All Chapters of 余命半年なので家を出たら、冷徹公爵が全部捨てて追いかけてきました: Chapter 61 - Chapter 70

145 Chapters

第11話 届かない視線④

 寝室が静まり返った。 言ってしまった、と思った。だがもう引き返せない。「皆はまだ、“療養へ行かれるだけ”だと思っております。旦那様だって、そう思いたいのでしょう。けれど奥様だけが、違うお支度をなさっている」 涙が次々と頬を伝う。拭っても拭っても止まらない。「わたくしにはわかります。奥様が、本当に……本当に去るおつもりなのだと」 最後のほうは、ほとんど声にならなかった。 リュゼリアはしばらく黙っていた。いつものように「泣かないで」と宥めるかと思った。あるいは「何を言っているの」とやんわり否定するかと。だが、彼女はそうしなかった。 ただ、ゆっくりと手を伸ばす。 アイダは反射的に身を屈めた。その手が、自分の頬へ触れる。熱は高くない。けれど病んだ人の手特有の、薄く透けるようなぬくもりがあった。「……ごめんなさい」 リュゼリアが言う。 その声には、いままでの穏やかさとは少し違う、ひどく深い疲れが滲んでいた。「あなたにだけは、隠しきれなかったわね」 アイダは泣きながら首を振る。「隠していただきたかったのではございません」「ええ、わかっている」「では、どうして」 リュゼリアはアイダの頬を撫でる手をそのまま、少しだけ力を込めた。「わたくし、怖いのよ」 その言葉に、アイダは息を呑む。 やっと、やっと本音が出たと思った。「とても、怖いの」 リュゼリアは静かに続ける。「死ぬことも。弱っていくことも。旦那様の顔を見るたび、いまさら欲しくなってしまう自分も。全部、怖い」 涙は出ていない。だが、その声の奥には、泣き叫ぶよりずっと深い震えがあった。「だから、平気な顔をしているの。そうしていないと、立っていられないもの」 アイダの喉から、小さな嗚咽が漏れる。「でもね」 リュゼリアはほんの少しだけ笑った。ひどく哀しい笑みだった。「平気な顔をしているうちに、本当に決まってしまったの」「……何がでございますか」「去ろう、って」 それは囁きのように小さかった。「旦那様の愛を受け取りながら、足りないまま死ぬのは、わたくしには無理だと思ったの。だったら最後くらい、自分で決めて、自分のままでいたいって」 その言葉を聞いた瞬間、アイダはもう堪えられなかった。 顔を覆って泣いた。侍女としての礼儀も何もかも忘れて、ただ涙が溢れた。長く仕えてきた
last updateLast Updated : 2026-07-20
Read more

第11話 届かない視線⑤

 扉が開く直前、リュゼリアは低く言う。「泣かないで、アイダ」「……無理でございます」「では、せめて笑ってちょうだい」 そんなの無理だ、と言いたかった。けれどその時にはもう扉が開き、ヴィルレオが入ってきた。 彼の視線は最初にリュゼリアへ、次にアイダへ向く。アイダはなんとか頭を下げたが、目元が赤いことくらいは一目でわかっただろう。「何かあったか」 低い声。 ただの確認の口調だったが、青灰色の瞳の奥には鋭いものがある。見逃すつもりのない目だ。 アイダは咄嗟に何も言えず、リュゼリアが先に答えた。「少し、昔の話をしていただけよ」 ヴィルレオの目が、ほんの僅かに細まる。信じていないのがわかった。だがその場で追及はしない。「そうか」「ええ」「医師が薬を変える」 彼はそれだけを告げると、机の上の文箱へふと目を留めた。開かれたままの紙束。名前を書きつけた小さな短冊。そこにあるものが何か、彼がどこまで察したのかはわからない。 ただ、その視線が一瞬だけ鋭くなり、すぐ消えたことだけはアイダにもわかった。「準備はあとでいい」 ヴィルレオが言う。「休め」「……はい」 リュゼリアは穏やかに頷く。 その穏やかさが、いまはアイダには少しだけ恐ろしい。もうこの人は、ヴィルレオの前でもほとんど乱れない。乱れないまま、静かに本気で去ろうとしている。 アイダだけが、その本気を見てしまった。 見てしまったからこそ、もう後戻りはできない。南へついていき、この人の決意ごと支えるしかないのだと、涙の残る目でヴィルレオの横顔を見ながら、アイダは改めて悟った。     ◇ その夜、寝室の灯りが落とされたあとも、アイダはしばらく眠れなかった。 寝椅子へ横たわっても、まぶたの裏には昼間の光景ばかりが蘇る。文箱の紙。リュゼリアの静かな声。怖いのよ、と言ったあの一言。そして、去ろうって決まってしまったの、と零した時の、ひどく穏やかな顔。 泣いたのは自分だけだった。 奥様は泣かなかった。 それがどうしようもなく悲しかった。 たぶん、泣く段階すらもう過ぎてしまったのだろう。泣けば誰かに縋ってしまう。縋れば戻りたくなってしまう。だからあの人は、穏やかな顔を崩さず、静かに決めて、ひとつずつ整えていく。 それがどれほど強くて、どれほど痛ましいことか。 暗闇の中、アイダは
last updateLast Updated : 2026-07-20
Read more

