ゴミとして捨てられた聖女、王国を奪う のすべてのチャプター: チャプター 71 - チャプター 80

94 チャプター

利益を選ぶ商人たち

 北部都市群・中央議事堂。 海を見下ろす丘の上に建てられた白亜の建物には、  朝だというのに重たい空気が沈んでいた。 巨大な円卓を囲み、  八都市の代表者たちが顔を揃えている。 北部都市群は交易で成り立つ都市国家連合。  流れを止めれば、国は死ぬ。 だからこそ、この場の空気は戦場に近かった。「サンドランドの新造船団、どうやら本当らしい」 海路都市の男が低く唸る。「北方海域の木材航路まで押さえ始めてる。  完成すれば、海運は向こう主導だ」「笑えんな」 ざわめきが広がる。 だが、誰も否定しない。  冗談では済まない話だからだ。「王都ブリュード経由では遅すぎる」  戦争被害も大きい」「対してサンドランドは港直結だ」 利益と合理。  商人国家において、それこそが正義だった。 感情より数字を優先するからこそ、  北部都市群はここまで栄えてきた。 議論が続く中、一人の巨体が静かに腕を組んでいる。 陸路代表主席――ペトラ。 深く刻まれた皺。  鋭い鳶色の眼光。 老獪な商人でありながら、  獣じみた威圧感を持つ男だった。 その対面では、  海路統括補佐のネリィが脚を組んで座っている。 海色の髪。  切れ長の瞳。 冷えた海のような合理主義者だ。 やがてネリィが立ち上がった。「結論から言うわ」 地図が広げられる。 南方海域。  西の山脈。 そして海を越えた南西のサンドランド。「私たちはサンドランドに乗るべきよ」 一瞬、議場が静まった。「理由は単純。勝つ側だから」 海沿い都市の賛成の声が上がる。  この結末が自らの進退に直結するからだ。「新造船団が完成すれば海域支配は確定。  木材航路も既に押さえられている」「十年後には港がサンドランド船で埋まり、  私たちは運ぶ側ではなく、運ばせてもらう側になる」 議場の顔色が変わる。  未来の数字が見えてしまったのだ。 貿易国家にとって、それは死刑宣告に等しい。「ブリュードは?  ロンデルを抑えたのは王都ではないのか?」 誰かが問う。  ネリィは即答した。「遅い、高い、弱い」 容赦がない。「山脈を越えるのは、一部の命知らずな商人だけ。  戦争損耗からも立ち直っていない」「私たちが最も嫌う要素ば
続きを読む

最大の投資先

 北部都市群・中央議事堂。 夕日が高窓から差し込み、巨大な円卓を赤く染めていた。 朝から続いた議論は、すでに半日を超えている。 それでも議場を満たす熱気は衰えなかった。 八都市の代表者たちの議論は、  少しずつ一つの結論へ傾き始めていた。 ――サンドランド。 砂漠国家でありながら海へ進出し、  新造船団を完成させつつある新たな覇者。 その独占契約が生み出す利益は、あまりにも大きかった。「現実を見ましょう」 海路統括補佐ネリィが立ち上がり、  藍色の髪を揺らしながら地図へ指を伸ばす。「王都ブリュードとの交易は山越えが必要。  物流速度、積載効率、維持費――どれを取ってもサンドランドが上よ」 静かな声だった。 それでも議場の隅々まで、よく通る。「感情で商売はできないわ」「その通りだ」「北部が生き残るなら海しかない」「ロンデル公子なぞ、高値で引き取らせればいい」 賛同の声が次々と上がり、  議場の空気はゆっくりとネリィへ傾いていく。 陸路代表主席ペトラは、大柄な身体を椅子へ預けたまま腕を組み、  黙って議論を聞いていた。 やがて日が完全に沈む頃、低い声が議場に響く。「ジギスムントは偉大な王だった。  サンドランド独占契約、大いに結構」 ネリィがわずかに笑う。「なら――」「今まではな」 ペトラは表情一つ変えない。「ブリュードを追われた今、奴には焦りが見える。  アレクシス公子が我々の手にある以上、木材調達にも必ず支障が出る」「それは……」「利益だけ追う商人は長く勝てん」 重く低い声が議場へ響く。「本当に儲ける奴は、裏切らん相手に張る」 その一言に、議場が静まり返った。 その時だった。 議場の扉が静かに開き、一人の文官が足早に入ってくる。「報告です」 一礼し、息を整えてから告げた。「保護したロンデル公子ですが、高熱が続いております。  右腕欠損、右目損傷の影響で、意識も安定しておりません」 円卓が小さくざわめく。「ですが……傍にいる少女が話しかける時だけ、反応を示しております」「ヒマリ女王に似ているという、例の少女か」  誰かがつぶやく。「はい。公子の傍を離れず、治療にも付き添っています」 沈黙を破ったのはネリィだった。「情は美談になる」 冷え切った声だ
続きを読む

