Semua Bab 身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ: Bab 111 - Bab 120

304 Bab

第111話 三年前にはなかった記録

「ずいぶん偉くなったものだな」 「……録音して、書面を出すくらいは覚えました」  玄関奥の廊下で、かすかな衣擦れの音がした。  誰かがいる。  未央かと思ったが、姿を見せたのは琴美だった。  淡い色のカーディガンを羽織り、髪をきちんとまとめている。けれど目元の化粧だけが少し崩れていた。朝から泣いていたのかもしれない。  琴美は私を見るなり、足を止めた。 「……栞」  名前を呼ぶ声は、かすれていた。  返事はすぐに出なかった。  母と呼んでいた人だった。  三年前、階段下で未央を抱きしめていた人でもある。私の頬が赤く腫れていた時、何も言わなかった人。あとで泣きながら部屋の前に来て、扉越しに「ごめんなさい」とだけ言った人。  その声を聞いても、私は扉を開けなかった。  今でも覚えている。  扉の木目。夜の廊下の明かり。向こうで鼻をすする音。  覚えているのに、許したことにはならない。 「琴美さん」  そう呼ぶと、琴美の顔が小さく歪んだ。  お母様、と呼ばなかったからだ。  でも、もう戻せない。 「静江さんの守り袋を取りに来ました。蔵を確認させてください」 「守り袋……?」  琴美は隆一を見た。隆一は視線をそらす。  隆一が目を逸らした瞬間、ファイルを持つ手に力が入った。  知らない顔ではない。  知っている顔だった。 「お父さん」  琴美が、震える声で呼んだ。 「あなた、何か知ってるの」 「今は関係ない」 「関係ないって……静江さんが栞に残したものなんでしょう」 「琴美、下がっていなさい」  命令口調だった。  琴美の肩がびくりと動く。昔からそうだった。隆一が低い声を出すと、この人はそれ以上踏み込まない。涙を浮かべて、口元を押さえて、最後は黙る。  それで、いろいろなことが終わった。  私の三年前も、そうやって終わった。 「下がらなくていいです」  言ってから、自分でも少し驚いた。  琴美がこちらを見る。 「琴美さんが立会人になってください。未央さんじゃなく、あなたに見ていてほしい」 「私が……?」 「あなたに見ていてほしいんです」  すぐに頷けるわけがない。分かっている。  でも、私は続けた。 「三年前のことは、消えません」  琴美の視線が揺らぎ、私の顔に留まれなくなる。 「で
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第112話 最後まで言わせる謝罪

 舌の先まで出た言葉を飲み込んだ。録音中の表示だけ確認し、守り袋の話へ戻す。 「私は守り袋を探しに来ました。あなたとは話しません」 「何よ、それ。まだ自分に何か特別なものがあると思ってるの?」  特別。  その言葉が、玄関の空気にひっかかった。  私ではなく、琴美が先に息を吸った。 「未央、やめなさい」  小さな声だった。  でも、確かに止めた。  未央が目を見開く。 「お母様?」 「今は、栞の話を聞く時間です」 「栞って……」  未央の声が少し高くなる。 「またそうやって。結局、みんな栞、栞って」  琴美は言い返せなかった。けれど、今回は下がらなかった。  そのことが、私には一番怖かった。  今さら、と思う気持ちがある。遅すぎる、と言いたくなる。三年前にその一言があれば、何かが違ったかもしれないのに。  でも、遅すぎる言葉でも、今の私の前で初めて出た。  隆一が深く息を吐く。 「蔵は無理だ」  場を切るような声だった。  私は申入書を閉じず、続きを待った。 「整理中だ。危ない」 「では、整理業者の記録と日程を見せてください」 「何?」 「整理中なら、業者名、作業日、立会人、搬出リストがあるはずです。なければ、危ないという理由は使えません」  隆一のこめかみに、うっすら血管が浮いた。  私は怖い。  今でも、父と呼んでいた人が声を荒らす瞬間は怖い。頬を打たれた記憶は、身体の方が先に思い出す。  今日は一歩も引かなかった。 「三十分だけで構いません。蔵を全部見るつもりはありません。静江さんの私物箱を確認したいだけです」 「母の私物箱は、琴美が管理してる」  隆一が低く言った。  琴美が顔を上げる。 「私……?」 「鍵は、お前の手元にあるだろう」 「でも、あれは……あなたが、もう触るなって」  琴美の言葉のあと、未央まで口を閉じた。  私の指が、ファイルの角を強く押す。紙の端が少し曲がった。  隆一は、何も言わなかった。  守り袋があるかどうかは、まだ分からない。けれど、この家の中に、祖母の私物箱があり、それに触るなと命じた人がいる。  私は曲がった紙の端を指で戻した。 「琴美さん」  呼ぶと、琴美の肩が震えた。 「鍵を、見せてください」  琴美は両手を胸の前で握っていた。指先が
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第113話 母だった人

