Alle Kapitel von 姉上の代わりに嫁いだ私を、辺境伯は最初から見抜いていた: Kapitel 121 – Kapitel 130

130 Kapitel

第26話 王都への招待状③

 オルフィーヌの顔が脳裏に浮かぶ。あの姉はきっと、失意に沈んだ顔などしない。捨てられたのだとしても、それを自分の被害と美しさへ塗り替え、辺境伯夫人の座を取り戻せると本気で信じているだろう。その高慢さを、母はきっと都合よく使う。父はそれを外聞の筋へ整える。 怖い、と思う。 王都へ戻ること自体が怖い。あの家の空気へ、あの姉の視線へ、あの磨かれた床の上へもう一度立つことが。しかも今回は、ただの伯爵令嬢ではない。辺境伯夫人として。しかも本物か偽物かを見定めようとする目が、最初からそこかしこにある夜会へ。「無理に行く必要はない」 ゼルヴァンが言う。 「逃げることもできる」 その一言は、やさしい。だが甘やかしではない。できる、とだけ言う。そのうえで、どうするかをこちらへ返す。 セレフィアは視線を落とした。膝の上へ重ねた手が、少しだけ熱い。客間でも温室でもなく、執務室のこの緊張の中で、自分の心がどちらへ傾くかをたしかめなければならない。 逃げることは、できる。 王命からの傷を最小限にして、王都の舞踏会を避ける道は、ゼルヴァンがきっと本当に作ってくれる。彼はそういう人だ。言葉より先に手を打ち、足りぬ時は道をあける人。だから、その逃げ道は甘い嘘ではなく、本当に現実の形を持つだろう。 けれど、その道へ身を滑らせた時、自分は何から逃げるのだろう。 王都の姉からか。実家からか。外聞からか。 それとも、自分の人生を自分で取り返す機会そのものからか。 その考えが胸へ浮かんだ瞬間、セレフィアの中で何かが、ひどく静かに定まる気配がした。 王都へ戻るのは怖い。 けれどいま、逃げ道を使ってやり過ごせば、たぶんこの先もずっと同じことを繰り返す。父母が何かを決め、姉が奪い、世間が噂し、そのたび自分は安全なところへ引っ込んで待つ。そうして選ばないまま、気づけばまた誰かの都合で次の場所へ押しやられる。 それだけは、もう嫌だった。 温室でゼルヴァンに言ったではないか。逃げるのをやめたい、と。 ならば、この王命はたぶん、その言葉の重さを試すために来たのだ。 セレフィアはゆっくり息を吸った。暖炉の火の匂いがする。北辺の石壁の冷たさと、紙の乾いた匂いもする。王都ではない。この部屋には、この土地の匂いがある。そしてその中で、自分は春までのあいだ、自分の意志を持つことを少しずつ教わ
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-03
Mehr lesen

第26話 王都への招待状④

 ゼルヴァンは、しばらく黙ってから問うた。「それで」 低い声。「お前はどうしたい」 最後の問い。決めるのは、こちら。 セレフィアは、自分の両手を見た。もう昔のように、ただ強く握り潰すだけではない。怖い時、少しずつ開くことも覚えた。温室で逃げるのをやめたいと言った時も、雪夜の小屋で彼を恐れていないと知った時も、名前で呼ばれて胸が揺れた時も、同じ手だった。 この手で、自分の人生を選ばなければならない。 ならば、答えはもう決まっている。「……行きます」 はっきりと、そう言った。 言葉は意外なほど静かだった。叫ぶような決意でも、震える告白でもない。ただ、胸のいちばん深いところに落ちていた石を、そのまま掬い上げて机の上へ置くみたいに、まっすぐな声だった。 ゼルヴァンの目が、わずかに細くなる。 ネリサが息をつく音が、すぐ近くでかすかに聞こえた。安堵なのか、覚悟を見た時の静かな受け止めなのかはわからない。バルタザルは相変わらず姿勢を崩さない。けれどその目元に、ほんの少しだけあたたかいものが差した気がした。「王都へ行きます」  セレフィアはもう一度言う。 「怖いです。でも……」  言葉を切り、ゼルヴァンを見る。 「今度こそ、自分の人生を他人に決めさせたくありません」 その一言に、ゼルヴァンはゆっくり頷いた。「わかった」 たったそれだけだ。けれどそこには、軽さがなかった。覚悟を受け取る人の返事だった。「なら、行く」  彼は淡々と続ける。 「ただし、王都で何が起きても、お前が一人で受ける必要はない」 セレフィアの胸が、静かに鳴る。「舞踏会は俺とお前で出る」  彼は言った。 「お前が決めて出るなら、俺もそれに合わせて動く」 それは甘い言葉ではない。けれどそれ以上の支えだった。隣に立つ、という意味を、彼はいつもこういうふうに実務の言葉で言う。 バルタザルがすぐに動く。「では、王都行きの準備を二通りで整え直しましょう」  彼は机の上へ新しい紙を引き寄せる。 「通常の舞踏会支度と、伯爵家からの接触を想定した裏動線を両方」  視線をネリサへ向ける。 「奥方様のお衣装は、王都で見劣りせず、なおかつ辺境伯夫人としての格を損なわぬものを。過度に華やかすぎる必要はありません」 「承知いたしました」  ネリサは即座に応じる。 「伯
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-04
Mehr lesen

