ゴミとして捨てられた聖女、王国を奪う のすべてのチャプター: チャプター 61 - チャプター 70

94 チャプター

囚われの公子

 石壁の冷たさが、背中から骨へ染み込んでいた。 湿った空気が肺に重く、片目は見えない。  右肩から先も、もう存在しなかった。 それでも、不思議と痛みは薄い。  痛みを感じる余裕すら、心のどこかから消えてしまっていた。 アレクシスは石壁にもたれ、浅く息を吐く。 差し込む光は少なく、鉄格子の向こうには誰の気配もない。 足音が響く。  規則正しく、迷いなく。 やがて石扉が開いた。 現れた男を見て、アレクシスはゆっくり顔を上げる。 ジギスムント。  かつてのブリュード王国の王。 そして――すべてを奪った男だった。「生きているか、公子」「……どうにか」 掠れた声だった。 ジギスムントは数秒、黙ってアレクシスを見る。 観察し、値踏みする目。  その視線は、冷徹だった。 アレクシスは唇を動かす。「……ロンデルは」 だが、最後まで言わせなかった。「滅んだ」 迷いのない断定。「ロナ公妃は戦死。  公宮は陥落。  ロンデル公国は崩壊した」 空気が止まる。 (――あなたは、生き残るの)  母の最期の声を思い出す。 叫びも涙も出なかった。 ただ左手の爪だけが、掌へ深く食い込んでいく。  胸の奥で何かが静かに崩れ落ちた。「……そうですか」 声だけは震えなかった。 ジギスムントの目が、わずかに細くなる。「泣かないのか」「泣けば、戻りますか」「戻らん」「なら、無駄です」 即答だった。  その声には、もう以前の弱さがなかった。 いや、正確には――削ぎ落ちていた。 ジギスムントが、小さく笑う。「いい顔になった」 石椅子を引き、向かいへ座る。「では、試そう」 冷たい蒼い瞳が向けられる。「お前は、なぜロンデルが落ちたと思う?」 アレクシスは沈黙した。  感情を押し殺す。 考える。  ただ、生き残るために。「僕の力が足りなかった……だが、戦力差ではありません」「ほう」「最初から、壊す順番が決まっていた」 脳裏に、炎の街が浮かぶ。「内部構造を知っている者がいた」「あるいは――」 一瞬、言葉を止める。「誰かが、魔物を誘導した」 ジギスムントの口角が、僅かに上がった。「及第点だ」 アレクシスは顔を上げる。 そこで初めて理解した。  この男は、答え合わせをし
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二度目の撤退

 サンドランド王宮・謁見の間。 朝の陽光が高窓から差し込み、砂岩の柱を黄金色に染めていた。  乾いた光の中で、細かな砂塵が静かに舞っている。 その中央、ジギスムントは階段下に立っていた。 背筋は真っ直ぐに伸び、衣服に乱れはない。  柔らかな微笑すら完璧だった。 誰が見ても、敗北とは無縁の男。 ――そう見えるはずだった。「この先、どうなるのだ?」 慌ただしい足音が響き、サンドランド王サムールが姿を現す。  老王の顔には、隠しきれない不安が滲んでいた。「やはり次は、我が国が戦場になるのか?」 ジギスムントは穏やかな笑みを崩さない。「ご心配には及びません」 一礼。その所作は流れるように自然だった。「魔王ノリスは討たれ、ロンデル公国は事実上崩壊しております。  さらに、行方不明となっていたアレクシス公子も保護いたしました」「おお……!」 サムールの表情が明るくなる。 ジギスムントは静かに言葉を重ねた。「今後はロンデル交易権を整理し、木材取引を始めます。  大型船による北方都市群との交易路も整うでしょう」「木材か……!」 老王の目が露骨に輝いた。 砂漠国家にとって木材は長年の悲願だった。 ――実に分かりやすい。 欲しいものを示せば、人は動く。  王ですら。「サンドランドは、これまで以上に豊かになります」「素晴らしい!」 満足そうに頷いたサムールは、上機嫌のまま続けた。「では予定通りだ。アリシアとの婚姻、来月に進めよう」 ジギスムントは優雅に頭を垂れる。「光栄です。王女殿下には最大の敬意を」 円満な政略。  盤面は整っている。 ――そう見える。 やがて王が去り、広い謁見の間に静寂が落ちた。 その瞬間、ジギスムントの笑みが音もなく消える。 指先が微かに震えていた。(……二度だ) 胸の奥で、冷たい感情がゆっくり形を持つ。(私は、二度も撤退した) あり得ないことだった。 これまで全ては計算通りに進んできた。 国も、人も、感情すら。 敵対者は切り崩し、必要な者は懐柔する。  必要なら愛すら演じた。 誰もが最後には、自分の描いた盤面へ辿り着く。 ――それが当然だった。 だが、ヒマリだけは違った。 完璧に追い詰めたはずだった。  兵を動かし、策を巡らせ、外交まで使った。
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ノリス、影として動き出す

