All Chapters of ゴミとして捨てられた聖女、王国を奪う: Chapter 41 - Chapter 50

50 Chapters

救済という名の混乱

 ――ロンデル公国・国境警備隊駐屯地。 黄昏時。 空にまだ夕日が残り、地平線が赤く染め上げていた。 最初の咆哮が響いたのは、その時だった。「――来るぞ!!」 見張りの兵が叫ぶ。 次の瞬間、地面が抉れた。 森から黒い巨体が、土煙を上げて突っ込んでくる。 街の西門付近が、騒然としていた。 兵士たちが、武器を手に走り  市民が、建物の中へ逃げ込んでいる。 戦場は、門の外――街道沿い。 ロンデル警備兵、二百。  旧王都軍の駐屯兵、八百。 だが、動いているのは前者だけだった。「おい、手伝え!!」 怒鳴る警備兵に、王都軍の指揮官は眉一つ動かさない。「我々の任務はロンデル市街の治安維持だ。  西門外は管轄外となる」 「そんな理屈を言ってる場合か!」 だが、返答はない。 王都軍は距離を保ったまま、戦場を観察していた。 その間にも、魔物は迫る。  魔物は三体。 だが、一体一体が大きかった。  四足の獣型。  体高は馬の倍ほど。 皮膚は黒く、人の顔のような魔力が滲み出るように光っている。「かかれっ! 退くな!」  指揮官の声が飛ぶ。 前衛の一角が文字通り吹き飛ばされ、悲鳴と共に血飛沫が舞う。  盾列が慌てて並ぶが、遅い。「ぐあああああ!!」  盾が紙のように砕け、  兵士たちが弓なりに折れ曲がりながら数メートル先まで飛ばされる。 骨が折れる音、肉が裂ける音が連続して響く。「魔術班!! 拘束を――」 魔術師の詠唱が始まるが、二体目が背後から飛びかかり、  魔術師を丸ごと咀嚼するように飲み込んだ。 異界獣ガルガンチュア。  四足の巨体にも関わらず、地面を滑るように接近する。「くそ……!」 指揮官が歯を食いしばる。 恐ろしく強い。どこから湧いてきやがった。(こんな魔物、見たことない……!) 兵は必死に応戦する。 槍を突き立てる。 刃は通る、だが、浅い。 咆哮の個体が口を開いた。 空気が歪む。 不可視の衝撃が走り、残りの魔術師たちをまとめて吹き飛ばした。 陣形はすでに崩壊寸前。 ――終わる。 その空気が、場を覆い始めた時。 魔力を纏った、小さな人影が、  上空から降下してきた。 着地の衝撃で、土煙が上がる。  煙が晴れた時。  そこに、少女が立って
Read more

母と公妃の間で

 ロンデル公国、公妃ロナ・フォン・ブリューテは、  窓の外を見ていた。 首都エルドラ公宮の執務室。  昨夜の戦闘の報告書が、机の上に積まれていた。   「七人……か」 ロナは報告書を握り潰しかけて、止めた。 死者、七名。  重傷者、二十三名。  ――たった三体で、この被害。  ヒマリの介入が無ければ、住民に被害も出ていたはず。「公妃陛下」  扉が開き、侍従が頭を下げた。 「王都の使者が参っております。  ヒマリ女王が、直接お目にかかりたいと」  ロナは、報告書を閉じた。「通しなさい」  声は、平静だった。  胸の奥が、ざわついていることを、  誰にも悟らせない声だった。 ヒマリは、思ったより小さかった。  ロナが最初に思ったのは、それだった。 童顔。黒い目。黒い髪。  髪を編み込みもせず、束ねもせず、  少女のように肩先で切り揃えている。 王都を解放した女王が、これほど小さいとは。「ロナ・フォン・ブリューテ公妃」  ヒマリは、一礼した。「お時間をいただき、ありがとうございます」 「どうぞお掛けになって。歓迎いたしますわ」  ロナは、椅子を示した。 自分も、対面に座る。  しばらく、沈黙があった。 ロナは、その沈黙を壊さなかった。  先に話すべきは、来た側だ。「昨夜の魔物について」  ヒマリが、口を開いた。「差し出がましいと思いましたが、介入させて頂きました」 「警備兵から報告があがっています」 「すべては救えませんでした」 ロナは、ヒマリを見た。「なぜ、貴方が他国の軍を気にされるの?」  会話を始めて、違和感だけが募っていく。「ジギスムントの布告を知らぬわけでもないでしょう?」「助けられる命を放ってはおけない」 「ジギスムントに代わってロンデル公国を救っていただけると、  感謝申し上げればよろしかったかしら」「感謝も許しもいりません」  率直な言葉だった。  ロナは、わずかに目を細めた。「そして、旧ロンデル軍に、許しを請うつもりもありません」  ヒマリは、静かに言った。「聞いてもいいかしら」  ロナは、静かに言った。「何でしょう」 「第四軍、いえ、ロンデル公国軍は――  本当に、あなたが虐殺した
Read more

