余命半年なので家を出たら、冷徹公爵が全部捨てて追いかけてきました의 모든 챕터: 챕터 51 - 챕터 60

63 챕터

第9話 いなくなる前の日常④

「……それを、やめろ」 思っていたより掠れた声が出た。 リュゼリアがほんの少しだけ目を細める。「何を?」「礼を言って回ることも、今まで通りの顔をすることも、全部だ」「旦那様」「皆がおかしくなっている」 自分でも驚くほど率直だった。アイダが目を伏せたまま微動だにしないのを見て、図星なのだとわかる。「お前が普通にしているほど、屋敷中が怯えている」 リュゼリアはすぐには答えなかった。窓から入る光が、彼女の蜂蜜色の髪へ淡く差している。その静かな横顔は、やはり美しかった。美しいだけに、ひどく痛々しい。「そう」 やがて彼女は小さく言った。「気づいていたわ」「だったらなぜ」「どうすればよかったの?」 穏やかなままの声で返され、ヴィルレオは言葉を失う。 どうすればよかったのか。 泣けばよかったのか。取り乱せばよかったのか。半年前から壊れていくふりをして、周囲へすがればよかったのか。そんなことを、彼は彼女へ言えるだろうか。「わたくしが泣けば、皆は安心する?」 リュゼリアが静かに続ける。「それとも、わたくしがずっと寝台の上で怯えていたら、屋敷の空気は穏やかになるの?」「そういう話ではない」「では、どういう話なの」 その問いに、ヴィルレオは答えられなかった。 結局、自分は彼女に何を求めているのか。静かでいてほしいのに、静かすぎると腹が立つ。無理はするなと言うくせに、彼女が何もせずにいたら、その静かな諦めに今度は耐えられない。離縁の願いは受けないと決めているのに、ではその先、彼女へどんな顔をしていればよいのか、自分でもわかっていない。「……部屋へ戻れ」 結局出てきたのは、それだった。 リュゼリアはそれを聞いて、ほんの少しだけ寂しそうに笑った。「ええ。戻るわ」 その笑みが、先ほどまでよりさらにヴィルレオを苛立たせた。諦めたような、わかったような、もうこれ以上何も求めていないような顔。そういう顔をしてほしくないのに、そうさせてきたのは自分だという事実が、また胸の内で鈍く疼く。「旦那様」 リュゼリアが歩き出す前に、ふと彼を見た。「皆がおかしくなっているのは、わたくしのせいではなく、あなたが何も仰らないからかもしれませんわ」 その一言を残し、彼女はアイダに支えられながらゆっくりと廊下を進んでいった。 ヴィルレオはその背を見送るし
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第9話 いなくなる前の日常⑤

 リュゼリアは匙を取り、少しずつスープを口に運ぶ。薬が効いているのか、昼よりはまだましだった。味は薄い。塩気も控えめで、舌に残るのは鶏のだしのやわらかさと、根菜の自然な甘みだけだ。以前なら物足りなく感じただろう。けれど今は、その静かな味が妙にしみる。「今日は、よく動いたそうだな」 不意にヴィルレオが言う。 リュゼリアは顔を上げた。「少しだけよ」「厨房へ行った」「ええ」「衣装部屋で帳簿まで触った」「……報告が早いのね」「見ていた」 それは先ほど廊下で鉢合わせたことを指しているのだろう。それとも、それ以前から誰かに確認させていたのか。リュゼリアにはわからなかった。「皆がおかしくなっているのは、あなたが何も仰らないからかもしれませんわ」 昼間、自分が言った言葉を思い出す。ヴィルレオも同じことを考えたのか、少しだけ視線を落とした。「何を言えばいい」 ぽつりと落ちたその問いは、思いのほか弱かった。 リュゼリアはしばらく答えられなかった。何を言えばいいのか。本当に。それがわかるなら、どれほど楽だろう。「……本当のことを」 やがてそう答える。「本当のこと、か」「ええ。わたくしが南へ行くのは療養のためだと。けれど、いまの屋敷のことはクラウスと侍女頭へ引き継ぐと。皆はそれぞれ自分の仕事をしてほしいと。それだけでも違うでしょう」 ヴィルレオはスプーンを置いた。「それだけで足りるか」「足りないものもあるでしょうね」「お前は」 彼は少し言い淀んだ。「お前は、どうしたい」 その問いは昨夜や今朝なら腹立たしかったかもしれない。離縁の願いを受け流しておいて、いまさらどうしたいかと尋ねるのかと。だがいまのヴィルレオの顔は、純粋に答えを探しているように見えた。皆が不穏になっていることにようやく耐えきれなくなって、何か糸口を求めている顔。 リュゼリアはスープの湯気を見つめた。「……わたくしは」 答える前に、喉の奥を少し潤した。「これまでと変わらずには、たぶんなれません。でも、泣いて怯えているだけでもいたくないの」「だから、普通にしている」「ええ」「それが普通に見えない」「でしょうね」 リュゼリアは苦く笑った。「でも、わたくしには今、それしかできないのです」 その言葉に、ヴィルレオは何も返さなかった。ただ、長い沈黙のあと、低く言
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第10話 侍女の涙①

