All Chapters of 私の彼氏はちょっとだけ愛がオモい。: Chapter 61 - Chapter 70

70 Chapters

061話

 「ママから教えてもらったんです」と笑うと、壱と目が合った。 壱がニマニマして葵依を観察していた。「かっわいいな!」 頬の筋肉を膨らませて壱が笑った。「凄い」「可愛い」「天才」と連呼しながら、正面に座る葵依の頭を撫でた。 まさか自分の好みを言っただけでベタ褒めされるとは思わず、葵依は恥ずかしくてつい口を閉ざしてしまう。それから、壱が嬉しそうに見つめてくるので、心臓に悪い。撫でられて崩れてしまった髪の毛を手櫛で整えるフリをして、壱の顔を見ないで済むように俯いた。 「食べていい?」 俯いたままコクコク頷くと「いただきます」と壱の声が聞こえたところで、葵依はやっと顔を上げる。 自分が作った朝食を食べる壱を葵依は緊張の面持ちで眺めた。 こんがりきつね色に焼けた熱々のトーストに大きな口で齧り付く。半分のトーストを3口で食べ終わった壱は、皿へ一緒に盛ってあるカリカリに焼いたベーコンとウインナーを口の中に放り込んだ。ウインナーのパキッという良い音が響く。 目玉焼きの黄身を箸で突くと、膜が破れてドロリと流れ出す。白身をその黄身に漬けて、口に放り込み、レタスも同様。最後に黄身を一口で胃の中に入れた。 残った半分のトーストを手に取った壱がポカンとしている葵依に言葉をかける。「パンもサクッとしてて、目玉焼きもフワフワで、黄身のとろけ具合が最高に美味い」「パンはトースターで焼いて、目玉焼きはフライパンで焼いただけですよ……?」「人生でこれが一番美味い」 口を開けば褒めてくる壱に、タジタジになっていると一口トーストに齧りついた壱から視線を合わせられた。「食わないの?」「た、食べますっ」 褒められて、擽ったくてムズムズしていたら自分が食べるのを忘れていた。 少しだけ冷えてしまったトーストを更に半分に裂いて、裂いた半分をまた半分に裂いたトーストを食べる。バターとパンの甘味が口の中に広がって、葵依は少しだけ口角を上げた。 ──どうしてか、いつもよりパン生地が甘い気
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062話

  知りもしないのに、どうしてこんな事言えるんだろう。 葵依は鼻先に皺を寄せる。朝から見るもんじゃなかったな、と葵依はリモコンをテレビに向けた。 次は三日前に暴行殺人罪で逮捕された教師のニュースが流れる。『逮捕に踏み切ったのは、一昨年、警察庁が新たに設立した……』 世間を騒がせていた元教師というのは、他校へ通う男子高校生に善人面で近付いて暴行し、首を絞めて殺害することを繰り返していた連続殺人犯だ。それを地元の警察が逮捕に手こずり犯罪が加速する一方で、協力したのが新たに設立された組織『SSI』だという。その彼らの活躍についてアナウンサーがニュースを読み上げていた。 それから場面が切り替わり、警察新組織の否定派の意見が多い街角インタビューを観て葵依は眉間に皺を寄せた。 逮捕したのに、まるで悪い事をしたみたいに報道するのってヒドイ。『大山首相はSSI擁護派とされておりますが、新国党党首の門ヶ原党首は批判派で……彼が内閣総理大臣になればSSIへの風向きが変わるのではないかという……』 言論の自由、だから好きに言っても良いんだろうけど……内閣総理大臣が変わっただけで、簡単に警察の組織がなくなるものなのかな? その内閣総理大臣が例え、すごい家系の人でも……いくら批判していて嫌いでも、自分のさじ加減でそんな事をしないと思う。門ヶ原首相はちゃんと人の話を聞く人だよ。 門ヶ原という人物はまだ首相でもなんでもない。ただ、彼を首相にすべきだと言うような報道のせいで、葵依の中で門ヶ原=内閣総理大臣だというような認識になってしまった。 腑に落ちない表情を浮かべていると、SSIが男子高校生連続殺人事件犯人逮捕の記者会見をしている映像が映し出された。並んで座る中年の男性二人がカメラのフラッシュを浴びている。そのうちの一人がマイクに向かって口を開いたその時、画面が真っ暗になった。「あ」 黒い画面にリモコンを向け
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063話