政略結婚は断れない

 ヒマリが公宮に荷物を運び終える頃には、夕方だった。 貴賓室の椅子に沈み込む。 疲れている。  体ではなく、頭が。  ロナ公妃の目が、まだ残っていた。  怒りと冷静が、同時に宿った目。 許していないが、切り捨てもしない目。 (あの人は、強い)  そう思った。 でも、嫌いではない。  それが、余計に疲れた。 出発前、王都での会話を思い出す。「ヒマリ、今度は先に話す」  フェルマーが、ロンデル公国・外交接触案を紐解く。  またスクロールだ、とヒマリは思った。「聞くわ」「ロンデルと、婚姻を結べ」  ヒマリは、三秒、固まった。「……いやいやいや、ちょっと待って。  婚姻って、あの……結婚の、あれだよね?」 ヒマリは、ぱちぱちと目を瞬き  フェルマーの細面の表情を見た。 いつもの、感情を排した顔だ。  だが、その目が、わずかに真剣だった。「政略婚だ」「いや、そういう意味じゃなくて……  私、まだアレクシス公子と会ったこともないし、  好きな食べ物も知らないんだけど」「では、聞けばいい。  その後でアレクシス・フォン・ブリューテ公子と、  正式な婚姻関係を結ぶ」「……フェルマー、あなたは本当に、  私の人生をサラッと動かすよね」「必要な判断だ」「分かってるけど……心の準備くらいさせてよ」「現状を整理する」  フェルマーは、構わず続けた。「現在、我々の敵は二つある」  フェルマーは、指を一本立てた。「サンドランドのジギスムント。  外交と婚姻で包囲網を作りつつある」 二本目。 「そしてロンデル。  表向き中立だが、感情はヒマリに向いていない。  公妃は実権を持ち、動き次第では敵になる」  フェルマーは、指を下ろした。「このまま放置すれば、  ジギスムントがサンドランドから動いた時、  ロンデルが呼応する可能性がある」 「……それは」 「二正面作戦だ」 ヒマリは、黙った。「南からジギスムント。  北からロンデル。  その間に挟まれれば、  魔王城の結界圏外での戦闘を強いられる」 「また、次の保険があるでしょう」 「そう都合よく考えるな」  フェルマーは、静かに言った。 「ジギスムントは、学ぶ男だ」
Read more

