All Chapters of 身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ: Chapter 51 - Chapter 60

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第51話 榊家の古参使用人③

「失礼いたしました」  相良さんは言葉を選ぶように、手元の盆へ目を落とした。 「謝るなら、試す前に言ってください」  相良さんは初めて、視線を落とした。 「おっしゃる通りです」  余計な言葉を足さないところが、いかにも律だった。  その潔さが、かえってこちらの怒りの置き場をわずかになくす。  扉の外で、車椅子の車輪が床をこする音がした。  律が、管理室の入口にいた。黒い仮面の下の目が、こちらではなく相良さんへ向く。 「相良」 「大丈夫です」 「試すなら、本人に断れ」 「申し訳ございません」 「私に謝るな」  相良さんは一拍置いて、私へ向き直った。 「朝霧様。失礼いたしました」  今度の謝罪は、さっきより少しだけ人の声に近かった。 「……次からは、先に言って」 「……はい」  律はそれ以上責めなかった。  車椅子を少し進め、私の隣ではなく、机の向こう側で止める。近すぎない位置。けれど、こちらを一人にしない距離。 「何が分かった」 「屋敷の管理システムが、たぶん古いです」 「相良のことじゃなく?」 「相良さんも、たぶん古いです。……すみません、今のは口が先に動きました」  言ってしまってから、口を押さえたくなった。  相良さんが咳払いをする。  律は笑わなかった。けれど、仮面の下で目元だけがかすかに緩んだ。 「当たってる」 「榊様」 「事実だ」  相良さんは何か言い返しかけ、やめた。  その間が少しだけおかしくて、私は目を画面へ戻した。 「大きな不正、とまでは言えません。でも、承認履歴が残らない運用は危ないです」  私は画面の承認欄へ視線を戻した。空欄はただの空白なのに、そこだけ薄く穴が空いているように見える。 「業者名も表記が揺れています。このままだと二重計上に気づきにくい。家政の範囲ならまだしも、グループ内の他部門でも同じ仕組みなら……早めに直した方がいいと思います」 「直せるか」  律が静かに聞いた。  私はすぐには答えなかった。  直せる。  少なくとも、改善案は出せる。簡単なチェック表も作れる。表記揺れの一覧、承認者IDの空欄検出、請求番号の重複抽出。難しい話ではない。  でも、ここで即座に頷けば、榊家の仕事を引き受けることになる。  また、誰かの家の中に組み込まれる。 「内
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第52話 榊家の古参使用人④

 返事に詰まった。  大げさに受け取りたくはなかった。  ただ、私の三年間を恥だと言われなかった。  それだけだった。 「通信環境と作業部屋は用意する。必要な機材があれば申請してくれ。支払いは――」 「自分で出します」  思わず遮った。  律がこちらを見る。 「全部じゃなくてもいい」 「それでも、自分で払えるものは払います」 「分かった」  早すぎる返事に、今度は私が黙った。 「もっと止められると思っていました」 「止めてほしかった?」 「少しだけ」  律は返さなかった。  相良さんが、机の上の書類をそっと揃える。紙の端が合わさる音が、管理室に細く響いた。 「朝霧様」  相良さんが言った。 「先ほどのご指摘、正式に確認いたします。もし改善案をいただけるなら、榊家として相応の報酬をお支払いいたします」 「榊家として?」 「榊家として、です」 「では、請求書を出します。婚約者だから無料、はなしで」 「そのつもりです」  如月家では、家族という言葉で対価が曖昧にされた。  ここでは、仕事として話ができる。  その違いが、ありがたかった。 「この机、少し低いですね」  言ってから、どうでもいいことを口にした気がして恥ずかしくなる。けれど、律は真面目に机を見た。 「高いと肩が上がるそうです」 「相良さんに言われたんですか」 「かなり長く」  律は答える代わりに、椅子の高さをもう一度確かめた。 「……本人には黙っておきます」  思わず笑った。  管理室を出る時、律の車椅子が段差の手前で止まった。  私は反射的に手を伸ばしかける。  けれど、律は自分で車輪を小さく浮かせるように動かし、何事もなかったように段差を越えた。  ほんの数センチ。  誰かに言うほどのことではない。  けれど、力の入れ方が、慣れた人のそれではなかった。  私は伸ばしかけた手を下ろした。 「どうかしたか」 「いえ」 「言いたそうな顔だ」 「言えるほど、分かってないです。分かったふりをすると、あとで自分に腹が立つので」 「それでいい」 「いいんですか。普通は、ここで少し格好よく説明するところでは」 「分からないなら、今はそれでいい」  説明を拒まれたのではなく、急がなくていいと言われたのだと思った。  昼過ぎ、私
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第53話 深夜のコード①