 その日の朝、屋敷中が妙に息を潜めていた。 いつもより足音が小さい、というだけではない。磨き上げられた廊下に反響するはずの靴音も、階下の広間で交わされる挨拶も、厨房から流れてくる鍋や皿の触れ合う音も、すべてが一段薄い布で包まれているように聞こえる。誰かが意識しているのではなく、屋敷そのものが、自分の中で何かが変わりつつあることを察して音を絞っているかのようだった。 アイダはいつもの時刻に起き、いつものように冷水で顔を洗い、髪をまとめ、奥方付きの侍女としての簡素で動きやすい黒のドレスへ袖を通した。鏡に映る自分の顔には、ここ数日ほとんど眠れていない疲れがはっきり出ていたが、それをどうにかする余裕はない。 窓の外には、春先の白い朝が広がっている。 夜の冷えを少しだけ残した庭は、霜というほどではないが薄く湿っていて、葉のない薔薇の枝先にだけ朝の光が細く触れていた。温室のガラスは淡く曇り、その向こうにぼやけた緑の影が見える。冬の名残を抱いたまま、それでも季節だけが先へ進もうとしている景色だった。 アイダは一瞬だけその庭を見てから、すぐ視線を戻した。 朝の空気がきれいすぎる日は、なぜか嫌な予感がする。何かが終わる日も、何かが始まる日も、空だけは妙に美しいままであることが多いからだ。 奥方の寝室へ向かう廊下は、静かだった。 夜番から朝番へ交代した若い侍女たちが、互いに視線を交わし、必要以上の会話を避けているのがわかる。誰もが、いまこの屋敷で口にしてはいけないものがあると知っている顔をしていた。 余命半年。 離縁。 南の別邸。 そして、奥様が本当に戻ってこられるのかどうか、という疑い。 それらはまだはっきりと屋敷じゅうへ伝えられたわけではない。けれど人のいる場所には、言葉になる前の不安というものが、煙のように広がる。主人が気づかないうちに、使用人たちは空気からそれを嗅ぎ取ってしまうのだ。 寝室の前へ着くと、アイダは一度だけ小さく息を整えた。それから控えめに扉を叩く。「奥様、お目覚めでいらっしゃいますか」「ええ、起きています」 返ってきた声は穏やかだった。 熱に掠れ切ってもいない。咳の名残はまだあるものの、昨日よりはずっと静かで、何も知らぬ者が聞けば、少し体調を崩しているだけの公爵夫人の朝の声にしか聞こえないだろう。 だがアイダには、もうわかっ
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第10話 侍女の涙②

