Semua Bab 余命半年なので家を出たら、冷徹公爵が全部捨てて追いかけてきました: Bab 71 - Bab 80

137 Bab

第14話 花を植える日①

 朝の光が、今日は少しだけやわらかかった。 前日までの白く乾いた光とは違う。冷たさはまだ残っているのに、窓辺へ落ちる色の奥へ、かすかな蜜のようなぬくもりが混じっていた。南の別邸へ移ってから三日目の朝。リュゼリアは長椅子の上で毛布を膝にかけ、開いたままの本を手元へ置きながら、その光をぼんやり眺めていた。 ここへ来てから、朝の時間は不思議なほど長くなった。 王都の屋敷にいた頃は、目を覚ました瞬間から一日の輪郭が先に決まっていた。何時に起き、何を着て、誰と会い、どの書類へ目を通し、どの客へ返書を送り、どの部屋へ花を替えさせるか。何もかもがすでに自分を待っていて、寝台の中でさえ、心だけが先に食堂や執務室へ向かっていた。 だが、ここでは違う。 朝はただ朝としてやってくる。 まだ温まりきらぬ空気。湖の水の匂い。湿った土の気配。遠くで鳴く水鳥の声。窓の外の低木を渡る風の細い音。それらが、誰のためでもなく、ただそこにある。 最初の朝は、その名前のない静けさが落ち着かなかった。誰の顔色も窺わずにいていいことが、かえって恐ろしかった。だが三日目の今朝は、その落ち着かなさが少しだけ変わっていた。まだ完全に慣れたわけではない。それでも、静けさがただの空白ではなく、自分の呼吸を取り戻すための場所なのかもしれないと、ようやく思えるようになっていた。 窓の外には、小さな庭が見える。 王都の屋敷の庭とは比べものにならぬほど控えめな庭だった。きっちりと幾何学に整えられた花壇も、季節ごとに色を変える温室も、噴水もない。低い石垣に囲まれた土の区画がいくつかあり、館の壁際には若いハーブの列が並び、奥のほうにはまだ葉の少ない果樹が二本ほど立っている。庭というより、暮らしのための小さな畑と花床を、きちんと整えて人目にもやさしくしたような場所だ。 けれどその素朴さが、リュゼリアは少し好きだった。 ここでは花も、見せるためだけではない。香りを楽しみ、乾かして薬へ使い、食卓へ添え、窓辺へ飾り、季節の移ろいを知るために咲いている。王都の温室で咲く花たちのように、社交の場で人の目を奪うために磨きあげられた美しさとは違う、生きることの延長にある花だった。「奥様」 薬の入った小さな盆を持って、アイダが寝室へ入ってくる。「お目覚めでいらっしゃいますか」「ええ、とっくに」 そう返すと、アイダは
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第14話 花を植える日②

     ◇ 昼に近づくころ、リュゼリアは外へ出た。 厚すぎぬ外套を肩へ掛け、裾の軽いドレスへさらに膝丈のエプロンを結ばれる。庭へ出るためだけのその格好が、ひどく新鮮だった。公爵夫人のために誂えられた衣装ではなく、ただ土へ触れるための服。鏡を見た時、妙に自分が若くなったような気がした。いや、若いというより、公爵夫人になる前のどこかへ少しだけ戻ったような気配だった。 玄関からではなく、寝室に近い南の回廊を抜け、小さな石段を下りて庭へ出る。陽は高く、けれど暑すぎない。風は湖からくるのだろう、頬へあたるとひやりとして、そのあとすぐにやわらかくほどける。土の匂いがした。湿り気を含み、けれど重すぎない、春の手前の土の匂いだ。 その匂いを胸いっぱいに吸い込みたくなって、しかし実際に深く吸うと咳き込みそうになる。リュゼリアは小さく息を整えた。それでも、屋内の静かな空気とは違うこの匂いは、身体のどこかへ確かに沁みた。「奥様」 館の南側、日当たりのよい壁際で、ミナが待っていた。頭に白い布を巻き、分厚いエプロンを掛けた小柄な女だ。傍らには低い腰掛けと、小さな苗の載った木箱が用意されている。エルンストは少し離れた場所で土を軽く耕していたが、リュゼリアの姿を見ると鍬を置いて一礼した。「お加減、大丈夫でございますか」「ええ。ここまでなら」「無理は禁物でございますよ。ほんの少しで」 ミナの口調には貴族相手の過度な仰々しさがない。礼は尽くしているが、この土地に根を張った人間だけが持つ、落ち着いたやさしさがある。リュゼリアはそれに救われるような気持ちになった。 用意された腰掛けへ座ると、足元に土の色が近くなる。乾いて見えた表面の下には、まだ少しだけ湿りがあるらしい。ミナが木箱を開けると、小さな苗がいくつも並んでいた。葉はやわらかく、根元にはまだ培土がこぼれずに残っている。「何のお花なの?」 リュゼリアが尋ねると、ミナは嬉しそうに答えた。「白のマーガレットと、薄青のネモフィラでございます。それから少しだけカモミールを」 白と青。 その並びに、リュゼリアは思わず小さく目を細める。王都では、花もまた意味を背負って並べられていた。色の格、季節、家ごとの好み、飾る部屋の目的。けれどここでは、ただこの陽だまりに似合う色だから選ばれたように見える。「派手ではございませんけれど
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第14話 花を植える日③

