All Chapters of 身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ: Chapter 41 - Chapter 50

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第41話 その質問は、誰のためですか

 ナイフの刃に、細い光が走った。  演奏も司会も続いているのに、私たちの周りだけ音が遠くなった。  未央は笑っていた。  三年前、父の前で額を押さえていた時と同じ顔。痛がるふりをする前の、ほんの一瞬の顔だ。 「三年前のこと、もう誤解は解けたの?」  近くの席の視線がこちらへ向く。  榊財団の理事の女性が、手にしていたグラスを静かにテーブルへ置いた。司は未央の腕を掴みかけて、やめる。遅い。いつも、少しだけ遅い。  私は膝の上のナプキンを指で押さえた。  布は乾いているのに、指先だけが湿っている。 「何の話でしょうか」  自分でも意外なほど、声は平らだった。  未央の眉が、わずかに跳ねる。 「忘れたの? お姉――いえ、朝霧さん。三年前、如月家で起きたことよ。会社の資料を外へ持ち出したとか、私を階段から……」 「未央」  司が低く呼んだ。  止めるなら、もっと早くすればいい。  未央は司を見ず、私だけを見ていた。 「皆さん、知らないでしょう? 朝霧さんは昔、如月家で――」 「如月様」  隣から、律の声がした。  大きな声ではなかった。  けれど、その声が通ると、周囲の話し声が少し静まった。  未央の唇が止まる。  律は車椅子の上で、少しも身を乗り出していなかった。黒い仮面の奥の目だけが、未央を見ている。 「ここは如月家の応接間じゃありません」  律の言葉は私をかばうためだけではなく、この席にいる全員へ向けられていた。だから、恩を着せられたようには感じなかった。胸の奥の緊張が、ほんの少しほどける。  如月家の中なら、未央が泣けば誰かが私を見た。父が眉をひそめ、母が口元を押さえ、司が困ったように黙る。その順番まで、身体が覚えている。  ただ、この席では違った。私は未央の方を向き直る。  誰も、未央が笑っただけでは私を裁かなかった。  未央の頬が薄く赤くなる。 「榊様。私はただ、皆さんが誤解されたままではいけないと思って」 「誰の誤解ですか」  私は未央に聞いた。  未央の視線が戻る。  昔なら、その目に見られるだけで息が浅くなり、違うと言おうとした言葉まで丸ごと押し戻された。父は聞かず、母は泣き、司は来なかった。  でも今、私の前にあるのは、如月家の長い食卓ではない。  名前の入った席札がある。  朝霧
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第42話 未央に向けられた質問

 言ったあとで、息が少し浅くなった。  テーブルの白いクロスの端が、指先の近くでかすかに動いた。  ただ、声は途切れなかった。 「心配なら、どうして人前で三年前の話をするの?」  未央の笑みが崩れた。  近くの席で、小さく息を呑む音がした。誰のものかは分からない。 「ひどい言い方ね。あなたがまた人を騙してるって思われたら、かわいそうだと思っただけよ」 「かわいそう、ですか」  かわいそう、という言葉が耳に残った。  未央はいつも、その言葉を口にして、自分だけは優しい人でいようとする。 「今、ここでやる話じゃない」  声が思ったより強く出た。 「どうしても話したいなら、終わってからにして。高瀬さんにも同席してもらいます」  未央の指が、持っていた小さなバッグを強く握った。  固い金具が、ぱち、と小さく鳴る。  正しいことを言えている自信はなかった。  最後の方になると声に細かな震えが混じり、手の先だけが冷たかった。  それでも言えた。  言い切ったあとで、息が苦しくなった。 「……三年前も、そうやって言い逃れしたの?」  未央の声が低くなる。  甘さが剥がれた。 「本当に違うなら、その場で言えばよかったじゃない」  司が顔を上げた。  今度は未央ではなく、私を見た。  たぶん、三年前の夜のことを思い出したのだと思う。  電話の向こうで、彼は私の声を聞かなかった。 「言いました」  私は司を見なかった。 「聞く人がいなかっただけです」  言葉が途切れた。  未央の顔から、ほんの一瞬、色が抜けた。  司の手がテーブルの端に触れる。何か言おうとした唇が開いて、閉じた。  司は、何も言えなかった。  相良さんが、少し離れたところから近づいてくる。手には薄いタブレットがある。彼は私たちの会話を遮るような位置には入らず、律の斜め後ろで足を止めた。 「失礼いたします」  事務的な声だった。  けれど、目だけが一度、未央のバッグに向いた。 「質問フォームに、同趣旨の投稿が複数入っております。登壇者への質問としては不適切と判断し、司会進行からは外しました」  未央の肩が、わずかに揺れた。 「同趣旨?」  律が聞く。 「三年前の如月家内の騒動に関する質問です。投稿時刻、招待番号、端末識別の一部は記録済みで
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第43話 庇うための言葉