 古い端末は、起動するたびに小さく唸る。  榊邸の部屋には、夜の音がほとんどなかった。窓の外で庭木の葉が揺れる音も、遠くの車の走る音も、厚いガラスに吸われてしまう。聞こえるのは、机の上のノートパソコンが熱を持ち始める音と、キーボードを叩く自分の指先だけだった。  画面の右下に、二十三時四十七分と表示されている。  深夜のコンビニに立っていた頃なら、ちょうど揚げ物の廃棄を確認して、床をモップで拭く時間だ。レジの奥の蛍光灯。温めすぎたおでんの匂い。小銭を数える手袋越しの感触。  遠いはずのものが、体だけはまだ覚えている。  私は湯気の消えたマグカップを端へ寄せ、メールの添付ファイルを開いた。  添付された一覧を開く。  差出人は、以前から単発で仕事を受けている会計アウトソーシング会社だった。私の担当は、顧客企業の会計データそのものを判断することではない。重複した取引先コード、空欄の承認欄、名義と口座番号の不一致、登録日と支払日の矛盾を拾い、一覧にするだけだ。  それでも、会社名を見た瞬間、指が止まった。  如月グループ。  画面の白いセルの中に、三年間避け続けてきた四文字が、何も知らない顔で並んでいる。  私は一度、ファイルを閉じた。  規約。守秘義務。利益相反。  頭の中に、必要な言葉が順番に浮かぶ。浮かんでくれたことに、少しだけ安心した。感情だけで触ってはいけない資料だと、自分で分かったからだ。  メールを新規作成する。  件名は、担当可否確認。  本文には、対象データの一部に過去の親族関係がある企業名が含まれていること、機械的な形式チェック以上の判断は行わないこと、必要であれば別担当へ振り替えてほしいことを書いた。  送信ボタンの上で、指先が止まる。  親族関係。  その言葉が、妙に他人事みたいだった。  家族と書く気には、なれなかった。  送信すると、画面の上部に小さな処理完了の表示が出た。  それだけで、部屋はまた静かになる。  仕事を止めるべきなのか。  待つべきなのか。  けれど納期は明日の正午。相手が朝まで気づかない可能性もある。私は添付データ本体には触れず、いつもの照合用スクリプトだけを開いた。項目名だけ見れば、作業の準備はできる。中身を読まなくても、列の整え方や出力形式の設定くらいは進められる。  
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第54話 深夜のコード②

 そこにだけ、私は何度も救われた。 画面の白い光が、手元に薄く乗った。 最初に覚えたのは、綺麗なアプリを作る方法ではなかった。 CSVを開いて、余計な空白を消す。全角と半角を揃える。日付の形式を直す。違う名前で登録されている同じ銀行口座を探す。 誰かに胸を張って言えるような派手な仕事ではない。画面の端に小さく残ったほこりを、指で少しずつ払っていくような作業だ。 それでも、一行ずつ整えていくと、乱れていた表がわずかに呼吸しやすくなる。 夜勤明けの狭いアパートで、何度も途中で眠りかけながら覚えた。参考書を買う余裕はなかったから、無料で読める解説と、古い掲示板のやり取りを何度も見た。分からない単語を検索し、また分からない単語が出て、そこで一度、画面を閉じる。 そんなことを繰り返しているうちに、誰かが作った資料の綻びが見えるようになった。 私は、救われたかったわけではない。 ただ、朝になっても自分の手元に残るものが欲しかった。 控えめなノックの音がした。 私は反射的に画面を閉じかけて、途中で手を止めた。隠すような仕事ではない。隠さなければならない情報でもない。ただ、見られていいものではない。 ファイル名だけが見える状態にしてから、返事をした。「入ってください」 扉が少し開き、廊下の明かりが細く入った。 律は車椅子の上で、片手に小さな盆を持っていた。盆の上には、蓋のついた白い器と、湯のみが一つ。「まだ起きていたのか」「起きてます。……というか、見れば分かることを確認されると、ちょっと調子が狂います」「寝てる人間に声をかける趣味はない」「あと、警戒もしてます」「それは分かる」 律は、そこで一度黙った。 入っていいか、と聞かれる前に、私は椅子を少し引いた。「入ってください。ただし、画面は見ないで」「仕事か」「……はい。でも、冷めないうちに置いてください」「なら、見ない」 律は本当に画面から目を逸らした
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第55話 深夜のコード③