 簡潔な返答だった。 土と陽が合えば。 それだけで咲く。 余計な飾りも、見栄えも、名目もなく。 その言い方が妙に胸へ残った。     ◇ 花を植えるあいだ、リュゼリアはほとんど喋らなかった。 ミナが次の苗を渡し、エルンストが水の具合を見て、アイダが時々顔色を確かめる。短いやりとりだけがあり、あとは風の音と、土を掘る小さな音、遠くで水鳥が鳴く声だけだった。 三つ、四つと苗を植えたところで、さすがに胸が少し苦しくなってくる。息を深く吸うと痛みが走る。指先も冷えた。だが不思議と、心は軽かった。 リュゼリアは土の上へ置いた手を見下ろす。 白い手だ。細く、病んでいて、力もない。けれどいまは土にまみれている。爪の際へ黒い土が入り込み、指の節には小さな湿りが残っている。王都の公爵夫人としての自分なら、すぐに拭わせ、元の清潔な指へ戻しただろう。なのにいまは、その汚れが少しだけ誇らしかった。「奥様」 アイダがそっと声をかける。「もう、お戻りを」「そうね」 リュゼリアは頷きかけて、しかし最後にもう一度だけ、土へ触れたいと思った。衝動のようなものだった。彼女は手袋もなしに、指先で植えたばかりの土をそっと撫でた。やわらかい。冷たい。重い。生きているものの下にある土の感触。 その瞬間、胸の中でずっと固く縮こまっていたものが、ほんの少しだけ弛んだ。 王都を出た日から、自分はずっと力が入ったままだった。公爵家を去ると決めた時から、いや、余命半年と告げられた時から、もっと前からかもしれない。何かを失う恐れと、何かを手放す決意と、遅すぎる愛への痛みと、その全部で心はずっと硬くこわばっていた。 でも、いま指の下にある土は、そんなことを何も知らない。 ただ冷たく、湿っていて、苗を受け入れるためにそこにある。 その無関心が、なぜだか優しかった。「……もう少しだけ、生きたいわね」 ほとんど無意識に、そんな言葉が唇から零れた。 風がその声をさらっていく。ミナもエルンストも、聞こえたのか聞こえなかったのか、何も言わない。だがアイダだけが、はっと息を呑んだのがわかった。 リュゼリア自身も、口にしてから少しだけ驚いた。 生きたい。 それは前にも思った。ヴィルレオの言葉に揺らされて。だがいまのそれは、少し違っていた。誰かのためではなく、誰かに愛されるためでもなく、
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第14話 花を植える日④