信仰という名の愛

 三日後。  アレクシス公子から、使いが来た。 「公子から呼び出し?」  ヒマリは、紙片を見つめた。 ――王宮の庭で、お話しできませんか。  短い文だった。  アレクシス・フォン・ロンデル 庭は、静かだった。  エルドラ王宮の中庭。 砂岩の回廊に囲まれた、小さな庭園。  乾いた空気の中に、白い花が咲いていた。 ヒマリは、一歩、庭に入って――  止まった。  銀髪だった。  朝の光の中で、白に近く見える。 肩に落ちるほどの長さで、  風に、わずかに揺れている。  背が高い。  だが、威圧感がない。 肩幅があるのに、どこか内側に折れているような、  自分の大きさを持て余しているような立ち方。 噴水のそばに立っていたアレクシスが、  ヒマリを見た瞬間、  微笑んだ。 その笑顔が――(……あ) ヒマリは、一瞬だけ、  思考が止まった。  柔らかい笑顔だった。 喜びを、そのまま顔に出した笑顔。  警戒もなく、計算もなく。  青い目が、ヒマリをまっすぐに見ていた。 ジギスムントの蒼瞳とは違う。  あちらは、感情を排した氷の色だ。 アレクシスの目は――  透き通った空の色で、  その中に、確かに感情が揺れていた。(整っている) そう思った。  そしてすぐに、そう思ったことに気づいて、  ヒマリは視線を逸らした。「来てくださった」 「……呼ばれたから」 ヒマリは、少し離れた場所に立った。  距離を、測るように。 近い。 昨日は騒然とした状況で、  ゆっくり見ていなかったが。  近くで見ると、肌が白い。 ロンデルの日差しの中にいるのに、  北方の冬のような白さだ。  睫毛が、長い。(なんで今、そこを見てるの) ヒマリは、内心で自分に突っ込んだ。  アレクシスは、それに気づいていないように、  静かに話し始めた。「先日は、失礼しました」 「いいえ」 ヒマリは、首を振った。「公妃の反応は、正しい。  私が、そう言われる立場にある」  アレクシスは、しばらくヒマリを見ていた。「あなたは」 「何?」 「自分を、責めることに慣れているんですね」  ヒマリは、答えなかった。「責めているのではな
Read more

公妃の憂鬱

 エルドラ王宮、執務室。  西の空が夕暮れに染まり、  光が窓から淡く差し込んでいた。 フェルマーが去った後、  執務室には、しばらく沈黙があった。 ロナ・フォン・ブリューテは、机の上の書簡を見つめていた。 ――婚姻。 その二文字が、紙の上で静かに光っている。 アレクシスの名も、ヒマリの名も、そこには書かれていない。  ただ、政治の言葉だけが並んでいた。(……あの子が、婚姻) ロナは、ゆっくりと椅子に背を預けた。 怒りではない。  驚きでもない。 胸の奥に広がったのは――  嫌な予感だった。「お母様」 扉がノックされ、アレクシスが入ってきた。 ロナは、書簡を伏せた。「……聞いたのね」「はい。フェルマー殿から」 アレクシスは、静かに頷いた。「ヒマリ殿との婚姻。  ロンデルと王都の同盟の証として」 ロナは、息子を見た。 その顔は、昨日と同じ穏やかさを保っていた。  だが――その奥に、何かが灯っている。(この子……) ロナは、胸の奥がざわつくのを感じた。「アレクシス」「はい」「あなたは、どう思っているの」 アレクシスは、少し考えてから答えた。「……悪くない話だと思います」 ロナの眉が、わずかに動いた。「悪くない?」「はい。  ロンデルは小国です。  ジギスムント王に従属する未来より、  ヒマリ殿と並ぶ未来の方が、まだ息ができる」「政治の話をしているのではない」 ロナの声が、わずかに低くなった。「あなたの話をしているの」 アレクシスは、母の目を見た。 その目は、公妃の目ではなかった。  母の目だった。「……ヒマリ殿は、強い人です」「そうね」「でも、壊れそうな時もある」 ロナは、息を呑んだ。「あなたは、あの子を支えられると思っているの?」「はい」 迷いがなかった。 ロナは、机の端を指で叩いた。(この子は……本気だ) アレクシスは続けた。「僕は、ヒマリ殿を利用するつもりはありません。  ただ、彼女と並んで歩きたいと思っただけです」「……並ぶ?」「はい」 ロナは、しばらく息子を見つめた。 その横顔は、幼い頃と同じだった。  優しくて、弱くて、  それでも誰かを守ろうとする時だけ、強くなる。(ああ……) 胸の奥に、痛みが走っ
Read more