第27話 王都への道①

 王都へ向かう馬車は、まだ夜の冷えを残した朝に城門を出た。 北辺の空は白かった。雪が降る白ではない。春の手前で、雲も光もまだ色を決めきれない時の白だ。高いところに薄くひろがった雲の向こうに陽はあるのに、その光は地上へ届く前にどこかで拡散し、山の輪郭も、城壁の石の色も、やわらかく曖昧にしている。だが空気そのものは鋭い。息を吸えば肺の内側へ冷えが入る。馬の吐く息はまだ濃く白く、轍の残る道の端には、冬が置き忘れていった灰色の雪が薄くこびりついていた。 城門の前には、必要な人数だけが並んでいた。 バルタザル、ネリサ、ミレナ、それから数人の騎士と従者。見送りは簡素だった。王都へ向かうといっても、これは華やかな旅立ちではない。春の舞踏会への出席。王命。王都の実家と姉が必ず何かを仕掛けてくるとわかっている行き道。誰も大げさな言葉は言わない。ただ手落ちのないよう整えられた荷と、時間と、動線だけがそこにある。「王都での滞在先には、すでに先触れが入っております」  バルタザルは馬車の扉のそばでそう告げた。 「旧屋敷の者には、伯爵家からの直接の使いをすべて表で止めるよう申しつけてあります」「わかった」  ゼルヴァンは短く答える。「舞踏会前に一度、王都の動きを洗い直します」  バルタザルはさらに低く続ける。 「お姉君がどう動いているかも」 その一言に、セレフィアの胸の内側がわずかに冷たくなる。オルフィーヌ。恋人に捨てられ、それでも高慢さを少しも失わず、辺境伯夫人の座を取り戻せると本気で思っている姉。王都の空気の中で、あの姉がどんな顔をして立っているのかを想像するだけで、まだ胸の奥へ古い痛みが戻る。「奥方様」 ネリサが一歩近づいた。 人前だ。だから呼び名はそうなる。けれど目は、きちんとセレフィアを見ている。「寒さはまだ残ります。道中で眠れぬようでしたら、すぐお申しつけを」  彼女は言う。 「馬車用のお茶は、手の届くところへ入れてございます」「ありがとう」「それから」  ネリサはごくわずかに声を落とした。 「王都の空気は、北辺と違う冷え方をいたします。お気をつけて」 その言い方が、あまりにも的確だった。 王都の冷えは石畳や風だけではない。視線と噂と、外聞が人へまとわりつく種類の冷えだ。ネリサはそれをよくわかっている。だからこそ、あえて“空気”と
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-05
Mehr lesen