 気遣いなのか管理なのか、まだ迷った。  車輪の金具が、椅子の下で控えめに鳴った。 「……ありがとうございます」  声が硬くなった。  律は気づいたはずなのに、そこには触れなかった。 「その仕事は、これからも続けるつもりか」  私は答えを探すように、机の端へ目を落とした。 「続けたいです」  即答した自分に、私自身が驚いた。  律の指が、車椅子の肘掛けを一度だけ叩く。 「理由を聞いても?」 「お金が必要だからです」 「榊家から生活費は出る」 「榊家のお金だけで暮らしたら、また誰かの管理下に入る気がするんです」  思ったより強い声が出た。  私は口を閉じ、膝の上で指を組み直す。 「すみません」 「謝ることじゃない」 「榊家で暮らして、榊家の服を着て、仕事までやめたら、自分で立っている感じがなくなります」  言いすぎたと思った。  律はすぐには返さなかった。 「なら、続ければいい」 「簡単に言いますね」 「簡単な話ではない。でも、あなたが働くことを私が止める理由はない」  机の上の古い端末が、短く音を立てた。  冷却ファンが一段強くなる。 「ただし」  律の声が少し低くなった。 「ただ、体を壊す働き方は止めます」 「それは、何の立場で?」 「今は、同じ家にいる人間として」  その言い方なら、湯呑みを押し返す理由はなかった。  私は湯呑みを持った。  指先へ温かさが移った。 「……聞くだけにします。従うとは約束しません」 「それでいい」 「仕事は続けます」 「分かっています」  私は粥を口に運んだ。温かい。胃が驚いたように動く。自分が空腹だったことを、食べてから知った。  律は、私が食べ始めるまで何も言わなかった。  味は薄かったが、今の胃にはちょうどよかった。  急かされないことに、まだ慣れなかった。  命令なら反発できる。待たれると、自分で決めなければならない。  それが妙に落ち着かなかった。 「見られていると、少し食べにくいです」 「では、出ます」 「そこまでしなくても……」  私は粥をもう一口すくった。 「……何か、少し塩気のあるものはありますか」 「塩気?」 「粥が薄いので」  律は少し考えた。 「宮野に聞く」 「明日でいいです。夜中に起こさないでください」
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第56話 深夜のコード④

 律の目元が、ほんの少し緩んだ。仮面の下だから、口元までは見えない。 湯呑みの縁に、冷めかけた光が薄く残っていた。 その時、メールの受信音が鳴った。 私はスプーンを置き、画面を開く。 会計アウトソーシング会社からだった。 返信は短い。 利益相反の申告を確認したこと。今回の担当範囲は、形式的な重複照合と異常値抽出に限定されること。個別取引の判断や是正指示は行わないこと。作業ログを残したうえで継続可能であること。 私は息を逃がした。「続けていいそうです」「そうか」「ただ、内容は話せません」「話さなくていい」「知りたいんじゃないですか」「知りたい。かなり」 律はあっさり認めた。「でも、君の仕事を覗いてまで知りたいわけじゃない。……知りたい気持ちが消えるわけではないけど」 その線引きが、私はまだうまく信じられない。 信じられないけれど、少なくとも今、律は本当に画面を見ていなかった。 私はスクリプトを実行した。 黒い画面に処理行数が流れていく。二千行、四千行、八千行。数秒遅れて、結果ファイルが生成された。 異常候補、十三件。 思ったより少ない。 私は中身を開き、機械的に項目を確認した。 同一口座、別名義。 登録日より前の支払予定日。 承認者ID空欄。 取引先名変更履歴なし。 よくある入力漏れも混じっている。全部が不正とは限らない。むしろ大半は、経理部の忙しさや、移行時のミスで説明がつく。 けれど、一件だけ、目が止まった。 取引先コードは、KMS-0094。 名称は、ケー・メディカルサポート。 支払区分は、調査協力費。 承認者IDは空欄。 初回支払日欄に表示された日付を見た瞬間、指先から温度が引いた。 三年前。 私が如月家を追い出された、翌営業日。 舌の付け根が小さく鳴る。 偶然かもしれない。 た
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第57話 如月グループの穴①

