All Chapters of 身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ: Chapter 101 - Chapter 110

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第101話 初めての味方

 話し終えた後の律は、少しだけ呼吸が浅く見えた。  黒い仮面は、まだ律の顔を覆っていた。  だからこそ、そこに隠れているものが以前より遠く見えた。近づいたはずなのに、触れてはいけない扉が一つ増えたようだった。  私は、その仮面ではなく、彼の手元を見ていた。  肘掛けの上に置かれた指。  強く握りすぎて、関節が白くなっている。  見ている場所を変えないと、さっきの言葉が、自分の中で大きくなりすぎる。  律も、誰かの噂に閉じ込められている人なのかもしれない。  その考えより、肘掛けを握る律の指から目を離せなかった。  慰めのつもりではなかった。理解したと言いたかったわけでもない。  ただ、そう見えた。  律はしばらく何も言わなかった。  休憩室の外では、誰かが盆を運ぶ小さな音がした。陶器が触れ合う軽い音。扉の前で止まって、また遠ざかる。  相良さんが人払いをしているのだろう。  それが分かるくらいには、この家の空気にも少し慣れてしまっている。  慣れてしまうことが、怖かった。 「朝霧さん」  律が呼んだ。  私は顔を上げる。  黒い仮面の奥の目は、いつもより無防備に見えた。けれど、こちらの返事を急かさず、逃げ道をふさがないところは変わらない。 「水、替えます」  律は自分のグラスを見てから、私の方を見た。 「私の分もですか」 「二人分」 「……榊さんも飲んでください」 「なら、私も飲みます」  あっさり返されて、続けるはずだった小言を失った。  私は膝の上で握っていた手を開いた。  指の腹に、爪の跡が残っている。  律は自分のグラスを取り、少しだけ水を飲んだ。  私もようやく手を伸ばした。  喉が潤っても、次の言葉は出しやすくならなかった。  それでも、黙ったままにはしたくなかった。  グラスを戻すと、指に水滴が残った。  グラスを置いた手を、膝へ戻した。 「榊さん」  律は言葉で促さず、ただ視線をこちらへ返した。 「あなたを信じるのが怖いです」  声は震えなかった。  震えないように、短く切ったからだ。  律の視線が、まっすぐ私に向く。 「助けてもらったことは分かってます。祖母のことも、仕事も。だから……余計に困るんです」  律はすぐに答えず、自分のグラスを机へ戻した。 「知らないと
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第102話 最後まで聞く人

 怒ると面倒。  説明を求めると面倒。  だから黙るしかなくなる。  その癖が、まだ体の中に残っている。  窓の外で、庭木の葉がかすかに揺れた。  律は、テーブルの端に置かれた薄いファイルへ手を伸ばした。  黒塗りの資料が入っているものではない。さっき面談で使ったものより、ずっと薄い。 「これを見てください」  律はファイルを開き、中の一枚をこちらへ向ける。  榊家内部調査資料閲覧範囲一覧。  見出しには、そんな言葉が印字されていた。  一覧には、資料名の横に小さな欄が並んでいた。閲覧済み、未閲覧、保留。さらに右端には、理由を書くための空白が取られている。そこだけ文字がなく、まだ何も決められていない白さだった。 「次から、君に関わる調査はここに残します。見せられないところは、理由を書く」 「……そこまで?」 「必要です」  即答だった。  私は口を閉じる。 「あとで『知らなかった』と言わせたくない」  その言葉で、紙の端を押さえていた指が止まった。 「……そうですか」  律は頷いた。  私はファイルの角を持ち直した。薄い紙なのに、さっきより手の中で重くなかった。 「……面倒じゃないんですか」  今度は、少しだけ声が出た。  律はファイルから視線を上げる。 「今は、そう思っていません」 「即答されると、かえって疑いたくなります」 「どうぞ」  思わず、笑いが漏れた。  ほんの一瞬だった。  けれど、さっきより肩が楽になった。 「本当に面倒ですね」 「それでも構いません」  律の返事は変わらなかった。  その真面目さが、可笑しかった。  今度は、隠しきれなかった。  笑いが収まると、書斎の静けさが戻った。さっきまでなら気まずかったはずの間が、今は少し違う。律が答えを考えている間、私は急かさずにグラスを置いた。底に残った水が小さく揺れ、それが止まる方が先だった。  律の目元も、ほんの少しだけ和らいだ。はっきり笑ったわけではない。それでも、仮面越しに伝わるほどの微かな変化だった。  見えてしまうと、困る。  この人も、ずっと一人でいたのかもしれない。  そう思う余地が生まれる。  余地ができると、そこへ期待を置きたくなる。それが怖かった。  私はグラスの表面を親指で拭った。  冷たい水滴が
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第103話 如月家の娘ではなかった