第27話 王都への道②

 違うはずなのに、馬車が動き出した瞬間、身体の奥に古い緊張がひとつ戻ってくるのを止められなかった。 窓の外では、城壁がゆっくりと遠ざかる。見慣れた回廊の影、訓練場の石、保温室の小さな窓、乾燥庫の外壁。ここ数か月で、セレフィアはこの城の中に少しずつ自分の居場所を作ってきた。薬草茶の湯気。毛布の色糸。衝立の位置。市場で見た暮らし。温室で言った「逃げるのをやめたい」という言葉。その全部を置いて、いままた王都へ向かう。 胸のどこかが、きゅうと縮む。「寒いか」 向かいに座るゼルヴァンが、窓の外から視線を戻して訊いた。「……少しだけ」 正直にそう答える。実際、車内は暖かい。座席の下へ湯たんぽも入れられているし、ネリサが用意した毛織のひざ掛けも膝へかかっている。だから寒いのは体というより、もっと別の場所なのだろう。 ゼルヴァンはそれ以上問わなかった。ただ、脇の小卓へ置かれていた茶の壺をひとつ手に取り、セレフィアのほうへ寄せる。喉をやわらげるための薄い薬草茶だ。香りは強くない。けれど湯気が立つだけで、車内の空気がほんの少し柔らかくなる。「飲んでおけ」  低い声。 「最初のうちは道が揺れる」「ありがとう」 そう言って杯を持つ。手の中へ熱が移る。その熱を感じながら、セレフィアは窓の外へもう一度目をやった。 朝の白さの中を、馬車はゆっくり進んでいく。城下を抜け、まだ冬の名残を抱く畑の間を抜ける。人家の煙は細く、羊の群れは遠く、橋の板は乾いて見えても、影のところだけまだ白い。これが王都への道だ。春の舞踏会へ向かう道であり、実家と姉のいる場所へ戻る道でもある。 自分で選んだのだ、とセレフィアは心の中で言い聞かせる。 逃げることもできた。けれど行くと決めた。誰にも決めさせたくなかったから。もう自分の人生を、他人の都合へ明け渡したくなかったから。 そう決めたはずなのに、馬車の車輪が北辺の城を遠ざけるたび、緊張は少しずつ体へ入ってくる。昼になり、夕方になり、最初の宿駅へ着いた頃には、セレフィアの手は自分でも気づかぬうちに少し冷えていた。     * 最初の夜は、宿駅に付属した小さな離れで取ることになった。 辺境伯家が使う部屋としては飾り気が少ないが、必要なものは足りている。厚手の寝台、暖炉、湯、洗面台、簡単な食事。王都へ向かう道筋の宿らしく、贅沢ではないが清
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-06
Mehr lesen

第27話 王都への道③

 気づけば何度も寝返りを打っていた。シーツの擦れる音が、小さな部屋ではやけに大きく響く。暖炉の火は弱められている。窓の外には風の音はない。だからこそ、自分の呼吸の浅さだけがひどくはっきりわかる。 やがて、扉の向こうでほんのわずかな気配がした。 ノックはない。だが廊下側の小さな居間に、まだ誰かが起きているのだとわかる。ゼルヴァンだろう。道中の夜は、いつもよりさらに浅く眠る人なのだと、夕方バルタザルが小さく言っていた。土地勘のない場所ではなおさらだと。 セレフィアは、寝台の中でそっと息を吐いた。 呼ぶべきだろうか。 ネリサでも、ミレナでもなく、今ここにいるのはゼルヴァンだけだ。もし眠れないのなら、消える前に誰かに言え、と彼は温室で言った。俺でもいい、と。 その言葉を思い出すたび、胸の奥があたたかくも、痛くもなる。だが、夜更けに眠れないからといって扉を開けるのは、まだためらわれた。彼は自分の部屋ではなく、道中の警戒のため起きているのだ。そこへさらに自分の不安まで持ち込むのは、あまりに幼い気がした。 そうして迷っているうちに、寝台の中の手が、ひどく冷たくなっていることに気づく。 部屋は寒くない。毛布も足りている。なのに、胸の中が落ち着かぬ時、手だけが先に冷えるのだと、セレフィアは前にも何度か経験していた。温室へ逃げ込んだ時もそうだった。客間で王都からの手紙を聞いた時も。心の冷えが、末端へ先に出るのだろうか。 とうとう眠りを諦めて、セレフィアはそっと起き上がった。 肩へショールを引き寄せ、足音を立てぬようにして寝室の扉へ向かう。そこを開ければ、小さな居間があり、その向こうに外廊下へ通じる扉がある。その居間に、人の気配がある。 扉を細く開くと、暖炉の火の落ちた橙色の明かりが、薄暗い居間を照らしていた。 ゼルヴァンは窓際の椅子に座っていた。灯りは最小限。机の上には読みかけの書類が数枚と、湯の冷めかけたカップ。だが彼自身は書類を見ていなかったらしい。扉の小さな音だけで顔を上げ、そのままセレフィアを見る。「どうした」 低く短い声。 セレフィアはその一言だけで、自分の喉が少しつまるのを感じた。彼はもう、自分が眠れていないことをほぼ察している。だから説明も責めもしない。まずどうしたとだけ聞く。「……眠れなくて」  正直にそう言う。 ゼルヴァンはすぐに
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-09
Mehr lesen