第12話 さよなら、公爵家①

 出立の朝は、ひどく静かだった。 まだ夜の名残が空の底へ薄く沈み、東の端だけが水で溶いた銀のように明るみ始めたころ、ディルクレイド公爵家の屋敷ではすでにいくつもの灯りが入っていた。玄関ホールの燭台、厩舎へ続く回廊の壁灯、裏口の荷運び口に吊るされた小さなランプ。風は冷たいが、真冬のような刺す冷たさではない。春の手前で足踏みする季節特有の、湿り気を含んだ冷えだった。 庭の土は昨夜の露を吸い、まだ眠そうな匂いを立てている。薔薇の枝は黒く細く、葉のないまま朝を迎えていたが、先端にだけふくらんだ芽がいくつも見えた。あと少し、あとほんの少し暖かさが足りれば、彼らは迷いなく次の季節へ進むのだろう。 リュゼリアは窓辺に立ち、その庭を見ていた。 肩には淡い灰青のショール。身体を締めつけないやわらかな旅用のドレス。髪は飾りをほとんど使わず、後ろで低くまとめられている。鏡の中の自分を見たとき、あまりにも軽い姿だと思った。公爵夫人が旅立つにしては、身につけるものも少なすぎる。真珠の耳飾りひとつ。細い腕輪ひとつ。指には、公爵夫人としての家紋入りのリングだけ。婚礼の指輪は、結局屋敷に置いたままだ。 持っていく荷は最低限だった。 衣装箱は二つだけ。書物を入れた小箱が一つ。薬や身の回りのものをまとめた革鞄。刺繍道具の小さな包み。母からもらったレースのハンカチの束。少女時代から持っていた文箱の中から、どうしても手放せなかった紙片だけを抜き取って、薄い封筒に移し替えたもの。 それだけで、三年間暮らした公爵家を出るのだと思うと、奇妙な気分だった。 少なすぎる、と感じる一方で、これ以上持っていくべきものが何なのか、自分でもよくわからない。豪奢な夜会服も、季節ごとの扇も、来客用の装身具も、温室の記録帳も、屋敷内の細かな台帳も、何も持っていかない。公爵夫人として必要だったものの大半は、この屋敷に置いていくことにしたのだ。 それはつまり、自分がこの家に残していくものと、持ち出せるものの線引きでもあった。「奥様」 背後からアイダの声がする。「お体は、いかがですか」「……少し重いわ」 正直に答えると、アイダは寝台の上に用意していた薬湯を差し出した。「出立の前にもう一度、先生のお薬を」「ええ」 器を受け取る指先が、少しだけ冷えている。湯気の向こうに立つアイダの顔は、いつも通り整って
last updateLast Updated : 2026-07-21
Read more

