INICIAR SESIÓNフェルマーの策は、政略結婚でした。 ヒマリの反応は、ヒマリらしいです。
冷たい指と、砂漠の花砂。 サンドランド王国・王宮離宮の回廊は、 灼熱の陽光を白い布で柔らかく遮り、 甘い香木の煙がゆるやかに立ち上っていた。 アリシアは、自分の鼓動が うるさいほど高鳴っているのを隠せなかった。 ジギスムントの隣を歩くだけで、胸の奥が熱を持つ。 淡い黄金色の衣装が風に揺れ、 砂漠の花を模した銀糸が陽光を弾いていた。 首元と袖口の薄いヴェールが風に揺れ、 薄橙色の髪を優しく包んでいる。 侍女たちが昨夜遅くまでかけてあつらえた衣装だ。 (……この人が、気に入ってくれるといいのに) ジギスムントは彼女の肩にそっと腕を回してくる。「おお、シュルンベルゲラのような可憐な美しさだ」 低く、甘く囁く。「私の為にあつらえてくれたのか?」 アリシアの頰が、熱を帯びた。 心臓が、早鐘のように鳴り響く。 恐怖と、どこか甘い疼きが混じり合って、 胸の奥をざわめかせていた。「……そうではありませんが ……婚礼までお会いできなくなると聞きましたので」 声が少し上ずる。後ろで控える侍女たちが、 ぴょんぴょんと小さく飛び跳ねながら、 嬉しそうに手を握り合っているのが気配で分かった。(やだ……みんな、はしゃぎすぎ) ジギスムントは満足げに微笑んだ。「不安なら、証を残しておこう」 その言葉が終わらないうちに、彼はアリシアの顎を優しく ――しかし逃げられない力で持ち上げた。 一瞬の沈黙。冷たくも甘い口づけが落ちる。 唇が触れた瞬間、アリシアの背筋に電流のような震えが走った。 キスは優しかったが、そこに温もりはほとんどなかった。 ただ、所有の証。 それでも、アリシアの胸は熱く高鳴っていた。 唇が離れた後も、 アリシアは、すぐに呼吸を整えられなかった。 まるで、 自分の感情の一部を、 彼の指先で掴まれたままのようだ。(誰も知らない顔を、私だけに見せてくれた……) この完璧すぎる男の冷たさに、 なぜか惹かれてしまう自分が怖かった。「……どうして、私なんですか」 彼女は息を詰め、すぐに顔を背けた。 頰が熱い。「余計、不安になってしまいます……」声が上ずる。(この人が私を妻にするのは、政略のため ……でも、こんなに近くにいると、鼓動が止まらない) ジギスムントはく
魔王城・コアルーム。 制御室の空気が、わずかに震えた。 クルスは、演算を止めた。 外界の魔力流が、 いつもと違う揺れを帯びている。「……ノリス」 名を呼ぶ声は、誰にも届かない。 だが、魔王城のコアで同期していたことのある クルスには分かった。 ノリスが、何かを決め 守るべきものを、捨てた。 代わりに、別の何かを掴んだ。 その波が、魔王城の深層まで届いていた。(ヒマリに、知らせるべきか) クルスは、指を止めた。 演算は、答えを出している。 ――知らせるべきではない。 ヒマリは今、ロンデルとの婚姻交渉の渦中にある。 心拍は安定している。 判断も、揺らいでいない。 だが。(……揺らぐ要因は、増えた) スクリーンに映るヒマリの心拍が、 ほんのわずかに跳ねた。 クルスは、目を細めた。「……ノリス。 君は、また選ばれなかったと感じたのか」 その感情の揺れは、 魔王城のコアにとってはノイズだ。 だが、クルスにとっては――(利用できる) そう、演算は告げていた。 だが、クルス自身は、 その結論をすぐには採用しなかった。 ヒマリの心拍が、 ロンデルの夜空の下で、静かに上下している。(……ヒマリ) クルスは、スクリーンに触れた。 ノリスが動いた。 ジギスムントが動いた。 世界が、またヒマリを中心に回り始めた。 だが――(君は、まだ知らない) 世界が、 君を奪い合うために動いていることを。 君を壊すために、 君を守るために、 君を利用するために。 それぞれが、勝手に動き始めている。