All Chapters of 身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ: Chapter 71 - Chapter 80

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第71話 壊してはいけない手順

 葛城静司。  九条。  KMS。  知らない場所で、名前同士がつながっていく。  書斎には、紙と古い木の匂いが混ざっていた。  午後の光がブラインドの隙間から細く入り、机の上の資料に縞を作っていた。紙を一枚動かすたび、その線もずれる。名前ばかりが増えていくのに、部屋の外では使用人が夕食の支度をしている。その普通さが妙に落ち着かなかった。 「朝霧様」  高瀬さんが、声を少し落とした。  高瀬さんは、葛城が持つ資料の種類を事前に開示させ、第三者同席と双方同意の録音が可能な場所で面会すると整理した。後から話を作られないための手順だった。  高瀬さんが入力を始める。  キーボードの音が、書斎に響いた。  その間、律は何も言わなかった。  必要な沈黙もあると、最近少し分かってきた。 「榊さん」 「……どうした」 「九条家のこと、知っていますよね」  高瀬さんの手が止まり、相良さんが盆を持ち直した。  律は、私から目を逸らさなかった。 「知っている」 「今、話せないことですか」 「話せる範囲と、まだ確かめるべき範囲がある」 「便利な言い方ですね。言いたくないことを全部そこへ入れられる」  少し意地の悪い言い方になった。  それでも、引っ込めるつもりはなかった。  律は、わずかに顎を引いた。 「……そうだな」 「否定しないんですか。そこは一応、少しは抵抗して」 「今の言い方は、確かに便利だった」  言い訳をされると思っていたのに、律は嫌味をそのまま受け取った。 「九条家は、古い家だ。金融、医療、不動産、教育。表に出る名前と出ない名前がある。私は榊の当主として、距離を取ってきた」  金融、医療、不動産、教育。律が挙げるたび、紙の上の名字が少しずつ大きくなる気がした。「距離を取ってきた」と言うなら、その距離を私にも見せてほしい。私はカップを置き、目の前の律に向き直った。大きな家の事情を聞きたいだけではない。黙ることが彼を守ってきたのなら、今度は私に話すことが彼を傷つけるのか、それを知りたかった。 「距離を取ってきた相手が、如月家の借金と私の過去に関わってるかもしれない」 「関わっている可能性はある」 「それでも、私に全部話さない」  律の手が、肘掛けの上で止まった。 「全部を今ここで出せば、手順を壊す」 「知ら
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第72話 写真を見つめる二人

「……分かってる」  律の声は低かった。 「……ひとつだけ。九条家の中で、私が最も警戒している人物がいる」 「誰ですか」 「九条康生」  初めて聞く名前だった。  律でさえ警戒する男が、私の三年前とどこでつながっているのか。まだ名前しか知らないことが、かえって不安だった。  柱時計の針が一つ進んだ。 「葛城静司は、その周辺にいた人物だ」 「いた、じゃなく、今もいる」 「そう見てる」  高瀬さんが送信ボタンを押した。  短い電子音が鳴る。  葛城静司の事務所へ、正式な確認メールが送られた音だった。  私は画面を見つめたまま、唇の内側を噛んだ。  九条康生。  葛城静司。  KMS。  名前ばかりが増えていく。  それでも、今は線を一つずつ確かめられる。 「朝霧様」  相良さんが静かに声をかけた。 「夜分に失礼いたします。正門の警備から連絡が入りました」 「正門?」 「朝霧様宛のお荷物が届いております」  私は顔を上げた。 「今ですか」 「差出人の記載はないとのことです。ただ、宛名は手書きで、朝霧栞様、と」  高瀬さんが椅子を引いた。  律の車椅子がわずかに前へ動き、相良さんは高瀬さんを見た。 「警備室で開封確認をします。爆発物や危険物じゃないか、外観だけ先に確認を」 「お願いします」  私が先に返事をした。  自分の声には、思っていたほど震えが混じっていなかった。  十分ほどして、高瀬さんが薄い灰色の封筒を持って戻った。差出人欄は空白だった。  表には、見慣れない筆跡で私の名前が書かれていた。  朝霧栞様。  如月ではなく、朝霧。  指を伸ばしかけて、止まった。 「開けますか」  高瀬さんが尋ねた。  律は口を挟まず、私の返事を待っていた。  封筒の中では、紙ではない何かが少し膨らんでいた。 「開けます」  自分で言った。  高瀬さんが手袋をはめ、封筒の端を切った。  封筒を切る乾いた音が響いた。  中から落ちたのは、小さな写真と、色の褪せた紙片だった。  写真には、病院らしい白い廊下が写っていた。  奥に、若い女性がいる。  顔は少しぼやけている。  けれど、目元だけが、なぜかひどく見覚えがあった。◇ 手の甲に汗が滲んでいた。  写真の女性は笑っていない。誰を
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第73話 封筒の中の古い写真