 ファイルを開き直す。  ファイルの二枚目には、項目が箇条書きで並んでいた。  調査対象。  取得経路。  閲覧者。  開示不可部分の理由。  そこまで細かく書かれているのに、黒く塗られた行もいくつかある。  私は、その黒い帯を指でなぞらなかった。  触れたら、また何かを知りたくなる。  知りたいのに、知るのが怖い。 「黒塗りは、榊家の内部に関わるものですか」 「一部は」 「一部は、私に関わるものですか」  律はすぐに答えなかった。  その沈黙で、私は答えを知ってしまう。 「あなたに関わる行もあります」  遅れて届いた声は、やはり短かった。 「ただ、今渡せば、君が確認する前に別の人間が動く」 「別の人間」 「榊家の中にも、九条家に近い者がいる」  九条。  九条と聞いた瞬間、ファイルを押さえる指に力が入った。  空調の風が、紙の端をわずかに揺らした。 「九条家の人間なんですか」  口にしてから、胃のあたりが重くなった。  聞いてしまった。  まだ確かめてもいないことを。  律は私を見た。 「まだ断定できない」 「でも、疑ってる」 「疑っています」  ごまかさない。  それが痛い。 「私が如月家の娘じゃないと、いつから疑っていたんですか」 「三年前です」  資料の端を押さえていた親指が、紙に食い込んだ。  律は続ける。 「ただ、その時点では確証がなかった。君を助けるつもりで九条家に近づけば、かえって君を危ない場所へ出すことになる」 「だから、名乗らなかった」  律の指が、膝の上で一度だけ動いた。 「……名乗れませんでした」  その言葉は、短くて、逃げ場がなかった。  でも、短いからといって簡単なことにはならない。  私は資料の端を押さえた。  紙はまっすぐなのに、指の方が少し震えている。 「榊さんは、いつも理由がありますね」  嫌味だった。  たぶん。  律は一度、視線を落としてから答えた。 「……言い訳にはしません」  その返事に、次の嫌味を続けられなくなった。  謝られるより、正面から間違いを認められる方が痛かった。  自分の間違いを分かっている人に、怒り続けるのは難しい。  けれど、難しいからといって、怒りが消えるわけでもない。 「……ずるいです」  律
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第104話 仮面の縁に触れる指

 触れればいいわけではないと、この人は知っている。  でも、何もしないわけでもない。 「あなたが決めることですが、今日はここで閉じてほしい」 「まだ途中です」 「途中なのは承知しています」  律が言った。 「でも、今のあなたに続きを読ませるのは違う」  私は、ファイルの表紙に目を落とした。  止められたことより、私の顔を見て言われたことの方が意外だった。  如月家では、私の具合に関係なく、いつも結論だけが先に来た。  突然、偽物だと言われた。  突然、家を出された。  突然、代わりに嫁げと言われた。  私はいつも、決められた後の場所に立たされていた。  私は表紙に置いた指をしばらく動かせずにいた。  声が少し掠れた。 「……分かりました。今日は、ここまでにします」  律は頷いた。  私はそこで口を閉じた。まだ言いたいことはあったけれど、今日の私はもう、それ以上踏ん張れそうになかった。  選べることは、思っていたほど楽ではなかった。  自分で決めた分だけ、自分の足で支えなければならない。  それでも、誰かに押されて進むよりはいい。  私は閉じたファイルの上に手を置いた。  ふいに、律の黒い仮面へ視線が戻る。  黒い表面。  外されていないのに、そこには誰の顔もないように見えた。 「それ、いつまでつけるんですか」  聞いてから、少し踏み込みすぎたかと思った。  律は自分の仮面に指先を触れた。 「必要な場では、まだ」 「……そうですか」 「嫌ですか」  問いかけは、押しつけるようには聞こえなかった。  嫌かどうか。  すぐには分からない。  私は黒い仮面を見て、それから、その奥に隠れているはずの律の表情を探した。 「嫌というより」  言葉を探す。 「隠していると知ってしまった後に、知らないふりをするのが難しそうです」  律は一瞬だけ目を細めた。 「それは、困りますね」
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第105話 祖母の手紙