 楽しかった。 その言葉が、ここへ来てから初めて彼女の口から出た、痛みでも諦めでもない感想だったからだろう。「そうか」 声は低いままなのに、そこにははっきりと安堵が混じっていた。「ええ。びっくりするくらい」 リュゼリアは自分の指先を見る。まだ土が残っている。爪の縁へ入り込んだそれを見て、なぜだか少し笑いたくなった。「わたくし、こんなふうに土へ触るの、ずいぶん久しぶりだったのね」 ヴィルレオは数秒黙ったあと、低く言う。「……洗え」「ええ」 それはいつもの彼らしい答えで、リュゼリアは思わず少しだけ笑った。ほんの短く、胸に負担のかからない程度に。するとヴィルレオは、その笑みを見て一瞬だけ目を伏せた。 たぶん、彼もまた久しぶりに見たのだろう。 何かを諦めた穏やかさではなく、本当に少しだけ気が緩んだ笑みを。「また植えたいか」 不意の問いに、リュゼリアは顔を上げた。「また?」「体が持つなら」 その言い方があまりにもぎこちなくて、けれど以前より少しだけまっすぐで、胸の奥が静かに揺れる。「……ええ」 リュゼリアは答える。「花が咲くまでには、もう少しかかるでしょうから」 ヴィルレオはそれに何も返さなかった。だが、ただ一度だけ、植えた花壇のほうへ視線を向けた。 白と青の小さな苗。 土に触れた指先。 少しだけ解けた心。 名前のない静けさの中で迎えた朝は、何も急かさず、何も求めなかった。その代わり、自分の心のこわばりを少しずつほどいて、土の匂いのする小さな願いを残していった。 咲くところを見たい。 その願いはまだ小さい。 けれど、確かに根を下ろし始めている。 リュゼリアはアイダに支えられながら回廊を進み、館の中へ戻っていく。背後には風の中の土の匂いと、植えたばかりの花壇が残った。 あと何度、あそこへ出られるだろう。 あと何回、自分の手で土に触れられるだろう。 それはまだわからない。 でも今日、花を植えた。 その事実だけが、胸の中でひどく静かに、そしてたしかにあたたかかった。
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第15話 ひとり分の食卓①

 その日の昼、館の小さな食堂には、ひとり分の席しか整えられていなかった。 南の別邸へ移ってから数日。リュゼリアはこれまで、寝室か長椅子の置かれた小間で食事を取っていた。病んだ身体にはそれが当然で、誰も異を唱えなかったし、彼女自身もわざわざ別の部屋へ移る必要を感じていなかった。だが今朝の診察で、クレメンス医師が「長く座っていられるのであれば、昼だけでも寝室を出て食事をなさってください」と言ったのだ。 部屋を変えるだけでも気分が違う。 食べることを治療の一部としてではなく、ひとつの時間として感じられるようになる。 医師はそんなふうに穏やかに言い、アイダも珍しくすぐ賛成した。寝室から数歩先、小さな食堂なら負担にもならないと。 そして、いま。 リュゼリアは南向きの窓がひとつあるだけの質素な食堂の前で、ほんの少し立ち止まっていた。 王都の公爵家の食堂とはまるで違う。長く磨き上げられた大理石の床も、何十本もの燭台も、重厚なタペストリーも、席順を決めるための広すぎる卓もない。床は淡い木目の板張りで、壁は白く、窓辺にだけ薄いレースがかかっている。中央の卓は四人も座ればいっぱいになる程度の大きさで、今日そこへ置かれているのは一人分の皿とカップ、ナイフとスプーン、それに小さな花瓶ひとつだけだった。 花瓶に活けられているのは、庭の端で咲き始めたばかりの淡黄の花...。 昨日、土に触れたばかりの指先がその花へ向けられる。あの時植えた苗は、まだ低い花床の中で小さく根を張っている最中だろう。咲くにはまだ少し早い。けれど、もうこの館の中にある花たちは、温室で整えられたよそゆきの顔ではなく、庭からそのまま切ってきたみたいな素朴さを持っている。「奥様」 後ろでアイダが低く呼ぶ。「お疲れになりましたら、すぐ長椅子を運ばせますので」「ええ」 リュゼリアは頷き、それから一歩、食堂へ足を踏み入れた。 床板がかすかに鳴る。 窓の外では、湖へ渡る風が低木の葉を揺らしている。王都の食堂にあったような、誰かの足音や食器の遠いぶつかり合いはない。館の奥で台所が静かに動いている気配はあるものの、それもここまで届くころには薄くやわらいで、ただ昼の空気の中へ溶けていた。 席へ着くと、アイダが膝へナプキンを整える。椅子の背は王都のものより低く、肘掛けもない。その簡素さが、今日の身体にはむし
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第15話 ひとり分の食卓②