 紙片には、細い文字が残っていた。  古い病院の伝票らしく、端はぎざぎざに破れている。  薄い紙は少し波打ち、古い糊の匂いがした。  高瀬さんが、私の前に片手を出した。 「直接触らない方がいいです」  高瀬さんの手袋が、机の上でかすかに擦れた。 「……分かってます」  小さな声になった。  証拠かもしれないものを素手で触らない方がいいことは分かっている。  それでも、目が紙片から離れなかった。  説明ではなく、こちらを揺さぶるための一文に見えた。  ライトに照らされた古い写真には、ぼやけた廊下と若い女性が写っていた。 「栞さん」  律に呼ばれ、止めていた息を吐いた。  黒い仮面の下の目は、急かさずにこちらを見ていた。 「一度、ここで止めてもいい」 「止めたら、これが消えるんですか」  自分でも少しきつい言い方だったと思う。  律は目を伏せなかった。 「消えない」 「なら、見ます」  止めるのではなく、止まれる場所を作ってくれたのだと、少し遅れて気づいた。律が決めたところまで見るのではなく、私が続けると言ったから先へ進む。  それでも怖さは消えない。私は椅子の脚が床に触れている感覚を確かめ、もう一度写真へ目を戻した。  高瀬さんは反対を飲み込み、仕事の声で答えた。 「では、こちらで撮影と記録を取ります。開封時刻、同席者、内容物の状態。封筒と中身は別々の袋に保管します」 「お願いします」  膝の上で握った手に、爪の先が当たっていた。  高瀬さんが手袋をした指で、写真の裏を確認する。  裏面には何も書かれていなかった。  ただ、写真と一緒に入っていた紙片が、もう一枚の薄い写真を挟むように折られている。最初に落ちた時には気づかなかった。高瀬さんが慎重に紙を開くと、小さな四角い印画紙が、机の上に滑り出た。  それを見た瞬間、胃の奥が冷えた。  赤ん坊の足だった。  布に包まれた小さな足首に、白い識別バンドが巻かれている。写真は古く、色も少し抜けていた。名前の欄は、光が反射したのか、わざと傷つけられたのか、白く潰れている。  読めない。  けれど、日付欄だけは残っていた。  二十四年前。  私の誕生日。  誰も声を出さなかった。  壁時計の秒針が進むたび、足首の細さだけが目についた。  写真の赤ん坊に
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第74話 葛城から届いた写真