 琴美の泣き声は、思っていたより小さかった。  私はスマートフォンを確認し、録音を止めないまま律へ短いメッセージを送った。 『入ってください』  数分後、女中頭に案内されて、律と相良さん、高瀬さんが玄関へ入ってきた。  相良さんが琴美へ近づきかけたが、律が片手を上げて止めた。  琴美はまだ床に膝をついていた。私は手を伸ばさなかった。  私は琴美を見た。泣いている人が中心になる、いつもの形には戻したくなかった。  手の中のファイルの角が折れている。さっき自分で握り潰しかけた跡だった。 「……栞」  琴美が、指の隙間から私を呼んだ。  昔の声だった。  熱を出した夜、水の入ったコップを差し出してくれた時の声。未央と喧嘩したあと、先に謝りなさいと困ったように言った声。三年前、階段の下では、とうとう聞かせてくれなかった声。  同じ声を聞いても、昔のようには戻れなかった。 「立ってください」  私が言うと、琴美は顔を上げた。 「栞、私は……私は、あなたに」 「今ここで泣かれても、鍵は出てきません」  自分でも少し硬い声だと思った。  琴美の視線が定まらない。私を責める目ではなかった。むしろ、責めてほしそうな目だった。  その方が楽なのだろう。  私が怒って、ひどい言葉を投げて、琴美が泣く。周りが「もうそのくらいで」と止める。いつもの形に戻る。  その形に、私はもう入らない。  琴美は床に手をつき、ゆっくり立ち上がった。膝のあたりに、細かな埃がついている。未央がそれを見て、かすかに眉を寄せた。 「お母様、もういいじゃない。栞さんは最初から、私たちを責めに来ただけよ」  甘い声だった。  でも、語尾が少し早い。  琴美は未央を見た。見てしまった、という顔をした。 「未央……」 「だってそうでしょう? おばあ様の物だって言えば、何でも持っていけると思ってるのよ。今さら家族面して」 「家族面」  私はその言葉を繰り返した。  未央の唇が止まる。  玄関の横に置かれた生花から、薄い百合の匂いがした。昔、この家では季節に関係なく花があった。客に見せるための花。家族のためではない花。 「便利な言葉ですね」 「何のこと」 「私を家族から外したい時は、偽物。物を取り戻しに来た時は、家族面」  未央の頬に色が差した。  隆
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第114話 捨てたつもりはなかった