  ♦  脱衣室のないアパートには、元々洗面化粧台がなかった。不便だと感じた遥が、七年前、年頃の一人娘の為に自腹で購入したものだ。元は冷蔵庫があった場所に設置されている。 葵依が洗面化粧台の三面鏡を開けて、予備の歯ブラシを壱へ手渡す。二人は並んで歯を磨いた。 鏡に映る二人を見て壱が葵依に言った。 「並んで歯磨きって、同棲してるみたいで良いな」「ん……」 隣の葵依を見るも……反応が薄い。 笑顔も嘘っぽかったし、表情に翳りがある事を壱は見逃さなかった。流石、2年間もの間、時間の許す限り葵依のバイト先のコンビニへ通い続けていたストーカーである。 (気に障る事、やっちまったか……?) 覚えはある。 最終的に承諾は得たものの、半ば強制的に性行為に及んだ。朝は後ろ姿にムラっとして風呂場で素股をした。バスタオルで拭いてあげるフリをして、胸と尻を揉んだ。それから朝食が美味くて、ベタ褒めした。自分が好きな目玉焼きの食べ方を、顔にパッと花が咲くような笑顔で説明する姿が飾ってもいいくらい尊過ぎた。食べている姿はこの世に存在しているのか疑ってしまうくらい、愛らしくて「かわいい」と「すき」しか言えなくなった。 葵依が可愛過ぎて、我慢できなかったとしても、手を出してしまったのは叱られてもしょうがない。ただ、朝食時に言った言葉は全て真実だ。嘘は言っていない。 言い過ぎて嘘っぽくなってしまった……? 葵依の反応は怒っている、というよりも照れていたように見えたが……。 交際一日目にして飛ばし過ぎてしまった。後悔はしていないのだが葵依から嫌われたらどうしようか……そんな事を思いながら壱は隣でゴシゴシと歯を磨いている葵依の横顔を見つめる。 例え、嫌われてしまっても手放す気もないし、別れる気もない。ただ、葵依が自分に好意を抱いていると気付く前に嫌われてしまっ
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064話

 「7時20分に家を出なきゃ間に合わないもんな」「あれ……? 私、言いましたっけ……?」 自分が家を出る時間をどうして壱が知っているのか。 首を傾げた葵依に、「昨日の帰り道、教えてくれたよ」という言葉を疑う事はせず、「そうでしたね」と葵依は受け入れた。 その様子を見て壱は、葵依にバレないように小さな溜息を吐いた。素直さは美点だが葵依の場合は欠点にもなる。本当に今まで俺以外につけ込まれなくて良かった。「……そろそろ、家を出ないと間に合わないな。そうだ、俺が車で送って行こうか?」「え、あ……」 一瞬だけ、笑みが浮かぶも、 「大丈夫です。自分で行きますから」 それはすぐに萎んで嘘の笑顔に戻る。 完璧な擬態だな……と思う。きっと、今まで誰も疑った事はないだろう。でも、と壱は心中で呟いた。 母親はどうだったんだろうか。 彼女は見抜けただろうか。  葵依は、母親が亡くなった今でも彼女を愛している。そして、母親からも葵依は愛されていた筈だ。身体には古い傷が一つもなかった。それに葵依は頭を触ろうとしても、怖がる素振りを見せない。虐待されて育った子供なら、目の前で腕を振り上げられれば、殴られると思って身を守ろうとする。ネグレクトを受けていた訳でもない。嘘の笑顔を浮かべる以外、壱が惚れた笑顔は周りが明るくなってしまう程、破壊力がある。感情表現に乏しいとか、そんなのは一切ない。逆に豊富だ。ただ、「哀」という感情を誤魔化しているようだった。 壱だけが見抜けるその笑顔は、ここ数年で突然身についたものではないように思えた。何年もかけて出来上がったものではないか──壱はそう考えた。大好きな母親の前でも、嘘の笑顔を貼り付けていたというのだろうか──それは、酷く悲しくて、痛々しい。 その理由を知って、何を不安に思っているのか取り除いてあげたい、と壱は思う。ただ、それはきっと今じゃない。今じゃ無理なの
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065話