「……赤ん坊、ですよね」  分かりきったことを口にした。  封筒の角が、指の腹に跡を残した。  高瀬さんが頷く。 「写真だけで断定はできませんが、新生児の識別バンドに見えます」 「名前は」 「読み取れません」 「ここだけ、わざと消したように見えませんか」  言い終えると、口の中が乾いた。  律の革手袋の指が、肘掛けの上で一度動いた。 「可能性はある」  律は、声を一段落とした。 「ただ、これが真実だとは限らない」 「罠かもしれない、ですか」 「そうだ」  まっすぐ肯定され、一瞬だけ笑いそうになった。 「こういう時、少しは慰めるものでは」 「慰めてほしいですか」 「分からないです」  正直に言うと、律の目が少し緩んだ。  壊れ物を見る目ではなかった。 「なら、今は慰めない」 「……助かります」  律は何も足さず、私が次に口を開くのを待っていた。  慰められれば崩れそうで、突き放されれば傷つく。そんな面倒な状態の私を、彼は答えが出るまでそのままにしてくれた。  強がりではなかった。  今優しい言葉をかけられたら、その言葉に寄りかかってしまいそうだった。  高瀬さんが写真の右下を拡大した画像をタブレットに表示する。 「識別バンドの施設名らしき文字が、ここにあります。全ては読めませんが、末尾は『産院』に見えます」  タブレットの画面に、粗い拡大画像が映った。  白いバンド。薄い黒文字。潰れた名前欄。端に残った、かすかな施設名。  白桐、に見える。  そのあとに、産院。 「白桐産院」  私が読み上げると、高瀬さんが手元の端末に入力した。 「公開情報で確認します。現存する医療機関としては……出てきません」 「廃院ですか」 「可能性が高いです。古い法人データベースや自治体の広報記録を当たります。ただ、医療記録そのものを、こちらから勝手に取得することはできません」  勝手には取れない。本人確認や法的な手続きがいる。  それなのに、この写真は私の前にある。  二十四年前の夜を切り取った誰かが、今になって送ってきた。 「葛城静司が送ったんでしょうか」  高瀬さんはすぐに頷かなかった。 「投函記録だけではまだ決めきれません。葛城本人のメールと時期は重なりますが、別の人間が動いた余地も残っています」 「
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第75話 自分を証拠にしないために

 返してやる、と言われているようで、その言葉が嫌だった。  クリアファイルに、天井の灯りが白く映った。  写真も紙片も、私より先に私を知っているように見える。  目の奥が熱くなった。  泣きたいのではなく、怒っているのだと分かった。 「栞さん」 「……その先を聞かせてください」 「この写真を追うなら、君の出生に関する情報へ触れることになる」 「それは、そうでしょうね」 「如月家だけでは済まない可能性がある」 「もう、如月家だけの問題じゃありませんよね」  律がわずかに息を止めた。  言いすぎたと思ったが、取り消す気にはならなかった。  如月家に捨てられた。そう思っていた。  けれど、その前に、私はどこから来たのか。  誰が私を如月家に渡したのか。  この写真の赤ん坊は、本当に私なのか。  もし私なら、名前を潰したのは誰なのか。  問いが増えるほど、足元が頼りなくなる。  車椅子が小さく動いた。  律がわずかにこちらへ近づいた。  距離はほとんど変わっていない。  それでも、一人で机に向かっている感じが薄れた。  近づきすぎない律の距離は、これまでならありがたかった。今は、その数十センチが少しだけ寂しい。  そう思ったことを認める方が、写真を見るより怖かった。 「追うかどうかは、君が決める」 「見なかったことにも、できるんですか」 「ある」 「榊さんなら、追わないんですか」  律は答えるまでに間があった。  仮面の縁にライトの光が乗った。 「私なら追います」 「じゃあ、どうして私には止まってもいいって言うんですか」 「私と同じことをする必要はない」  律は写真ではなく、私を見ていた。 「追え」とも「やめろ」とも言わない。  その方が、かえって重かった。  私は写真へ目を戻した。  赤ん坊の足。名前の潰れた識別バンド。私の誕生日。  これが偽物なら、誰かは私を揺さぶるために、私の生まれた日まで知っている。  本物なら、私は二十四年間、自分の始まりを知らないまま生きてきた。  どちらでも、もう無関係ではいられなかった。 「追います」  言葉にした時、手はまだ冷たかった。 「ただし、私の出生を、誰かの武器にはさせません」  律が頷いた。 「分かった」 「葛城さんが何かを知ってるなら
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第76話 今日は写真を守る

