オルフィーヌの顔が脳裏に浮かぶ。あの姉はきっと、失意に沈んだ顔などしない。捨てられたのだとしても、それを自分の被害と美しさへ塗り替え、辺境伯夫人の座を取り戻せると本気で信じているだろう。その高慢さを、母はきっと都合よく使う。父はそれを外聞の筋へ整える。 怖い、と思う。 王都へ戻ること自体が怖い。あの家の空気へ、あの姉の視線へ、あの磨かれた床の上へもう一度立つことが。しかも今回は、ただの伯爵令嬢ではない。辺境伯夫人として。しかも本物か偽物かを見定めようとする目が、最初からそこかしこにある夜会へ。「無理に行く必要はない」 ゼルヴァンが言う。 「逃げることもできる」 その一言は、やさしい。だが甘やかしではない。できる、とだけ言う。そのうえで、どうするかをこちらへ返す。 セレフィアは視線を落とした。膝の上へ重ねた手が、少しだけ熱い。客間でも温室でもなく、執務室のこの緊張の中で、自分の心がどちらへ傾くかをたしかめなければならない。 逃げることは、できる。 王命からの傷を最小限にして、王都の舞踏会を避ける道は、ゼルヴァンがきっと本当に作ってくれる。彼はそういう人だ。言葉より先に手を打ち、足りぬ時は道をあける人。だから、その逃げ道は甘い嘘ではなく、本当に現実の形を持つだろう。 けれど、その道へ身を滑らせた時、自分は何から逃げるのだろう。 王都の姉からか。実家からか。外聞からか。 それとも、自分の人生を自分で取り返す機会そのものからか。 その考えが胸へ浮かんだ瞬間、セレフィアの中で何かが、ひどく静かに定まる気配がした。 王都へ戻るのは怖い。 けれどいま、逃げ道を使ってやり過ごせば、たぶんこの先もずっと同じことを繰り返す。父母が何かを決め、姉が奪い、世間が噂し、そのたび自分は安全なところへ引っ込んで待つ。そうして選ばないまま、気づけばまた誰かの都合で次の場所へ押しやられる。 それだけは、もう嫌だった。 温室でゼルヴァンに言ったではないか。逃げるのをやめたい、と。 ならば、この王命はたぶん、その言葉の重さを試すために来たのだ。 セレフィアはゆっくり息を吸った。暖炉の火の匂いがする。北辺の石壁の冷たさと、紙の乾いた匂いもする。王都ではない。この部屋には、この土地の匂いがある。そしてその中で、自分は春までのあいだ、自分の意志を持つことを少しずつ教わ
Zuletzt aktualisiert : 2026-09-03 Mehr lesen