 封筒は、思っていたより軽かった。  祖母の字には、右肩が少し下がる癖も、最後の「へ」が小さく丸まるところも残っていた。  見慣れた癖を追っていると、声が出なかった。 「病院から、ですか」  どうにか平らな声を出した。  相良さんは銀盆から手を離し、頭を下げた。 「正確には、病院の相談員を経由しております。如月静江様が、意識のはっきりされていた時期に、弁護士へ預けていた封筒だそうです。榊様宛にも確認が入りましたので、開封前の状態でこちらへ」 「弁護士……」 「封はそのままです。中身について、榊家側は確認しておりません」  相良さんの言葉は事務的だった。  それがありがたかった。ここで誰かに、つらいでしょう、と言われたら、私はたぶん封筒に触れられなくなる。  律は向かいに座ったまま、黒い仮面の奥からこちらを見ていた。いつもより言葉が少ないせいで、かえって視線を向けるのが少し難しかった。 「今、開けなくてもいいです」  律が言った。  律はそれだけ言って、封筒から視線を外した。急かされないと分かって、ようやく呼吸が戻る。それでも指先は冷たいままだった。  私は封筒に指先を伸ばした。  封筒の糊は古く、少し波打っていた。指で触れた途端、祖母がこれを閉じた時のことを考えてしまう。 「……読みます」  言ってから、封筒を裏返す。  爪を立てないように、端からそっと開いた。中には、便箋が三枚と、小さな写真が一枚入っていた。  写真を見て、手が止まった。  写っていたのは、赤ん坊だった。  白いタオルにくるまれ、目を閉じている。頬はふっくらしていて、手首には細い布のようなものが巻かれていた。写真の端は少し黄ばんでいる。裏には、祖母の字で短く書かれていた。  栞、三か月。  写真の表面には、光に傾けた時だけ見える細かな擦れがあった。祖母は何度かこの写真を出して、また封筒へ戻したのかもしれない。そう思うと、指先の力を抜くのが難しかった。  見覚えがない。  でも、知らないとは言えなかった。  私は写真の縁だけを持った。高瀬さんがいれば、手袋だの記録だのと言うかもしれない。けれどこれは証拠ではなく、祖母が私に残した写真だった。今は、そう思いたかった。  便箋を開く。  祖母の字は、写真の裏よりもずっと震えていた。  栞へ。
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第106話 如月家の都合で負った傷

 便箋を持ち直す。紙が小さく鳴った。  《あなたがこの家に来た日のことを、私はよく覚えています。  隆一は、親戚筋の子を預かったと言いました。  詳しいことは言えない、いずれ本当の親のことも整理すると。  私は疑いました。でも、赤ん坊だったあなたを見てしまったら、疑うより先に抱き上げてしまいました。》  読み進めるほど、昔の痛みが輪郭を取り戻した。  疑った。  祖母だけは、最初から何かがおかしいと感じていたのか。  律は何も言わない。相良さんも退出せず、少し離れたところに立っている。証人のようで、見守りのようでもあった。  私は続きを読んだ。  《あなたは、小さな守り袋を握っていました。  赤に近い深い色の袋です。金糸で、見慣れない紋が縫われていました。  赤ん坊のあなたは、それを離そうとしませんでした。  だから私は、これはあなたのものだと思いました。  誰があなたをこの家に連れてきたとしても、あなたが持っていたものまで取り上げてはいけないと思ったのです。》  守り袋。  便箋を持つ手が止まった。  覚えている。  はっきりではない。子どもの頃、古い木箱の中に、小さな袋が入っていた。祖母の部屋の奥、桐箪笥の下から二段目。お正月のたびに祖母が出して、布のほつれを確かめていた。  私はそれをお守りだと思っていた。  触りたいと言ったら、祖母は笑って、あなたのものよ、と言った。  でも、いつからか見なくなった。  三年前、家を出る時には、思い出す余裕もなかった。財布とスマートフォンと数枚の服だけを押し込んで、逃げるように出た。祖母の部屋に寄ることすらできなかった。 「……その袋、見たことがあります」  唇が勝手に動いた。  律の視線が上がる。 「小さい頃、祖母の部屋で見ました」 「場所を覚えていますか」 「たぶん、如月本家の蔵です。祖母の持ち物は、病室に移されたもの以外、蔵に入れられたはずなので」  声に出した途端、蔵の暗さまで思い出した。  如月本家。  もう戻らないと決めた場所。戻るなら、用事があっても他人として行くのだと思っていた場所。  その奥に、私が赤ん坊の頃に持っていたものがある。  便箋には、まだ続きがあった。  《栞。  あの袋を、必ず自分の手で確かめなさい。  中身を開けるかどう
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第107話 静江を連れ出す計画