 律の目が、わずかに揺れた。  言葉が届いたのだと分かった。 「分かった。その時は、言います」 「理由も言ってください」 「約束する」  コピーの紙は新しい。けれど、そこに写された赤ん坊の写真はひどく古く、色も少し抜けていた。  赤ん坊は、何も知らないまま足首に番号を巻かれている。  証拠かもしれない。けれど、生まれたばかりの誰かでもあった。  私は、番号を振られるために生まれたわけではない。  高瀬さんの端末が、小さく鳴った。 「白桐産院について、古い自治体広報の記録が残っていました。二十三年前に閉院。その後、建物は別法人に譲渡されています」 「別法人?」  高瀬さんが画面を一度確認し、眉間に浅い皺を寄せた。 「現在の登記上の所有者は、KMSホールディングス関連の資産管理会社です」◇「偶然とは思えません」  高瀬さんは、すぐには否定しなかった。  律が画面を見る。 「この件は、今夜のうちに保全だけする。白桐産院の閉院資料、土地の移転履歴、KMS関連会社との関係。確認は公開情報と正式な照会に限る」 「時間がかかりますね」 「かかる」 「その間に、葛城さんは別のものを送ってくるかもしれません」 「その可能性もある」  危ないものを危ないと言われる方が、今は息をしやすかった。  私は写真の端を見た。  二十四年のあいだ、写真はどこか暗い場所にしまわれていたのだろう。  その時間を思うと、腹の奥が熱くなった。 「祖母は」  声が止まった。  静江さんは、何を知ったまま病室にいるのだろう。 「今すぐ病院へ行く必要があるなら、車を出す」 「……今行っても、祖母を問い詰めるだけになります」  会いに行きたいのに、浮かぶのは問いばかりだった。あの細い手を握りながら責める自分を、静江さんには見せたくなかった。 「それは、したくないです」  律は頷いた。 「なら、今日は写真を守る」  その言い方に、張りつめていた肩が少し下がる。私は写真の横へ置かれた透明袋を見た。律の手は、その外側で止まっていた。  問い詰めるより先に、残されたものを保全する。  その具体的な言葉に、ようやく息を吐けた。  書斎が静かになった。  KMSは、如月家から不自然な資金が流れていた先だ。  葛城静司が関わり、私の誕生日が記され
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第77話 眠れなかった朝

 朝の窓ガラスに、白い空が薄く映っていた。  書斎の机には、昨夜の茶封筒はもうなかった。古い写真と紙片は傷まないよう薄い保護シートに収められ、静かにケースの中で眠っている。  なくなったわけではない。  目の前から消えただけで、胸のざらつきまで消えるわけではなかった。  私は机の端に置かれたコピーを見下ろした。原本ではないと分かっていても、赤ん坊の足首に巻かれた白いバンドから、目を離せなかった。 「眠れなかっただろう」  背後から低い声がした。  振り返ると、律が車椅子のまま書斎の入口にいた。黒い仮面は昨夜と同じ位置にあり、膝には薄い毛布が掛けられている。朝の光が仮面の縁に当たり、片側だけが細く光っていた。 「……少しは」  律は何も言わず、私の顔を見た。  その視線に耐えきれず、私はコピーへ目を戻した。 「二時間くらいです」  律は小さく息を吐いただけで、それ以上は言わなかった。  その間が、かえってありがたかった。眠れと言われても眠れない。休めと言われても、写真の中の日付は消えない。  私はコピーを伏せた。 「高瀬さんから連絡は?」 「白桐産院の閉院届は確認できた。医療法人はすでに解散してる。土地は二度移って、今は倉庫になってるらしい」 「早いですね」 「公開情報だけだ」  律は、そこで一瞬だけ言葉を切った。 「ただ、廃院直前の事務長に関する記録に、葛城の父親の名がある」  コピーの端を押さえていた指が止まった。  葛城静司。  昨夜の封筒を送ってきたかもしれない男。その父親が、私の誕生日と同じ日付の識別バンドが写った産院に関わっていた。  偶然という言葉を、使うには少し多すぎる。 「高瀬さんは、どう見ていますか」 「まだ断定できない、と」 「榊さんは」  聞いてから、少し後悔した。  律は何かを知っている。けれど、すべてを言えるわけではない。昨日、それで私は怒った。情報を抱え込まれることが嫌だと、言ったばかりだった。  律の指が、車椅子の肘掛けに一度触れた。 「私も、断定はしない。でも、葛城は君に何かを見せようとしてる」 「助けるために?」 「それなら、もっと早くできた」  短い返答だった。  胸の奥が冷えた。  私は伏せたコピーをもう一度表に返した。薄い紙一枚なのに、持ち上げる手が重かっ
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第78話 未央の前に立つ司

