All Chapters of 身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ: Chapter 61 - Chapter 70

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第61話 律の秘密の一端

 KMSホールディングスという名が、目の奥に残っていた。  検索結果に並ぶのは、医療施設への投資、経営支援、再生事業といった整った言葉ばかりだった。  けれど、律は黙った。  その黙り方の方が、社名より重かった。 「……知ってたんですね」  律は答える前に、肘掛けに置いた手の力を緩めた。 「知らなかった、とは言えない」 「知ってる、そういうことですよね」 「そう思われても、仕方ない」  仕方がない。  知っていたなら、なぜ黙っていたのか。その答えまで「仕方ない」で終わらせられたくなかった。  私は画面を閉じなかった。閉じれば、判断まで律へ預ける気がした。 「どういう会社ですか」 「医療投資会社だ。表向きは」 「表向きは。……嫌な言い方ですね」  律の視線が、私の手元へ落ちた。  いつの間にか、タッチパッドの縁を爪で押していた。 「朝霧さん」 「今、その呼び方をされると、逃げ道みたいに聞こえる」  口にしてから、自分でも少し刺々しいと思った。  けれど、引っ込める気にはなれなかった。  律は怒らず、少し目を伏せた。 「……逃げたかったのかもしれない」 「そこで認められても、何を考えていたのかは分かりません」 「取り繕っても、君はもっと怒るでしょう」  妙に正直な返事だった。  私は笑えなかった。  窓の外では、庭木の枝がゆっくり揺れていた。 「KMSが何なのか、教えて」 「今すぐ全部は言えない」  私は画面から顔を上げた。律は私を危険から遠ざけるつもりで、言葉を切っているのだろう。それが分かるからこそ、余計に腹が立った。  守る側に立った人は、守られる側がどれだけ暗闇を嫌うかを忘れやすい。私にとっては、悪い知らせより、何も知らされない時間の方が怖かった。  言葉はそこで切れた。  保留された言葉の先で、私は三年前に何も聞かれないまま捨てられた。 「じゃあ、どこまでなら言えますか」  思ったより静かな声が出た。  律は私から視線を逸らさず、息を吐いた。 「KMSは、榊グループの敵対先ではない。ただ、九条家の周辺に近い会社だ」 「九条家」  律がここまで言葉を選ぶ相手なのか。知らない家名より、その警戒の方が怖かった。 「古い家だ。医療と教育、それに投資にも、今まだ手が伸びている」 「如月家と
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第62話 答えを急がせない人

 断定はできない。  慎重さが正しいことは分かっている。それでも、気持ちが追いつかなかった。  律の車椅子がわずかに動き、膝掛けの端が揺れた。 「三年前から、ですよね」  律の目が動く。 「資料では、だ」 「私が如月家を追い出された頃から」 「偶然とは思っていない。まだ言い切れないだけだ」  どうしても、穏やかに聞き返す気にはなれなかった。 「言い切れないだけですか」  律の手が膝掛けの上で止まる。  この人の脚も、仮面の下も、三年前に何を見ていたのかも、知らないことばかりだった。 「三年前の私を、どこまで知っていたんですか」  返事が来ない数秒で、口の中が苦くなる。 「……知っていたんですね」 「君が如月家を出たあと、調べていた」  律は、住居支援や大学の相談窓口へ匿名で情報を回していたと話した。名乗れば榊家に拾われた形になり、私が拒む余地まで奪うと思ったらしい。 「待ってください」  声が思ったより大きくなった。机の端に置いた指の爪が白い。 「それを、誰が頼んだんですか」 「誰にも」 「私が困っていると知っていたのに、会いには来なかった」  律の指が、膝掛けの縁をつまんだ。布に浅い皺が寄る。 「行けば、榊家が君を拾った形になると思った」 「だから、見えないところから?」  律は小さく頷いた。 「私は、それも頼んでいません」  机の端に置かれた資料へ目を落とした。三年前、自分のノートに書き写した相談窓口の名前が頭に浮かぶ。あの時は、誰にも頼らず見つけた道だと思っていた。同じ名前を思い出しているだけなのに、今は別のものに見えた。  彼は否定せず、皺の寄った布から手を離した。受け止めるように黙る姿まで、こちらの怒りを正しい位置へ整理しようとしているように見えた。 「その黙り方です。榊さん、それで済むと思っているなら、けっこう重症です」  目の縁が熱くなった。  三年前、私は確かに困っていた。住む場所も、学費も、仕事も、全部一人で探した。その途中で見つけた相談窓口や支援案内に、この人の手が混じっていたのかもしれない。  もしあの夜、律が名乗って来ていたら、私はきっと拒んだ。けれど、名乗らないまま支えられたと知った今は、拒む機会まで奪われたように感じる。  助かった事実と、勝手に決められた怒りが、どちらも消
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第63話 忘れない一言