立ち上がる公子

 すぐ近くで二人の去就を決定づける  議論が行われていることなど知る由もなく 医療院の廊下は静まり返っていた。 窓の隙間から潮風が入り込み、  遠くで波の音が聞こえる。 ノリスは眠れなかった。 昼間、アレクシスが無理に起き上がろうとしていた姿が  頭から離れない。 少し様子を見るだけ。  そう思って病室の扉を開けた。 そして、足を止める。 ベッドが空だった。「……え?」 胸が跳ねる。  慌てて視線を巡らせると、窓際に人影があった。 アレクシスだ。  壁に手をつきながら、片足で立っている。 顔は真っ青で、額には脂汗が浮かんでいた。「何してるの!?」  思わず声が出た。 アレクシスが振り返る。「……ノリス」「何してるのって聞いてるの!」  ノリスは駆け寄った。 アレクシスは苦笑する。「歩く練習です」「そんな体で!?」「王都へ戻る前に、少しでも……」 そこまで言った瞬間だった。  足元がふらつく。「あっ――」 身体が傾く前に、ノリスが飛び出した。  反射的に身体を支える。 だが、体格差がある。  二人はそのまま床へ崩れ落ちた。「っ……!」「アレクシス!」 慌てて身体を起こす。 アレクシスは申し訳なさそうに笑った。「大丈夫です」「大丈夫じゃない!」 思わず声が強くなる。「死にたいの!?」 アレクシスは静かに首を振った。「違います」「だったら!」「時間がないんです」 その言葉に、ノリスの声が止まった。 アレクシスは窓の外へ視線を向ける。「ロンデルは崩れました」「……」「僕は守れなかった」 握った左手が震えている。「せめて立てるようにならないと、  もう二度と誰も守れないままになります」 ノリスは何も言えなかった。 その顔を知っている。  自分も同じだった。 魔王城を失い、それでも強がっていた。 だから分かる。  この人も苦しいのだ。 公子だからではない。  一人の人間として、失うものの大きさを知ったから。 ノリスは小さく息を吐いた。「……一人でやらないで」 アレクシスが顔を上げる。「え?」「歩くなら付き合う」  自分でも驚くほど自然な言葉だった。「転んだら支える」「でも……」「でもじゃない」 少しだけ睨
続きを読む