 パァッと花が舞う。 壱は「うっ」と唸り声を上げて、思わず胸を押さえる。その笑顔は間近で見ると、危険だ。押し倒したくなる。「今日はひば」「ひば?」 ゴホン、と壱は咳払いをした。 「あーごめん、葵依の笑顔の可愛らしさに心臓をやられて噛んだ。……今日、俺は暇なんだ。仕事が休み」  満面の……力いっぱいの笑顔だ。壱が大好きな葵依の表情で葵依が笑っている。「じゃあ、今日もお喋り出来るんですね!」 飛び上がってもおかしくないくらい、嬉しそうだ。実際、肩が上下に跳ねている。そんなに喜ばれると、壱は何だか照れ臭くなって顔が火照ってくるのを感じた。 さっきまでの葵依の元気のなさが嘘のようだった。もしや、と思う。(俺が帰る、と思って……落ち込んでいたのか……?) 湧き上がってくる想いを堰き止める為、壱はまたも胸を押さえ込んだ。こうでもしないと、葵依が可愛過ぎて、押し倒してしまいそうなのだ。「えっと、十六時に学校が終わるので、それから帰ったら17時半までにはおうちに着きます。晩御飯食べますか?」「食べる!」と叫ぶ。ちょっと……いや、かなり力を込めて言ってしまった。 「今日もお泊りしますか?」(コンドーム用意しとく) 壱は心中でそう返事をして、ただ笑顔で頷いた。 本人はそんなつもりで言ったんじゃない。きっと深い意味はなく訊ねたんだろう。 葵依が嬉しそうなので、水は差さない事にした。「今日は一緒に居られるんですね」 感慨深そうに呟いた葵依の表情を壱は見る。今すぐ、葵依に鏡を見て欲しい、と壱は思った。そんなに切なそうにする理由が分かる筈だ。「今日だけじゃなくて、明日も明後日もそれ以降も会える」「明日も明後日も? お仕事お休みですか?」「いや。あるけど」
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066話

  葵依が狐に抓まれたような顔をした。「激務だからって、彼女に会わないなんてそんな事俺はしないよ。やっと葵依と付き合えたんだから」「ぇっ?」「デートはできないけど、会う事は出来るだろ?」「そ、そぉですね……」 葵依は壱の前で、自分の頬を触ったり髪を触ったりと落ち着かない様子だ。平静を取り戻そうとして、足を崩したり膝を突いたり、横を向いたりと忙しなく動いた末、再び正座に戻った。 「私の勘違い、だったんですね……」  カァー、と葵依の頬が徐々に紅潮する。両手で横髪を掴んで顔を隠す仕草をした。「早とちりしました」 葵依がそう言って、はにかみながら伏し目になった。「じゃあ、テスト前とテスト期間中以外は会えるんですね」 まるで、バイト休みの希望理由みたいな内容じゃないか……。 だが、テスト期間中もバイトをさせられていた葵依に「テスト期間中でも俺と会って」だなんて言い辛いな……。葵依の邪魔はしないと言った手前、自分の我儘のような気がして壱は何も言えずに、黙りこくった──が、すぐに閃いた。 パンっ、と両手を叩く。「テスト期間は可能な限り俺が勉強を見るよ。そうしたら会えるよな?」「迷惑じゃないですか……?」「葵依に対して迷惑だなんて思わない。毎回って訳には行かないだろうけど、出来る限り葵依と一緒に居たいんだ」「もしかして、俺が居ると勉強の邪魔になるか?」と嘆くと、葵依はブンブンと首を横に振った。「じゃあ、決まりだな」 壱がニッと笑う。泣き落としにまんまとやられる葵依を見て、この手をずっと使い続けようと壱は思った。 「決まったついでにもう二つ、話があるんだ」「話……」と葵依の大きな目が不安気に揺れる。良い話ではないと思ったのだろう。葵依が不安がる必要
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067話