 自分の手が震えているのだと、少し遅れて気づく。 泣くつもりはなかった。 でも、涙は勝手に落ちた。便箋に落とすわけにはいかなくて、私は慌てて顔を逸らす。膝の上に落ちた雫が、黒いスカートに小さな丸を作った。 誰かの娘かどうか。 本物か偽物か。 そんなことより前に、祖母は私を栞と呼んでくれていた。「ハンカチを」 相良さんが小さく動いた。 律が片手を上げて止める。「相良」「失礼いたしました」 相良さんはすぐに下がった。 律は何も差し出さなかった。 代わりに、テーブルの上の箱を私の手が届くところまで押した。中には未使用の薄い紙ナプキンが入っていた。 その距離が、今はありがたかった。 私は一枚取って、目元を押さえた。「……祖母は、知ってたんでしょうか」「静江様が知っていたのは、輪郭だけだと思います」 律はすぐに断定しなかった。「ただ、何かを疑ってた。だから、守り袋だけは残した」「どうして、私に直接言ってくれなかったんでしょう」 責めたいわけではない。 それでも、言葉は少しだけ尖った。 律は答えるまで間を置いた。「言えば、あなたが如月家の中でさらに危険になると思ったのかもしれません」「それは、祖母の想像です」 律は、否定せずに頷いた。「それでも、隠された側は傷つく」 私は紙ナプキンを握り直した。 今の言葉は、祖母だけではなく、律自身にも向けているように聞こえた。 黒い仮面の奥の律は、いつもより少し疲れて見えた。顔に何が隠れているのか、私はまだ知らない。それでも、表情を動かさない癖だけは、長く身につけた防具のようだった。「責めていいんでしょうか」 ぽつりと漏れた。 律は少しだけ眉を寄せる。「……静江様を、ですか」「祖母を」 言った瞬間、胸が痛んだ。「好きだったんです。私、祖母のことだ
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第108話 外されなかった仮面

 《栞は、栞です。》 私は便箋を膝の上に置いた。 泣き声は出なかった。紙ナプキンを握る手に力が入り、薄い紙がくしゃりと潰れた。 窓からの白い光が、壁に薄くにじんでいた。 律が静かに言う。「如月本家へ行くなら、手配します」「手配、ですか」「先方へ連絡を入れる。榊家の法務も同行できます。蔵の中にあるものなら、持ち出しの手続きも記録に残した方がいい」 現実的な言葉だった。 その事務的な言い方に、息が少し戻った。「必ず取り戻そう」と言われるより、今はその方が助かった。「如月家は、渡さないと思います」「素直には渡さないでしょう」 あっさりと律が言った。「特に、静江様の私物で、あなたに関わるものなら」「それでも、行きます」 声は震えた。言い直さなかった。 写真の端を押さえた指に、少し力が入った。 相良さんがほんのわずか視線を伏せる。律は、顔を覆う仮面の留め具に触れることもなく、私を見ていた。「一緒に行きます」「……それは、まだ待ってください」 返事は、思ったより早く出た。 律の視線がこちらを向く。「最初は、私が行きます。榊家の名前を使う前に、私が祖母のものを取りに来たと伝えたい」「一人で入るのは勧められません」「危険なのは分かっています」「分かっていても、止める理由にはなります」「止めますか」 少しだけ、声が硬くなった。 律は黙った。 律はすぐには答えなかった。 肘掛けに置いた指が、一度だけ強くなる。 それでも、「行くな」とは言わなかった。「外で待って」 私は言った。「本当に危ないと思ったら、呼びます。記録も残します。高瀬さんにも照会文を作ってもらいます。だから、最初の言葉だけは、私に言わせて」 律はしばらく黙ったまま、私の顔を見ていた。 律はまだ黙っていた。 私は目を逸らさなかった。
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第109話 如月本家へ戻る条件