 隆一の口元が固まった。  律が黙っている。相良さんも高瀬さんも、私の後ろで動かない。録音中であることは、玄関に入る前に告げてある。法務担当の高瀬さんが、如月家側にも確認を取った。  玄関の奥で、古い柱時計が低く鳴った。  録音機の赤いランプが点いたままなのを見て、私は息を整えた。  少なくとも、今ここで言ったことは後から消えない。  記録が残る。そのことを頼りに、今の私はどうにかここに立っていた。 「琴美さん」  私はもう一度、琴美を呼んだ。  お母さん、と呼ばないことに、琴美が気づかないはずがない。  目の下が、また赤くなった。 「祖母の私物箱に、守り袋が入っている可能性があります。静江さんの手紙に、そう書いてありました。私はそれを確認しに来ました」 「……おばあ様が、あなたに」 「私に宛てて、守り袋を取り戻すようにと」 「私には、何も」  琴美の声が細くなる。  私は答えなかった。それだけで、琴美はまた傷ついた顔をした。けれど、その傷を慰めるのは私ではない。 「私の荷物を蔵へ移したこと、知っていたんですか」  私は聞いた。  琴美はまばたきをした。  問いを曖昧にさせないよう、私は琴美の目を見た。 「それは……」 「知ってたか、知らなかったかだけでいいです」  琴美の指が、ハンカチを握り込む。白い布に、小さな刺繍があった。昔、私が母の日に選んだものに似ていた。たぶん違う。似ているだけだ。 「隆一さんが、そうした方がいいって」  未央が小さく息を呑んだ。 「お母様」 「未央、黙って」  琴美の声が、思いがけず強くなった。  琴美の強い声に、未央が目を見開いた。私も、たぶん同じ顔をしていた。  琴美は自分の声に驚いたように唇を押さえたが、引かなかった。 「……捨てたつもりはなかったの」  奥歯に力が入った。「つもり」。私の部屋を空にした人の口から出るには、ずいぶん軽い言葉だった。  私は息を逃がした。 「でも、私の部屋は空になってました」 「違うの。あの時は、家の中にあなたの物があると、未央が……」 「苦しむから?」  琴美は黙った。  未央が一歩前に出る。 「当たり前じゃない。私は三年前、階段から落ちたのよ。お姉様の物を見るたびに、怖くなっても仕方ないでしょう」 「あなたが怖かったこと
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第115話 母を責める未央

「琴美さん」  呼んだだけで、喉が痛んだ。 「あの日、私は捨てられたと思いました」  琴美の目から涙が落ちた。 「ごめんなさい」  今度は、最後まで聞こえた。  玄関の石に、一滴、涙が落ちる。丸い跡になって、すぐに薄く広がった。  玄関脇の磨りガラスに、曇った光が薄くにじんでいた。 「本当に、ごめんなさい。栞、私……あなたに謝りたかった。ずっと」  未央が声を荒げた。 「お母様、やめて。どうして今、そんなことを言うの。私が悪いみたいじゃない」 「未央のことも、大事なの」  琴美は泣きながら言った。  その瞬間、胸のどこかが、そっと閉じた。  ああ、と思った。  琴美は未央と私を見比べたまま、口を開けなかった。  昔からそうだった。未央が泣けば未央へ行く。私が黙れば、私は大丈夫な子にされる。誰も傷つけたくないという顔をしながら、結局いつも、声の大きい方へ歩いていく。 「……それなら、今の謝罪は受け取れません」  私が言うと、琴美がこちらを見た。 「栞……」 「今、未央さんを見ましたね」 「私に謝りながら、あの人が泣かないか見てる」  最後の言葉だけが、わずかに掠れた。 「……それなら、今は聞けません」  琴美の顔から、血の気が引いた。  きつい言い方だとは分かっていた。  それでも、今度は引っ込めなかった。  琴美は口を開いた。何か言いかけて、閉じる。  ハンカチを握る手が、震えていた。  未央は笑おうとして失敗した顔で、琴美の腕を掴んだ。 「聞く必要ないわ。こんなの、ただの仕返しよ」 「仕返しなら、もっと楽だったと思います」  自分の声が少しだけかすれた。  律が隣で、かすかにこちらを見た気配がした。手は伸びてこない。名前も呼ばない。  それが、今はありがたかった。 「今日は、静江さんの物を取りに来ただけです」 「家族の話をしに来たんじゃありません」  琴美の肩が落ちる。  未央が、吐き捨てるように言った。 「じゃあ、さっさと持っていけばいいじゃない。蔵でも何でも開ければ?」 「そのために来ました」  私は未央を見た。 「鍵を持ってる人が、開けてくれるなら」  未央の視線が隆一へ向いた。  琴美も、同じように隆一を見た。  隆一は黙っていた。  先ほどからずっと、黙っている。
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第116話 母だった人の沈黙