第12話 さよなら、公爵家②

「おはよう、お母様」「ええ……おはよう」 母は笑おうとした。だがうまくいかず、目尻だけが先に濡れる。侯爵夫人としての体面もある。ここで取り乱せば屋敷じゅうの空気が崩れることもわかっている。だから、唇の端を少しだけ上げて、泣きそうなまま娘を見つめるしかない。 父は少し離れた位置に立ち、いつもより硬い顔で言った。「別邸の環境は整ったと聞いた。医師も信頼できる者だ」「ええ。旦那様がよく手配してくださいました」 その名前を口にすると、父の目の奥に何かが動く。娘の夫をどう受け止めるべきか、いまだ決めかねている顔だった。余命を告げられたあと急に娘へ執着を見せ始めた男。だが、その執着が嘘ではないことも、侯爵はこの数日で理解してしまったのだろう。「……無理はするな」 最終的に父が言えたのは、それだけだった。「はい」「言いたいことがあれば、何でも書状を送れ」「ええ」「どんなことでもだ」 その一言に、リュゼリアは少しだけ目を伏せた。どんなことでも。もし、自分が戻らぬ覚悟をさらに固めたとしても、という意味なのだろうか。そこまでは読み切れない。けれど父なりに、娘の決意の深さを感じ取っているのだとわかった。 母が手を強く握る。「寒かったらすぐお言いなさい。薬を飲んでも咳が続くなら我慢してはだめ。夜、眠れなかったら……」「お母様」 リュゼリアはやわらかく笑う。「ちゃんとします」 その言い方があまりにも昔と同じで、母の目からついに涙がこぼれた。けれど彼女はすぐ扇で顔を隠し、「困ったわね」とだけ小さく言った。     ◇ 玄関ホールには、最小限の荷がすでに運ばれていた。 革張りの小さなトランク二つ。衣装箱二つ。文箱を入れた細長い包み。薬箱。旅用の毛布。どれも大公爵家の女主人が長期の療養へ移るにしては少なすぎる。使用人たちもそれを見ているからこそ、なおさら胸騒ぎを覚えるのだろう。 リュゼリアはその荷へ目をやり、ほんの短く息をついた。 本当に少ないわね、と自分でも思う。 だがそれでいい。たくさん持っていけば戻ってくる前提になる。戻るつもりがないわけではない。それでも、戻ることを当然として荷を整える気にはなれなかった。 ホールの奥には、クラウスをはじめとした主要な使用人たちが控えていた。侍女頭。料理長。庭師。会計係。長く屋敷を支えてきた者たちの顔が並
last updateLast Updated : 2026-07-22
Read more

第12話 さよなら、公爵家③

 ホールの下でリュゼリアが「旦那様をお支えして」と言った時、ヴィルレオは胸の内側で何かが鈍く軋むのを感じた。 それは、妻が夫のために言う言葉ではない。 去っていく者が残る者へ向けて託す言葉だ。 なのに彼女は、そんな顔で微笑む。最後まで美しく、穏やかに、公爵夫人の形を崩さず。 そのことが、たまらなく腹立たしく、たまらなく痛い。「旦那様」 クラウスが階段の下から小さく呼ぶ。 ヴィルレオは一拍遅れて動き、ゆっくりと階段を下りた。 リュゼリアがその気配にようやく振り向く。淡い色の旅装に包まれたその姿は、華やかではない。だが余計なものを削ぎ落としたぶんだけ、かえってはっきりと目へ焼きつく。細く白い首。まとめた髪のうなじ。肩へ掛かった灰青のショール。少なすぎる荷物。これがこの屋敷を出る妻の姿なのだと、いまさら思い知らされる。「準備はできたか」 声は平静だった。少なくとも、自分ではそう思いたかった。「ええ」 リュゼリアもまた、何もなかったように答える。「では、出る」「はい」 たったそれだけ。 夫婦の最後の朝にしては、あまりにも簡素だった。 もちろん、本当に最後かどうかなどまだ誰にもわからない。療養へ向かうだけだ。そう言い張ることもできる。けれど、ホールに満ちる空気はもうその建前だけでは支えきれなくなっていた。 ヴィルレオは視線を少しだけ下げ、荷を見た。「……これだけか」 思わず口をついて出た。 リュゼリアは目を伏せるでもなく、ただ静かに答える。「十分でしょう」「足りない」「向こうで要るものは限られますもの」「それでも少なすぎる」「少ないほうが楽だわ」 その言い方に、ヴィルレオはそれ以上何も言えなくなった。 少ないほうが楽。 たしかに、病んだ身体で多くを運ぶのは負担だ。だから理屈では正しい。けれど今は、その正しさの奥にある別の意味が見えてしまう。 たくさん持っていけば、この家へ戻る前提になる。 彼女はそれを選ばなかった。「参りましょうか」 リュゼリアが言う。 その一言で、出立の時が本当に動き出した。     ◇ 玄関扉が開かれると、朝の冷たい空気が一気にホールへ流れ込んだ。 外では馬車が待っていた。大きすぎない、療養用に内部を柔らかく整えた馬車だ。窓には薄い布が二重に下ろされ、座席にはクッションと毛布が用意
last updateLast Updated : 2026-07-22
Read more

