そこで、ヴィルレオの手が止まる。 旦那様。 その字だけが、やけにやわらかく見えた。 彼女は、こんなところにまで自分を書いていたのか。 自分が何を好み、何で食が進まず、どんな時に頭痛が強くなるか。自分でもろくに考えていなかった程度のことを、彼女はきちんと見て、言葉にして、屋敷の流れの中へ組み込んでいた。 守られていたのだと、いまさら思い知る。 しかもそれは、露骨な世話ではない。気づかれぬよう整えられた配慮だった。だからこそ、ヴィルレオはずっと見落としていた。 見落としていても、この屋敷も、自分も、回っていたからだ。 冊子の後半には、社交の一覧もあった。誰と誰が不仲で、誰の喪がいつ明け、どの花を嫌い、どの家には香りの強い菓子を避けるべきか。季節ごとの贈答の細かな相性。王都では表向き笑い合う貴婦人たちの裏側の温度まで、驚くほど静かに整理されている。 リュゼリアは、社交もまた感情ではなく気圧のように読んでいたのだろう。誰の前で何を言わぬべきか、どこに半歩引くべきか、誰へは逆に一言だけ温度を足すべきか。そういう目に見えぬ均衡の上で、この屋敷の名は傷つかずに済んでいた。 ヴィルレオは冊子を閉じた。 紙の束がやけに重く感じる。 帳簿も、人員も、社交も、健康管理まで。屋敷が回っていたのは、リュゼリアのおかげだった。 そんなこと、本来なら彼がもっと早く理解しているべきだったのだ。公爵として。夫として。だが彼は何一つ見ていなかった。いや、見ていたのに、それが「当たり前にそこにあるもの」だと思っていた。 胸の内へ、遅れて猛烈な自己嫌悪が込み上げる。 彼女はあれほどのものを静かに支えていたのに、自分は何を返していたのか。 冷たい食卓。 短い返答。 わかりやすい感謝もなく、ただ屋敷がいつも通り回っていることに安堵して、それが誰の手によるものかを考えもしなかった。「……旦那様」 背後から声がして振り向くと、侍女頭が戸口に立っていた。目を伏せたまま、何か言いにくそうにしている。「何だ」「奥様の、奥方付きの侍女たちの休暇の振り分けでございますが」「それがどうした」「これまでは奥様が季節ごとに少しずつ組み替えてくださいました。家に幼い子を残している者、病弱な親を看ている者、冬に弱い者、それぞれに」 侍女頭はそこで一度口をつぐむ。「……皆、奥様が
Terakhir Diperbarui : 2026-08-03 Baca selengkapnya