 隆一は高瀬さんを睨んだ。 「弁護士気取りか」 「榊側の法務担当です」  高瀬さんは表情を変えなかった。 「本日は、手続きの記録役として同席しています」  律がそこで初めて口を開いた。 「如月代表。もう、鍵を出してください」  静かな声だった。  命令の形をしているのに、音は低く抑えられている。  隆一は律を見た。車椅子の上の律を、値踏みするように。それから、黒い仮面の縁からわずかに覗く右頬へ視線を滑らせ、すぐに逸らした。 「榊さん。これは、うちの家の問題です」 「朝霧栞さんの物が含まれる可能性があるなら、彼女の問題です」 「まだ、そうと決まったわけじゃない」 「だから確認します」  短い応酬だった。  未央が琴美の腕を強く引く。 「お父様、駄目よ。あの蔵には、おばあ様の古い物がたくさんあるんでしょう? 勝手に見せたら」 「未央」  隆一の声が低くなる。  未央は口をつぐんだ。視線だけが、私の持つファイルと顔を何度も往復した。  私は、その目から逃げなかった。 「未央さん」 「何」 「私の物を確かめても、あなたが何かを失うわけじゃありません」  未央の顔がゆがむ。 「そうやって逃げるところ、昔から嫌い」 「私も、あなたの泣き方が昔から苦手でした」  静かに返すと、未央の顔から笑みが消えた。  未央は怒るかと思った。けれど怒らなかった。唇を噛み、琴美の腕から手を離す。  琴美の腕に、薄く指の跡が残っていた。  隆一が大きく息を逃がした。 「……蔵は、奥だ」  私は、ファイルを持ち直した。 「鍵は」 「私が預かっている」  やっぱり、と思った。  琴美が小さく顔を上げる。 「あなたが……?」  隆一は琴美を見なかった。  内ポケットに手を入れる。その動きがやけに遅い。出てきた鍵束は古びていて、金属の輪に小さな札がついていた。  蔵。  黒い文字で、そう書かれている。  隆一の親指が、その札を隠すように上から押さえた。 「中を見るだけだ。持ち出しは、目録を確認してからにしてもらう」 「構いません」  私は頷いた。 「ただし、守り袋があった場合は、写真を撮らせてください。現物の扱いは、その場で確認します」  高瀬さんがペンを持つ手を止めた。  律は何も言わなかった。  玄関の外
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第117話 蔵の中の守り袋

 鍵束は、廊下を進むたび隆一の手の中で鳴った。  母屋の端で、律の車椅子が敷石の継ぎ目を越えた。  古い家は、外から見るより奥行きがある。玄関から中庭を抜け、母屋の端を回ると、急に足元の石が変わった。磨かれた玄関の石ではなく、雨を吸って黒ずんだ、ざらついた踏み石。革靴の底が触れるたび、小さな砂の音がした。  隆一は先を歩いていた。鍵束を右手に握り、親指で札を押さえたまま、一度も振り返らない。  琴美は少し後ろをついてくる。ハンカチを手に持ったまま、泣くのを我慢しているのか、泣く場所を探しているのか分からない顔をしていた。  未央だけが、不機嫌を隠さなかった。 「本当に、蔵まで見る必要があるの?」  声は甘く作られていたけれど、足音は荒い。砂利を踏むたび、かかとがわざと強く鳴った。 「必要があるから、ここまで来ました」  私は前を見たまま答えた。 「静江さんの手紙にあった守り袋が、蔵に移された私物箱に入っているか確かめます」  言い切ったあと、薄紙の包みが高瀬さんの手元で小さく鳴った。 「お祖母様、最近は記憶も曖昧だったでしょう。昔のことを勘違いしてたのかもしれないわ」  琴美の肩が小さく揺れた。  私は未央を見なかった。見れば、また余計なものを渡してしまいそうだった。怒りも、痛みも、私の手からこぼれたものは、いつも誰かに都合よく拾われてきた。 「勘違いかどうかも、見てから判断します」  高瀬さんが斜め後ろで無言のまま手帳を開く。今日のやり取りは、事前に通知したうえで録音している。蔵に入る人数、触れた物、撮影した物、持ち出す物。すべて記録する。  そういう手順があるだけで、少し息ができた。  家族という名前で囲まれているより、書面と記録の方がまだ信じられる。  扉の前で、律は車椅子を止めた。  約束どおり、中には入らない。車椅子の肘掛けに置いた手は動かず、黒い仮面の奥にも、余計な表情はなかった。けれど、こちらを見る目だけが、一瞬だけ強い。 「ここから先は、約束どおり外で待ちます」  私は頷いた。 「必要になったら呼びます」  律は異を唱えず、約束を確認するように一度だけ頷いた。  余計な言葉がないことに、今は助けられた。  私は隆一のあとを追って蔵へ向かった。  隆一が苦々しげに視線を逸らす。律が中へ入らないことで
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第118話 蔵へ入り込む未央

