Semua Bab 余命半年なので家を出たら、冷徹公爵が全部捨てて追いかけてきました: Bab 101 - Bab 110

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第21話 追う理由②

 責任だからか。 病んだ妻を見届ける義務だからか。 いや、それだけではないだろう。 では、何だ。 愛しているのか、と問われたら、いまのヴィルレオはもう否定しきれなかった。否定しきれないどころか、その言葉を胸の内で転がすたび、遅すぎるほどにしっくりきてしまう。彼女がいなくなった屋敷は、どこもかしこも少しずつ息が浅い。食卓も、寝室も、帳簿も、香りも、人員配置も、全部がずれていて、そのずれを見つけるたび、自分は彼女の不在だけを思い知らされる。 それを愛ではないと言い張るのは、もう無理があった。 だが、今さらその言葉を握りしめて南へ向かうことが、果たして彼女のためになるのか。 彼女ははっきり言った。 あなたの愛など要りませんので、と。 その声音は怒りでもなければ、当てつけでもなかった。もっと静かで、もっと決定的だった。いまさら受け取れば、足りないまま死ぬのがつらいから。好きだからこそ、飢えたまま死にたくないから。そう言っていた。 ならば今、自分が南へ行くことは、その飢えをまた呼び起こすだけではないのか。 会わないことが優しさなら、追わないほうがいいのかもしれない。 だが、その理屈をどれだけ整えても、体はまったく納得しなかった。 追わないでいられるほど、自分は冷静ではなかった。 追わねばならぬほど、彼女はもう遠くなりかけている。 それだけだった。 後悔か、と問う。 たしかに後悔はある。痛いほどある。もっと早く見ていれば。もっと早く声をかけていれば。もっと早く、彼女が食卓で何を感じていたのか考えていれば。そんな“もっと”が無数にある。 だが、後悔だけでここまで足は動かないだろうとも思う。 責任か、と問う。 妻だから。病んでいるから。自分が支えるべき相手だから。もちろんそれもある。だが、責任だけなら王都の屋敷にいながら医師とアイダへ指示を送り続けるだけで足りる。こうして自分で行く必要はない。 執着か、と問う。 その語がいちばん近いようで、いちばん言いたくなかった。執着と言ってしまえば、彼女の人格よりも、自分が失いたくないものへしがみついているだけのような響きになる。だが実際、そういう醜さが自分の中にあることも否定しきれない。 愛か、と最後に問う。 胸の中でその言葉を転がすと、そこだけは奇妙なほど静かだった。否定しなくてもいいのだと
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第21話 追う理由③

     ◇ 半日近く馬車に揺られ、陽が傾き始めたころ、南の別邸の屋根が木々の向こうに見えてきた。 白い壁。低い屋根。湖からの光を受けて、館の窓がやわらかく輝いている。王都の公爵邸のような威容はない。だが、そこへ近づくにつれて、ヴィルレオの胸の奥にあったざらつきが別の形へ変わっていくのがわかった。 怖いのだ、と今さら思う。 会うのが。 彼女が少し元気そうに見えたら、それは安堵であると同時に、自分のいない場所で彼女が少しずつ息をしやすくしている現実を突きつけるだろう。逆に、ひどく弱って見えれば、それはそれで耐えがたい。 どちらにしても、逃げ場はない。 馬車が石敷きの前庭へ入る。 門番が一礼し、館の南側の窓がいくつか光を反射する。その中のどれかの向こうに、リュゼリアがいるのだ。 従者が扉を開ける。 ヴィルレオは外へ降り立った。風は王都よりやわらかい。冷たいのに、刺すような冷えがない。土と水の匂いがする。遠くで水鳥が鳴く。別邸の空気は、彼がここを発った朝と同じく静かだった。 玄関へ向かおうとして、ふと足が止まる。 南側の回廊の先、小さな庭のほうから、白いものが見えた。 リュゼリアだった。 薄い灰青の外套を肩へかけ、籐椅子に座っている。傍にはアイダ。膝には毛布。手には本か、あるいは何も持っていないのか。距離があり、顔まではよく見えない。だが、彼女が風の中で静かに呼吸していることだけは、はっきりとわかった。 追う理由に答えは出なかった。 愛なのか、執着なのか、責任なのか、後悔なのか。まだどれも混ざり合ったままだ。 けれど、その姿を見た瞬間、そうした問いのすべてが一度だけ遠のいた。 会いたかったのだ、と、ただそれだけが静かに残った。 ヴィルレオはその場に立ち尽くし、しばらく動けなかった。 風が吹く。 庭の低木が揺れる。 白と青の小さな花壇が、彼女の足元で夕方の光を受けていた。 それを見つめながら、ヴィルレオはようやく理解する。 理由はまだなくても、追うことだけはもう決まっていたのだと。 彼はゆっくりと、彼女のいるほうへ足を向けた。 足音を立てれば、彼女がこちらを見る。 その瞬間を想像しただけで、歩みがわずかに鈍る。 どんな顔をすればいいのかわからなかった。 王都の屋敷で感じた不在の重さを、そのまま語るのか。 お前がい
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第22話 再会は春の冷たさで①