 車の窓に、朝の灰色が薄く貼りついていた。 まだ雨は降っていない。けれど、空気だけが湿っている。ワイパーは動かないまま、フロントガラスの端に小さな水滴が一つ、二つと増えていく。 膝の上には、薄いファイルがあった。 高瀬さんが用意してくれた申入書。静江さんが私に宛てた手紙の写し。守り袋について書かれた一文。その三枚だけだ。 それ以上の資料は、あえて持ってこなかった。 古い病院写真も、識別バンドの紙片も、葛城静司の名が出てきた法人資料も、今日は持たない。あれを出せば、話はすぐ別のところへ流れる。私はまだ、それをぶつける準備ができていない。 今日取りに来たのは、祖母が私に残そうとしたものだった。「門の前で止めてください」 運転席の相良さんが、ルームミラー越しに一度だけこちらを見る。「敷地内までは入らなくてよろしいですか」「最初は、一人で行きます」 隣に座る律は、膝の上に置いた手を動かさなかった。黒い仮面の縁が、以前より硬いものに見えた。「高瀬は近くに待機しています。相良も車に残る。私は門の外で待ちます」「それだと目立ちます」「もう目立っています」 律の声は平らだった。 笑える状況ではなかったが、その事実だけは否定できなかった。肩の力がわずかに抜けた。 否定できず、私は小さく息を吐いた。「その代わり、約束した二つは守ってください」「連絡が途切れたら入る、ですよね」「それと、録音を切らないこと」「録音は切りません」 バッグの中のスマートフォンに指先で触れた。録音アプリはまだ起動していない。如月家の敷地に入ってから、最初に自分の口で告げるつもりだった。 記録します、と。 黙って録る方が簡単だった。でも、それはしたくなかった。私は録音アプリのアイコンから指を離した。 車が如月本家の前で止まった。 門扉の黒い鉄格子は、三年前と同じだった。磨かれているはずなのに、雨を含んだ空の下では古く見える。門柱の表札に刻まれた「如月」の文字が、濡れる前の石の色で沈んでいた。
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第110話 戻る前に出した条件

 車のドアを開ける前、窓に映った自分の顔を見た。薄い口紅はほとんど色を持たず、コートの襟だけが妙に整っている。バッグの中には申入書、身分証、守り袋の写真がある。「行ってきます」 律は短く頷いた。「気をつけて」 ドアを閉めると、車内の静けさが背中側に残った。 インターホンを押す。 短い電子音が、門柱の中で鳴った。しばらくして、聞き覚えのある女中頭の声が応答した。名前を名乗ると、向こうの空気が少し詰まる。『……少々お待ちください』 その「少々」は長かった。 門の前に立っている間、背後の道路を配送車が一台通り過ぎた。タイヤが湿った路面を踏む音が、小さく尾を引く。 やがて、門が開いた。 足を踏み入れた瞬間、石畳を覚えていた体だけが先に強張った。 庭の土の匂い。濡れる前の青い葉の匂い。玄関へ続く石畳の硬さ。 何もかもが、私を知らない顔でそこにあった。 玄関には如月隆一が立っていた。 昨日より少し疲れて見える。ネクタイは締めているが、結び目がいつもより下がっている。会社で謝罪会見を控えた人のような顔で、それでも家の主としての形だけは崩していない。「何の用だ」 第一声が、それだった。 私は靴を脱がず、玄関のたたきに立ったままファイルを持ち直した。「祖母の私物を確認しに来ました」「母はまだ生きてる」「知っています」 隆一の眉が動く。「なら、勝手に遺品漁りのような真似をするな」 遺品。 その言葉だけ、少し遅れて耳に入った。 祖母はまだ生きている。病室で、細い手を握り返してくれた。声はもう小さくても、私の名前を呼んだ。 なのに、この人はもう、整理する側の言葉を使っている。 奥歯を噛んだ。音は立てなかった。「遺品じゃありません。祖母が私に宛てて残した手紙に、守り袋のことが書かれていました。私が赤ん坊の頃に持っていたものだそうです。蔵に保管されている可能性があります」「そんなものは知らん」「
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