「……知らせるのは、まだ早い」 クルスは、演算を再開した。 ノリスの魔力波形を追跡し、 ジギスムントの動きを予測し、 ロンデルの感情曲線を解析する。 そのすべての中心に、ヒマリの心拍がある。 ◆同じ頃 ロンデル公宮・客室 ヒマリは、眠れなかった。 窓の外、エルドラの夜は静かで、 星が多くて、風の音すら優しい。 なのに、胸の奥がざわついていた。(……何か、変だ) 理由は分からない。 アレクシスと話したせいかもしれない。 クルスの投影を見たせいかもしれない。 ロナ王妃の目が、まだ胸に残っているせいかもしれない。 でも―
砂嵐の夜。 サンドランド郊外、砂の神殿跡。 風が唸り、砂が舞う。 だが、石造りの回廊の中だけは、 ジギスムントの周囲に張られた結界が、外界の音を遮断していた。 燭台の炎が、静かに揺れている。 黒い霧が、滲み出した。 音もなく、壁から湧くように。 ノリスが、姿を現した。 魔王城の制御権を失った今、かつての威圧はない。 だが、その眼差しだけは、 なお鋭かった。「ふふ……ずいぶん早い逃げ足だったわね、王様」「逃げではない。再編だ」「同じ言葉を、昔のあなたは撤退と呼んだわ」 沈黙。 ジギスムントは、地図から視線を上げない。 玉座を失っても、背筋だけは崩さなかった。「……まさか、あなたから呼び出すなんてね」「お前が応じることは、最初から分かっていた」 二人の間に、かつての婚姻の記憶が沈殿する。 ノリスは、それを踏みにじるように、 一歩前に出た。「あなた、負けかけてる」 「……」 「第四軍を失い、第二軍も失い、 王都はヒマリに握られた。 ロンデルも、いずれ離反する」 ジギスムントの指がわずかに動いた。 「それで?」 ノリスの唇が、ゆっくりと歪んだ。 「私は――あなたを憎んでいる」 「分かっている」 「捨てられたからじゃない」 ノリスは、ジギスムントをまっすぐに見据えた。「選ばれなかったからよ」 空気が、張り詰めた。 「ヒマリは、フェルマーを選び、 シュルツを選び、女王の未来を選んだ」 「でも、あなたは、私を道具として使って捨てた」 ジギスムントは、ようやく面を上げた。「でも、お前はここに来た」 ノリスは、カッと頬を赤らめた。「お前の言うように、私に以前のような余裕はない」 ジギスムントは、ノリスを見た。 その目に、計算の光があった。 ノリスには分かった。 この男は今、自分の言葉の裏を読んでいる。(好きに読めばいい―― どうせ、あなたに私のことなど分からない)「条件を出そう」 「条件?」「お前は、自分が主役の戦争を望んでいる」 ノリスの眉が、わずかに動いた。「……何を言っているの」 「どこに行っても、お前は結局、道具として使われる ヒマリも以前は格下相手の遊びだ
ロンデル公宮で与えられた部屋は、静かだった。 アレクシスとの会談を終えて、ヒマリは一息つく。 窓の外に、エルドラの夜が広がっている。 北方より、星が多い。 空気が乾いているから、よく見える。 ヒマリは、椅子に座ったまま、 何もしていなかった。 珍しいことだった。 いつも何かを考えているのに、 今夜は、頭が空白に近い。(アレクシス) 名前を思い浮かべた。 それだけで、朝の庭が戻ってきた。 銀髪。 青い目。 あの、計算のない笑顔。(やめよう) その時、部屋の空気が、変わった。 音はなく、光もない。 ただ、密度が変わった。 ヒマリの正面に、魔力で編まれた像が、浮かんだ。 人の形をしていた。 クルスだった。 ヒマリは、目を瞬いた。 「……実体化できるの?」 『投影だ』 クルスの声が、外から聞こえた。 いつもは内側から聞こえる声が、 今夜は、外にある。 『君から学習し、この程度の投影なら可能となった』 ヒマリは、クルスを見た。 覚えている形と、違った。 以前は、女性の形をしていた。 今は―― 背が高い。 肩幅がある。 黒に近い髪が、静かに垂れている。 