 律の車椅子が壇上の光を受け、足元の金具だけが鈍く光った。  会場の空気が、今度こそ変わった。  誰かが未央を見る。  未央はすぐに笑顔を作った。 「それ、私じゃありません。……そんなこと、するわけないでしょう」 「まだ、誰の投稿かは申し上げておりません」  相良さんの返答は淡々としていた。  未央は、誰の投稿か言われる前に否定した。  司が未央を見る。 「未央」 「違うって言ってるでしょう」  今度の声は、わずかに高かった。  年配の理事の女性が、穏やかな顔のまま口を開く。 「如月様。ここは、支援を必要とする方々のための席です。どなたかの過去を裁くための会ではございません」  未央の笑顔が止まった。  言い返せない相手だった。  理事は怒らず、会の目的だけを告げた。 「……失礼しました」  未央は小さく頭を下げた。  その仕草は、外から見れば品があったと思う。  けれど、戻る足音だけがほんの少し速かった。司は椅子の背に手を置いたまま迷い、やがて立ち上がる。  未央を追わず、二歩だけこちらへ近づき、私の席の少し手前で止まった。会場の視線が揺れても、今度は目を逸らさなかった。 「栞」  その呼び方に、昔の温度が混じる。  私はグラスから手を離した。 「今、その呼び方はやめてください」  司の顔が、ほんの少し強張った。 「……悪かった。今のは、未央が」 「未央さんだけの話にしないでください」  自分でも、思ったより早く言葉が出た。  司の瞳の奥に、隠しきれない迷いが走る。 「三年前も、未央さんを止めなかったですよね。私が何を言っても、聞いてくれなかった」  司は何も返せなかった。  責めて終わらせたいわけではなかった。  謝らせるために、今の席を使いたくなかった。 「謝るなら、あとにしてください。今は、その話をする場所じゃありません」  司は唇を噛んだ。  昔なら、司の顔を見て自分が言いすぎたと思っただろう。  今も胸は痛んだ。  それでも、ここで引くつもりはなかった。 「……分かった」  司はそれだけ言い、ゆっくり頭を下げた。  未央のいる席へ戻る背中は、三年前より少しだけ小さく見えた。  年配の理事の女性が、何も聞かなかったようにメニュー表を整える。そのさりげなさが、かえってありが
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第44話 次に呼ばれる名前