 春はたしかに近づいているはずなのに、夕方の風だけはまだ冬の名残を抱いていた。 南の別邸の前庭へ馬車が入った時、ヴィルレオはまずその冷たさを頬で知った。王都の冷え方よりも、こちらの風はずっとやわらかい。けれど、水を含んだ空気が衣服の隙間から細く入り込み、皮膚の表面だけではなく胸の奥へまで薄く触れてくる。湖のそば特有の冷たさだった。刺すようではない。だが、逃げ場を探すようにまとわりつく。 従者が扉を開ける。 ヴィルレオは外へ降り立ち、いつものように玄関へ向かおうとして、そこで足を止めた。 南側の回廊の先、小さな庭が夕方の光を受けて薄く白んでいる。その一角、低い石垣に守られた花壇の前に、籐椅子が置かれていた。椅子には灰青の外套を肩へ掛けた女が座り、その足元には白と青の小さな花が、まだ幼い姿のまま風に揺れている。 リュゼリアだった。 少し離れた位置にアイダが控えている。小卓には湯気の立つ茶器があり、膝には毛布。何か本を読んでいたのかと思ったが、距離のせいで手元はよく見えない。ただ、彼女が外にいることだけははっきりわかった。 その姿を見た瞬間、道中ずっと胸の内で絡まり続けていた問いが、一度だけ音を失った。 愛か、執着か、後悔か、責任か。 そんなものにまだ答えは出ない。だが少なくとも、自分は彼女を見たかったのだと、それだけは疑いようもなく胸の真ん中へ落ちてくる。 ヴィルレオは無意識に一歩進み、それからようやく人に見られていることを思い出した。門番が一礼し、従者が荷の扱いについて何か言いかけている。だがそれらは耳へ入らない。視界の端で動くものはすべて薄くぼやけ、ただ夕方の庭と、そこにいるリュゼリアだけがやけにくっきりとしていた。 彼女の横顔は王都を出る前より少しだけ血色があるように見えた。そう見えるのは、日が低く、斜めから差す光が頬へ柔らかな色を乗せているからかもしれない。実際のところ、痩せた輪郭も、指先の細さも、病んだ身体のままなのだろう。それでも、王都の寝室で白く硬く縮こまっていた頃とは、何かが違う。 息をしている姿が、前より自然なのだ。 痛みも苦しさもなくなったわけではないだろう。むしろ、彼は彼女の咳き込む声をもう何度も知っている。胸の奥が裂けるようなあの咳が、簡単に消えるはずもない。けれど、こうして風の中に身を置いている彼女は、少なくとも“苦
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第22話 再会は春の冷たさで②