 中には私的な手紙、若いころの詩集の切り抜き、母から貰った季節の押し花、読書の感想を走り書きした小片、舞踏会の招待状の束、そんなふうに“公爵夫人になる前のリュゼリア”が、少しだけ残されている。 それを寝台の上へ広げて、リュゼリアはひとつひとつ見ていた。 見るだけでなく、分けていた。 持っていくもの。 燃やしてほしいもの。 公爵家へ置いていくもの。 それは、普通の療養前の整理ではありえない手つきだった。「これは実家へ返してちょうだい」 淡い色褪せのある封筒を、リュゼリアはそう言って脇へ置いた。少女の頃、母から届いた手紙だった。初めて王都の冬の舞踏会へ出る夜、緊張して眠れぬ娘へ、母がこっそり渡したもの。アイダはその時も傍にいたから覚えている。「これは……こちらへ置かれるのですか」 問い返すと、リュゼリアは微笑んだ。「公爵家の書庫へは要らないもの」「奥様」「でも、わたくしが持っていっても、読むことはきっともう少ないでしょうから」 その言い方が、まるで自分のこれからの時間を、すでに外から眺めているみたいで、アイダは声を失った。 リュゼリアは次に、小さなメモの束を手に取った。 それは結婚して最初の年、南の別邸で短く過ごした時のものだった。湖の色、朝の鳥の鳴き方、温室の湿り気、そこで見つけた珍しい白い花の名を書き留めた覚え書き。リュゼリアはそれへ一度だけ指を這わせ、静かに別の山へ移した。「これは持っていくのね」 アイダがそう言うと、彼女はかすかに頷いた。「ええ。……向こうで、庭を見るかもしれないもの」 その返事が少しだけやわらかかったことに、アイダは救われる思いがした。まだ、南での時間を“生きる時間”として見ているのだとわかったからだ。 だがその直後、リュゼリアは筆を取り、新しい紙へ書きつけ始めた。 綺麗な字だった。いつも通り、流れるように整っていて、少しも震えていない。『もしも、わたくしが戻れなかった時には』 そこまで見えた瞬間、アイダの指先が凍りついた。「奥様!」 思わず声が強くなる。リュゼリアは驚きもせず、ただ顔を上げた。「何かしら」「そのような……!」「念のためよ」「念のためで書く文ではございません」「でも、書いておかなければ困るでしょう?」 ひどく落ち着いた声だった。「帳簿だけでは足りないことがあるも
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第10話 侍女の涙③

 若い侍女たちはただ怖がっている。クラウスは察していても、それを職務の中へ押し込めている。旦那様はたぶん、認めたくなくて理性で押さえ込んでいる。 でも自分だけは、もう誤魔化せない。 リュゼリアは静かに去るつもりでいる。 それはきっと、離縁が実際に成立するかどうかとは別の話なのだ。この人はすでに心の中で、公爵家の日常から自分を少しずつ抜き出し始めている。旦那様が止めようと、法の上で何が変わろうと、その決意だけはもう止まらない。     ◇ 昼を過ぎたころ、侯爵夫妻が寝室へ娘を見舞いに入った。 ヴィルレオも同席していた。短い時間だけ。医師から長話を禁じられているため、会話は穏やかで、誰も声を荒げない。母は涙をこらえながら娘の手を握り、父は椅子の脇へ立ったまま静かな声でいくつかの近況を話した。リュゼリアもまた穏やかに応じ、無理はせず、自分は大丈夫だと笑う。 あまりにも、いつも通りだ。 だからこそ見ているこちらの息が詰まる。 見舞いが終わり、侯爵夫妻とヴィルレオが寝室を出たあと、アイダは薬とぬるい茶を持って戻った。寝台の上のリュゼリアは少しだけ疲れた顔をしていたが、それでも微笑みは崩していなかった。「お疲れになりましたね」「ええ、少し」「横になってくださいませ」「その前に、お願いがあるの」 まただ、とアイダは思った。 お願い、という言葉のあとに続く内容が、最近のリュゼリアはひどく決定的なことばかりなのだ。「何でございましょう」「侍女たちの名簿を持ってきて」 アイダは一瞬だけ目を瞬いた。「名簿、でございますか」「ええ。全員ではなくても、わたくしの近くで働いてくれた者たちの分だけでいいわ」 そこまで聞いて、アイダは静かに理解した。 礼を言うつもりなのだ。 あるいは別れの言葉を残すつもりなのだ。「奥様……」「叱らないで」 リュゼリアは少しだけ困ったように笑う。「一人ひとりへ長々と書くわけではないの。ほんの短く、覚えていることを。わたくし、向こうへ行ってからでは気力が持たないかもしれないもの」 その一言が、とうとうアイダの胸にひびを入れた。 向こうへ行ってからでは、気力が持たないかもしれない。 それはただの体力の話ではない。自分がこれからどう弱っていくかを、リュゼリアはすでにある程度見越しているのだ。「……持ってまいり
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第10話 侍女の涙④