 高瀬さんが「朝霧栞様」と読み上げた。  如月家の蔵の前で、その名前が記録に残る。  私は開いた扉の中を見た。  古い木と土の匂いが流れてきたが、懐かしさはなかった。  私は敷居をまたいだ。  中は思ったより暗かった。小さな高窓から入る光が、棚の角と積まれた桐箱の縁だけを白く浮かせている。埃が光の中でゆっくり動いていた。 「奥の棚だ」  隆一が低く言う。 「母の物は、だいたいあそこに置いてある」 「だいたい、ですか」  私が聞くと、隆一は眉を寄せた。 「二十年以上前の物だ。全部は覚えてない」 「覚えてない物を、捨てずに残してたんですね」  言ってから、自分でも少し意地が悪いと思った。  隆一は答えなかった。  入口のすぐ内側で、高瀬さんが白い手袋を差し出した。私は受け取り、指を通す。布が少し大きくて、指先が余った。  外で待つよう言われた未央が、いつの間にか敷居を越えていた。手袋を見て、小さく笑う。 「まるで捜査ごっこね」 「ごっこで済めばいいですね」  高瀬さんが淡々と返した。  未央の笑みが止まる。  私は奥の棚へ向かった。床板が一枚だけ、わずかに沈む。昔、ここへ入ったことがある。けれど、その記憶には色がない。小さい頃の私が、誰かの後ろについて、扉の隙間から覗いただけかもしれない。  棚には、桐箱がいくつも並んでいた。  古い着物。  茶道具。  祖父の写真。  静江さんの名前が書かれた箱は、思ったより少なかった。白い札に、細い筆跡で「静江 私物」とある。  隆一が一つ目の箱を下ろそうとする。 「私が下ろします」  私は手を出した。  隆一がこちらを見る。 「重いぞ」 「持てます」  短く返すと、隆一は箱から手を離した。  思ったより重かった。桐箱の底が腕に沈み、手袋越しでも角が硬い。けれど、落とすほどではない。  作業台の上に置く。高瀬さんがスマートフォンではなく小型の記録用カメラを構えた。全体、札、封の状態。順番に撮影していく。  蓋を開けると、薄紙に包まれた布小物が出てきた。古い帯締め、香袋、丸い手鏡。どれもきちんと畳まれていた。  その中に、小さな布袋があった。  私は手を伸ばさなかった。  生成りの布。赤い紐。端の方だけ、少し色が薄くなっている。縫い目は曲がっていた。店で買っ
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第119話 私のものだった守り袋