 王城、謁見の間。 高い天井から差し込む光が、磨き上げられた床へ静かに落ちていた。 玉座に座るのは――ヒマリ。 否。 ヒマリの姿をした、ノリスだった。 背筋を伸ばし、穏やかな笑みを浮かべる姿は、  誰が見ても女王そのものだ。 ほんの少しだけ声が低いことも、  瞳に以前より冷たい灰色が宿っていることも、気づく者はいない。「――本日の議題を」 静かな声が響く。  その瞬間、張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。 女王は健在。  王国は終わっていない。 貴族たちは、そう信じたかった。 玉座の上で、ノリスはゆっくり呼吸を整える。(私はヒマリ) (私は女王) フェルマーに教育されながら、何度も繰り返した言葉だった。  そう思わなければ、自分が崩れそうだった。 ヒマリは眠っている。  だから、自分が立たなければならない。 そのはずなのに――。(……本当に?) 一瞬だけ、胸の奥がざわついた。 自分は誰なのか。 ノリスなのか。 ヒマリなのか。 生き延びて、何をしたかったのか。 だが微笑は崩さない。「続けて」 低く告げた時だった。 慌ただしい足音が響く。  文官が青ざめた顔で膝をついた。「サンドランド王国より、全国家へ向けた公式声明が届きました!」 ざわり、と空気が揺れる。 読み上げられた内容に、場の温度が一気に下がった。 ロンデル公国正統継承者、アレクシス公子の保護。 ロンデル解放要求。 そして、  ――魔王ヒマリによる侵略行為への糾弾。 怒号が飛び交った。「僭王ジギスムントを討つべきです!」「しかし軍の損耗が大きい!」「公子が本当に生存しているなら――」「陛下、ご判断を!」 ヒマリなら、即断していた。  だが、玉座の上だけが静かだった。 アレクシス。  その名が、胸の奥へ鋭く刺さる。(生きてる……?) 嬉しい。 けれど、同時に恐怖が走った。 もし、生きているなら。  もし、本当に囚われているなら。 ――自分のせいだ。 あの時、ジギスムントと手を組まなければ。  もっと別の道を選べていたなら。「陛下!」 怒号が強くなる。 その時だった。「静まれ。陛下の御前である」 低い声が響く。  一瞬で空気が止まった。 フェルマーだった。「ロ
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異界の迷い道――願いの道標

