All Chapters of 身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ: Chapter 301 - Chapter 302

302 Chapters

第301話 伸びた手

 だが、次の呼吸で、私の側のドアが半分開いた。患者のふりをしていた男が、その隙間から私の左腕へ手を伸ばした。 車内で律が上体を起こす気配がした。相良さんがもう一人の男へ向き直るのが、窓越しに見えた。 ドアの取っ手には、係員のような顔をした三人目の手がかかっていた。窓越しの運転手へ注意を向けている間に、私の側へ回っていたのだ。 手首を掴まれる。 冷たい指だった。 身体が、一瞬で昔の階段へ戻りかけた。 掴まれる。引かれる。倒される。見られる。 違う。 今は違う。 私は肩を引かず、逆に手首を内側へ回した。コンビニの夜勤で、酔客に腕を取られた時、店長から一度教わった外し方だ。完全には外れない。けれど、相手の力がずれた。「相良さん」 声は震えていた。 でも、出た。 次の瞬間、相良さんが男の手首を押さえ、車のドアから引き離そうとした。男が踏ん張り、靴底が舗装を擦った。 律が車内から低く言った。「朝霧さんから手を離せ」 声が荒いわけではなかった。 それなのに、男の指が一瞬だけ強張った。 車椅子に座っている。黒い仮面で顔を隠している。噂に守られ、噂に閉じ込められてきた人。その人の低い声が、今は私の腕に食い込む指を止めていた。 男の指が緩んだ隙に、私は掴まれていない右手で、スマートフォンのカメラを窓の外へ向けた。 録画は続いている。画面の端に、偽送迎車のナンバーと、窓の外にいる運転手の端末が映っていた。「その画面、消さないでください」 言ってから、ようやく左腕が痛いことに気づいた。記録を残さなければと考えている自分が、他人のようだった。 自分の声が、病院前の空気に響く。 窓の外の運転手が、反射的に端末を伏せようとした。 相良さんは私の腕を掴んだ男の手首を押さえたまま、運転手に「そのままで」とだけ言った。 私は録画画面を見て、ナンバーが入っていることを確認した。「今、表示されてる予約番号と発注元、見えています」 録画画面の文字が揺れていた。左腕を掴ま
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第302話 赤い痕と震える指

 病院の面談室へ移されたあと、駆けつけた医師が私の左手首を診察した。 骨折や捻挫はないが、白い皮膚の上に、男に強く掴まれた指の跡がくっきりと赤い帯になって残っている。警察へ提出する可能性があるなら湿布だけで済ませない方がいいと説明され、医療用の写真撮影の同意書に署名した。自分の手首の痛みが、診療録の中で『左手関節部圧迫痕』という無機質な文字に変わっていくのが、どこか他人事のように見えた。 葵さんとの面会は中止――正確には延期になった。悔しかったが、病院の正面玄関でこんな襲撃が起きた以上、母の安全を最優先にするしかなかった。「高瀬さん、先にこれを。窓越しに撮った動画です。運転手の端末画面が映っています」 私がスマートフォンを渡すと、高瀬さんと相良さんが即座に画面を確認した。「『KJ-PS』……九条康生氏の私設秘書室で使用されている内部略称と一致します。送迎会社から一次回答も来ました。外部の秘書代行システムを経由していますが、接続元IPと認証コードの発行先が康生氏の私設秘書室の管理端末です」 相良さんがさらに画面をスクロールし、目元を鋭く細めた。「待ってください。今日の送迎予約ログの内部備考欄に、奇妙な付帯コードが残っています。『SYM_RLC_NGN』……KMS系の秘書代行で過去に使われていた業務タグと照合すると、SYMは狭山(Sayama)、RLCはリロケーション、NGNは長野県内の拠点コードと見られます」 私は椅子から身体を起こした。「狭山って、二十四年前の白桐産院の看護師長ですよね!? なぜ私の拉致未遂の予約と同じ端末に、看護師長の移転タグがついているんですか」「発注元の管理端末が、朝霧様の移送手配と、長野にいる旧看護師長・狭山氏の転居手配を同じ作業枠で処理していた可能性があります。康生氏側が、証人である狭山氏を先に動かして隠そうとしているということです」 高瀬さんと相良さんが警察および現地調査班との連携に動く中、私はふと、隣にいる律がさっきからずっと黙っていることに気づいた。 律は黒い仮面の奥から、私の左手首に残る赤い圧迫痕だけをじっと見つめていた。
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