 ヴィルレオは彼女の足元を見た。白と青の花壇。花はまだ小さい。土の色はやや濃く、つい先ほどまで日を吸っていたらしい。風が吹くたび、青い花が一つだけ他より大きく揺れる。「咲いたのか」 問うと、リュゼリアは視線を花壇へ落とした。「ええ。昨日までは蕾のほうが多かったけれど、今日は少しだけ」「そうか」「白のほうが、思っていたより先なの」 彼女の声は花へ向けられている。ヴィルレオはそれを聞きながら、胸のどこかが静かに軋むのを感じた。 かつてリュゼリアがこういう話を自分へ向けてした時、その声の底にはわずかな期待があった。返事が短くても、ちゃんと見てほしいというような、何でもない顔をしながら実は自分へ差し出されている視線があった。 今は違う。 彼女はただ花のことを口にし、言葉を自分のほうへ投げていない。こちらが拾えば会話になるが、拾わなければそのまま風へ溶けていくような、そういう話し方をしている。 届かないのだ、とヴィルレオは思う。 声は届く。言葉も届く。だが、そのもっと奥にあるものが、もう彼へ届く形をしていない。「お座りになりますか」 アイダがもう一脚の籐椅子を少し引き寄せた。 ヴィルレオは頷き、リュゼリアと少し距離を置いた位置へ腰を下ろした。近すぎず、遠すぎず。だがその距離が、王都のどの食卓よりもかえって遠く感じられる。 沈黙が落ちる。 別邸の沈黙は、王都の寝室や食堂にあったものと違う。責めるようではなく、ただそこにある。風が枝を揺らし、遠くで水鳥が鳴き、館のどこかで扉が静かに閉まる。そのすべての上に、二人の間の沈黙もまた、無理なく置かれていた。 だがヴィルレオにとっては、その自然さこそが痛かった。 彼がいなくても、ここにはちゃんと空気が流れている。 彼が来たことで息苦しくなるような緊張も、反対に待ちかねたような熱もなく、ただ“訪れた人が一人増えた”程度の静けさで受け入れられている。「……王都は」 先に口を開いたのはリュゼリアだった。「いかが?」 その問いに、ヴィルレオは一瞬返答を失いかけた。 いかが、と。 まるで遠くの知人へ近況を訊ねるみたいな声だった。昔から彼女は多くを問う女ではなかったが、それでも以前は、その短い問いの奥に「あなたは大丈夫?」というもう一つの温度があった。今はただ、屋敷の近況を尋ねているだけに聞こえる。
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第22話 再会は春の冷たさで③

 風が強く吹いた。花壇の青い花が大きく揺れ、リュゼリアは反射的に胸の前へ手をやる。咳が来る、とヴィルレオがわかるより早く、細い咳がひとつ、次いで二つ漏れた。「っ、ごほ……ごほ、」 アイダがすぐに温かい茶を差し出す。リュゼリアはそれを受け取り、少しだけ俯いて息を整えた。胸が痛むのだろう、指先がカップの縁へ白く力を入れる。 ヴィルレオは何もできずにそれを見ていた。 王都にいた頃なら、咳き込みひとつで寝室の空気は変わった。侍女が走り、医師が呼ばれ、食卓なら皿の音が止まり、彼自身もどう声をかければいいかわからず、結局沈黙だけが重く落ちた。 ここでは違う。 咳はたしかに痛々しい。だが、それはただ彼女の身体の中で起きていることとして流れていく。アイダの手つきにも慌てがない。ミナが遠くで立ち止まって様子を見ているが、駆け寄りはしない。咳が落ち着くのを待つ、その呼吸が館じゅうにあるのだ。 リュゼリアは数度浅く息を吐き、やがて顔を上げた。「……ごめんなさい」「謝るな」「でも、会話を止めてしまったわ」「止まったのは会話だ。お前ではない」 思ったより強い声が出る。リュゼリアは少しだけ目を見開き、それから視線を落とした。「旦那様は、昔より少しだけ、そういうことを言うようになったのね」 その一言に、ヴィルレオは返せなかった。 昔より。 そうだ。昔より。今さらだ。遅すぎる。わかっている。その全部を含んだまま、彼女は淡く微笑んでいる。微笑んでいるのに、距離はまるで縮まらない。「王都のことは、すぐ整いますわ」 リュゼリアはやわらかく言った。「皆さま、有能ですもの。最初は少し戸惑うでしょうけれど、慣れれば」「慣れれば?」「ええ」「お前がいなくても、か」 リュゼリアは少し黙った。「……そうでなければ、困るでしょう?」 その声音には、諦めでも怒りでもない、静かな現実だけがあった。「わたくしが戻れる保証はないのだもの」 ヴィルレオの喉がきしむ。 その言葉は何度聞いても慣れない。慣れてはならない気もする。だが彼女は、それをすでに暮らしの一部へ織り込んでいる。王都の屋敷を去る前からずっと、帰れない可能性とともに物を置き、人を分け、花を見ていたのだ。「……戻す」 低く言うと、リュゼリアはまぶたを伏せた。「そのような言い方をなさるのね」「戻る。違う
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第22話 再会は春の冷たさで④