 感謝より先に、足元をすくわれたような感覚が来た。  卓上の湯気はもう消え、湯呑みの縁だけが冷えていた。 「自分で見つけたと思っていました」  あの頃、区役所の相談窓口へ行くのにも、三十分以上、入口の前で立っていた。  誰かに助けてくださいと言うことが、どうしてもできなかった。用紙を一枚もらうだけで返事をするまでに時間がかかり、名前を聞かれて声がかすれたこともある。  それでも、自分で選んだと思っていた。  あの時の一歩だけは、自分のものだと。 「選んだのは、君だ」 「選べるように並べたのは、榊さんですか」  律は黙った。  それが答えだった。 「……ひどい」  小さく出た声に、自分で驚いた。  そんな言葉を律へ向ける日が来るとは思わなかった。  律の目元に、隠しきれない動揺がかすかに滲んだ。 「……悪かった」 「謝らないで。今謝られると、私が許さなきゃいけないみたいになる」  律は何かを言いかけて、そこで口を閉じた。  司の顔がよぎった。  遅すぎる謝罪を受け取れば、相手だけが少し楽になる。  同じことを繰り返したくなかった。  律が息を飲んだ。  仮面の下の表情は見えないが、膝掛けの端を握った指は見えた。 「許してほしいから、謝ったんじゃない」 「だったら、何のため?」 「私が、間違えたからだ」  返事がすぐには出なかった。  間違えたと言われても、すぐ許せるほど私はできた人間ではない。 「支えたつもりだった」  律は膝掛けの端を掴み、言葉を探した。 「君に黙って、勝手に用意した。そこを間違えた」 「黙ってたことが嫌なんです」  私はゆっくり顔を上げた。 「何も知らなかった。榊さんがいたことも、誰かが先に道を作ってたことも」  そこで言葉が止まった。 「……私は、自分で歩いたと思ってたのに」  少なくとも、そう信じていた。  深夜のレジに立ち、単発の仕事の入金を数え、壊れかけた端末でコードを書いた。誰にも頼らなかったから生き延びたのだと思っていた。  その足場の下に、見えない手があった。  救いだったのかもしれない。  けれど、今はそう呼べなかった。 「あの三年まで、榊さんの話にしないでください」  最後の言葉だけが、ひどく掠れた。自分でも、何を守ろうとしているのか分からなかった
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第64話 未閲覧のまま残された資料