 朝になっても、画面の中の日付は消えていなかった。 カーテンの隙間から差し込む光が、机の上のノートパソコンを白く照らしている。夜の間に冷めきったコーヒーは、カップの縁に薄い膜を作っていた。 私は椅子に座ったまま、結果ファイルをもう一度開いた。 ケー・メディカルサポート。 取引先名だけなら、何もおかしくはない。医療系のコンサルティング会社も、調査協力費という名目も、企業の会計データでは珍しいものではなかった。問題は、登録された日付と、支払いの流れだった。 三年前の翌営業日。 私が如月家を追い出された雨の夜から、まだ床の濡れた感触が身体に残っていたはずの日だ。 その日、如月グループの取引先マスタに、新しい支払先が登録されている。 偶然。 そう思おうとした。 実際、偶然の可能性はある。支払先は日々増える。ひとつの日付だけで決めつけてはいけない。 私は自分にそう言い聞かせながら、テーブルに肘を置いた。 眠っていないせいか、まぶたの奥が少し重い。 けれど、もう一つ、見ないふりのできない欄があった。 支払区分、調査協力費。 金額は、一度だけ大きく、その後は小さな定額に変わっていた。 大きな支払いが発生したのは、私が大学に戻れなくなった月。定額支払いが始まったのは、その翌月から。 私はマウスに触れた指を止めた。 未央の浪費。 如月家の破綻について、あの家の人たちはそう片づけていた。未央の衣装代、司との結婚準備、見栄のための交際費。そういう小さな贅沢が積み重なったのだと、誰もが思いやすい。 でも、数字は違う顔をしていた。 未央の名義で落ちている支出は目立つ。けれど、目立つだけだ。金額の合計は、会社の支払い能力を決定的に削るほどではない。 本当に抜けているのは、もっと目立たない場所だった。 悔しいことに、私は一瞬だけほっとした。未央の浪費だけで全部が壊れたのなら、彼女一人を憎めばよかった。数字がもっと深い穴を示した瞬間、私の憎しみは行き場を失った。 未央だけを悪者にして終われたら、どれほど楽だっ
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第58話 如月グループの穴②

控えめなノックがした。 慌てて画面を最小化しかけて、手を止める。隠すようなことはしていない。けれど、見せていいものでもない。 「少しだけ」 ドアが開き、相良さんが盆を持って入ってきた。薄い味噌汁と小さなおにぎりが二つ。湯気が、冷えた部屋の空気にすぐほどけていく。 「おはようございます。お食事を」 「ありがとうございます。……すみません、まだ着替えていなくて」 その言葉は、思ったより弱く落ちた。私は一度、視線を落とした。 「朝霧様が徹夜明けであることは、廊下の照明で大体分かります」 淡々と言われ、私は一瞬だけ返事に詰まった。 「そんなに分かりやすいですか」 「この屋敷は古いので、深夜に点く灯りは目立ちます」 相良さんは盆を机の端に置き、画面には目を向けなかった。 その距離の取り方に、一瞬だけ肩の力が抜ける。 「お仕事ですか」 「ただ、途中から少し……仕事だけじゃなくなりました」 「少し、じゃないかもしれません。自分でも、こんなに腹が立つと思っていませんでした」 言い直すと、声がかすれた。 「たぶん私、今、かなり腹を立てています」 相良さんは湯呑みを置く手を止めなかった。けれど、目だけをこちらへ向けた。 曖昧な言い方だったと思う。 相良さんは眉ひとつ動かさず、湯呑みを私の手の届く位置へ置いた。 「でしたら、なおさら朝食は必要です。空腹のまま見る数字は、人を必要以上に責めます」 意外な言葉だった。 私は湯呑みを見下ろす。湯気の向こうで、濃い緑がゆっくり揺れていた。 「相良さんも、数字を見るんですか」 「屋敷でも会社でも、数字には人の無理が出ます。数字だけを見れば見誤りますが、数字を見なければ、その無理にも気づけません」 言い終えると、相良さんは一礼した。 「ご主人様は執務室にいらっしゃいます。必要であれば、お呼びください」 「……いえ。これは、まだ」 まだ、誰にも渡せない。 そう言おうとして、私は口を閉じた。 誰にも渡せないと思った瞬間、三年前の私が、濡れた鞄を抱えて駅のベンチに座っていた。 誰にも聞いてもらえなかった。 誰にも見てもらえなかった。 今度は、私が勝手に一人で抱え込もうとしている。
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第59話 如月グループの穴③