 やがて扉が開き、ミナが盆を持って入ってきた。館の老夫婦の妻である彼女は、王都の使用人たちのような磨き上げられた礼儀のかわりに、土の上で育った人間の自然な静けさをまとっている。「本日の昼でございます」 置かれた皿から、やわらかな湯気が立ちのぼる。 淡い色の野菜と鶏肉を小さく煮たスープ。薄く焼いた白身魚。バターをほんの少しだけ落とした温野菜。小さな丸パン。それに、刻んだ林檎とくるみを和えたごく軽いサラダ。どれも豪華ではない。だが、その「豪華ではなさ」がいまは心地よかった。病人だからというだけではなく、誰かに見せるための食卓ではないのだと一目でわかる、やさしい昼の皿だった。「スープが冷めぬうちに」 ミナはそう言い、過不足なく一礼して下がる。 扉が閉まり、また静けさが戻る。 リュゼリアはスプーンを取った。銀ではなく、少しだけ厚みのある落ち着いた色の金属だ。王都の華奢な銀匙より、手にしっくりと馴染む。スープをひと匙すくうと、鶏だしの匂いと、煮えた根菜の甘い香りがゆるやかに立ち上った。 口へ運ぶ。 熱すぎない。喉にやさしい温度だ。舌へ最初に触れたのは、驚くほど穏やかな塩気だった。次いで、鶏のうまみと、人参の甘さ、芹に似た青い香りが遅れてやってくる。どこかで食べたことのある味だと思って、少し考えてから気づく。侯爵家にいた頃、風邪を引いた朝に乳母が作ってくれた汁物に少し似ているのだ。 王都の料理人たちの腕は見事だった。洗練され、完璧で、どの皿も公爵家の卓にふさわしく仕上げられていた。病人用の食事ですら、味が薄いことを悟らせぬよう丁寧に工夫されていた。だが、このスープのようなやさしさは、あの屋敷ではなかなか口にできなかった気がする。 もうひと匙。 もうひと匙。 驚いたことに、食べることが苦ではなかった。もちろん、喉の奥にはまだ熱を持った痛みが残っているし、深く息を吸えば胸の底が疼く。けれど、味が身体へ入ってくること自体を、ひどく久しぶりに感じていた。 いつからだろう。 食事を「食べなければならないもの」としてしか受け取れなくなっていたのは。 王都では、食べることもまた役目の一部だった。客と同じ速さで口をつけ、会話が途切れぬようタイミングを測り、夫が席を立つ前に最低限の量は終え、病んでからは医師の指示だからと自分を説得して薬のように飲み込んでいた。味
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-07-27
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第15話 ひとり分の食卓③

 リュゼリアはそのことに気づいた時、胸の奥がじんわりと痛んだ。 これはたぶん、失っていた感覚のひとつだ。 空腹や味だけではない。自分のためだけに整えられたものを、疑わずに受け取るという感覚。公爵夫人として与えられるものは多かった。だがそれらの大半は、公爵夫人にふさわしいから、という理由を帯びていた。衣装も、食事も、花も、席も。今、目の前にある昼食は違う。これを食べるのは「奥方」ではなく、ただ「リュゼリア」という病んだ女であって、その身体のためだけに差し出されている。 そのことが、こんなにも静かに心へ沁みるとは思わなかった。 半分ほど食べ進めたころ、扉が控えめに叩かれた。「入ってもよろしいでしょうか」 ヴィルレオの声。 リュゼリアの手が、ほんのわずかに止まる。だが、それも一瞬だった。「ええ」 扉が開き、彼が入ってくる。昼の執務の途中なのだろう、濃い灰青の上着をそのまま着ていた。だが王都の屋敷にいる時のような隙のなさはなく、襟元がわずかに緩み、肩にも少し疲れが見える。この別邸に来てから、彼の中でも何かが少し変わっているのだろう。完全に気を抜けるわけではないにせよ、公爵家の大きな屋敷にいた時ほど、常に誰かへ見せる顔を維持する必要はないのかもしれない。「食べていたか」「ええ」 リュゼリアはスプーンを置かずに答える。「少しだけ、気分がよかったので」 ヴィルレオはその皿を見た。スープの残り、半分ほどに減った魚、まだ手つかずではないパン、食べかけのサラダ。その一つひとつを確かめるような目だった。「……食べられているな」「少しは」「それならいい」 以前ならそれで終わっただろう。だが彼は、そのまま扉の近くへ立ったまま動かない。「座らないの?」 リュゼリアが何気なく訊くと、ヴィルレオは一瞬だけ迷う顔をした。「邪魔ではないか」「いいえ」 そう答えてから、自分でほんの少し驚く。邪魔ではない。本心からそう思ったのだ。王都を出る前の自分なら、彼が食事の時間にここへ現れるだけで、胸がひどく騒いだだろう。どう振る舞えばいいのか、どこまで見ていいのか、どんな言葉を待ってしまうのかで。 いまは、その騒ぎがない。 心が動かないわけではない。けれど、それは以前のような焦りではなく、もっと静かで、ゆっくりとした波に近かった。「では、少しだけ」 ヴィルレ
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-07-27
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第15話 ひとり分の食卓④