第12話 さよなら、公爵家④

 リュゼリアはほんの少しだけ目を細めた。泣きたいのか笑いたいのか、自分でもわからない顔になっただろう。「ええ。少し」 正直に答えると、ヴィルレオは自分の外套を外しかける。けれどリュゼリアは首を振った。「いりません」「だが」「ご自分がお風邪を召しては困ります」「そんな話を」「お願いします」 その言い方に、ヴィルレオは動きを止めた。彼の手の中で、外套の布地がかすかに軋む。「……わかった」 低い声。「向こうへ着いたら、すぐ書状を」「ええ」「医師の言うことを聞け」「はい」「無理はするな」「わかっています」「何かあれば、すぐに」 そこでヴィルレオの声がわずかに掠れた。言葉の続きが見つからないように、ほんの一拍だけ沈黙する。「……すぐに知らせろ」「ええ」 それが限界だったのだろう。 愛しているとも、行くなとも、離縁は認めないとも、この場では言えない。言えば壊れる。周囲の前で、夫婦としての最後の形すら失ってしまう。だから彼は、いつものように必要な言葉だけを差し出す。それしかできない。 リュゼリアはその不器用さを見つめた。そして、静かに頭を下げる。「行ってまいります、旦那様」 その呼び方が、胸へ痛いほど沁みた。 旦那様。 最初から最後まで、自分は彼をそう呼ぶのだろう。たとえ心の内で離れたいと願い、離縁を望んだとしても、この朝のかたちの中では、まだそう呼ぶしかない。 アイダが先に馬車へ乗り込み、内側から手を差し伸べる。リュゼリアは今度はそちらへ手を預け、ゆっくりと足を上げた。胸が少し苦しい。視界が揺れないよう気をつけながら、柔らかな座席へ身体を沈める。毛布の温かさと、革の匂いと、閉ざされた空間の静けさが一気に身を包んだ。 外で扉が閉じられる。 音は思ったよりも軽かった。 それだけで、ひどくはっきりと区切られた気がした。 窓の薄布越しに、外の輪郭がぼんやり見える。石段の前に立つヴィルレオの影。少し後ろに控える父母。頭を下げる使用人たち。玄関ホールの闇。すべてが薄い膜の向こうへ遠ざかっている。 馬車がまだ動かないうちに、リュゼリアはそっと窓の布を指先で持ち上げた。 外気が細く入り込む。 ヴィルレオがこちらを見ていた。 たぶん、自分も見ている。見てしまっている。もう彼の視線を追うまいと思っていたのに、最後の最後で、そ
last updateLast Updated : 2026-07-22
Read more

第13話 名前のない静けさ①

 朝の匂いが違った。 目を覚ました瞬間、リュゼリアはそれに気づいた。まだまぶたの裏に眠りの重さが残り、意識が水の底から浮かび上がる途中であるにもかかわらず、鼻先へ触れる空気の質だけが、ここがもう王都の公爵家ではないと静かに告げていた。 乾いた木の匂い。 昨夜焚かれた暖炉の灰に残る、ほのかな甘さを帯びた煙の気配。 窓のどこかから忍び込む、冷たくも湿りすぎていない朝の風。 そして、それらの底へ薄く沈んだ、湖の水の匂い。 王都の寝室にはなかった匂いだった。 あの屋敷の朝は、いつも磨き上げられた石と木蝋、洗いたてのリネン、遠い厨房から漂う焼いたパンの香り、季節ごとに取り替えられる花の匂いが層をなしていた。香りまで整えられた、抜け目のない貴族の屋敷の朝。そこでは目を覚ました瞬間から、公爵夫人としての一日がすでに始まっていた。 だが、いま鼻先へある朝は違う。 この空気は、誰かに見せるために整えられていない。 そのことが、まだ完全には目の覚めきらない心へ、妙に深く沈んだ。 リュゼリアはゆっくりまぶたを開く。 視界に入ったのは、見慣れた天蓋ではなかった。天井は低すぎず高すぎず、白く塗られた木の梁が朝の薄光の中でやわらかく浮いている。壁は淡い象牙色で、王都の寝室よりずっと素朴だった。けれど粗末ではない。窓辺のカーテンには細い刺繍が入り、寝台の頭側には小さな棚があり、そこに昨夜アイダが整えた水差しと薬瓶、読みかけの本がきちんと並んでいる。 ああ、着いたのだ、とようやく思い出す。 南の別邸。 湖のほとりの小さな館。 昨日、長い移動のあとの疲れと薬の効き目に沈むように眠ったはずの場所。 喉の奥に乾いた痛みが少しある。胸の深いところにも、鈍い重さが沈んでいる。けれど、王都の朝に感じていたような、目覚めた瞬間から何かに追い立てられる焦りはなかった。 時計はどこ、とリュゼリアは反射のように思い、それからすぐその考えが自分で可笑しくなる。 時計を見てどうするのだろう。 朝食の時刻に遅れることも、報告の時刻を気にすることも、食堂へ誰が先に座るかを考えることも、今日はたぶん必要ないのだ。 そのことがわかった途端、胸の奥に奇妙な空白が生まれた。 楽だ、と思うより先に、落ち着かない。 これまでずっと、朝にはやるべきことが先回りして自分の中を埋めていた。何を着
last updateLast Updated : 2026-07-23
Read more