 護符には、ほとんど消えかけた朱印があった。産婦人科、という文字の一部だけが読める。病院名はかすれていたが、葛城が送ったかもしれない写真の端に見えた文字と、形が似ていた。  高窓から差す光が、埃を白く浮かせていた。  そしてもう一つ。  布袋の内側に、刺繍があった。  表からは見えない場所。袋を裏返さなければ分からない、内布の縫い合わせの近くに、青い糸で小さな印が縫い込まれている。  九つの小さな丸。  花のようにも、星のようにも見えた。  私は刺繍へ顔を近づけた。  見覚えがある。  榊家の書斎で見た、九条系医療財団の古い資料。その端にあった紋。九つの丸を配した印。全く同じではない。けれど、似ていると言われたら、否定できない。  後ろで、誰かが息を吸う音がした。  振り返る。  隆一の顔から、色が抜けていた。  唇だけが動いた。けれど、声は出ない。 「お父様?」  未央が呼んだ。  隆一は答えなかった。視線は、私の手の中の守り袋に固定されている。 「これを知っていますか」  私は聞いた。  問いかける声が、蔵の中に低く響いた。  隆一の喉が上下する。 「……母の物だ」 「それは、答えになってません」  琴美はハンカチを握り、未央は守り袋と隆一を交互に見た。 「この印に見覚えがありますか」 「ない」  返事が早すぎた。  私は守り袋を作業台へ戻した。高瀬さんがすぐに撮影する。角度を変え、護符と刺繍を並べ、日付と箱の札も一緒に収める。 「如月様」  高瀬さんが言った。 「今のご回答も記録されています。後日、別資料で矛盾が出た場合は、その点も確認対象になります」  隆一の眉間に深い皺が寄る。 「脅しか」 「念のため申し上げました」  高瀬さんの声は変わらない。  私は護符を見つめた。  古い紙の端が少し欠けている。誰かが何度も触ったのか、折り目のところだけ白く毛羽立っていた。  静江さんは、これを知っていた。  静江さんの手は、いつも少し冷たかった。病室で握った時も、子どもの頃、熱を出した私の額に触れた時も。けれど、その冷たさは突き放すものではなかった。目を閉じていても、そこにいると分かる手だった。  その人が、これを隠した。あるいは、隠すしかなかった。  どちらにしても、私だけが何も知らな
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第120話 触れる前に残す記録

 ようやくそれだけを聞いた。 隆一は答えない。「静江さんは、私に残した。手紙にもそう書いてありました。なら、これは如月家の物じゃなく、私が確認すべき物です」「持ち出しは認めないと言った」「現物をここで奪うつもりはありません」 私は高瀬さんを見る。「状態を記録したうえで、保管方法と今後の確認手順を文書にしてください。産院名の照会が必要です。刺繍も、似た紋があるか公開資料から確認します」「文書化します。照会先も整理しておきます」 高瀬さんが頷く。 隆一が苛立ったように息を逃がした。「お前、そんなものを調べてどうするつもりだ」 そんなもの。 立ったまま、肩に入っていた力を抜こうとした。「私のものかもしれない物です」「昔の守り袋だ。大げさにするな」「大げさにしたのは、あなたたちです」 隆一の目が動く。 私は守り袋から視線を外さなかった。「三年前、私は偽物だと言われて家を出されました。今回は、私の持ち物かもしれない物を確認しているだけです。それでも困るなら、困る理由を言ってください」 蔵の中が静かになった。 外で風が吹き、扉の隙間から冷たい空気が入ってくる。薄紙の端が少しだけ震えた。 隆一は何も言わなかった。 否定も、叱責も、会社のためという言い訳も出てこない。その黙り方は、昔から私を黙らせるために使われてきたものと少し違っていた。今は、言葉を探しているのではなく、言ってはいけないことを隠しているように見えた。「古いから」と片づける声は、もう出なかった。 誰ももう、軽口を挟まなかった。 未央が一歩近づいた。「ねえ、見せて」 声が急に柔らかくなった。「私にも関係あるかもしれないでしょう? 如月家の物なら、私だって見る権利くらいあるわ」 私は守り袋の前に手を置いた。「撮影が終わるまで触らないで」「触るだけよ」「触って欲しくないの」 未央の目が細くなる。「何よ。急に自分の物み
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