「お水、少し替えましょうか」  スタッフの女性が、係員に目で合図しかけた。  私は小さく首を振る。 「このままで大丈夫です」  声はまだ硬かった。  けれど、席は立たなかった。  私はグラスに手を伸ばした。  思ったより重い。  水を飲むと、口の中に残っていた熱が、ゆっくり下りていく。  律は、私が水を飲み終えるまで待った。  代わりに怒ることもしなかった。  ただ、相良さんに向かって告げた。 「今のやり取りは残してください。誰かの判断で消さないように」 「承知しました。記録として保全します」 「そのうえで、会は戻します」  律は、それ以上を求めなかった。  あの人なら、場を止めることもできたはずだ。  未央をその場で退席させることも、如月家を名指しで牽制することもできたと思う。  ただ、そうはしなかった。  私の席を、騒ぎの中心にしないためだろう。  そう分かってしまう自分が、少し怖かった。  私はグラスを置いた。 「……止めないんですね」  声は小さかった。  律だけに届けばよかった。 「止めてほしいなら、止めます」 「そういう確認の仕方、断りにくくないですか」 「まだ席を立っていなかったので」 「私、かなり震えてましたけど」 「震えていても、残っていた」  褒め言葉なのか、見たままを言っただけなのか分からない。  ただ、張りつめていた肩が少し下がった。 「……そんなに見ないでください。報告書にされそうです」  律は一度、視線を外した。 「すみません」 「本当に見てたんですね」 「はい」  あまりに素直な返事で、張りつめていたものが少しだけ緩んだ。  さっきまで、声を出すだけで喉が痛かったのに。  仮面の奥で、律の目元が少し緩んだ。  そこで司会者の声が戻った。  乾杯の準備が整い、会場の照明がわずかに落とされる。あちこちでグラスが持ち上がり、さっきまで私を見ていた視線のいくつかが、もう別の場所へ流れていった。  未央の席だけは、まだざわついている。  彼女は隣の女性に何か説明していた。口元は笑っている。けれど、バッグを膝の上に置いたまま、片手でずっと押さえていた。  私はもう一度、自分の席札を見る。  朝霧栞。  誰かに与えられた名前ではない。  まだ、完全に自分のも
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第45話 司の遅すぎる後悔

 席札の端は、指の腹に食い込んでいた。  司会の声が広間に響いている。グラスの側面を伝った水滴が、指先のすぐそばへ落ちた。  さっきの律の声だけが、乾杯の余韻の中に残っていた。  私は咄嗟に顔を上げる。 「……何の話ですか」 「嫌なら止めます」  返答ではなく、逃げ道だけが先に差し出された。  そう返されると、思わず息がひとつつかえた。今まで私の周りにいた人たちは、決めたあとで私に告げることが多かった。家を出て行け。代わりに嫁げ。黙って座っていろ。言葉の形は違っても、最後に残るものは同じだった。  律は、まだマイクを受け取っていない。  壇上の手前で相良さんが足を止め、こちらの反応を待っている。会場の視線はまだ律に集まっていて、私が席札を押さえていることに気づいている人は少ない。 「進行は、私の名前で組んであります。榊家の晩餐会だからこそ、止められる」  律の答えに迷いはなかった。私が止めてほしいと言えば、本当に止めるつもりらしい。  淡々としていた。  当たり前のように言われると、どこへ怒りを向ければいいのか分からなくなる。けれど、心地よく受け取るには、私はまだこの人を知らなさすぎた。 「先に、説明してほしかったです」  声は抑えたつもりだった。  でも、最後のほうだけ少し硬くなった。  律は、すぐには謝らなかった。言い訳もしなかった。仮面の奥の目が一度だけ伏せられる。 「……そうですね。先に言うべきでした」  短い言葉だった。  それだけで終わったから、かえって小さな棘のように残った。 「もう少し言い訳してくれた方が、怒りやすいんですけど。そんなにあっさり認められると、困ります」 「認めないほうがよかったですか」 「そういうことじゃないです。そういうところです、本当に」  思わず返した声が、一瞬だけ低くなる。  律の目元がかすかに動いた。笑ったのではない。たぶん、私が怒ったことを確認しただけだ。 「朝霧さん」 「続けてください」 「今日の支援枠は、家族や婚約関係で、学業や仕事を続けられなくなった人へのものです。対象者を選ぶ時に、実際に立て直した人の視点を入れたい。……君に、今夜ここで何か語らせるつもりはありません」  会場の照明が、壇上へゆっくり寄っていく。  律の黒い仮面の縁が、光を受けて鈍く光った。
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第46話 未央を見ない司