 ミナが「冷えますので」と声をかけるころには、日がかなり落ちていた。 リュゼリアも素直に頷き、アイダに手を借りて立ち上がる。ヴィルレオも反射的に手を伸ばしかけたが、彼女の身体はすでにアイダの支えの中で静かに均衡を取り戻していた。指先ひとつぶんの差で、また彼の手は空を切る。「今日は、ここまでにしましょう」 リュゼリアが言う。「……ああ」「お部屋は整えさせます。旦那様がお休みになるなら、東側の客室がいちばん暖かいわ」 その言い方は、客を迎える館の女主人そのものだった。穏やかで、過不足なく、遠い。 かつてなら、彼が別邸へ来れば夫婦の寝室をどうするのか、彼女はもっと意識したのかもしれない。自分の寝室からどれほど離れた部屋を用意するか。夫として扱うべきか、病人の療養を優先すべきか。ほんの短い指示の裏へ、いくつもの感情を押し込めていただろう。 だが今の彼女は、ただ来客に最適な部屋を選んでいる。 東側の客室。 朝の陽が入り、夜も暖かい。 その判断に間違いはない。 だからこそ、自分が完全に「訪れた客」として扱われている現実だけが際立った。「リュゼリア」 思わず名を呼ぶ。 彼女は足を止め、肩越しに振り返る。「何でしょう」 その問いの声音に、もう期待がないことをヴィルレオは知った。 何かを言えば、彼女は聞くだろう。 公爵夫人としてではなく、一人の人間として、最後まで礼を失わずに聞く。だが、そこから何かを受け取ろうとはしないかもしれない。 以前の彼女なら、短い言葉の中からさえ、愛情の欠片を探した。 いまは違う。 言われた言葉を、その言葉以上のものにはしない。 そうしなければ、自分を守れないところまで来てしまったのだろう。 ヴィルレオの胸の内には、道中で何度も考えた言葉があった。 会いたかった。 お前のいない屋敷は、どこを見ても違っていた。 お前がどれほど自分を支えていたか、ようやく知った。 愛している。 戻ってきてほしい。 どれも本当だった。 だが、そのすべてを今ここで口にすれば、彼女がようやく見つけた静けさの中へ、自分の後悔と焦りを一度に投げ込むことになる。 彼女へ届かせたいのか。 それとも、自分が楽になりたいだけなのか。 その区別が、まだつかなかった。 だからこそ、口から出たのはまたしても本質から少し外れた言葉だ
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-08-10
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第23話 謝罪にならない謝罪①

 夜の夜の別邸は、王都の屋敷よりずっと早く静まる。 大公爵家の本邸であれば、夕食のあともどこかしらで人が動いていた。夜更けの書斎へ茶が運ばれ、夜番の侍女が交代し、遠くの廊下では灯りを落とすための足音が続き、厩舎でもまだ遅い世話が残っている。屋敷は眠らぬまま朝へ向かう巨大な生き物で、たとえ主が眠ろうとしていても、その呼吸はいつまでも止まらない。 だが、南の別邸は違った。 夕食が終わり、暖炉へ薪が一本足され、館の端から端まで灯りが確かめられる頃には、もう空気そのものが夜へ沈み始める。足音は少なく、扉の開け閉めも一段と控えめになる。湖からの風が窓の外を撫で、時折水鳥の声が遠く響く。その音さえ、王都の夜のように耳を刺激せず、ただ闇の一部としてそこにある。 ヴィルレオは東側の客室へ通されていた。 館の中ではもっとも日当たりがよく、冬の名残が強い時季でも冷えにくい部屋だと、リュゼリアは言っていた。再会した直後だというのに、その言い方はよそよそしくもなく、けれど親密でもなく、まるで気心の知れた客へ部屋を勧める館の主のようだった。その距離感が妙に胸へ残り、ヴィルレオは部屋へ入ってからも、外套を脱ぐ気になれずにいた。 寝台は整えられている。 暖炉の火も十分だ。 机には水差しと薄い琥珀色の茶が用意され、窓際の椅子には膝掛けまで畳まれている。これ以上ないほど行き届いた客室だ。何一つ不備はない。けれど、その丁寧さの中にあるのは、やはり“客人としての自分”だった。 ここは、自分の部屋ではない。 そしてこの館の主は、いまやリュゼリアなのだと、改めて思い知る。 彼女はまだ病んでいる。咳もするし、長く立ってもいられない。熱も上がる。余命半年という言葉も消えていない。なのに、この館にいる彼女のほうが、王都の屋敷にいた自分よりもずっと地に足がついて見えた。 ヴィルレオは窓辺まで歩き、カーテンを少しだけ開けた。 夜の庭は暗い。だが、南側の花壇のあたりだけは、月と館の灯りを受けてぼんやり輪郭が見える。白と青の小さな苗。リュゼリアが植えた花。あの細い指が土に触れたのだと思うと、胸の奥でまた何かが軋んだ。 会いに来た...。 南へ向かう理由など、道中いくら考えても一つに定まらなかった。愛か、責任か、執着か、後悔か。どれもある。どれもあるのに、どれか一つを「答え」と呼ぶには、感情
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第23話 謝罪にならない謝罪②