第13話 名前のない静けさ②

 アイダはしばらく考えてから、そっと寝台脇の椅子へ腰を下ろした。「ずっとそうやって生きてこられたのですもの」「ええ」「急に“気にしなくてよろしいのです”と言われても、体も心もすぐにはわかりませんでしょう」 その言葉に、リュゼリアは目を伏せた。 そうなのだ。 気にしなくていいはずなのに、体はまだその許し方を知らない。朝の時刻、侍女たちの気配、誰かの足音、扉の開閉、食事の準備、屋敷の呼吸。そうしたものの機嫌を読んで動くことに、いつの間にか自分は慣れすぎていた。 それを失ってしまった朝は、自由というより、まず静かな眩暈に似ている。     ◇ 朝食は、王都の屋敷とはまるで違った。 別邸の侍女が運んできた銀盆の上には、温かな牛乳粥、柔らかく煮た林檎、薄く焼いた小さなパン、それに蜂蜜を少し垂らしたハーブ茶が載っていた。豪奢な銀器も、何種類も並ぶジャムも、彩りを競うような果実皿もない。だが窓辺の光の中で湯気を立てるそれらは、見ているだけで胃の奥が少しほぐれるような気がした。「こちらの台所では、朝はいつもこんなものなの?」 リュゼリアが匙を手に取りながら訊くと、アイダが答える。「ええ。旦那様のご指示もあり、今朝はさらに軽めにしております」「旦那様の」 その名が出た途端、リュゼリアの手がほんのわずかに止まる。「いらしているのね」「昨夜のうちに、隣の執務室へお部屋を移されました」 リュゼリアは静かに瞬きをした。 そういえば昨夜、到着してすぐ彼の姿を見た記憶が曖昧だ。馬車から降ろされるようにして館へ入り、熱と疲労で意識が揺れていたせいで、部屋へ運ばれたあと、医師の声やアイダの手の感触ばかりが断片的に残っている。「……そう」「早朝から医師と外の打ち合わせをされていました」 アイダはあえてそれ以上何も言わなかった。だが、その簡潔な報告の中に、ヴィルレオがここへ来てもなお公爵として動いていることと、同時に彼女のそばから離れる気もないことが滲んでいた。 リュゼリアは何も返さず、粥をひと匙すくった。 やわらかい温度が舌へ触れ、胃へ落ちていく。驚くほど穏やかな味だった。重くなく、薄すぎもせず、身体の内側へ静かに沈んでいく。王都では、病人用の食事もきちんと整えられすぎていて、どこか「用意されたもの」を食べている感じがあった。ここでは、その整い方がもっ
last updateLast Updated : 2026-07-23
Read more