契約の婚礼、冷たい王

 サンドランド王宮・大広間。 砂岩の柱には黄金布が垂れ、  天窓から差し込む朝陽が硝子灯を透かして砕けていた。 眩い光が大広間を満たしている。 豪奢な大広間に満ちているのは歓喜ではない。 貴族たちの視線は、新郎新婦よりも、  この婚姻が生む利益へ向いていた。 祭壇の前に立つ男を見て、アリシアは小さく息を呑む。 ジギスムント・フォン・ブリュード。 黒地に金糸を織り込んだ正装は軍服のように隙がなく、  銀髪は朝日に照らされて白く輝いている。 凪いだ海のような蒼い瞳には、今日も感情が浮かばない。 それでも視線は自然と吸い寄せられてしまう。(……この人だけは、読めない) 近くに立つだけで空気が張り詰める。 穏やかな表情のまま、必要なら躊躇なく誰かを切り捨てられる。 そんな確信だけが胸に残っていた。「ジギスムント王」 サンドランド王の声が響く。「誓いを」 ジギスムントが一歩前へ出る。 迷いのない足取り。 王として完成された歩みだった。 やがて静かな視線がアリシアへ向く。「手を」 低く落ち着いた声だった。 命令というより、逃げ道を与えない宣告のようでもある。「……はい」 震える指先を差し出す。 その手に、ジギスムントの手が重なった。 驚くほど冷たい。 まるで磨き上げられた鋼のようだった。 それでも握る力は不思議なほど穏やかで、  壊れ物を扱うような優しさがあった。 ジギスムントは黄金の指輪を手に取る。 装飾は控えめだが、内側には古い王家の紋章が刻まれている。「我が妻、アリシア」 穏やかな声が静かに響く。「これより君は、私のものとなる」 支配を告げる言葉。 けれど続く声は静かだった。「安心しろ」 アリシアが息を止める。「君が私に背を向けない限り、私は君を守る」 その言葉は胸の奥へ静かに沈んでいった。 心を許してはいけない。 そう分かっているのに、ほんの少しだけ肩の力が抜ける。 ジギスムントは指輪を左手にはめる。 冷たい金属が指に馴染んだ。 外せない鎖のようにも思えた。「君の誓いを」「私は……ジギスムント王の妻となります」 声は震えていた。「サンドランドの名において、誓います」 しばらく沈黙が流れる。 やがてジギスムントは小さく頷いた。「良い返事だ」 そのままア
続きを読む

冷酷な王の花嫁になった夜

 祝宴に集った貴族たちは、皆満足そうだった。 引出物として北部都市群から届けられた交易品が配られたからだ。 サンドランドとブリュードの婚姻は、  砂漠国家へ莫大な利益をもたらす。 誰もが黄金に彩られた未来を疑っていなかった。 だが、離宮へ向かう回廊を歩くジギスムントの胸中に、  祝福の熱など一欠片もない。(北部都市群の動きは鈍い) ネリィが先行して送ってきた交易品だけでは、  貴族たちの欲望を満たし切れない。 静かな石廊には規則正しい足音だけが響く。 合理だけを考えれば、北部都市群はサンドランドへ寄るはずだ。 しかし、主席ペトラは合理だけで動く男ではない。 ネリィが押し切れなければ、この先の交渉は面倒になる。 そこまで考えた時だった。「……陛下」 後ろから遠慮がちな声が届く。 ジギスムントが振り返ると、そこにはアリシアが立っていた。 婚礼衣装から着替え、薄い砂色の寝衣をまとっている。 豪奢な装飾を外した彼女は、昼間よりも年相応に幼く見えた。「どうした」「……まだ、お仕事を?」 恐る恐る尋ねる声に、ジギスムントは数秒だけ彼女を見つめる。「癖のようなものだ」「……そう、ですか」 アリシアは小さく頷き、視線を伏せた。 婚礼の夜くらいは、自分だけを見てくれるのではないか。  そんな淡い期待があったのだろう。 その落胆は、隠しきれていなかった。 だからこそ、ジギスムントは静かに歩み寄る。「不満か」「……っ」 距離が縮まるだけで、アリシアの肩が小さく震えた。 怯えと憧れ。  二つの感情が素直に表れている。「い、いえ……」「嘘だな」 責める口調ではない。 むしろ穏やかだからこそ、逃げ道を失わせる。 ジギスムントは冷たい指先で、そっと彼女の頬へ触れた。「お前は特別を望む人間だ」 アリシアは息を呑む。 見透かされていた。  自分でも気付いていなかった願いを、あまりにも簡単に。「……私は」「安心しろ」 ジギスムントは静かに言葉を重ねる。「お前は、もう手放さない」 その一言が胸の奥へ静かに染み込んでいく。 自分がどれほど単純なのか、アリシアは思い知らされた。 たったそれだけの言葉で嬉しくなり、  救われたような気持ちになってしまう。(この人は、ずるい) 優しく甘やかして
続きを読む