 車椅子が壇の手前で止まり、相良さんがマイクスタンドの高さを調整した。律は立ち上がらない。手元だけで資料を整え、声を低く落とした。  磨かれた床のワックスの匂いと、閉め切った会場の湿った空気が混ざっていた。 「本日の支援事業について、簡単に説明します」  律の声は、会場の隅まで届くのに、少しも大きくなかった。  ざわめきが遠ざかる。  支援枠の説明は短かった。家族や婚約、雇用上の圧力で進路を絶たれた人を対象に、生活費と学習機会を一定期間支える。企業が名前だけを貸す寄付ではなく、審査と相談体制を外部の専門家にも委託する。そんな内容だった。  難しい言葉は多くない。  けれど、私の手の先は膝の上で止まっていた。  大学に戻れなくなった日。  夜勤明けのコンビニの裏で、スマートフォンの画面を見つめながら、通信講座の申込ボタンを押せなかった朝。  通帳の残高と、授業料の数字。  どれも、誰かに説明するほど大げさなものではないと思っていた。けれど、同じような場所に落ちた人を、拾い上げる制度があると言われると、三年前の自分がわずかに遅れて痛む。 「なお、当枠の運営には、当事者視点を持つ外部協力者の参加を予定しています」  律が、そこで一度だけ言葉を切った。  未央の席から、小さな衣擦れがした。 「現時点で協力候補者として調整中の一人に、朝霧栞さんがいます」  会場の空気が、ほんの少し動いた。  大きなどよめきではない。  けれど、私へ向けられる視線の質が変わったのは分かった。好奇心。探る目。計算する目。その中に、さっきとは違う種類のものも混じっていた。  哀れみではない。  値踏みでもない。  この人は何ができるのか、という目だった。  みぞおちのあたりが、少しだけ痛い。  嫌ではなかった。  でも、慣れていない痛みだった。 「本人の同意なく、経歴や個人情報を公表する予定はありません。今夜の場で、彼女に過去を語らせることもありません」  律の声が、ほんの少しだけ低くなる。 「必要なのは、誰かの傷を見世物にすることじゃなく、同じ場所にいる人が次の一歩を選べる仕組みです」  それ以上、私のことは言わなかった。  それが、救いだった。  拍手が起こる。  義務のような拍手もあった。様子見の拍手もあった。けれど、いくつかは確
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第47話 三年前に選ばれなかった私

 私は化粧室へ向かうふりをして、少しだけ人の波から外れた。  古い柱時計の針が動く音だけが、必要以上に大きく聞こえた。  壁際に置かれた観葉植物の葉が、空調でかすかに揺れている。磨かれた床には、シャンデリアの光が細かく落ちていた。 「栞」  呼ばれた名前に、足が止まる。  もう、その声で振り返る必要はない。  そう思ったのに、呼ばれた声に体が反応した。  振り返ると、桐生司が立っていた。  会場の中より、少し顔色が悪い。胸元のタイは乱れていない。髪も整っている。そういうところだけは、昔から崩れなかった。 「少し、話せるか」  司は答えを探すように、廊下の床へ目を落とした。 「話すことはないと思います」  すぐに返した。  司は唇を引き結ぶ。昔なら、この間に私のほうが耐えられなくなって、先に言葉を足していた。  今は、黙って待てた。 「今日のことは……いや、違う。俺が、すまなかった」 「今日の、どのことですか」  自分でも、冷たい声だと思った。  司の指が、ジャケットの横でかすかに動く。 「未央が、あんな形で三年前のことを出すとは思わなかった」 「そうですか」 「止めるべきだった」 「ええ」  短く返すと、司は視線を落とした。  廊下の向こうで、誰かの笑い声が上がる。こちらへ近づいてくる気配はない。壁際の鉢植えが、二人分の影を床に落としていた。 「三年前も」  司の声が、小さくなった。 「あの時も、俺は止めなきゃいけなかった」  三年前に欲しかった言葉だった。  けれど今は、聞いても何も戻らない。 「司さん」  私は、彼の名前を呼んだ。  昔の呼び方が、口の中でわずかに重い。 「……謝ったら、終わりますか」  司が顔を上げる。  司は傷ついた顔をした。  その顔にまだ苦しくなる自分が嫌だった。 「終わらない」 「だったら、何を言いに来たんですか」 「君に……」  司は言いかけて、止まった。  君に許してほしい。  きっと、その言葉だった。  言わなくても、続きは分かった。 「あなたを許すために来たんじゃありません」 「分かってる」 「たぶん、分かってません」  司の眉がわずかに寄る。  私は、バッグの持ち手を握り直した。金具が手のひらに当たる。痛いほどではない。その程度の痛
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第48話 遅すぎた視線