『先日の晩餐会に関する記事が、業界系ニュースに掲載されました。朝霧様のお名前が出ております。確認をお願いします』  スマートフォンの画面だけが、手の中でやけに明るかった。  私は記事のリンクを開いた。  榊グループの慈善支援事業。若年女性の就労支援。晩餐会に同席した新たな関係者として、私の名前が小さく載っていた。  如月栞ではない。  朝霧栞。  その四文字を見た瞬間、晩餐会の会場とは別の場所で、何かが動き出した。◇ 如月家の居間には、花の匂いが濃く残っていた。  晩餐会用に用意した花ではない。未央が苛立つたびに取り替えさせる、香りの強い白い花だ。今朝も花瓶いっぱいに挿されていたが、茎の一本が水の中で斜めに折れている。  未央はタブレットをソファに投げた。  画面はまだ光っている。  記事の中で、朝霧栞という名前だけが、どうしても目に入った。 「何なの、これ」  誰に向けた言葉でもなかった。けれど、向かいに座っていた琴美が肩を震わせた。 「未央、朝からそんな言い方をしなくても」 「お母様は平気なの? 昨日まで如月家を出ていった人間が、急に榊家の支援事業の顔みたいに扱われているのよ」 「顔、というほどでは……」 「十分よ」  未央は琴美を見た。  泣きそうな母の顔を見ると、胸がすく。誰かが困っていると、まだ自分の位置が上にある気がする。  けれど今朝は、その感覚が長く続かなかった。  記事の下に並ぶコメント欄には、先日の晩餐会にいた関係者らしき匿名の書き込みが混ざっていた。  ――榊当主が朝霧さんを正式な同席者として扱っていた。  ――質問への返しが冷静だった。  ――如月家側の空気が少し変だった。  少し変だった。  その程度の言葉が、爪の間に入った棘みたいに気になった。  未央は立ち上がり、窓際へ向かった。庭の芝生は朝露で白く光っている。三年前、栞がこの家を出ていった朝も、たしか芝生が濡れていた。  そのことを思い出して、すぐに腹が立った。  どうして私が、あの日の朝を覚えていなければいけないのか。  出ていったのは栞の方だ。負けたのも、捨てられたのも、栞の方だったはずだ。  なのに、先日の晩餐会で席を失ったのは自分だった。  未央はスマートフォンを取り上げ、司に電話をかけた。  三回目の呼び出し
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第79話 もう逃げない視線