盤面の亀裂 ― 消えた公子と、王の誤算

 翌日の夜。 サンドランド王宮の執務室で、  ジギスムントは一行だけの返書を静かに見つめていた。『北部都市群は、広く各国の意見を求めている』 あまりにも短い。  だが、その一文から違和感を読み解く。(……おかしい) ロンデル支配下だったギーレの港はサンドランド軍が接収し  木材不足は、すでに北部経済の限界を削り始めている。 造船は停滞し、橋梁補修も遅れ始めているはず。  合理を取るなら、北部都市群に選択肢はない。 サンドランドへ寄るしかない。 それなのに、返答は保留。  断るでもなく、受けるでもない。 ペトラらしくない返書だった。 ジギスムントは机へ指を軽く置いた。 冷えた石材の感触。 窓の外では白い砂風が王都を流れ、  遠く離宮の灯りだけが淡く揺れている。 アリシアは、もう眠っている頃だろう。 昨夜の婚礼を思い出す。 怯えながらも、王妃として振る舞おうとしていた少女。 恐怖を隠しきれないくせに、逃げなかった。(扱いやすい) 王族としての価値も高い。  両国融和の象徴として申し分ない。 壊れやすい駒ほど、丁寧に扱う必要がある。 だから昨夜は優しくした。  それだけだ。 婚姻とは契約であり、  今必要なのは愛ではなく利益だった。 ジギスムントは思考を切り替え、  再び返書へ目を落とす。 問題は、北部都市群。 正確には――ネリィだった。 ここ数日の報告、ここにも違和感がある。『議会へ働きかけを継続』『主席は慎重姿勢』『独占契約は保留傾向』 内容に不自然さはない。 だが浅い。  ネリィらしくなかった。 あの女は合理で動く。  利益を積み上げ、逃げ道を塞ぎ、  最後に相手へ最適解を選ばせる。 数字で世界を見る女だ。  だから敢えて副主席を交渉相手に選んだ。 なのに今回は、妙に足踏みしている。(変数があるか) 一瞬だけ考える。  だが、すぐに切り捨てた。 情報不足だ。 推測に意味はない。 条件を積み上げればいい。  利益は最後に必ず人を動かす。 そう考えた瞬間だった。 扉が激しく叩かれた。「申し上げます!」 焦りを含んだ声。「入れ」 飛び込んできた衛兵の顔色は青かった。「アレクシス公子が……地下牢より消失しました」 空気が
続きを読む

優しい王の隠し事

 資料はすぐに運び込まれた。 地下牢の警備記録。  北部都市群との交易通信。 ネリィからの定期報告。  隠密による監視記録。 執務机は紙束で埋まり、砂時計だけが静かに時を刻んでいる。 ジギスムントは、最初から一枚ずつ目を通していった。  胸の奥で、氷のような熱が静かに膨らんでいく。 だが、感情は判断を鈍らせる。  それを誰より理解している。 だからこそ、冷やす。 思考を。  呼吸を。(崩れてはいない) まだだ。 アレクシスは失った。  だが、完全に盤面から消えたわけではない。 通信記録を開く。  昨日のネリィの報告。 文字面だけ見れば自然だ。  だが今なら分かる。 やはり、浅い。 ネリィにしては観察が足りない。  港湾状況も、議会内の温度差も、反対派の動きも書かれていない。 まるで――(書けない何かがある) 隠している、とは少し違う。 利益を理解した上で、動けなくなっている。 (油田採掘権を新たに提示してもいい) だが、利をを提示してなお足踏みしているのなら、理由は一つだ。(アレクシス) 北部都市群に公子がいる。 ペトラはそれを隠している。  ネリィも、おそらく知っている。 だから契約を止めた。  いや、止めざるを得なくなった。 だが、まだ足りない。「申し上げます」 隠密魔導士が再び現れた。「公子関連の保管物は、全て無事です」 ジギスムントの視線が上がる。「持て」 黒布に包まれた箱が運ばれた。 慎重に布が外される。  現れたのは、小さなガラスケースだった。 薄い保存液が静かに揺れる。  その中に沈むものを見て、室内の空気が僅かに張り詰めた。 潰れた眼球。 砕けた腕の骨。 アレクシスのものだ。 衛兵が、わずかに視線を逸らす。 だがジギスムントは、ただ静かに眺めた。 嫌悪もない。 愉悦もない。 価値を測る目だけがあった。「……失ってはいないな」「はっ」「義眼と義腕の適合に必要な核です」 静かな返答。 ジギスムントはケースを閉じた。(ならば、まだ負けていない) 北部都市群が保護しようと。 ヒマリが介入しようと。 アレクシスが完全に元へ戻るためには、これが必要になる。 必要とは、交渉材料だ。「北部都市群には悟らせるな」
続きを読む