 指輪が静かに脈打った。 黒い光が指先を覆い、その輝きが視界を飲み込んだ瞬間、  世界は音もなく反転した。 ◆ 空には雲がなかった。  なのに紫色の空そのものが脈打つように揺れている。 地面は黒い霧に覆われ、遠くで巨大な何かが蠢く音が響いた。 ノリスはゆっくり息を吐く。「……異界」 かつて何度も歩いた場所。 魔王だった頃の自分にとって、ここは恐れる場所ではなかった。  異界獣は道を開け、霧は足元に従う。 庭を散歩するようなものだった。 胸の奥がざわつき、足先には力が入らない。  周囲に広がる闇の気配が、ただ純粋に恐ろしかった。(……私、怖がってる) そんな感情を自覚したのは初めてだった。 魔王だった自分には必要のなかった感覚。 けれどヒマリは、ずっとこんな世界を歩いていたのだろう。 弱くて、傷ついて、それでも前へ進み続けていた。(……これが、ヒマリの見ていた世界) 今さら知る。 あの少女が、どれほど強かったのか。 足元の黒霧が、ゆっくり足首へ絡みついた。  冷たい、まるで沈み込ませるような感触だった。 ノリスは反射的に足を引く。 その時、頭上を巨大な影が横切った。 反射的に呼吸が止まる。 アストラルナーガ。 建物ほどの巨体を持つ異界獣だった。 黒い触手が空間を裂くように揺れ、無数の眼が虚空を彷徨っている。(……っ) 逃げなければ。 そう思った瞬間、触手がゆっくり伸びてきた。 ノリスの肩へ。 指先ほどの距離。 熱い涎が首元に滴り、心臓が凍る。 だが、異界獣は止まった。 何もない場所を見るように首を傾げる。 そして、そのまま霧の向こうへ消えていった。 しばらく動けなかった。 全身から嫌な汗が流れている。(本当に……見えてない) フェルマーの言葉が蘇る。 ――お前は餌ですらない。 それでも、怖くないわけじゃない。 死なない保証などない。 ここは、異界だ。  ほんの少しの迷いで、人の形さえ失う場所。 歩き出そうとした時だった。 違和感が走る。「……え?」 自分の手が透けていた。 指先から輪郭がぼやけ、存在そのものが霧へ溶け出している。 慌てて握り締めようとしても感覚が曖昧だった。(うそ……) 胸が冷える。 フェルマーの忠告が蘇る。 ――迷えば、輪郭
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あなたはヒマリじゃない

 地下牢は静まり返っていた。 湿った石壁と錆びた鉄格子。  血と薬草が混ざった重たい匂いが空気に残り、  遠くで水滴の落ちる音だけが響いている。 「誰だ……?」 鉄格子の奥、暗闇の中に人影が見えた。 壁にもたれ、浅く呼吸を繰り返している。 ノリスの足が止まる。 そして次の瞬間、息が詰まった。 右腕がなかった。 肩口から先が失われ、乱暴に止血された痕だけが残っている。 包帯は乾いた血で赤黒く染まり、  どれだけ長く苦しんできたかを物語っていた。 右目も布で覆われている。 以前の穏やかな公子の面影は、傷の下へ隠れていた。 それでも分かった。 アレクシスだった。 本当に生きていた。 その事実だけで胸が締めつけられる。 だが同時に、視線を逸らしたくなるほど苦しかった。 サンドランドで交わした密約。  王都ブリュードで崩れていく街。 そして、ロンデルの崩壊。 全部、自分から始まった。 ヒマリを傷つけ、この人も傷つけた。 今、自分はその結果を見ている。 指先が小さく震えた。「……牢番ではないな」 掠れた声だった。  アレクシスがゆっくり顔を上げる。 残った左目が暗闇を探し、やがてノリスの方へ向けられた。「……ヒマリ?」 その呼びかけは祈りのように弱かった。 ノリスの胸が痛む。 違う。  そう言わなければならない。 だが今ここで否定すれば、  この人から最後の支えまで奪ってしまう気がした。「……助けに来た」 気づけばヒマリの声を使っていた。 アレクシスの肩から少しだけ力が抜け、  安心したように小さく笑った。「……やっぱり」 弱々しい声だった。「来てくれると思ってた」 その笑顔を見た瞬間、ノリスは視線を逸らした。 こんな顔にしたのは自分だ。  そう思うだけで胸が苦しくなる。 外は砂漠のはずなのに、湿った石畳が恐ろしく冷たい。  少し迷って、アレクシスの前で膝をついた。「……痛い?」 震える声で尋ねると、アレクシスは少しだけ笑った。「すごく」 冗談みたいな言い方だった。  ――だが笑えるはずもない。「ありがとう、君が来たから少し楽になった」 限界だった。  罪悪感と後悔が胸を押し潰す。「……ごめんなさい」 声が崩れた。「全部……私のせい」
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地下牢の約束