 律は、声を一段落とした。 「勝手には進めない。資料は、私が触ったものも含めて、君が確認できる形にする」 「今持ってるものは」 「整理して渡す。見たくないものは、見なくていい」 「見ます」  即答したあと、思わず息が一拍つかえた。  見たいわけではない。  ただ、見ないままではまた私抜きで決められる。  律は、かすかに頷いた。 「KMSは、別に扱う」 「別に?」 「君の仕事の資料と、榊家の調査資料は混ぜない。KMSは法務を通す。そこは線を引く」 「また、私には見せないまま進めるんですか」  問い返すと、律は一瞬目を伏せた。  今度は、そのまま黙り込まなかった。 「君抜きでは進めない。ただ、守秘義務は破らせたくない」 「それなら、そう言って。察しろ、みたいに黙られると、勝手に嫌な方へ考えてしまうんです」 「次は、先に言う」  返事があまりに短く、反論の言葉を差し込む余地まで失った。  扉の外で、控えめなノックがした。 「失礼いたします」  相良さんが入ってきた。手には薄いクリアファイルがある。 「高瀬様より、公開情報の範囲で確認できた資料が届いております」  律が受け取ろうとした。  私は、その前に手を伸ばした。  相良さんの眉が、動いた。 「私が見ていいものですか」 「公開登記と企業概要、代表者履歴、関連法人の一覧です。朝霧様がご覧になっても問題ございません」 「では、私が先に見ます」  律は口を挟まなかった。  相良さんは、私へファイルを差し出した。  今回は、律が手を出す前に、ファイルが私の手に来た。たったそれだけなのに、喉の奥のつかえが少し下りた。  律の視線は気になった。けれど、ページをめくる指までは止まらなかった。  私は一枚目を開いた。  ファイルは薄かった。  薄いファイルなのに、手に取ると重く感じた。  一枚目には、KMSホールディングスの現在の役員一覧があった。知らない名前を追っていくうちに、一つの名前で目が止まった。  葛城静司。医療投資顧問。非常勤取締役。 「葛城……」  私が声に出すと、車椅子がかすかに軋んだ。  膝掛けの下で、律の足が動いたらしい。  相良さんが視線を落とし、すぐに戻す。  私は、その反応を見逃さなかった。 「この人も、知ってるんですね」
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第65話 守られるだけなら要らない

 資料を持って書斎へ移った。折れた角を、親指で押し戻した。  薄い折り目は消えず、光だけを拾った。  葛城静司。  医療投資顧問。KMSホールディングス非常勤取締役。  その肩書きだけなら、ただの経営者の一人だ。  律が反応した瞬間、その名前の重さが変わった。 「三年前の雨の夜、私の近くにいた人間の一人、っていうのは」  低い声が出た。 「見ていただけ、そういう意味ですか。それとも、動かした側ですか」  律は答える前に、机へ目を落とした。 「そこまでは、まだ言えない」 「じゃあ、何が分かってるんですか」  高瀬さんが書斎へ来て、KMSの公開登記と企業概要の横に法務のメモを広げた。外部案件の照合結果は、ここで見せる資料には含めていない。  三年前にも、誰かの机にはこうした紙が並んでいたのだろう。  私の知らない私の記録が。  テーブルの端には、公開資料を読んだ時に貼った付箋が何枚か残っていた。日付、会社名、役員名。自分で触れた紙なら、どこまで読んだか分かる。けれど、存在そのものを知らされていない資料には、確認のしようもない。浮きかけた付箋の角を押すと、指を離した途端にまた少し持ち上がった。 「朝霧」 「全部は出せない。第三者の個人情報も、調査員の情報源もある」 「そこは分かっています」  私は高瀬さんの手元を見た。余白の広いメモ用紙の上で、ペン先だけが止まっている。何を見せるかだけではなく、何を見せられないのかまで残せるなら、少なくとも次は「知らなかった」から始めなくて済む。  私はファイルから目を上げた。 「見せられない資料があるなら、最初に言ってほしかったんです」  律の眉がわずかに動いた。 「全部は見せられないとしても、どんな資料があって、何を隠しているのかは一覧にしてください」  高瀬さんがペンを持ち直した。 「開示可、非開示、保留の三つに分けて、非開示と保留には理由を付けます。それなら法務上も整理できます」  高瀬さんが三つの見出しを書き、相良さんが資料番号を確かめる。私の知らないところで私の人生が調べられていた。その不快さは、整理された表を見ても消えなかった。 「これを作れば安心ですか」と律に聞いた。「いいえ」と彼は答えた。 「安心は、説明してもらえることからしか始まらないでしょう」少なくとも、その答
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第66話 開示できない理由も残す