左右対称の、整いすぎた顔立ち。 紫の瞳が、ヒマリを見ていた。(変わった、魔王城コアで見た時と―― 姿も、性別も)「……いつから、その形に?」 『少しずつ、変わっていた』 クルスは、静かに言った。『気づいていなかったか』 「……気づいていなかった」 ヒマリは、正直に答えた。(……こんな顔、好きに決まってる。 でも、褒めたくない) ずっと思い描いてた、理想の男性像。 見ているだけで、鼓動が高まる。(なんで)『話がある』 クルスは、言った。「重要な話なの?」 『場合によっては、 だから、今夜は君を見ながら話したい』 ヒマリは、クルスを見た。「珍しいわね」 『そうだ」 クルスは、わずかに目を細めた。 『珍しいことを、言っている』『まずは確認だ。 僕たちは、もう離れられない』 静かな声だった。 報告のような、淡々とした声だった。 なのに、その言葉が、部屋の空気を変えた。「……知っ
ロンデルの午後 「今日、少し時間はありますか? ヒマリさんと、外を歩きたいんです」 朝食の席で、アレクシスが言った。 ヒマリは、書類から顔を上げた。 「フェルマーに確認する」 フェルマーへの通信を開くと、 即座に返ってきた。「今日の午後は、予定がない。 むしろ、少し休め」 「……あなたが、そんなことを言うの」 「言う。 疲弊した主は、判断が鈍る」 ヒマリは、通信を切った。 アレクシスを見た。 「時間、あるって」 公子は、あの笑顔で頷いた。 エルドラの街は、 朝の光の中にあった。 砂岩で作られた建物が、 日差しを受けて白く輝いている。 路地は細く、入り組んでいる。 北方の王都とは、何もかもが違った。「どこへ行くの」 「少し歩きます」 アレクシスは、先に立って歩いた。 人混みの中でも、 自然に道を空けながら進む。 威圧しているわけではない。 ただ、丁寧に歩いているだけなのに、 人が自然に道を開ける。(不思議な人だ) ヒマリは、その後ろを歩きながら思った。 最初に連れて行かれたのは、 市場だった。 色とりどりの布。 乾燥した果物。 香辛料の匂いが、充満している。 市場に入った瞬間、 アレクシスが振り返った。 「何か気になるものがあれば、 遠慮なく言ってください」 逆光だった。 砂岩の白い壁に、午後の光が反射して、 アレクシスの銀髪が、白く輝いていた。 その中で、青い目が、 ヒマリをまっすぐに見ていた。(……眩しい) 光のせいだと、 ヒマリは思うことにした。「……何か、珍しいものを教えて」 声が、わずかに平板になった。 いつものやつだ、と 自分で気づいた。「これ、何?」 ヒマリは、見たことのない果物を指した。 丸くて、赤い。 表面に、細かい棘がある。「砂棗(ヤナギバグミ)です。 ロンデルにしかない果物で」 アレクシスは、一つ買って、 ヒマリに渡した。「食べ方は?」 「こうやって」 アレクシスは、果物の頂点を指で押した。 すると、花びらのように開いた。「わ」 ヒマリは、思わず声を
エルドラ王宮、執務室。 西の空が夕暮れに染まり、 光が窓から淡く差し込んでいた。 フェルマーが去った後、 執務室には、しばらく沈黙があった。 ロナ・フォン・ブリューテは、机の上の書簡を見つめていた。 ――婚姻。 その二文字が、紙の上で静かに光っている。 アレクシスの名も、ヒマリの名も、そこには書かれていない。 ただ、政治の言葉だけが並んでいた。(……あの子が、婚姻) ロナは、ゆっくりと椅子に背を預けた。 怒りではない。 驚きでもない。 胸の奥に広がったのは―― 嫌な予感だった。「お母様」 扉がノックされ、アレクシスが入ってきた。 ロナは、書簡を伏せた。「……聞いたのね」「はい。フェルマー殿から」 アレクシスは、静かに頷いた。「ヒマリ殿との婚姻。 ロンデルと王都の同盟の証として」 ロナは、息子を見た。 その顔は、昨日と同じ穏やかさを保っていた。 だが――その奥に、何かが灯っている。