 地下牢に、静寂が落ちた。 水滴の音だけが、遠くで響いている。 ノリスは動けなかった。 心臓だけが、うるさい。(……今、なんて言ったの) 今ここにいるのはノリス。  その言葉が、頭の中で何度も反響する。 もう、呼ばれることはないと思っていた。 王都で敗れてから、ノリスは死んだのだから。  ここにいるのは、ヒマリの器。 アレクシスに必要なのはヒマリで、自分ではない。 だから。「……困る」 気づけば、声が漏れていた。 アレクシスが少し首を傾げる。「困る?」「だって……」 喉が詰まる。「許されると思ってないから」 視線が落ちる。「私は、ヒマリみたいに強くない。  嫉妬深くて、優しくもない。  だから、何回も間違えた」 言葉が続かない。 魔王だった頃のこと。  間違え続けた日々。  全部が、一度に押し寄せた。「……はっきり言うわ」 震えながら、それでも続ける。「魔王だった頃、こんな目に遭うことなんて  考えてもいなかった。だから……責めてほしかった」「責めても、腕は戻らないしね」 アレクシスは、小さく笑った。 冗談みたいな言い方。 だけど、その笑顔の奥に、確かな疲れが見えた。「痛いでしょ、惨めじゃないの?」 思わず出た声。 アレクシスは片目しかない青い瞳を閉じた。 そして、正直に言った。「辛いよ」 地下牢の空気が、少しだけ変わる。「母上を救えなかった」 一拍。「理由を付けて、自分だけ逃げ出した」 ノリスの呼吸が止まる。 初めてだった。  この人が、弱音を見せたのは。「結局瓦礫に押しつぶされ――目が覚めた時」 アレクシスは静かに続ける。「右が見えなくて」 失った肩へ、左手を置く。「腕もなくなってて」 少しだけ笑った。  泣きそうなくらい、弱い笑いだった。「最初に思ったんだ」 静かな声。「――ああ、もうロンデル公子アレクシスは終わったな、って」 胸が締めつけられる。 この人も、怖かったのだ。  壊れない人なんて、いなかった。「でも」 片方だけの瞳が開き、真っ直ぐノリスを見る。「君が来てくれた。  それ、すごく嬉しかった」 ノリスは言葉を失う。「ヒマリじゃなくても」 少し笑う。「かつて国を攻めて来た魔王でも」 また、胸が痛ん
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ヒマリ、アレクシスの生存とノリスの行動を知る

 ロンデル医療棟。 最初に見えたのは白い天井だった。 何度も見上げた場所だ。 窓の外からは復興作業の音が聞こえてくる。 木材を運ぶ掛け声や職人たちの怒鳴り声。  その合間に、どこかで子供が笑う声も混じっていた。 世界は動いている。  傷つきながらも前へ進んでいる。 なのに、自分だけが取り残されたような気がした。 喉が渇いていた。  水差しへ手を伸ばし、一口だけ含む。 冷たい水が喉を落ちていく感覚だけが妙に鮮明だった。 ベッド脇の机には報告書が積まれている。  だが読む気力が湧かない。 指先には力が入らず、呼吸をするだけで肺が焼けるように痛んだ。 魔王城ブースト接続。  体の魔力回路が塞がったまま、  寝ずにロンデル復興を続けた後遺症。(アレクシス) 最後に見たアレクシスの背中が脳裏に浮かぶ。  届かなかった自分の手。 思い出すたびに胸の奥が静かに痛んだ。(……終わった) 助けられなかったのだと。 起き上がろうとして、腕に力が入らない。「まだ無理をするな」 低い声が響いた。  振り向くと、窓際にフェルマーが立っていた。 いつもの細面の眼鏡。 だが、ほんの少しだけ疲れて見えた。「フェルマー……」「二週間、眠っていた」「……二週間も?」「あれだけ無茶をして、すべて放り出して倒れるとは  ――引継ぎ甲斐があったな」 皮肉だった。 だがその奥には確かな安堵も感じられた。 ヒマリは苦く笑う。「怒ってる?」「ええ、魔力過剰使用から忠告も聞かずロンデル単独侵入」 フェルマーが指を立てていく、間違いなく怒っている。「休息も取らず、復興支援。  挙句、二週間昏睡。――反省文では済まない案件だ」「……ごめんなさい」「謝罪ではなく改善を求めている」 そう言って、フェルマーは細長い箱を持ち上げた。 深い藍布に包まれている。「本来、戴冠式に合わせる予定だったものです」 布が外される。  現れたのは、一振りの錫杖だった。 白銀の杖身。 三重の銀輪の中央で、透明な聖水晶が静かに回転している。 装飾より実用性を優先した造りだ。  握り部分には、滑り止めの革が巻かれていた。「軽い……」「内部を空洞化している」 フェルマーが淡々と答える。「君は無理をする。  女王
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北部都市群の灯り