政略結婚のはずが、普通に優しくされて困る

 ロンデルの午後 「今日、少し時間はありますか?  ヒマリさんと、外を歩きたいんです」 朝食の席で、アレクシスが言った。 ヒマリは、書類から顔を上げた。 「フェルマーに確認する」  フェルマーへの通信を開くと、  即座に返ってきた。「今日の午後は、予定がない。  むしろ、少し休め」 「……あなたが、そんなことを言うの」 「言う。  疲弊した主は、判断が鈍る」  ヒマリは、通信を切った。 アレクシスを見た。 「時間、あるって」  公子は、あの笑顔で頷いた。 エルドラの街は、  朝の光の中にあった。 砂岩で作られた建物が、  日差しを受けて白く輝いている。 路地は細く、入り組んでいる。  北方の王都とは、何もかもが違った。「どこへ行くの」 「少し歩きます」  アレクシスは、先に立って歩いた。 人混みの中でも、  自然に道を空けながら進む。  威圧しているわけではない。  ただ、丁寧に歩いているだけなのに、  人が自然に道を開ける。(不思議な人だ) ヒマリは、その後ろを歩きながら思った。 最初に連れて行かれたのは、  市場だった。  色とりどりの布。  乾燥した果物。  香辛料の匂いが、充満している。 市場に入った瞬間、  アレクシスが振り返った。 「何か気になるものがあれば、  遠慮なく言ってください」 逆光だった。  砂岩の白い壁に、午後の光が反射して、  アレクシスの銀髪が、白く輝いていた。  その中で、青い目が、  ヒマリをまっすぐに見ていた。(……眩しい) 光のせいだと、  ヒマリは思うことにした。「……何か、珍しいものを教えて」  声が、わずかに平板になった。  いつものやつだ、と  自分で気づいた。「これ、何?」  ヒマリは、見たことのない果物を指した。  丸くて、赤い。  表面に、細かい棘がある。「砂棗(ヤナギバグミ)です。  ロンデルにしかない果物で」  アレクシスは、一つ買って、  ヒマリに渡した。「食べ方は?」 「こうやって」  アレクシスは、果物の頂点を指で押した。  すると、花びらのように開いた。「わ」  ヒマリは、思わず声を
Read more

観測者は、彼女を手放せない

 ロンデル公宮で与えられた部屋は、静かだった。 アレクシスとの会談を終えて、ヒマリは一息つく。  窓の外に、エルドラの夜が広がっている。 北方より、星が多い。  空気が乾いているから、よく見える。 ヒマリは、椅子に座ったまま、  何もしていなかった。 珍しいことだった。 いつも何かを考えているのに、  今夜は、頭が空白に近い。(アレクシス) 名前を思い浮かべた。  それだけで、朝の庭が戻ってきた。  銀髪。  青い目。  あの、計算のない笑顔。(やめよう) その時、部屋の空気が、変わった。 音はなく、光もない。  ただ、密度が変わった。 ヒマリの正面に、魔力で編まれた像が、浮かんだ。 人の形をしていた。 クルスだった。 ヒマリは、目を瞬いた。 「……実体化できるの?」 『投影だ』  クルスの声が、外から聞こえた。 いつもは内側から聞こえる声が、  今夜は、外にある。 『君から学習し、この程度の投影なら可能となった』 ヒマリは、クルスを見た。  覚えている形と、違った。  以前は、女性の形をしていた。 今は――  背が高い。  肩幅がある。  黒に近い髪が、静かに垂れている。 左右対称の、整いすぎた顔立ち。  紫の瞳が、ヒマリを見ていた。(変わった、魔王城コアで見た時と――  姿も、性別も)「……いつから、その形に?」 『少しずつ、変わっていた』 クルスは、静かに言った。『気づいていなかったか』 「……気づいていなかった」  ヒマリは、正直に答えた。(……こんな顔、好きに決まってる。  でも、褒めたくない) ずっと思い描いてた、理想の男性像。  見ているだけで、鼓動が高まる。(なんで)『話がある』  クルスは、言った。「重要な話なの?」 『場合によっては、  だから、今夜は君を見ながら話したい』  ヒマリは、クルスを見た。「珍しいわね」 『そうだ」  クルスは、わずかに目を細めた。 『珍しいことを、言っている』『まずは確認だ。  僕たちは、もう離れられない』  静かな声だった。 報告のような、淡々とした声だった。  なのに、その言葉が、部屋の空気を変えた。「……知っ
Read more