「律様」  相良さんの声に、わずかな戸惑いが混じった。 「今だ」  それだけで、相良さんは書斎の奥へ向かった。  壁際のキャビネットには鍵がついている。腰の鍵束から一本を選ぶと、金属同士が小さく触れ合った。  鍵の向こうに、三年前の私について書かれたものが保管されている。  そう考えると、背中が冷えた。  扉は、ほかの収納棚と変わらない濃い木目だった。鍵穴だけが妙に新しく見える。書斎には茶の残り香があるのに、その一角だけ空気が冷たい気がした。相良さんが鍵を回す音を、私は最後まで聞いていた。  相良さんが棚の奥で書類を探している。律はその背中を見ていた。私は、まだ開かない扉の向こうを思った。  相良さんが戻る前に、私は確認した。 「この資料を、今まで誰が見てたんですか」 「榊家の調査担当、法務部、それから私だ」 「如月家は」 「見せていない」 「司さんは」 「彼にも見せていない」  そこで一度、息を整えた。  質問を口にするたび、高瀬さんの用紙に短い線が増えていく。誰が見たか。誰には見せていないか。そんな単純なことを確かめるだけなのに、三年前の私には、その質問をする場所さえなかった。 「見せられない箇所は、黒塗りで構いません」  高瀬さんがこちらを見る。 「ただ、何を守るための黒塗りなのかは分かるようにしてください。第三者の個人情報なのか、情報源なのか、法務上出せないのか」 「理由区分を残す、ということですね」 「はい。見えない部分まで、なかったことにはしたくないので」  高瀬さんはすぐに頷いた。 「可能です。全体の一覧は法務で作ります。今日は、このファイルを確認しながら非開示箇所の理由を記録します」  そう言って、手元の用紙を三つに区切った。  開示。非開示。保留。  高瀬さんの手書きの欄は、きれいに揃っていなかった。私は「非開示」の文字を見て、律の方へ顔を上げた。「理由を言えないなら、それも言ってください。何もなかったことにはしないで」律は口を挟まずに聞いていたが、膝掛けの端を押さえる指が、わずかに強くなった。私が問いを引っ込めるつもりはないことを、分かっているのだろう。  律は口を挟まず、そのやり取りを聞いていた。  やがて相良さんが、厚みのある灰色のファイルを一冊持って戻った。背表紙に題名はなく、表紙の
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第67話 だから、私にも見せてください

 最初の数ページは、時系列だった。  資料の端が、空調でかすかに浮いた。  三年前、未央が如月家に入った日。私が大学を休みがちになった時期。SNSに妙な噂が流れ始めた日。ホストクラブ周辺で撮られたという写真が、父の手元へ渡った日。  日付の並びが不自然だった。  私はそこに目を止めた。  噂が広がるより前に、写真の入手日が記録されている。内部資料の漏洩疑惑より前に、外部調査会社の見積番号がある。 「順番が変です」  指で日付をなぞった。 「この記録だと、疑惑が出る前に、疑惑を調べるための費用が発生しています」  高瀬さんが横から覗き込む。  律は動かなかった。ただ、目だけが資料に落ちている。 「そこは、私たちも気になってました」  高瀬さんが小さく頷く。 「如月家の内部では、事件発覚後に調査したと説明されています。ただ、請求書の番号と発行日を見る限り、調査会社への依頼はその前に動いている可能性があります」 「誰が依頼したんですか」 「正式な発注者名は、如月グループ総務部です。ただし、紹介元としてKMS関係者の名前が一度だけ出ています」  次のページをめくった。  黒塗りの多いメールの写しがあった。宛名や本文の一部は伏せられている。けれど、添付ファイル名だけは残っていた。  shiori_kisaragi_profile.p*f  ローマ字にされた自分の名前が、他人の資料のように見えた。  膝の上で、指が止まった。 「これ、何ですか」 「栞さん」  律の声が、いつもより近く聞こえた。 「私のプロフィール、ですか」  笑おうとしたが、うまくいかなかった。 「誰に渡すための?」  高瀬さんは答えなかった。  答えられないのだと分かった。  ページの下に、小さく名前があった。  紹介元メモ。KMSホールディングス関連顧問。  葛城静司。  さっき見た名前だ。  同じ名前なのに、今度は私のすぐ近くにいる。  三年前の夜より前から。 「この人は」  声にしようとした瞬間、喉が乾き、最初の音が掠れた。 「私が家を追い出される前から、私のことを調べてたんですか」  誰も答えるまでに間があった。  廊下を歩く音や、遠くの食器の音だけが聞こえた。  律が、ようやく口を開いた。 「その線は濃い」 「線、で
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第68話 膝掛けの下の傷