 「出しましょうか」と立ち上がって台所へ向かおうとする葵依を壱は呼び止めた。家を出なきゃいけない時間だ、と言えばスマホを見て葵依は顔色を変えた。 慌てて玄関へ向かう葵依に、彼女が忘れて行った学生鞄を手に持ってついて行く。靴を履く葵依の背中を柱に背中を預けながら見届けた。「送って行こうか? 裏道を通れば三十分もかからない」  そう提案をすると、靴を履き終えた葵依がクルリと振り向いた。と同時に、鞄を忘れた事を壱が持つそれを見て、自分の手元にない事に気付いたようだ。照れ臭そうにして鞄を受け取った。「葵依の元バイト先の近くに停めてるからそこまで歩かなきゃならないが、車で送るよ。それにまだ腰とか脚の間が痛いだろ」 葵依は腰と脚の間と聞いて、口をすぼめた。これは、照れている。 「いえっ……大丈夫です。自転車で行きます」 断られてしまい、「そうか」と返した。見た目では納得しているフリをしても内心ではショックだ。葵依から頼って貰えるようになるのはだいぶ先になりそうだ、と壱は思った。まだ付き合って二十四時間も経っていないから、慌てなくてもいいだろうけど、葵依とズブズブのラブラブになりたい。そうなる為には身だけではなく心も手に入れなきゃならない。「私、これでも丈夫なんですよ!」 ニコォ、と右腕を上げて力こぶを作って見せてくれた。「触ってどうぞ」と言うので遠慮なく触る──力こぶではなく、二の腕の柔らかいところを。「もぉ! ここじゃないです!」 バッと腕を引っ込められてしまった。目くじら立てて怒る葵依がちっとも恐くなくて、壱は声を出して笑った。 笑った壱の顔を葵依は目を丸くして見つめる。それからプイッと顔を横に向けた。拗ねてしまった葵依を見て、壱は「ごめん」と手を合わせて謝るも……その彼女の口角が緩やかに上がっている。横髪に隠れてしまって、壱は気付かなかった。「──そろそろ行かなきゃ」 と言った葵依に「行ってらっしゃい」と壱は返す。バッと顔を上げた葵依の表情は驚いていた。
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068話

 「葵依」 葵依の名前を呼んで──壱は彼女の唇に啄むだけのキスをした。ポカンと口を開けた葵依がフルフルと震え出して、「不意打ちはダメ!」と叫ばれてしまう。壱は褒めて欲しかった。このまま葵依の腕を掴んで奥に連れ込んで行為に及ばなかった事を……。我慢した結果が、このキスなのだ。「今日、何度も許可なしでキスも素股もしたのに」「無防備で可愛いな」と葵依の隙を見て今度は右頬にキスをした。葵依がその場所に手を当てながら真っ赤になる。 「あ、うぁあぅ」「……今日、沢山お喋りをしような」 葵依の右耳にそう囁いて、壱はゆっくりと顔を上げる。葵依の目を見つめながら、彼女にふわりと笑いかけた。「行ってらっしゃい」 と言うと、またも葵依は怒ったような照れたような表情から、はにかむように笑って「行ってきます」と言ってくれたのだった。 ♦ 葵依は壱の穏やかな笑みを見ながら、玄関ドアを閉めた。 家を出る時に、誰かが居るって懐かしい。壱の前で昔の記憶が蘇ってつい泣きそうになってしまった。(上手に笑えてたかな) 失態だ。 懐かしい煙草の香りを嗅いでしまって、大好きだったママを思い出してしまった。「でも」と葵依は口の中で呟いた。 壱は自分と同じようにシャワーを浴びたから、煙草の匂いは薄まり代わりに自分と同じ石鹸とリンスインシャンプーの香りがしていた。それなのに、どうして懐かしいと思ってしまったんだろう……どうして、嬉しいと思ってしまったのか。  (ママが亡くなって、寂しすぎちゃってるのかな……) 寂しさはそう簡単に埋まらない。ただそれを必死に誤魔化して生きている。 あまり考えないでおこう、と葵依は長く息を吐く。(それにしても……。壱さんが口を開けて笑う姿って、やっぱり可愛い) 壱を思い浮かべて、
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069話