 廊下の空調が、急に冷たく感じた。  磨かれた床に、司の靴音だけが遅れて返ってきた。 「でも、来なかった」  司の顔から、色が引いていく。 「私が何度電話しても、あなたは来なかった」  言ってから、指先が震えた。  きれいに言えたとは思わない。  怒りも寂しさも、まだ残っていた。  それでも、今言えるのはこれだけだった。  司は視線を落とした。 「……そうだな」  かすれた声だった。 「俺は、選ばなかった」  その言葉を司自身の口から聞いても、胸は軽くならなかった。  ただ、三年前に置き去りにされた事実を、ようやく本人が認めた。 「だから今さら、私に『こっちへ来い』みたいに言わないで」 「栞」 「……朝霧です」  司の唇が、止まる。  私は目を逸らさなかった。 「今は、朝霧栞です」  司は何かを言おうとした。  けれど、その視線が私の肩越しへ動く。  振り返らなくても分かった。  廊下の離れた場所に、律がいた。  車椅子の影が、床に静かに落ちている。相良さんはさらに後ろで控えていた。律は、こちらへ近づこうとはしなかった。  律は会話へ入ってこなかった。  ただ、廊下を塞がない位置で待っていた。  その距離が、思った以上にありがたかった。  私は司へ向き直る。 「会場に戻ります」 「待ってくれ」 「待ちません」  今度は、すぐに言えた。  司の手が、伸びかけて、止まる。  今止まったことを、私が感謝する必要はない。  ただ、司がようやく手を止めただけだ。  律の近くまで戻ると、車椅子の横で足を止めた。 「聞いていましたか」 「少しだけ」 「……その少しだけって、どこからどこまでですか」 「聞こえる距離にはいました」 「聞かないでいてくれたんですか」 「二人の話だと思ったので」  どう返せばいいか分からず、短く息を吐いた。  会場へ戻る扉の前で、律が車椅子の向きをわずかに変える。先に行け、というように。 「二人の話だと思ったなら、先にそう言ってくれればよかったのに。黙っていられると、どう受け取ればいいか分かりません」 「……そうですね」 「素直に認められると、少し困ります」  言ってから、自分の声が思ったより柔らかいことに気づいた。  律は答えず、扉の向こうへ視線を向けた
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第49話 榊家の古参使用人