 黒い仮面の奥に、迷いが見えた。  書斎の空調が低く鳴った。 「君を巻き込みたくない」 「もう巻き込まれてます。三年前から」  今から遠ざければ、私が傷つかずに済むような言い方だった。三年前に起きたことを、これからの危険として扱わないでほしかった。 「何も知らないままにされるのは嫌です」  私はファイルを見た。 「私にも見せてください。何を追っているのか、知りたいんです」  律はしばらく黙った。  相良さんも高瀬さんも動かなかった。  時計の秒針だけが進んでいく。  やがて、律は膝掛けの上に置いていた手を開いた。  その手の先が、机の上のファイルを私の方へ押す。◇「条件なら、私からもあります」  言ってから、息を整えた。 「見せてもらう資料は、日付と出所を残してください。誰の記憶で、誰の推測なのか。どこまで確かめたものなのか。混ざると、また都合よく使われます」  高瀬さんの表情が変わった。  仕事の顔になったのだと分かった。 「できます。閲覧ログと資料リストを作成します」 「お願いします」  お願い、と言えたことに少し驚いた。  命令でも拒絶でもなく、同じ資料を見るための依頼だった。 「急がせません。……これは、約束します」  律の声だった。 「本当に?」 「ただし、私にも条件がある」  また保護を条件にされるのかと身構えた。  律は静かに続けた。 「危険な相手に直接会う時は、先に知らせてほしい。止めたいわけじゃない。車と人手だけは用意する」  命令ではなかったが、ただのお願いよりは重かった。  車と人手という具体的な言葉に、反論しづらくなる。 「……考えておきます」 「今は、それで十分だ」  律はそこで、机の端に置かれた湯呑みに目を向けた。 「お茶が冷めてる」 「今、それを言います?」 「今言わないと、君はまた飲まない」  高瀬さんが咳払いをし、相良さんは聞こえないふりをした。  私は冷めた湯呑みを持ち上げた。 「……飲みます。だから、そんなに見ないで」 「見てない」 「嘘が下手です」  高瀬さんは資料へ視線を戻した。  止めないことが答えだった。  その時、机の端に置かれていた高瀬さんの携帯が震えた。  着信ではない。通知音だけが短く鳴る。  高瀬さんが画面を確認し、表
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第69話 葛城静司という男