第27話 王都への道④

 彼の手は、熱いわけではなかった。けれど冷えていない。乾いたあたたかさがある。大きく、骨ばっていて、しっかりしている。その手が、黙ってセレフィアの指先を包む。強く握り込むのではない。ただ、冷えた手がそこから逃げぬよう、両側から支えるみたいに包む。 その瞬間、セレフィアの胸の奥で何かがひどくやわらかく崩れた。 恥ずかしい、と思うより先に、あたたかい、と思った。 そして次の瞬間には、その近さと静けさと、あまりに当然のような手つきとで、心臓が急に早くなる。息が浅くなりそうになるのを、どうにか堪える。「まだ冷たいな」  ゼルヴァンが、ごく低く言う。 まるで、それがいま一番大事な確認であるみたいに。 王都の舞踏会でも、姉でも、実家でもなく。まず手の冷たさを確かめる。それが彼なのだ、とセレフィアはあらためて思う。大きなことの前に、いま目の前の人の冷えを見ている。「すみません」  とっさにそう言ってしまう。 ゼルヴァンの眉がわずかに寄る。「謝るな」 短い。だがいつもより少しだけ硬い。「……はい」 セレフィアは素直に頷いた。彼の手の中で、自分の指先が少しずつ感覚を取り戻していくのがわかる。それと同時に、胸の奥もじわじわ熱を持つ。こんなふうに手を包まれることが、どれほど深く自分を揺らすのかを、ゼルヴァンはたぶん知らない。 彼はしばらく何も言わず、そのまま手を包んでいた。火の落ちた暖炉の気配、外廊下の向こうで鳴る風のない静けさ、夜更けの宿の眠った空気。その中で、彼の手の温度だけが確かだった。 やがて、低い声が落ちる。「君を一人では立たせない」 その言葉は、どんな愛の言葉よりも深く、まっすぐにセレフィアの胸へ入った。 愛しているでも、守るでもない。君を一人では立たせない。 それは甘い囁きではない。けれどいまの彼女にとって、それ以上に欲しかった言葉だった。王都の舞踏会の中央に立つ時も、実家と姉の前へ出る時も、自分の人生を自分で選ぶために一歩を踏み出す時も、ひとりでは立たせない。 その約束は、誓いのようでいて、彼らしい実務の言葉でもある。隣に立つ。支える。必要な時には手を打つ。そういう人が言うから、余計な飾りがなく、信じられる。 セレフィアは喉の奥が熱くなり、目を伏せた。泣きそうなのではない。けれど、その一言を受け取る場所が胸のいちばん深いところ
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-10
Mehr lesen

第28話 社交界の光と毒①

 王都の夜は、いつだって光りすぎる。 辺境の城にも灯りはある。暖炉の火も、廊下の燭台も、書庫の机に落ちる細い明かりも。けれどそれらは、人が寒さを越え、足元を見失わぬために置かれている光だ。必要なぶんだけを照らし、熱を伴い、闇をすべて消そうとはしない。 王都の灯りは違う。 闇を消すためではなく、誰かを見せるために燃えている。 王宮の舞踏会場へ続く長い回廊を歩きながら、セレフィアはその違いを、皮膚の上でひりひりと感じていた。 壁という壁に磨き上げられた燭台が並び、無数の火が金の装飾へ映って、さらに光を増やしている。床は鏡のように磨かれ、絹の裾も靴の先も、すべてそこへ薄く二重に映る。天井画の青と金は夜の中でも褪せず、香が焚かれているのか、空気は花と粉香と酒の匂いで薄く甘い。だがその甘さは、安心をくれるものではなかった。むしろ、呼吸を浅くする種類の甘さだ。 王都へ入ってから二日目。 辺境伯家の旧屋敷へ落ち着き、舞踏会用の支度を整え、伯爵家からの使いをバルタザルがすべて表で止め続けてきた。そのあいだもセレフィアは、王都の空気が少しずつ自分の呼吸を変えていくのを感じていた。道を行く馬車の音、人々の視線の滑り方、遠くからでも漂ってくる香水の濃さ。北辺でほどけはじめていた胸のあたりが、こちらへ来るとまた無意識に細くなる。 そしていま、王宮の舞踏会場へ近づくほど、その浅さははっきりしていった。 息が、浅い。 自分でわかる。胸の上のほうだけが小さく上下し、深く吸う前に次の息が来る。喉の奥が少し乾き、肩が知らぬうちに上がる。王都を離れる前の自分が、どんなふうにこういう場所をやり過ごしていたのか、身体はまだ覚えているのだろう。笑う角度。視線の落とし方。余計な感情を見せぬための首筋の硬さ。そういうものが、舞踏会場の手前まで来ただけで戻ってくる。 けれど、以前と違うこともある。 いま、セレフィアは一人ではなかった。 隣にゼルヴァンがいる。 彼はいつもの濃い色の軍装に近い礼装を纏っていた。王都の貴族たちのように飾り立ててはいない。だが黒に近い濃紺の布は質がよく、肩の線は無駄なく整い、胸元の金具も必要な分だけが静かに光る。左眉尻からこめかみへ走る薄い古傷が、王都の過剰なきらめきの中では、逆にこの人の輪郭を際立たせて見せていた。 彼は何も言わない。 だが歩幅を、ほん
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-12
Mehr lesen