第13話 名前のない静けさ③

パート3「……わたくし、ここで何をしていればよいのかしら」 窓の外を見たまま、リュゼリアはぽつりと零した。「何もなさらなくてよろしいのでございます」「それが一番難しいのよ」 アイダはその言葉に少しだけ笑い、すぐに真顔へ戻った。「でしたら、少しずつで」「少しずつ」「ええ。朝は起きて、お薬を飲んで、食べられるものを召し上がって、疲れたらお休みになる。気分がよろしければ少し本を開く。庭をご覧になる日もあってよい。何もしたくなければ、何もなさらない。それだけで十分でございます」 それだけで十分。 簡単なようでいて、ひどく難しい言葉だった。けれど、アイダがそれを本気で言っていることはよくわかる。「本当に、それでいいのかしら」「はい」「誰にも、迷惑ではない?」「迷惑ではございません」 その答えに、リュゼリアは少しだけ目を細めた。 これまでの自分なら、たぶんすぐに「でも」と続けていただろう。けれど、今日の朝は違った。いったんその言葉を飲み込み、静かに自分の中へ沈めてみる余裕があった。 迷惑ではない。 それを、そのまま信じてみてもいいのだろうか。     ◇ 昼前、医師が診察に訪れた。 南まで同行したクレメンス医師と、この館に普段から出入りしている土地の老医師だ。脈を取り、呼吸の音を聞き、移動の疲れが出ていないかを慎重に確かめる。長旅の翌日にしては熱も強く上がっておらず、食事も少し入ったことから、まずまず順調といえた。「ただ、今日はまだ外気へ長く当たってはいけません」 クレメンス医師が言う。「館の中を少し歩く程度は構いませんが、すぐお休みを」「ええ」「無理は禁物です。王都を出たから急に治るわけではございません」「わかっております」 その会話の端々で、リュゼリアは自分がようやく“患者”として扱われていることを感じた。王都でも病人として扱われてはいたが、あそこではどうしても公爵夫人という役目が先に立った。医師ですら、彼女の体だけでなく、立場や家の空気を同時に診ていた気がする。 ここでは、それが薄い。 もちろんヴィルレオの館である以上、完全に外れることはない。だが少なくとも、この土地の医師の前で自分は「大公爵家の奥方」ではなく、「肺を悪くした女」として先に見られている。そのことに、妙な楽さがあった。 診察が終わるころ、扉の外
last updateLast Updated : 2026-07-23
Read more

第13話 名前のない静けさ④

 朝から誰の顔色も窺わずに済んだ。起きる時間を気にせず、朝食を誰かと比べることなく、報告の時刻に追われることもなく、ただ自分の身体の重さと会話していればよかった。そのことが楽なのは確かだった。なのに、楽であることの隣に、ぽっかりと大きなものが抜けたような寂しさがある。 それは公爵家を離れたことの寂しさか。 それとも、朝のうち一度もヴィルレオとまともに言葉を交わしていないことの寂しさなのか。 そこまで考えて、リュゼリアは唇を噛みたくなった。 結局、自分はまだこの人のことを考えてしまうのだ。 館の空気はこんなにも軽いのに、心だけが完全には自由になっていない。「……奥様?」 アイダがそっと呼ぶ。「どうかされましたか」「いいえ」 リュゼリアは少しだけ首を振る。「ただ、静かすぎて」「はい」「静かすぎると、自分の心の音ばかり聞こえるのね」 アイダはすぐには答えなかった。おそらく、その意味を考えていたのだろう。「王都では、ずっと外の音のほうが大きうございましたから」「そうね」「こちらでは、そのぶん、ご自分のお心まで聞こえてしまうのでしょう」 その言葉が妙に正しくて、リュゼリアは目を伏せた。 聞こえてしまう。 自分が本当に寂しいことも、自由を喜びきれていないことも、ヴィルレオをまだ心のどこかで待っている自分がいることも。 全部、聞こえてしまう。     ◇ 夕方近く、リュゼリアは初めて少しだけ眠った。 長椅子へ身を横たえ、窓から差すやわらかな光の中で、本を開いたまま浅く目を閉じていたら、そのまま眠りへ落ちていたらしい。目が覚めた時、窓の外は少し橙を帯び、湖の光も朝とは違う低い色になっていた。 胸の痛みはまだある。だが、朝よりは呼吸がしやすかった。 そして、妙な驚きがあった。 眠れるのだ、と。 王都では昼間にこうして眠ることはほとんどなかった。眠ろうとしても、何かに遅れる気がして体が強ばってしまったし、仮に浅く目を閉じても誰かの出入りや書類のことが頭のどこかで引っかかり、完全には沈めなかった。 ここでは、少なくとも今日の午後には、それができた。 名前のない静けさが、自分を少しだけ眠らせたのだ。 その事実が、ひどく小さな救いに思えた。「……起きたか」 低い声に、リュゼリアははっと目を開いた。 いつの間に来たのか、ヴィ
last updateLast Updated : 2026-07-24
Read more
PREV
1
...
56789
...
15
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status