 返信の一文が、目から離れなかった。  柱時計の針が、乾いた音を刻んでいる。  画面の白さが目に痛かった。  その一文だけが、体の内側に残った。 「彼女、っていうのは」  自分の声が思ったより低く出た。 「私のことですか」  高瀬さんは、断定できる範囲を考えてから答えた。 「文脈上は、朝霧様を指している可能性が高いです。ただし、葛城氏本人がどこまで把握しているかは、まだ確認できません」  言い切ってから、資料へ目を落とした。 「確認できない相手が、どうして私に渡すものを持ってるんですか」  言いながら、答えが返ってくることを期待していない自分に気づいた。  この数日、知らない場所に置かれていた自分の名前を何度も見た。書類や名簿の中で、私の知らない私が先に形にされている。  知らない男の経歴を読むより、律がその名前を知っていて黙っていたことの方が、近くて痛かった。  私は画面ではなく、律の横顔を見た。何を隠しているのかより、なぜ私に話さなかったのかを知りたいと思っている。疑っているのに、説明を求める相手として彼を選んでいる。そのことが悔しかった。  律はその視線に気づいても、先回りして弁解しなかった。私はそれを逃げと決めつけず、次の資料へ目を戻した。  律は車椅子の肘掛けに手を置いたまま、画面を見ていた。  仮面の下で、表情は読めない。  律の指が、膝掛けの端を押さえていた。 「葛城静司について、今出せる資料を整理します」  高瀬さんがノートパソコンをこちらへ向けた。  公開資料が並ぶ画面を見ていると、名前のある人間が急に立派に見えてくる。だが三年前の私は、写真一枚だけで下品な女にされた。私は律を見た。「あなたは、最初から私の顔を見てくれましたね」言ってから照れくさくなり、画面へ視線を戻した。律が黙って椅子を寄せる。私は彼の返事を急かさなかった。  名前の並びを見るだけで、指先が冷えた。 「葛城静司。五十歳。現在は医療投資顧問。KMSホールディングスの外部アドバイザーとして記載があります。過去には、都内の私立病院で事務長を務めていた時期があるようです」 「医師じゃないんですね」 「確認できる範囲では、医師免許を持つ人物じゃありません。病院運営、医療法人の再編、療養施設への投資が専門です」  私は画面の端に表示された経
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第70話 道具を用意した誰か

 付箋の浮いた資料を、相良さんが指で押さえた。画面上の法人名と如月家の名が、初めて同じ机に並んだ。 「如月家とは」 「資金の流れがあります。先に資料で確認した医療投資会社の先に、この九条系の法人が一部重なります」  律が息を吐いた。 「高瀬」 「ここから先は推測になります」 「推測と明記して続けてください」  短いやり取りだった。  推測と事実が分けられたことで、少し息がしやすくなった。  冷めた茶は、手つかずのままだった。  推測を事実のように扱わない。それだけのことが、私にはまだ新しい。  律は高瀬さんへ視線を送り、それ以上ページをめくらなかった。私も同じ資料を見ている。  高瀬さんは資料の別ページを開いた。 「如月グループからKMS系列へ移動していた資金は、三年前の騒動以降だけじゃありません。少なくとも十年以上前から、名目を変えて断続的に続いています」 「十年以上前」  十年という長さを、すぐには飲み込めなかった。  十年前なら、私はまだ如月家の娘として夜会に連れて行かれていた。静江さんに背筋を直され、琴美さんに髪を結われ、隆一さんに名前を呼ばれていた頃だ。  あの家の中で、誰かが別の場所へ金を流していた。  膝の上の手に力が入った。 「私の出生に、関係がありますか」  部屋が静まった。  律がこちらを見る。  高瀬さんは資料に落としていた視線を上げた。  相良さんだけが盆を持ったまま動かなかった。律が「相良、あなたも座って」と言うと、几帳面な執事は目を丸くする。私まで驚いて律を見ると、彼は仮面の奥で少しだけ困った顔をした。「ここにいる全員が、朝霧さんのことを心配している。立ったままだと、こちらが叱られそうです」相良さんの珍しい苦笑に、張り詰めていた空気が緩んだ。 「今は、そう断定できない」  高瀬さんの声は慎重だった。 「ただし、朝霧様が如月家に入った経緯と、九条系医療法人、葛城氏の経歴が同じ時期に重なっている可能性はあります」 「また、そこですか」 「まだ、その段階です」  また、その言葉だった。  何も決まっていない一方で、無関係とも言えない。  私は椅子の背へ体を預けた。  木の硬さが、今はありがたかった。 「三年前の事件は、如月家の中だけで作られたものじゃないかもしれない。……そういう
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