 寝室が静まり返った。 言ってしまった、と思った。だがもう引き返せない。「皆はまだ、“療養へ行かれるだけ”だと思っております。旦那様だって、そう思いたいのでしょう。けれど奥様だけが、違うお支度をなさっている」 涙が次々と頬を伝う。拭っても拭っても止まらない。「わたくしにはわかります。奥様が、本当に……本当に去るおつもりなのだと」 最後のほうは、ほとんど声にならなかった。 リュゼリアはしばらく黙っていた。いつものように「泣かないで」と宥めるかと思った。あるいは「何を言っているの」とやんわり否定するかと。だが、彼女はそうしなかった。 ただ、ゆっくりと手を伸ばす。 アイダは反射的に身を屈めた。その手が、自分の頬へ触れる。熱は高くない。けれど病んだ人の手特有の、薄く透けるようなぬくもりがあった。「……ごめんなさい」 リュゼリアが言う。 その声には、いままでの穏やかさとは少し違う、ひどく深い疲れが滲んでいた。「あなたにだけは、隠しきれなかったわね」 アイダは泣きながら首を振る。「隠していただきたかったのではございません」「ええ、わかっている」「では、どうして」 リュゼリアはアイダの頬を撫でる手をそのまま、少しだけ力を込めた。「わたくし、怖いのよ」 その言葉に、アイダは息を呑む。 やっと、やっと本音が出たと思った。「とても、怖いの」 リュゼリアは静かに続ける。「死ぬことも。弱っていくことも。旦那様の顔を見るたび、いまさら欲しくなってしまう自分も。全部、怖い」 涙は出ていない。だが、その声の奥には、泣き叫ぶよりずっと深い震えがあった。「だから、平気な顔をしているの。そうしていないと、立っていられないもの」 アイダの喉から、小さな嗚咽が漏れる。「でもね」 リュゼリアはほんの少しだけ笑った。ひどく哀しい笑みだった。「平気な顔をしているうちに、本当に決まってしまったの」「……何がでございますか」「去ろう、って」 それは囁きのように小さかった。「旦那様の愛を受け取りながら、足りないまま死ぬのは、わたくしには無理だと思ったの。だったら最後くらい、自分で決めて、自分のままでいたいって」 その言葉を聞いた瞬間、アイダはもう堪えられなかった。 顔を覆って泣いた。侍女としての礼儀も何もかも忘れて、ただ涙が溢れた。長く仕えてきた
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第10話 侍女の涙⑤

 扉が開く直前、リュゼリアは低く言う。「泣かないで、アイダ」「……無理でございます」「では、せめて笑ってちょうだい」 そんなの無理だ、と言いたかった。けれどその時にはもう扉が開き、ヴィルレオが入ってきた。 彼の視線は最初にリュゼリアへ、次にアイダへ向く。アイダはなんとか頭を下げたが、目元が赤いことくらいは一目でわかっただろう。「何かあったか」 低い声。 ただの確認の口調だったが、青灰色の瞳の奥には鋭いものがある。見逃すつもりのない目だ。 アイダは咄嗟に何も言えず、リュゼリアが先に答えた。「少し、昔の話をしていただけよ」 ヴィルレオの目が、ほんの僅かに細まる。信じていないのがわかった。だがその場で追及はしない。「そうか」「ええ」「医師が薬を変える」 彼はそれだけを告げると、机の上の文箱へふと目を留めた。開かれたままの紙束。名前を書きつけた小さな短冊。そこにあるものが何か、彼がどこまで察したのかはわからない。 ただ、その視線が一瞬だけ鋭くなり、すぐ消えたことだけはアイダにもわかった。「準備はあとでいい」 ヴィルレオが言う。「休め」「……はい」 リュゼリアは穏やかに頷く。 その穏やかさが、いまはアイダには少しだけ恐ろしい。もうこの人は、ヴィルレオの前でもほとんど乱れない。乱れないまま、静かに本気で去ろうとしている。 アイダだけが、その本気を見てしまった。 見てしまったからこそ、もう後戻りはできない。南へついていき、この人の決意ごと支えるしかないのだと、涙の残る目でヴィルレオの横顔を見ながら、アイダは改めて悟った。     ◇ その夜、寝室の灯りが落とされたあとも、アイダはしばらく眠れなかった。 寝椅子へ横たわっても、まぶたの裏には昼間の光景ばかりが蘇る。文箱の紙。リュゼリアの静かな声。怖いのよ、と言ったあの一言。そして、去ろうって決まってしまったの、と零した時の、ひどく穏やかな顔。 泣いたのは自分だけだった。 奥様は泣かなかった。 それがどうしようもなく悲しかった。 たぶん、泣く段階すらもう過ぎてしまったのだろう。泣けば誰かに縋ってしまう。縋れば戻りたくなってしまう。だからあの人は、穏やかな顔を崩さず、静かに決めて、ひとつずつ整えていく。 それがどれほど強くて、どれほど痛ましいことか。 暗闇の中、アイダは
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第11話 届かない視線①