世界を売る夜

 砂嵐の夜。  サンドランド郊外、砂の神殿跡。  風が唸り、砂が舞う。 だが、石造りの回廊の中だけは、  ジギスムントの周囲に張られた結界が、外界の音を遮断していた。 燭台の炎が、静かに揺れている。  黒い霧が、滲み出した。  音もなく、壁から湧くように。  ノリスが、姿を現した。 魔王城の制御権を失った今、かつての威圧はない。  だが、その眼差しだけは、  なお鋭かった。「ふふ……ずいぶん早い逃げ足だったわね、王様」「逃げではない。再編だ」「同じ言葉を、昔のあなたは撤退と呼んだわ」 沈黙。 ジギスムントは、地図から視線を上げない。  玉座を失っても、背筋だけは崩さなかった。「……まさか、あなたから呼び出すなんてね」「お前が応じることは、最初から分かっていた」 二人の間に、かつての婚姻の記憶が沈殿する。 ノリスは、それを踏みにじるように、  一歩前に出た。「あなた、負けかけてる」 「……」 「第四軍を失い、第二軍も失い、  王都はヒマリに握られた。  ロンデルも、いずれ離反する」 ジギスムントの指がわずかに動いた。 「それで?」 ノリスの唇が、ゆっくりと歪んだ。 「私は――あなたを憎んでいる」 「分かっている」 「捨てられたからじゃない」  ノリスは、ジギスムントをまっすぐに見据えた。「選ばれなかったからよ」  空気が、張り詰めた。 「ヒマリは、フェルマーを選び、  シュルツを選び、女王の未来を選んだ」 「でも、あなたは、私を道具として使って捨てた」 ジギスムントは、ようやく面を上げた。「でも、お前はここに来た」  ノリスは、カッと頬を赤らめた。「お前の言うように、私に以前のような余裕はない」  ジギスムントは、ノリスを見た。  その目に、計算の光があった。 ノリスには分かった。  この男は今、自分の言葉の裏を読んでいる。(好きに読めばいい――  どうせ、あなたに私のことなど分からない)「条件を出そう」 「条件?」「お前は、自分が主役の戦争を望んでいる」  ノリスの眉が、わずかに動いた。「……何を言っているの」 「どこに行っても、お前は結局、道具として使われる  ヒマリも以前は格下相手の遊びだ
Read more

