小さく声を漏らす。 渉はそれ以上話したくなくなった。 これ以上、圭の話を続ければ何かが変わってしまいそうだった。 だから渉は、話題を逸らすように宙の身体を洗い始めた。「今度
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