 異界の霧が、ゆっくりと剥がれていく。 濁った紫の空が消え、代わりに冷たい風が頬を打った。 ノリスの膝が石畳へ崩れ落ち、硬く冷たい感触が伝わる。 潮風と木材の匂い。 魚と香辛料の混ざる市場の空気。 異界には存在しない、生きた世界の匂いだった。 遠くでは怒鳴り合う商人の声が響き、  馬車の車輪が石畳を激しく叩いている。(……落ちた、けど異界獣からは逃れた) 小さく安堵しかけたが、腕の重みが現実を突きつける。「……アレクシス公子」 返事はない。 抱きかかえた身体は熱かった。 異常な熱だ。 呼吸は浅く、時折苦しそうに喉が震える。 右肩から先は失われ、止血された痕跡だけが残っている。  包帯は乾いた血で黒く変色し、右目は布に覆われたままだ。 地下牢では気を張っていた。 だから動けた。 けれど今、光の下で見る傷は、あまりにも重かった。 ノリスは唇を強く噛んだ。「……死なないで」 掠れた声が漏れる。 腕に力を込める。 けれど、立ち上がろうとすると視界が揺れ、足元が傾く。 異界を抜ける際、身体へ異界の残滓が入り込んだ。  胃の奥から吐き気が込み上げる。 足元も、もう覚束ない。  でも、倒れるわけにはいかない。 一歩。 また一歩。 石畳の上を、ふらつきながら進む。 人々がこちらを見る。 港町らしい喧騒の中で、  傷だらけの青年を抱えた少女は、あまりにも異質だった。「おい、誰か倒れてるぞ!」 怒鳴り声。 複数の足音が近づく。 反射的にノリスの肩が強張った。 ここにも追手。 サンドランド兵。 そう思った。 だが現れたのは、厚い外套を羽織った男たちだった。 腰に短剣。 頑丈な革鎧。 そして肩には、木と波を模した紋章。 北部都市群。  商隊護衛の印だった。「嬢ちゃん、大丈夫か?」 先頭の男が足を止める。 日に焼けた肌に低い声。 警戒心はあるが、敵意ではない。 ノリスは反射的に一歩下がった。 腕の中のアレクシスを守るように。 その動きを見て、男は少し眉を上げる。「……警戒する元気はあるか」 隣の護衛が、小さく息を呑んだ。「待て」 視線がノリスへ向く。「この顔……」 一瞬、空気が変わる。「ヒマリ女王に似てないか?」 心臓が跳ね、指先が冷える。 まずい。
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商人は人を見る