 窓を背にして、スマートフォンを伏せるようにテーブルへ置く。その動作が、未央にははっきり見えた。  応接室には、磨かれたテーブルの匂いと、空調の冷たさが残っていた。 「何を見てたの」 「仕事の連絡だよ」 「仕事なら伏せなくていいでしょう」  司は一瞬だけ黙った。  その一瞬が答えだった。  未央はテーブルへ近づき、スマートフォンを取ろうとした。司が先に手を伸ばして押さえる。 「未央」 「見せて」 「今はやめよう」 「やめよう、って何。私たち、結婚するんでしょう」  司の眉が少し動いた。  その反応だけで、未央のこめかみが熱くなった。 「急に、その話?」 「急じゃない。ずっと前から決まってた話よ。栞がいなくなって、私が如月家の娘として残って、あなたは私の婚約者になった。何もおかしくないでしょう」 「未央、落ち着いて」 「落ち着いてる」  声が少し高くなった。自分でも分かったが、下げられなかった。 「晩餐会の時、あなたはまた栞を見てた」 「見てたというか、あの場では――」 「言い訳は聞きたくない」  司は唇を結んだ。  言い訳を飲み込んだ顔だった。未央はその顔が嫌いだった。優しそうで、誠実そうで、でも肝心なところで何も選ばない顔。 「式の日取りを早めたいの」 「今は如月の財務も不安定だし、父とも調整が必要だ」 「だから早めるの。榊家が栞を使って何か始める前に、桐生家と如月家の関係を固める必要がある」 「使って、って」  司の声が低くなった。  未央はそれを聞き逃さなかった。 「何。今の言い方だと、栞が被害者みたい」 「あの人は、いつもそう。何も持っていない顔をして、最後には誰かに選ばれる」 「そうは言ってない」 「言ってるのと同じよ」  司が目を逸らした。  否定してほしかった。目を逸らされると、式を早めたいという話まで自分だけの願いに思えてきた。 「あなた、まだあの人が好きなの」 「未央」 「名前を呼んでごまかさないで」  司は答えるまでに間があった。  窓の外で、車のクラクションが遠く鳴った。応接室の空調が、一定の音を立てている。  未央はその音の中で、司が黙ったことだけを聞いた。 「……好きとか、そういう話じゃない」 「一番嫌な答え」  未央は笑った。口の中は乾いているのに、笑
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第80話 名前だけでは本物になれない

「今さら、そんなふうに逃げるのはずるい。三年前、あなたは私の隣に立ったのよ。栞じゃなくて、私を選んだの」  司の顔がかすかに歪んだ。 「それを、なかったことにしないで」 「なかったことにはしない」  司の返事は遅れた。応接室の空調だけが、その間を埋めた。 「だったら結婚して」  未央はテーブルに手をついた。 「今月中に婚約発表を出して。桐生家の正式な発表として。そうすれば、榊家も簡単には手を出せない」 「手を出すって、栞はもう――」 「また栞」  未央はスマートフォンを握りしめた。  画面の端が掌に食い込む。 「あなた、自分がどっち側にいるのか忘れたの?」  司は答えなかった。  その返事のなさが、未央の中の薄い膜を裂いた。  この男はもう、完全には自分のものではない。  そう思った瞬間、未央は急に冷静になった。  司が使えないなら、別の場所から崩せばいい。  榊家の中。  栞のそば。  あの屋敷で、彼女が何をしているのか。どんな部屋で眠り、誰と話し、どんな書類に触れているのか。ひとつでも掴めば、いくらでも形を変えられる。  未央はスマートフォンを開いた。 「もういい。式の件は、あなたのお父様に直接相談する」 「未央、待って」 「待った結果が、あの晩餐会でしょう」  司が立ち上がるより先に、未央は応接室を出た。  廊下のガラスに、自分の顔が映る。  笑っていなかった。  それが、ひどく気に入らなかった。◇ 車に戻ると、未央は連絡先を遡った。  先日の晩餐会で、花と食器の搬入を担当していた外部業者。そこの責任者に、昔、如月家の茶会で会ったことがある。直接の榊家使用人ではない。けれど、榊邸の裏口、納品時間、控室の場所を知っている人間なら、ひとりくらいは残っているはずだった。  未央はメッセージを打った。 『先日の榊家の晩餐会の件で、少し確認したいことがあります。報酬は出します』  送信ボタンの上で指が止まった。  報酬。  その言葉が、思ったより汚く見えた。  けれど、すぐに腹が立った。  汚いのは自分ではない。  急に朝霧栞なんて名乗って、榊家の隣に座って、過去をなかったことにしようとしている女の方だ。  未央は、親指で送信ボタンを押した。  数分後、短い返信が来た。 『榊邸に出入りし
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