第28話 社交界の光と毒②

 視線はたしかに多かった。だがその多くは、一瞬で価値を測ろうとする王都らしい視線だ。ドレス、立ち方、顔立ち、年齢、並ぶ男の態度。ひととおりをなめるように見て、噂へ使えそうな箇所だけを拾っていく視線。 セレフィアの今日の装いは、ネリサが王都へ入る前から決めていたものだった。 辺境伯夫人としての格を損なわず、だが伯爵家の娘らしい甘さへは戻さない。深い緑に銀灰を重ねた色。胸元の飾りは控えめで、刺繍は細かいが過度に華やかではない。王都の流行りを知っている者なら「遅れてはいない」とわかり、同時に「媚びてはいない」ともわかる線。辺境の色でありながら、この場に埋もれないよう整えられた一着だった。 ドレスの重みを肩に感じながら、セレフィアは一歩ずつ会場の中央へ進む。 その途中で、すれ違う貴婦人たちの囁きが薄く耳に入った。「辺境伯の……」「まあ、思ったより」「姉君のほうでは……」「本当に?」 断片だけ。だが十分だ。王都では噂はいつも、こうして半分の形で空気へ浮いている。何も知らぬふりをしながら、皆がすでに何かを知っている顔をしている。 そして、会場の中央近くまで進んだ時だった。 人垣の向こうで、一つの色が、妙に鮮やかに目へ刺さる。 淡い真珠色の絹。 あれほど多くのドレスがあるのに、その色だけがなぜか不自然なくらい目につく。光を反射しすぎるわけでもなく、地味すぎるわけでもない。ただ「見て」と言わぬ顔で、見られる位置へきちんと立っている色。 オルフィーヌだった。 姉は、ひどく美しく整えられていた。 王都の社交界へ戻った令嬢として、これ以上ないほどに。髪は丁寧に巻かれ、真珠と小さな透明石を散らした飾りが光を細かく弾く。首筋は白く、肩の線は薄絹越しに繊細だ。恋人に捨てられた女の陰は、少なくとも表面には一つも見えない。むしろその失意さえ、憂いの美しさへ塗り替えてしまった顔だった。 けれどセレフィアには、その目の奥にあるものがわかった。 高慢さだ。 失ってなお、自分が本来あるべき場所を取り戻せると信じている女の目。捨てられたのではない。世界の側が間違えただけだと、本気で思っている人間の目。 オルフィーヌは、セレフィアを見つけた瞬間に、ほんの少しだけ笑った。 姉妹だけに通じる、あの笑いだった。社交界の誰も見れば優雅な微笑みだと思うだろう。だがセレフィアに
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-14
Mehr lesen