 ヴィルレオは何も言わなかった。 言えないのだろう、とリュゼリアは思う。王都の食卓にいる時、自分がそんなふうに食べていたことを、この人は知らなかったはずだ。あるいは、見ていても意味を考えなかったのかもしれない。彼にとっての食事もまた、長く「必要だから済ませるもの」でしかなかっただろうから。「ここでは違うわ」 リュゼリアは続ける。「誰も急かさないし、比べる相手もいないし、残しても咎められない。……だから、ちゃんと空腹があるのだと気づくの」 その言葉は、食事の話でありながら、それだけでもないように思えた。 ヴィルレオもそう感じたのか、視線が少しだけ深くなる。「空腹か」「ええ」 リュゼリアは静かに頷く。「なくなったと思っていたの。いろいろなことに対して。でも、違ったみたい」 失っていたのではない。 見えなくなっていただけだったのだ。 味も。空腹も。あたたかさも。ひとりでいることへの安堵も。誰かと同じ場所にいても息が詰まらない感覚も。 それらが少しずつ、戻ってきている。 それが嬉しいのか、悲しいのかはまだよくわからない。戻ってきた感覚は、必ずしも楽なものばかりではないからだ。寂しさも、望みも、まだこの人を気にしてしまう自分も、いっしょに聞こえてしまう。 ヴィルレオは窓の外へ一度目をやり、やがて低く言った。「……ここへ来てよかったと、思うか」 その問いに、リュゼリアは驚かなかった。 きっと彼も、それを知りたいのだろう。自分が彼女を南へ連れてきたことが、ただの引き延ばしでも、ただの囲い込みでもなく、少しでも彼女のためになっているのかどうかを。「まだ、わからないわ」 正直に答える。「でも、来なければわからなかったことがあるのは確か」「何だ」「こういう朝があることとか」 リュゼリアは少し笑った。「こういう昼の味とか」 ヴィルレオはそれを聞いて、ほんのわずかに目を伏せた。その仕草の意味を、リュゼリアはすぐには読めなかった。安堵か、後悔か、もっと複雑な何かか。 だが、いまはそれを無理に知ろうとしたくなかった。 彼がここにいて、自分はちゃんと食べていて、食卓にはひとり分の皿しかない。 その不完全さが、いまは妙にしっくりきている。 リュゼリアは残っていた魚をひと口食べ、それから小さな丸パンへ手を伸ばした。温かさは少し失われてい
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-07-27
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第15話 ひとり分の食卓⑤