北の商人たち、それぞれの算盤

 北部都市群・主席執務室。 深夜を回った議事堂は、静まり返っていた。 かつて議会では怒号と利害が飛び交っていた円卓も、  今は冷えた石の匂いだけを残している。 その中で、ただ一室だけ灯りが消えていなかった。 陸路代表主席――ペトラの執務室である。 港湾収支、造船進捗、交易記録――。 机の上には赤字の印が並ぶ報告書が山のように積まれていた。 ペトラは一枚を手に取り、小さく息を吐く。「……三割停止、か」 視線の先にあるのは、シュヴァルツ造船区の損失報告だった。 原因は単純だ。 ロンデル公国の崩壊による木材不足。 たったそれだけで、北部都市群の経済は目に見えて鈍り始めていた。 窓の外には夜の港が広がっている。 本来なら、この時間でも眠らない場所だ。 金槌の音。  怒鳴り合う職人たちの声。 波止場を駆け回る荷車。 北部の夜は、交易の音でできている。 だが、今夜だけは違った。 止まった船台が月明かりの下に黒く沈み、  まるで墓標の列のように並んでいる。(……ロンデルの穴は深いな) 椅子へ身体を預け、机の上の一枚の契約書へ目を向ける。 砂色の封蝋。 サンドランド王国。 差出人――ジギスムント。『独占海路契約』 木材供給の再開、海路優遇。  関税緩和。 一見すれば理想的な条件だった。 だが、ペトラの目は細くなる。(依存は、支配の入口だ) サンドランドは砂漠国家。 本来、木材とは無縁の国である。 その国が今、ロンデル公国のギーレ港を押さえ、  北方海路そのものを握ろうとしている。 狙いは物流の支配。 一度依存すれば終わる。 価格を吊り上げられても逆らえず、  契約を盾に譲歩を迫られても逃げ場はない。 商人国家にとって、一国依存は毒だった。 だが、それ以外の選択肢も乏しい。 ペトラは壁の地図へ視線を移した。 王都ブリュードは山脈の向こう。 遠く、輸送効率も悪い。  冬になれば山道は閉ざされる。 合理だけを考えるなら、選ぶ理由はなかった。 それでも、サンドランドに対抗できる可能性を持つ  国があるとすれば、そこしかない。 ペトラは静かに目を閉じた。(……来い、ヒマリ女王)(商人の算盤を狂わせる王なら、俺に答えを見せてみろ) 部屋の灯りが、小さく揺れた。     
続きを読む