第28話 社交界の光と毒③

 伯爵夫人がそこで、自然すぎるほど自然に話へ入った。「まあ、本当に」  母は扇をほんの少しだけ広げ、周囲の貴婦人たちへも聞こえる絶妙な声量で言う。 「辺境のお勤めは大変でしょうに、こうして春の舞踏会まで連れてきていただけるなんて、セレフィアも幸せね」 連れてきていただける。 その言い方だけで十分だった。 辺境伯夫妻として出席しているはずの自分を、たった一言で“ついてきた妹”へ引き下げる。主体ではなく、同伴させてもらった哀れな娘へ。伯爵夫人らしい、見事な毒だった。 周囲の耳が、またわずかにこちらを向くのがわかる。 父も続いた。「もともと、セレフィアは内向きな娘でしてな」  口調は穏やかだ。 「華やかな場は苦手ですから、こうして外へ出してやっているのを見ると、家族としてもありがたい限りです」 家族として。 ありがたい限り。 それらもまた、同じ毒の別のかたちだった。辺境伯夫人として立つ人間ではなく、扱いに困る娘を善意で外へ連れ出してもらっている、とそう聞こえるよう整えられた言葉。 セレフィアは、自分の呼吸がまた浅く細くなっていくのを感じた。 昔の自分なら、この場で小さく笑って頷いただろう。母の言葉を補強し、父の言葉へ礼を言い、姉のほうが本来ふさわしいのだという空気を、自分でさらに整えてしまっていたかもしれない。そうすることに慣れていたからだ。 けれどいまは違う。 違うはずなのに、身体のどこかはまだ昔のまま反応する。胸の上のほうだけが動く。喉が乾く。手のひらへわずかに汗がにじむ。王都の光と香水と視線が、そういう古い習慣を呼び起こす。 そしてオルフィーヌは、とどめを刺すように笑った。「でも」  彼女は、まるで姉妹の冗談を言うみたいな軽さで、けれど周囲へきちんと届くように言う。 「辺境伯夫人の座は、もともと私のものになるはずだったのですものね。人生って、本当に何が起こるかわからないわ」 その一言に、空気がひどく薄くなる。 露骨に奪い返すとは言っていない。けれどほのめかしとしては十分すぎた。もともと自分のものだった、と姉は言ったのだ。この場で。王都の視線が集まる舞踏会の中央近くで。 伯爵夫人はそれを咎めない。むしろ扇の陰へ唇を隠し、困ったような、けれどどこか哀れむような顔を作る。父もまた、あえて何も言わない。否定しないことそのも
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-15
Mehr lesen

第28話 社交界の光と毒④

「私は、ついてきただけではありません」  喉の奥はまだ乾いている。だが言葉は止まらない。 「王命による舞踏会への出席を、自分で選びました」 会場の光が、やけに白く見える。 母の目が細くなり、父の表情がわずかに動く。オルフィーヌだけが、信じがたいものを見るような目をした。セレフィアが、王都の舞踏会の真ん中で、自分の意志を口にするとは思っていなかったのだろう。「まあ」  母はすぐに笑みを作り直す。 「そう。辺境は、あなたにずいぶん自信をつけてくださったのね」 その言い方は褒めているようでいて、やはり毒だ。北辺が与えた借り物の自信。自分自身の成長ではなく、外から付け足された強がり。 だがセレフィアは、もうそこで俯かなかった。「ええ」  とだけ答える。 「多くを教えていただきました」 それは皮肉ではなかった。真実だった。だからこそ、母は返し方を一瞬だけ失う。 オルフィーヌの笑みが、今度ははっきり揺らぐ。「ずいぶんと」  姉は低く言った。 「辺境の空気に染まったのね」 その言葉には、侮りと苛立ちが混ざっていた。まるで“そんなふうになるはずではなかった”とでも言うように。 セレフィアは、その一言を胸へ受けながら、けれど逃げなかった。 辺境の空気に染まった。 たしかにそうかもしれない。人を生かすための知恵。小さな改革。名前で呼ばれることの甘さ。待ってくれる沈黙。言葉より先に手を打つやさしさ。君を一人では立たせない、という声。そういうものに触れて、自分は少しずつ変わってきたのだ。 ならば、それを侮りとして投げつけられても、もう恥だとは思わない。 ただ、その時。 ゼルヴァンが、ほんのわずかにだけ、セレフィアの立つ位置へ寄った。 誰にもわからぬ程度の距離だ。だがセレフィアには、その半歩が何よりも強く感じられた。人前で大仰に庇うのではなく、ただ“ここに立っていい”と示す半歩。 伯爵夫妻も、オルフィーヌも、その意味に気づいたのだろう。母の扇がわずかに止まり、父の目が一瞬だけゼルヴァンの足元へ落ちる。オルフィーヌは笑みを保ったまま、しかしその目の奥へ冷たいものを濃くした。 王都の光は、相変わらず過剰にきらめいている。 香水は甘く、視線は薄く毒を含み、音楽は何も知らぬふりで流れ続ける。 そのど真ん中で、セレフィアの呼吸はまだ浅い。けれ
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-16
Mehr lesen
ZURÜCK
1
...
8910111213
CODE SCANNEN, UM IN DER APP ZU LESEN
DMCA.com Protection Status