 挨拶もしてくれるし良い人だったのに? と葵依は唖然としてまじまじと巡査の顔を見つめる。「何をされたんですか?」「守秘義務でお話できないんです」  巡査は「すみません」と後頭部を触って頭を下げた。 デカい男が頭を下げたお陰で、隣人の開いた玄関からスーツ姿の男と制服警官が出入りする姿が目に入る。只事じゃない雰囲気に葵依は緊張して、ゴクリと唾を飲み込んだ。 視線を横に向けると自分より背丈が高い枝葉の隙間から駐車場にパトカーが停まっているのが見えて、余計に現実味を帯びた。「彼の家に出入りする怪しい人物を見かけた事ありませんか?」「ごめんなさい。お隣さんが一人のとこしか見た事ないです……あっ!」 昨晩の出来事を思い出して葵依は大声を出す。そう言えば、隣人が自分の家の玄関のドアを叩いて、尋常じゃない様子だったと巡査に昨夜の出来事を話した。「それは気にかかりますね……その後、どうされたんですか?」 あの後、青山がどうなったか葵依は詳しく知らない。知っているのは壱だ。「どうにかする」と言って部屋を出て行って五分で解決してくれた。ただ、それを言って良いものか葵依は言葉に詰まってしまう。今、自分の家に全く他人の男性が居る事を警察官に知られてはいけないような気がした。ほんの数秒前まで、口では言えない事をしていたので、それを暴露しなきゃいけないような気がしたのだ。「うぁ、っと。その後、私は寝ました」 しどろもどろになって、視線を彷徨わせる葵依の姿はどう見ても『何か知っている』だ。それに気付いているのかいないのか、巡査は「分かりました」と発した。 「昨夜、親御さんは一緒でしたか? もし家にいるならお話を伺いたいのですが」「だ、だめですっ!」 バッと玄関ドアの前で両手を開いて立った。これじゃ何か隠しているようなものである。訝し気に見つめる巡査の前で葵依は変な汗を額に掻いてしまっていた。 「あ、あの、私、ママを亡くして一人暮らしなんです。だから、おうちには誰もいませ
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070話

 『まぁ、良いや』(良くない。ううん、良かった) 追求されずに済んで良かった。でも小テストは忘れていたから、良くない。ふたつの相反する気持ちが頭の中グルグル回って一人百面相をしてると『葵依はさ』と楓から話しかけられた。『勉強、頑張らなくて良いんだよ』 声は極めて優しくて、温かい調子だ。頑張り過ぎている葵依を気に掛けている──でも、その優しさは葵依の深い所を抉った。「でも、大学に行かなきゃならないから」『自ら苦労してどうするの?』「楓くんは大学に行ってるよ」『だって僕は跡取りだし。葵依は大学とか就職とか考えんなくても良いんだよ。苦労して欲しくないんだ』 楓の言葉は身体を壊してまでバイトをしながら勉強をしている姿を見て心配してくれている。葵依はそれが分からない程の馬鹿じゃない。純粋に心配してくれている──でも、葵依はその優しさが辛かった。 養子に入り、同じ苗字を継いだら良いと彼らは言う。そうすれば何ひとつ苦労をしないで済むんだから、と。日本中どこへ居ても恩恵を受けられる──彼らの存在はそれだけ偉大で、彼らを知らない日本人は居ない。下手すれば、外国人さえも知っている程の名家だ。一昔前なら彼らが道を通れば、人は道の隅に寄って頭を垂れていただろう。そんな彼らの養子になれば、今までの生活と180度変わる。でも、葵依はそれを望んでいない。 遥はその恩恵を受けていたにも関わらず、十八歳で家を出た。茂達から聞いた訳じゃない。遥も葵依には実家の事を自分が病気になるまで何ひとつ教えなかった。ただ、彼らが自分には伏せている事実を、葵依は知っていた。妊娠した事で遥は破門されたのだ──葵依は遥が亡くなる前から実家の事は知らなくても、追い出された理由は知っていた。 (ママが苦労したのに、自分だけ楽をするなんてあり得ない)  ずっとずっと思っている。  私さえ居なければ、無理してまで仕事を何個も掛け持ちしなかっただろう。きっと煙草も吸っていなかった。 あれは、ストレスを軽減させる為に吸っていたのではないだろうかと。
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