 ひとり分の食卓は、途中から二人になった。けれど皿は増えず、会話も多くなく、豪華さもなかった。ただ、質素で、あたたかく、誰かのためにきちんと整えられた食事の時間がそこにあった。 そしてその時間は、リュゼリアの中で長く失われていた感覚を、静かに少しずつ戻していった。 空腹。 味。 あたたかさ。 差し出すこと。 受け取ること。 誰かと同じ空間にいながら、息を詰めなくていいということ。 窓の外では、湖からの風がまたひと筋、レースを揺らした。 食事の終わり頃、リュゼリアはカップへ残っていたハーブ茶を飲みながら、ふと思った。 もしかすると、自分は食べることだけではなく、生きることそのものを、長いあいだ「しなければならないもの」としてばかり受け取っていたのかもしれない、と。 朝は決められた時刻に起きなければならない。 食事は体裁を崩さず口へ運ばなければならない。 夫の妻として、屋敷の女主人として、侯爵家の娘として、求められる形を保たなければならない。 そうして一日を積み重ねていくことを、生きることだと思っていた。 自分が何を食べたいか。 どんな朝を心地よいと感じるか。 誰のそばなら呼吸を詰めずにいられるのか。 どんな花が咲くところを見たいのか。 そんな小さな問いを、長いあいだ自分へ向けることすらなかった。 だからこそいま、こうしてひとり分の食卓の温かさに触れるだけで、失っていた何かがひとつずつ戻ってくるのだろう。 その戻り方はゆっくりで、痛みも伴う。 味が戻れば、これまで味わえなかった日々を思う。 空腹を知れば、自分がどれほど長く飢えていたのかを知る。 誰かと息を詰めずにいられる時間を知れば、なぜそれをもっと早く得られなかったのかと考えてしまう。 けれど、それでも戻ってくること自体は、たしかに嬉しかった。 痛いからといって、もう失いたいとは思わない。 ヴィルレオは受け取ったパンを、ゆっくりと口へ運んでいた。彼もまた、ただ食べるという行為に慣れていない人なのかもしれない。誰かから分けられたものを、そこに余計な意味を求めず受け取ることに。 パンを飲み込んだあと、彼は短く息を吐いた。「……柔らかいな」 あまりにも素朴な感想だった。 リュゼリアは一瞬だけ目を丸くし、それから笑った。「ええ。ミナが今朝焼いたのでしょう」「
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-07-28
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第16話 息がしやすい場所①

パート1 南の別邸で迎える朝にも、少しずつ癖が生まれはじめていた。 目が覚める時間。窓の外へ最初に耳を澄ませる癖。胸の奥の重みを確かめてから、今日の息の浅さを測ること。起き上がる前に、喉の乾きと痛みを一度だけ飲み込むこと。そうした小さな手順が、ここへ来てからいくつも身体に馴染み始めている。 王都にいた頃の朝は、もっと急だった。 まだ意識が目覚める前から、その日の予定や、屋敷の空気や、夫の機嫌や、客人の顔ぶれが、先に胸の上へ折り重なるように降ってきていた。目を開けることは、その重さを受け入れる合図みたいなものだった。 だがいま、南の別邸の朝はもっと静かに始まる。 風の音。湖の匂い。遠くの水鳥。壁の向こうで館が小さく軋む気配。そうしたものが、誰の役にも立たぬまま、ただそこにある。その中で目覚めると、自分がまだ“公爵夫人”になる前の、名もない一人の女へ少しだけ戻ったみたいな気持ちになる。 その朝も、リュゼリアは窓から落ちるやわらかな光の中で目を覚ました。 昨夜は、ここ数日の中ではわりと深く眠れたほうだった。途中で二度、咳で起きた。ひとたび咳き込めば胸の奥が焼けるように痛み、喉には薄く血の味さえ残る。だが、王都の頃のように、その痛みのあとへすぐに不安や焦りが押し寄せてくることはなかった。痛い。苦しい。でも、少し横になって、呼吸を整えればまた眠りへ戻っていけた。 病が消えたわけではもちろんない。 身体は相変わらず病んでいる。呼吸は深くはできないし、夕方になれば熱が上がる日もある。歩けばすぐ疲れ、階段の上り下りはまだ慎重さが要る。けれど、ここでの痛みは少なくとも「痛みそのもの」として感じられるようになっていた。王都では、その痛みの向こうに常に何かが待っていたのだ。周囲の目、役目、遅れ、迷惑、取り繕い。だから痛み一つですら、身体の外にあるものと一緒に受け止めなければならなかった。 ここでは違う。 苦しい時は、ただ苦しい。 咳が出れば、咳をするしかない。 息が浅ければ、浅いままで少しずつ整えればいい。 その単純さが、思っていた以上に救いだった。 リュゼリアは毛布を胸のあたりへ引き寄せ、しばらく寝台の上から窓を見ていた。 空は薄く晴れている。湖の方向から白くやわらかな光が反射して、壁にほのかな揺れを落としていた。まだ葉の少ない庭木の枝先に、小鳥が二
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-07-28
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