 銀行口座の名義変更履歴。  請求書番号の連番。  承認フローの空欄。  手元のデータだけでは限界がある。請求書の原本も、契約書も、取締役会の議事録もない。ここで分かるのは、あくまで「穴がある」ということだけだ。  私はその穴の周囲を、できるだけ細く線で囲っていった。  午前十時を少し過ぎた頃、榊家法務の高瀬さんとのオンライン面談が設定された。  画面の向こうに現れたのは、四十代半ばくらいの女性だった。髪を後ろでまとめ、眼鏡の奥の目はよく動く。柔らかい印象ではないが、怖さを作っている人でもなかった。 「高瀬です。相良から概要だけ聞いています。まず一点だけ。榊グループの業務としてではなく、朝霧さん個人の外部案件に関する相談、ということでよろしいですね」 「その前提でお願いします」 「では、こちらは一般的な法務助言に留めます。元データの中身は、必要があるまで見ません。見た場合、こちらにも守秘義務が発生します」  手順が先に来る人だ。  そのことに、私は少し安心した。 「相談したいのは、利益相反の可能性です。私の旧姓側の企業が、依頼元から預かったデータに含まれています」 「旧姓側」 「如月グループです」  高瀬さんは、そこで初めてペンを止めた。  画面越しの間は短かった。 「続けてください」 「私は最終判断をする立場じゃありません。私の仕事は、データを整えて、異常候補を出すところまでです」  私は一度、画面の中の高瀬さんから視線を外した。数字の列は整っているのに、胸の奥だけが少しざらついていた。 「ただ、対象の中に個人的に関係のある会社が入っているなら、依頼元へ伝えた方がいいと思っています」 「その判断は正しいです。感情的な理由で隠したと見られる方が、後で問題になります」 「隠して後で揉めるより、今言った方がましです」 「異常候補の内容は」  私は一度だけ画面の下を見る。  そのまま読み上げるには、まだ喉が硬かった。 「三年前から続く支払いです。金額の動きと承認欄に、不自然な点があります」 「不正と断定していますか」 「してません」  答えはすぐに出た。 「断定できる資料がありません。今の段階では、確認対象です」 「では、その表現を守ってください。不正、横領、隠蔽という言葉は、根拠資料が揃うまで使わない」 「
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第60話 如月グループの穴④

 対象データ内に個人的利害関係の可能性がある企業が含まれるため、当該企業に関する最終判断からは除外を希望します。抽出作業の継続可否について、ご確認をお願いいたします。 閉め切った部屋に、機械の熱と紙の匂いが少しこもっていた。 送信ボタンの上で、指が一度止まった。 昔の私は、こういう確認をする場所にすら立てなかった。 嘘だと叫ぶだけで、終わっていた。 今は違う。 私は送信した。 小さな音がして、メールが送信済みフォルダへ移る。 それだけのことなのに、背中に入っていた力が抜けた。 昼過ぎ、返信が来た。 抽出作業の継続は可。ただし如月グループに関する評価・結論づけは依頼元内部で行う。朝霧氏には、異常候補リストと抽出条件のみ提出を求める。 妥当な返答だった。 私は短く了承を返し、再びデータへ戻った。 そして、ケー・メディカルサポートの行から、法人番号の欄を辿った。 直接の法人番号は空欄。 代わりに、摘要欄に略称がある。 KMSホールディングス。 検索したい衝動が、舌の奥まで上がった。 けれど、業務用端末では検索しない。外部案件のデータと個人調査を混ぜない。 私は自分のスマートフォンを手に取りかけ、すぐに置いた。 まず、公開情報だけで足りるか確認する。 そう決めて、榊家の共用端末ではなく、自分のノートパソコンのブラウザで法人名を検索した。 表示された会社情報は、簡素だった。 KMSホールディングス株式会社。 事業目的の欄に、いくつかの言葉が並んでいる。 医療機関の経営支援。 療養施設への投資助言。 医療関連企業の調査受託。 手の先が止まった。 医療。 なぜ、如月グループの資金が、医療投資会社へ流れているのか。 未央の浪費ではない。 司との結婚準備でもない。 ただ会社が傾いたというだけでもない。 もっと別の場所に、穴が開いている。 私は画面を見つめたまま、指を
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