     ◇ 小さな居間の扉の前で、ヴィルレオは一度だけ足を止めた。 中に灯りがある。扉の下から、あたたかな色が細く漏れていた。控えめにノックをする。少しして、アイダの足音が近づき、扉が開いた。 彼女は一瞬だけ驚いた顔をし、それからすぐに礼を取る。「旦那様」「起きているか」「はい。ですが、長くは」「少しだけだ」 アイダはためらった。彼女の躊躇いは当然だろう。南へ来てから、リュゼリアの呼吸や疲労の具合をもっとも近くで見ているのは彼女だ。この時間、客室へいるべき男が現れて「少しだけ」と言ったところで、それが本当に少しで済む保証などどこにもない。 けれど結局、彼女は脇へ身を引いた。「どうぞ」 居間は寝室より少し広く、だが王都の客間とは比べものにならぬほど小さかった。暖炉の前に長椅子と低い卓があり、窓辺には小さな読書用の椅子が置かれている。壁際の棚には本が数冊と、薬瓶、花瓶、細い蝋燭立て。どれも必要なものしかないのに、不思議と寒々しくはなかった。 リュゼリアは窓辺の椅子に座っていた。 薄い灰色の室内着に、肩へ白いショールを掛けている。髪は夜の支度のためか半分ほど解かれていて、背へ柔らかく落ちていた。机の上には開いた本と、飲みかけの茶。こちらを見る目は穏やかだったが、昼間の庭で見た時より少しだけ疲れが滲んでいる。「まだお休みになっていなかったのね」 そう言う声は柔らかい。 だが、その柔らかさもまた、以前とは少し違う。王都での彼女の優しさは、常にどこか相手を傷つけぬように整えられていた。いま目の前にいる彼女は、整えてはいるが、以前ほど自分を削ってはいないように見える。だからこそ、やさしいのに遠い。「ああ」 ヴィルレオは短く答えた。「少し、話がしたい」 その一言に、リュゼリアは本を閉じるでもなく、指をその間へそっと挟んで顔を上げた。「長くは無理よ」「わかっている」「旦那様は、そう仰って長くなる方だから、あまり信用はしていないのだけれど」 ごくかすかに冗談めかした声だった。王都ではなかなか聞けなかった調子だ。だがそれに救われるべきか、逆にその冗談が成立するほど他人行儀になったことを痛むべきか、ヴィルレオにはわからない。 アイダが気を利かせて暖炉のそばにもう一つ椅子を置いた。ヴィルレオはそこへ座る。長椅子を挟まぬ分、距離は近い。近い
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第23話 謝罪にならない謝罪③