影を見抜く商人

 北部都市群・中央医療院。 午後の柔らかな陽射しが、石造りの廊下へ長く差し込んでいた。 怪我人たちは眠りにつき、看護師たちの足音も遠い。 静寂だけがゆっくりと流れる中、  ネリィは海色の外套を揺らしながら一人歩いていた。 向かう先は中央病棟。 保護中のロンデル公子アレクシスと、  ヒマリ女王によく似た少女――ノリスの病室だ。 部屋の前まで来ると、扉の隙間から淡い光が漏れていた。 その奥から、小さな笑い声と穏やかな話し声が聞こえる。 アレクシスとノリスだった。 ネリィは盗み聞きをする趣味はない。 そのまま通り過ぎようとした、その時だった。 扉の下へ差し込む光の中に、銀色の毛先がほんのわずかだけ映った。 ネリィの足が止まる。(……やっぱり) 昨日よりも黒髪が薄くなっている。 異界の瘴気に染まっていた黒が、  少しずつ剥がれ落ち、本来の銀色を取り戻し始めていた。 ネリィは静かに目を細める。(異界の残滓が薄れている) 魔力を持たない人間が異界を越えるなど、本来あり得ない。 だが、最初から魔力を持っていたのなら。 しかも、それを意図的に隠していたのだとしたら――。 記憶の引き出しが静かに開く。 ロンデル崩壊以前。 北方航路では、ある噂が何度も流れていた。 銀髪の魔王。 一夜で守備隊を壊滅させ、忽然と姿を消した存在。  その噂と、目の前の少女が静かに重なる。(……なるほど) 点だった情報が一本の線になる。 ヒマリの影と呼ばれる少女。  魔力を持たないはずなのに異界を越え、銀色の髪を隠している。 そこまで揃えば答えは一つだった。(厄介なのを拾ったわね) そう思いながらも、ネリィの口元には小さな笑みが浮かぶ。(サンドランドと戦う日が来るなら、この娘は切り札になる) 静かに扉を叩く。 一瞬だけ室内が静まり返り、やがてノリスの声が返ってきた。「……どうぞ」 扉を開くと、窓辺のベッドではアレクシスが身体を起こしていた。 包帯だらけの身体。 失われた右腕。 それでも、その表情は以前より穏やかだった。 その隣にはノリスが椅子へ腰掛けている。  二人の距離は、昨日より明らかに近づいていた。(あら……) 予想よりも早い。 ネリィは何事もなかったように微笑む。「少し、その娘を借りてもいい
続きを読む

秘密の契約

 廊下の空気が、少しだけ冷えた。 ノリスは何も言えなかった。  ネリィの言葉は図星だったからだ。 ヒマリが来れば、すべて終わる。  自分は王都へ戻され、アレクシスの傍を離れ、  再び影としての役目へ戻る。 それが正しいことは分かっていた。 それでも――。(……嫌だ) 考えるほど、感情が抑えきれなくなる。 ネリィは静かに青い魔石を指先で転がしながら言う。「女王があなたを見れば、髪も魔力もすぐに気付くでしょう」 淡々とした口調だった。「そうなれば、公子とあなたは二度と交わらない」 ノリスの肩が小さく震える。「……そんなこと」 否定しかけて、言葉が止まった。 ヒマリがどう判断するかは分からない。  だが、フェルマーなら迷わない。 相手は、王都を破壊した魔王だ。 魔力が戻れば放っておく理由などない。「……もう一つの条件は?」 話題を変えるようにノリスが尋ねた。 ネリィは小さく笑う。  もう半分、この取引を受け入れている。 そう確信した。「異界魔力が必要なの」「異界魔力?」「海路用よ」 ネリィは壁へ軽く肩を預けた。「北方航路では、魔物領域がある。  その対策として、異界魔力を封じた魔石を使っているの」「魔除け……?」「ええ、何も知らないサンドランド船団は  先行した私達に付いて来るでしょう」 ネリィは小さく笑った。「この魔石へ異界魔力を溜めてほしい」「どれくらい?」「商船三隻分」 商人らしい単位だった。 ノリスは魔石へ目を落とした。「……今の私に、それができるの?」「だからこその取引よ」 ネリィは魔石を差し出す。「その石があれば普段の魔力漏れも抑えられる」「でも異界へ入れば……」「危険ね」 迷いなく答えた。「今のあなたは異界の匂いが戻り始めている。  魔物にも気付かれやすいかもね」 ノリスは黙った。 青い魔石は、どこか異界の空を思わせる色をしていた。「……命懸けじゃない」 思わず漏れた言葉に、ネリィは首を横へ振る。「命懸けよ」 その一言には迷いがなかった。「でも、公正な取引でしょう?」 ノリスが顔を上げる。「あなたは今までだって、命を懸けてきた」 その言葉が胸へ深く刺さる。 ノリスは自嘲気味に笑う。「……嫌な言い方」「よく言われる」 ネリィは肩をすくめ
続きを読む
前へ
1
...
5678910
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status