 その日の朝、屋敷じゅうが妙に息を潜めていた。 いつもより足音が小さい、というだけではない。磨き上げられた廊下に反響するはずの靴音も、階下の広間で交わされる挨拶も、厨房から流れてくる鍋や皿の触れ合う音も、すべてが一段薄い布で包まれているように聞こえる。誰かが意識しているのではなく、屋敷そのものが、自分の中で何かが変わりつつあることを察して音を絞っているかのようだった。 アイダはいつもの時刻に起き、いつものように冷水で顔を洗い、髪をまとめ、奥方付きの侍女としての簡素で動きやすい黒のドレスへ袖を通した。鏡に映る自分の顔には、ここ数日ほとんど眠れていない疲れがはっきり出ていたが、それをどうにかする余裕はない。 窓の外には、春先の白い朝が広がっている。 夜の冷えを少しだけ残した庭は、霜というほどではないが薄く湿っていて、葉のない薔薇の枝先にだけ朝の光が細く触れていた。温室のガラスは淡く曇り、その向こうにぼやけた緑の影が見える。冬の名残を抱いたまま、それでも季節だけが先へ進もうとしている景色だった。 アイダは一瞬だけその庭を見てから、すぐ視線を戻した。 朝の空気がきれいすぎる日は、なぜか嫌な予感がする。何かが終わる日も、何かが始まる日も、空だけは妙に美しいままであることが多いからだ。 奥方の寝室へ向かう廊下は、静かだった。 夜番から朝番へ交代した若い侍女たちが、互いに視線を交わし、必要以上の会話を避けているのがわかる。誰もが、いまこの屋敷で口にしてはいけないものがあると知っている顔をしていた。 余命半年。 離縁。 南の別邸。 そして、奥様が本当に戻ってこられるのかどうか、という疑い。 それらはまだはっきりと屋敷じゅうへ伝えられたわけではない。けれど人のいる場所には、言葉になる前の不安というものが、煙のように広がる。主人が気づかないうちに、使用人たちは空気からそれを嗅ぎ取ってしまうのだ。 寝室の前へ着くと、アイダは一度だけ小さく息を整えた。それから控えめに扉を叩く。「奥様、お目覚めでいらっしゃいますか」「ええ、起きています」 返ってきた声は穏やかだった。 熱に掠れ切ってもいない。咳の名残はまだあるものの、昨日よりはずっと静かで、何も知らぬ者が聞けば、少し体調を崩しているだけの公爵夫人の朝の声にしか聞こえないだろう。 だがアイダには、もうわ
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第11話 届かない視線②