 翌朝、衣装室の窓には薄い曇りが張りついていた。  昨夜着ていたドレスは、専用のハンガーに戻されている。宮野さんが手配したのだろう。裾には汚れも皺もほとんど残っていなかった。あれだけ会場を歩き、廊下で司と言い合い、未央の視線を背中に浴びたのに、布だけは何もなかったような顔をしている。  私は靴を箱へ戻しながら、かかとに残った痛みを確かめた。  昨夜の靴は、足に合っていると思っていた。  それでも、長く歩けば、かかとは痛んだ。  扉を軽く叩く音がした。 「朝霧様、お目覚めでしょうか」  相良さんの声だった。  榊邸に来てから、彼はいつも同じ調子で話す。丁寧で、低くて、余計な熱がない。怒っているのか、困っているのか、こちらが読み取る余地をほとんど残さない声だった。 「……はい、起きています」  返事をして扉を開けると、相良さんは廊下にまっすぐ立っていた。銀縁の眼鏡の奥で、視線だけが一瞬、私の足元に落ちる。 「お怪我は」 「靴擦れ程度です」 「医師を呼びますか」 「結構です。そこまで大げさじゃありません」  相良さんは、廊下へ出かけていた使用人を目だけで止めた。「歩く時だけ、お気をつけください」  それで話が終わると思ったのに、相良さんは動かなかった。 「朝食の前に、少しだけお時間をいただけますか」 「榊さんからですか」 「いいえ。私からでございます」  廊下の空気が少し硬くなった。  昨日の晩餐会で、榊家は私を客人として扱った。律の隣に座らせ、朝霧栞と書かれた席札を用意し、未央の挑発を社交上の無礼として処理した。  けれど、屋敷の中にいる人たち全員が、それを受け入れたわけではない。 「私を試すんですか」  私が先に言うと、相良さんはほんの少し眉を動かした。 「確認させていただきたいことがあります」 「何を確認するのか、先に教えてください」 「経理の一覧をご覧いただきたいのです。当家の管理室までお越しください」  正直な人だと思うべきなのかもしれない。でも、正直に品定めされるのも、あまり気分のいいものではなかった。  管理室は、榊邸の一階奥にあった。  華やかな客間や食堂とは違い、そこには古い書類棚と、複合機と、事務用の机が並んでいる。窓際には段ボールが積まれ、棚の端にはラベルライターで作った細いテープが貼られて
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第50話 消えた承認者

 相良さんは淡々と言った。  皮肉なのか、自嘲なのか。分かりにくい。 「朝霧様には、こちらの一覧をご覧いただき、気づいた点をお知らせいただきたい」 「礼法じゃなく?」 「礼法は、昨日の晩餐会で十分拝見しました」 「褒められている気がしません」 「晩餐会で取り乱さなかったことは確認できました」  私は椅子に腰を下ろし、画面へ向き直る。タッチパッドの表面は、使い込まれて一瞬だけ光っていた。こういう場所のパソコンは、たいてい誰かが何年も我慢しながら使っている。  一覧を日付順に並べ替える。  次に、請求番号で並べる。  同じ番号が二つあった。  片方は花材、片方はリネン。業者名は違う。けれど、請求番号の付け方が同じだった。偶然もある。けれど、納品日の翌日に承認がある行と、納品日の前日に承認済みになっている行が混ざっている。  私は黙って、列幅を広げた。 「CSVで出せますか。この画面だけだと、並べ替えた時に承認者の列がずれている可能性があります。元の出力を見たいです」  相良さんの表情は変わらなかった。  ただ、手元のファイルを持つ指が、ほんの少し止まった。 「……できます」  彼は別のUSBを差し、加工済みのCSVを開いた。  私は列番号を確認し、承認者IDと承認日時を見比べる。やはり、数行だけおかしい。 「これ、承認者が消えています」 「消えてる?」 「画面では承認済みになっています。でも、元データの承認者IDが空欄です。たぶん、古いシステムから新しいシステムへ移す時に、空欄でも承認済み扱いになる設定になっているんじゃないですか」  私は画面の端を指した。 「請求番号が同じなのに、会社名の表記だけ違います。意図的なら、かなり雑なやり方です」私は画面を指した。「ただの登録ミスかもしれません。でも承認済みのまま放置したら、現場の人が後で責任を負わされます。数字を直す前に、担当の人へ確かめたいんです」 「雑、ですか」 「三か月も見れば見つかります」  言ってから、少し言いすぎたと思った。  相良さんは長く黙った。部屋の奥で、複合機が待機音を小さく鳴らしている。 「どちらで学ばれましたか」 「学校じゃありません」  私はタッチパッドから手を離した。 「昼間は会計事務所で入力を手伝ったり、在庫表を整理したりしてました
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