「お前がいなくなってから、ようやく、どこを見てもそれがわかる」 ようやく、という語が、自分で言いながら惨めだった。 遅すぎる。 どれほど遅すぎるかは、彼女のほうがずっとよくわかっているだろう。「……そう」 返ってきた声は、やはり穏やかだった。 責めてもくれない。安堵もない。ただ事実を聞いた、という声だった。「お前がいなければ屋敷は回らない、とは言わない」 ヴィルレオは言う。「回るように、皆がどうにかしている。だが」「だが?」「回っているだけだ」 自分でも、よくこんな言い方ができたと思う。けれど、それがいちばん近かった。「息をしていない」 その言葉に、初めてリュゼリアの瞳が少しだけ揺れた。 息。 つい先日、自分がやっと息をしやすいと感じたことを思い出したのかもしれない。あるいは、彼のほうが屋敷に対してそんな言葉を使うとは思わなかったのかもしれない。「……大げさね」 やや遅れて返ってきたそれは、たしなめるというより、どう反応してよいかわからぬ時の曖昧な言葉だった。「そうかもしれない」「屋敷は人が多いもの。わたくし一人いなくても、そのうち慣れるわ」「慣れるだろうな」「ええ」「だが、俺はまだ慣れない」 リュゼリアの目が、今度ははっきりと彼を見た。 薄青い瞳の中に、小さな戸惑いが浮かぶ。そこに熱はない。ないが、完全な無関心でもない。ヴィルレオはそのわずかな揺れを見逃さず、同時に、それが以前の彼女ならもっと強く返ってきただろうことも知ってしまう。「……旦那様」「悪かった」 遮るように、その言葉が落ちた。 リュゼリアが一瞬、まぶたを止める。 暖炉の火が小さく爆ぜた。 ヴィルレオは、今度こそ視線を逸らさなかった。「見ていなかったことも」「……」「気づかなかったことも」「……」「当たり前のように、お前が整えたものの上に座っていたことも」 喉が詰まりそうになる。だが、それでも言葉を止めたくなかった。「全部、悪かった」 謝罪だった。 おそらく彼の人生の中で、こんなにも真正面から誰かへ「悪かった」と言ったことはない。業務上の不手際ならいくらでもある。政治の駆け引きの中で形だけの遺憾を述べたこともある。だが、こうして自分の知らなさと遅さを丸ごと差し出して頭を下げるような言葉は、たぶん初めてだった。 なのに、言
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第23話 謝罪にならない謝罪④

 リュゼリアは続ける。「旦那様が悪いと認めてくださること自体は、きっと、とても大切なことなのだと思う。昔のわたくしなら、それだけで泣いていたかもしれない」 昔のわたくしなら。 その一語一語が、もう戻らない時間を示している。「でも、わたくしが本当に欲しかったのは、その“悪かった”ではなかったの」「……何だ」 喉の奥が乾く。けれど訊かずにはいられなかった。 リュゼリアは彼を見た。穏やかな顔のまま、けれど瞳の底だけが少しだけ濡れたように揺れている。「当時の時間よ」 その言葉に、暖炉の火まで一瞬止まったように感じた。「謝ってほしかったのではないの」 リュゼリアは、ゆっくりと、噛みしめるように言う。「欲しかったのは、あの朝に“おはよう”って言ってくださることだったわ。あの食卓で、今日の紅茶はどうかと訊いてくださること。夜更けに遅くなった日の翌朝に、わたくしの顔色を少しだけ見てくださること」 ヴィルレオは指先に力が入るのを感じた。逃げるな、とまた自分へ言い聞かせる。彼女の言葉はまだ終わっていない。「そういう、何でもない時間だったの」 声は静かだ。責めているわけではない。だから余計に残酷だった。「今さら“悪かった”と言っていただけることは、うれしくないわけではないのよ。……でも、それであの朝は戻らないでしょう?」 そこで彼女は一度だけ目を伏せた。睫毛の影が頬へ落ちる。「わたくしが一人で食卓へ座っていた時間も。扉が閉まる音だけを聞いていた夜も。あなたの機嫌や食欲や頭痛まで気にして、自分の苦しさは後ろへやっていた日々も。全部、もう終わってしまっているの」 ヴィルレオは息を吸った。けれど次の瞬間、その息が喉で止まる。 言い返す言葉などない。 ないことが、痛いほどわかった。「だから」 リュゼリアは顔を上げた。「旦那様の謝罪は、本当でも、わたくしの失った時間には届かないの」 それが、答えだった。 あまりにも正確で、あまりにも静かな答え。 ヴィルレオはしばらく何も言えなかった。火の音も、風の音も、すべてが遠くなる。部屋の中にあるのは、自分の謝罪が届かなかったという事実だけだった。「……そうだな」 ようやくそれだけを絞り出す。 それ以上、何を言えばよかったのだろう。 “これからで埋め合わせる”と言えばいいのか。そんな言葉が、彼女の
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