ヒマリだけが知らない夜

 魔王城・コアルーム。 制御室の空気が、わずかに震えた。 クルスは、演算を止めた。 外界の魔力流が、  いつもと違う揺れを帯びている。「……ノリス」 名を呼ぶ声は、誰にも届かない。 だが、魔王城のコアで同期していたことのある  クルスには分かった。 ノリスが、何かを決め  守るべきものを、捨てた。  代わりに、別の何かを掴んだ。 その波が、魔王城の深層まで届いていた。(ヒマリに、知らせるべきか) クルスは、指を止めた。 演算は、答えを出している。 ――知らせるべきではない。 ヒマリは今、ロンデルとの婚姻交渉の渦中にある。  心拍は安定している。  判断も、揺らいでいない。 だが。(……揺らぐ要因は、増えた) スクリーンに映るヒマリの心拍が、  ほんのわずかに跳ねた。 クルスは、目を細めた。「……ノリス。  君は、また選ばれなかったと感じたのか」 その感情の揺れは、  魔王城のコアにとってはノイズだ。 だが、クルスにとっては――(利用できる) そう、演算は告げていた。 だが、クルス自身は、  その結論をすぐには採用しなかった。 ヒマリの心拍が、  ロンデルの夜空の下で、静かに上下している。(……ヒマリ) クルスは、スクリーンに触れた。 ノリスが動いた。 ジギスムントが動いた。 世界が、またヒマリを中心に回り始めた。 だが――(君は、まだ知らない) 世界が、  君を奪い合うために動いていることを。 君を壊すために、  君を守るために、  君を利用するために。 それぞれが、勝手に動き始めている。「……知らせるのは、まだ早い」 クルスは、演算を再開した。 ノリスの魔力波形を追跡し、  ジギスムントの動きを予測し、  ロンデルの感情曲線を解析する。 そのすべての中心に、ヒマリの心拍がある。 ◆同じ頃 ロンデル公宮・客室 ヒマリは、眠れなかった。 窓の外、エルドラの夜は静かで、  星が多くて、風の音すら優しい。 なのに、胸の奥がざわついていた。(……何か、変だ) 理由は分からない。 アレクシスと話したせいかもしれない。 クルスの投影を見たせいかもしれない。 ロナ王妃の目が、まだ胸に残っているせいかもしれない。 でも―
Read more

花砂に残る所有の証

 冷たい指と、砂漠の花砂。 サンドランド王国・王宮離宮の回廊は、  灼熱の陽光を白い布で柔らかく遮り、  甘い香木の煙がゆるやかに立ち上っていた。 アリシアは、自分の鼓動が  うるさいほど高鳴っているのを隠せなかった。 ジギスムントの隣を歩くだけで、胸の奥が熱を持つ。 淡い黄金色の衣装が風に揺れ、  砂漠の花を模した銀糸が陽光を弾いていた。 首元と袖口の薄いヴェールが風に揺れ、  薄橙色の髪を優しく包んでいる。 侍女たちが昨夜遅くまでかけてあつらえた衣装だ。 (……この人が、気に入ってくれるといいのに) ジギスムントは彼女の肩にそっと腕を回してくる。「おお、シュルンベルゲラのような可憐な美しさだ」 低く、甘く囁く。「私の為にあつらえてくれたのか?」 アリシアの頰が、熱を帯びた。 心臓が、早鐘のように鳴り響く。 恐怖と、どこか甘い疼きが混じり合って、  胸の奥をざわめかせていた。「……そうではありませんが  ……婚礼までお会いできなくなると聞きましたので」 声が少し上ずる。後ろで控える侍女たちが、  ぴょんぴょんと小さく飛び跳ねながら、  嬉しそうに手を握り合っているのが気配で分かった。(やだ……みんな、はしゃぎすぎ) ジギスムントは満足げに微笑んだ。「不安なら、証を残しておこう」 その言葉が終わらないうちに、彼はアリシアの顎を優しく  ――しかし逃げられない力で持ち上げた。 一瞬の沈黙。冷たくも甘い口づけが落ちる。  唇が触れた瞬間、アリシアの背筋に電流のような震えが走った。 キスは優しかったが、そこに温もりはほとんどなかった。 ただ、所有の証。  それでも、アリシアの胸は熱く高鳴っていた。 唇が離れた後も、  アリシアは、すぐに呼吸を整えられなかった。 まるで、 自分の感情の一部を、  彼の指先で掴まれたままのようだ。(誰も知らない顔を、私だけに見せてくれた……) この完璧すぎる男の冷たさに、  なぜか惹かれてしまう自分が怖かった。「……どうして、私なんですか」 彼女は息を詰め、すぐに顔を背けた。 頰が熱い。「余計、不安になってしまいます……」声が上ずる。(この人が私を妻にするのは、政略のため  ……でも、こんなに近くにいると、鼓動が止まらない) ジギスムントはく
Read more
PREV
12345
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status