 中には私的な手紙、若いころの詩集の切り抜き、母から貰った季節の押し花、読書の感想を走り書きした小片、舞踏会の招待状の束、そんなふうに“公爵夫人になる前のリュゼリア”が、少しだけ残されている。 それを寝台の上へ広げて、リュゼリアはひとつひとつ見ていた。 見るだけでなく、分けていた。 持っていくもの。 燃やしてほしいもの。 公爵家へ置いていくもの。 それは、普通の療養前の整理ではありえない手つきだった。「これは実家へ返してちょうだい」 淡い色褪せのある封筒を、リュゼリアはそう言って脇へ置いた。少女の頃、母から届いた手紙だった。初めて王都の冬の舞踏会へ出る夜、緊張して眠れぬ娘へ、母がこっそり渡したもの。アイダはその時も傍にいたから覚えている。「これは……こちらへ置かれるのですか」 問い返すと、リュゼリアは微笑んだ。「公爵家の書庫へは要らないもの」「奥様」「でも、わたくしが持っていっても、読むことはきっともう少ないでしょうから」 その言い方が、まるで自分のこれからの時間を、すでに外から眺めているみたいで、アイダは声を失った。 リュゼリアは次に、小さなメモの束を手に取った。 それは結婚して最初の年、南の別邸で短く過ごした時のものだった。湖の色、朝の鳥の鳴き方、温室の湿り気、そこで見つけた珍しい白い花の名を書き留めた覚え書き。リュゼリアはそれへ一度だけ指を這わせ、静かに別の山へ移した。「これは持っていくのね」 アイダがそう言うと、彼女はかすかに頷いた。「ええ。……向こうで、庭を見るかもしれないもの」 その返事が少しだけやわらかかったことに、アイダは救われる思いがした。まだ、南での時間を“生きる時間”として見ているのだとわかったからだ。 だがその直後、リュゼリアは筆を取り、新しい紙へ書きつけ始めた。 綺麗な字だった。いつも通り、流れるように整っていて、少しも震えていない。『もしも、わたくしが戻れなかった時には』 そこまで見えた瞬間、アイダの指先が凍りついた。「奥様!」 思わず声が強くなる。リュゼリアは驚きもせず、ただ顔を上げた。「何かしら」「そのような……!」「念のためよ」「念のためで書く文ではございません」「でも、書いておかなければ困るでしょう?」 ひどく落ち着いた声だった。「帳簿だけでは足りないことがあるも
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第11話 届かない視線③

 若い侍女たちはただ怖がっている。クラウスは察していても、それを職務の中へ押し込めている。旦那様はたぶん、認めたくなくて理性で押さえ込んでいる。 でも自分だけは、もう誤魔化せない。 リュゼリアは静かに去るつもりでいる。 それはきっと、離縁が実際に成立するかどうかとは別の話なのだ。この人はすでに心の中で、公爵家の日常から自分を少しずつ抜き出し始めている。旦那様が止めようと、法の上で何が変わろうと、その決意だけはもう止まらない。     ◇ 昼を過ぎたころ、侯爵夫妻が寝室へ娘を見舞いに入った。 ヴィルレオも同席していた。短い時間だけ。医師から長話を禁じられているため、会話は穏やかで、誰も声を荒げない。母は涙をこらえながら娘の手を握り、父は椅子の脇へ立ったまま静かな声でいくつかの近況を話した。リュゼリアもまた穏やかに応じ、無理はせず、自分は大丈夫だと笑う。 あまりにも、いつも通りだ。 だからこそ見ているこちらの息が詰まる。 見舞いが終わり、侯爵夫妻とヴィルレオが寝室を出たあと、アイダは薬とぬるい茶を持って戻った。寝台の上のリュゼリアは少しだけ疲れた顔をしていたが、それでも微笑みは崩していなかった。「お疲れになりましたね」「ええ、少し」「横になってくださいませ」「その前に、お願いがあるの」 まただ、とアイダは思った。 お願い、という言葉のあとに続く内容が、最近のリュゼリアはひどく決定的なことばかりなのだ。「何でございましょう」「侍女たちの名簿を持ってきて」 アイダは一瞬だけ目を瞬いた。「名簿、でございますか」「ええ。全員ではなくても、わたくしの近くで働いてくれた者たちの分だけでいいわ」 そこまで聞いて、アイダは静かに理解した。 礼を言うつもりなのだ。 あるいは別れの言葉を残すつもりなのだ。「奥様……」「叱らないで」 リュゼリアは少しだけ困ったように笑う。「一人ひとりへ長々と書くわけではないの。ほんの短く、覚えていることを。わたくし、向こうへ行ってからでは気力が持たないかもしれないもの」 その一言が、とうとうアイダの胸にひびを入れた。 向こうへ行ってからでは、気力が持たないかもしれない。 それはただの体力の話ではない。自分がこれからどう弱っていくかを、リュゼリアはすでにある程度見越しているのだ。「……持ってまいり
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