 北部都市群中央医療院は、静かな場所だった。  磨かれた石畳の廊下に簡素な木製のドアが並ぶ。 窓から差し込む淡い光。  そして、どこか潮の香りを含んだ風。 ノリスは治療室の前に立っていた。 扉の向こうから、慌ただしい声が聞こえる。「もう少し熱が下がらない?」「右肩の感染が進んでいる。  薬草の配合を変えろ!」 現場の声を聞くだけで胸が締まる。 ただ、扉を見ることしかできなかった。(……やっぱり、無理していたんだ) 目を閉じれば、地下牢の姿が浮かぶ。 切断された右肩。  閉じたままの右目。 血に染まった包帯。 それでも笑っていた。 痛いはずなのに。  自分を責めるより先に、ノリスを気遣っていた。(そんなの……間違ってる) 自分なら憎み続ける。  感情のままに壊す。 それが、復讐というものだ。「君か?」 低い声が響き、振り向く。 廊下の空気が、少し変わっていた。 自然と人が道を開いている。 深い外套を纏った大柄な男が、ゆっくり歩いてきた。 四十代半ばほど。 蓄えた髭に鋭い鳶色の目。 けれど軍人の威圧感とは違う。  人を値踏みする商人の目だった。「……誰?」 ノリスが警戒すると、男は小さく肩をすくめる。「北部都市群主席、ペトラだ」 名前を聞いて、ノリスの肩が強張る。 北部都市群。  八都市を連合した貿易拠点。 海運と交易を握る巨大勢力。 その頂点に立つ男。(……何故、ここに?) そう思った瞬間、視線が自然と逸れた。 また政治だ。  また価値を測られる。 アレクシスも、自分も。  そんな予感がした。 ペトラはノリスの反応を見て、小さく息を吐く。「怖がらせるつもりはない」 そう言いながら、治療室へ視線を向けた。「中にいるのは、アレクシス公子だな」「……はい」 港で騒ぎになった時点で、気付かれているのだろう。「なるほど」 ペトラは低く呟く。「ロンデル最後の正統。  やはり、生きていたわけだ」 ノリスの胸が冷える。  今の自分は無力だ。簡単に捕らわれてしまう。 そうなれば、サンドランドと同じだ。 アレクシスは、また駒にされる。 その表情を見たのだろう。  ペトラが静かに言った。「勘違いするな」 ノリスが顔を上げる。「価値があるか
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隣にいたいと願えた日

 北部都市群・中央医療院。  石造りの病室に、静かな月光が差し込んでいる。 窓の外では、遠く波の音が響いていた。  薬草の匂いと、微かな潮風。「面会は短めでお願いします。  私は少し離れたところにおりますので」 ノリスが目覚めたときに声を掛けてくれた看護師が  病室の端まで歩いていく。 その足音が響く中、  ノリスはベッド脇に座っていた。 月光に照らされたアレクシスの横顔は、  地下牢よりさらに痩せて見えた。 その姿を見るたびに、ノリスの胸は痛む。  あの日の選択が、この傷へ繋がっている気がしてならなかった。 (地下牢の言葉を確かめたかったけど――) アレクシスの容体を先に心配すべきだった。  ここにいる資格なんてない。 なのに、足が動かなかった。  どうしても、あの時の気持ちを確かめたい。(最低……) 壊した側なのに。  まだ期待しているなんて。「……ここは?」 かすれた声に、ノリスの肩が跳ねた。 顔を上げる。 ベッドの上で、アレクシスが薄く目を開けていた。「北部都市の医療室よ。  異界で足を踏み外してしまって――」「……地下牢からは、脱出できたわけだ」 弱く笑う。  けれど、すぐせき込んだ。「ごめんなさい、気が付かなくて」  ノリスは立ち上がり、水差しへ手を伸ばした。「喉かわいていたのね」「目が覚めたばかりで……」 震える左手ではうまく持てない。 ノリスが支えると、アレクシスは静かに礼を言った。「ありがとう」 その一言が、妙に苦しい。「……体、痛む?」「すごく」 また、冗談みたいに答える。  でも、その後に続く沈黙が重かった。 やがて、アレクシスは静かに天井を見上げる。「地下牢で目が覚めた時さ」 左手が、失われた肩へ触れた。「腕がなくて、夢じゃないんだと思って」 少し笑おうとして、失敗する。「……ジギスムントから母の死を伝えられた」 ノリスの呼吸が止まる。 この人は強い。  そう思っていた。 でも、強い人ほど、壊れる時は静かだ。「私を憎んだ?」 気づけば聞いていた。  アレクシスは少しだけ黙って、首を振る。「どうしても、そう言わせたいみたいだね」「だって、そうじゃないとおかしいよ」 声が、少しだけ震えていた。「では
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