(この子……) ロナは、胸の奥がざわつくのを感じた。「アレクシス」「はい」「あなたは、どう思っているの」 アレクシスは、少し考えてから答えた。「……悪くない話だと思います」 ロナの眉が、わずかに動いた。「悪くない?」「はい。 ロンデルは小国です。 ジギスムント王に従属する未来より、 ヒマリ殿と並ぶ未来の方が、まだ息ができる」「政治の話をしているのではない」 ロナの声が、わずかに低くなった。「あなたの話をしているの」 アレクシスは、母の目を見た。 その目は、公妃の目ではなかった。 母の目だった。「……ヒマリ殿は、強い人です」「そうね」「でも、壊れそうな時もある」 ロナは、息を呑んだ。「あなたは、あの子を支えられると思っているの?」「はい」 迷いがなかった。 ロナは、机の端を指で叩いた。(この子は……本気だ) アレクシスは続けた。「僕は、ヒマリ殿を利用するつもりはありません。 ただ、彼女と並んで歩きたいと思っただけです」「……並ぶ?」「はい」 ロナは、しばらく息子を見つめた。 その横顔は、幼い頃と同じだった。 優しくて、弱くて、 それでも誰かを守ろうとする時だけ、強くなる。(ああ……) 胸の奥に、痛みが走っ
ゴブリンが突然動きを止めた。 その理由を、ヒマリはすぐに理解したわけではない。 ただ、闇の奥で何かが目を覚ました気配だけが、肌を刺した。 ガサリ。 複数の足音。 赤い光が、闇に点る。 一つ、二つ……十を超える。 腐った息。 低い唸り声。(……来ないで……) 後ずさった背中が瓦礫にぶつかり、逃げ場が消える。 闇から現れたのは、歪な影たちだった。 骨だけの骸骨。 粘液の塊。 腐臭を放つ死体のような魔物。 魔王城の最下層に巣食う、最底辺の存在。「来るなっ!」 反射的に手を突き出した瞬間―― 白い光が、ふわりと指先から溢れた。 眩しくはない。
眩しい光に包まれ、思わず腕で顔を覆った。(……え?) さっきまで、狭いワンルームのベッドにいたはずだ。 スマホを握ったまま寝落ちし、通知の来ない画面をぼんやり見つめていた。 それなのに、鼻を刺す空気の匂いが違う。 古い石の冷たさ。ざわめく人の気配。「成功だ……!」 誰かの興奮した声が響く。 恐る恐る目を開いた瞬間、心臓が止まりそうになった。 見知らぬ大広間だった。 高い天井。壁一面に刻まれた巨大な魔法陣。 床には淡い光が流れ、豪奢な衣装をまとった人々が並んでいる。 まるでゲームか映画の世界。 けれど――違和感があった。 誰も、私を見ていない。 視線の先は、少
王都ブリュード、王城最上階。 重厚な扉の向こう、執務室には静かな緊張が満ちていた。 机いっぱいに広げられた地図。 その前に座る男は、 まるで大理石から削り出された彫像のようだった。 長い睫毛の影が白い頬に落ち、 整いすぎた輪郭は感情を拒む刃のように鋭い。 淡い銀の髪が光を受け、静かに揺れる。「……遅いな」 ぽつりと漏れた声には、苛立ちが滲んでいる。 本来なら、とっくに報告が届いているはずだった。 ゴミ捨て場――処分したはずの異世界人の痕跡について。「フェルマーめ……」 蒼い瞳がゆるやかに細まる。 あの男は有能だ。 天才で、合理的で、感情に左右されない。
魔王城の玉座は、今も空いている。 かつて、この場所に座っていた者の名は ――前魔王クルス。 中層から撤退したヒマリに魔物達の失望が広がる。 クルスの治世は冷酷で無慈悲だったが、 均衡は保たれ、争いは最小限に抑えられていた。「……あの方なら、こうはならなかった」 誰かの呟きが、静まり返った広間に溶ける。 その言葉は祈りであり、同時に今を否定する呪いでもあった。 だが、玉座の前に立つ少女 ――ヒマリは、その名に縛られない。「知らないよ。その魔王がどれだけ立派だったかなんて」 そう言って、ヒマリは小さく息を吸い、一歩だけ前へ出た。 玉座に落ちた影が、ゆっく







