Alle Kapitel von 姉上の代わりに嫁いだ私を、辺境伯は最初から見抜いていた: Kapitel 111 – Kapitel 120

130 Kapitel

第24話 逃げたくない①

 書庫でもなく、客間でもなく、そこへ行こうと決めた時、セレフィアはほとんど息をするように廊下を曲がっていた。 逃げたのだ、と自分でもわかっていた。 誰に、と問われれば、はっきりとは答えられない。ゼルヴァンから逃げたのか。自分の胸の中で膨れあがりすぎた気持ちから逃げたのか。あるいは、文字の癖ひとつから手紙の向こうにいた自分まで見抜いていた彼の目から、これ以上何かを知られてしまう前に、息を整えたかったのか。 たぶん、その全部だった。 あのあと客間へ戻ってからも、机の上の紙はずっと視界にあった。走り書きの残る一枚。余白の置き方。行の流れ。筆圧の抜き方。婚約中の手紙と同じだと、ゼルヴァンはそう言った。 最初は代筆かと思った。 でも、ただの代筆にしては文の返り方が深すぎた。 だから、無いことにはしなかった。 だから、覚えていた。 言葉の一つひとつが胸の奥に残りすぎて、まともに呼吸ができなくなる。嬉しい。恥ずかしい。知られていたことが、もう恐怖だけではなくなっている。むしろ救いに近いものへ変わってしまったことが、ひどく怖い。 それはもう、後戻りのできない変化だった。 このまま客間にいて、ミレナが茶を淹れ、ネリサが灯りを見て、バルタザルが帳面を運んで、いつものように夜へ入っていけば、きっと自分は何もなかったふりをしてしまうだろう。胸が苦しいのに、きちんと笑って、いつものように頷いて、気持ちが落ち着くのを待ってしまう。 けれど今日は、それをしたくなかった。 いや、できなかった。 逃げたくない気持ちが、もう胸いっぱいにあふれそうになっていたからだ。 だからこそ、いったん逃げた。 矛盾している、とセレフィアは思う。逃げたくないから逃げるなんて。だがいまの彼女には、その矛盾ごと抱えて走るしかなかった。 温室は、城の南の端にある。 冬の盛りにもかろうじて青を絶やさぬための、小さなガラスの部屋だ。市場へ下りた時、ネリサが「春が進めば、ここも少しずつ役目が変わります」と言っていた。いまはまだ本格的な花の季節ではない。けれど薬草と、寒さに強い葉ものと、育ちの遅い苗を守るための場所として、静かに息をしている。 扉を開けると、むっとするほどではない、やわらかな湿り気が肌へ触れた。 外の冷えを長く吸っていた頬と指先が、その違いに一瞬だけ戸惑う。温室の空気はあた
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-08-26
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第24話 逃げたくない②

 それを思った瞬間、胸がまたひどく乱れた。「……申し訳ありません」  セレフィアは立ち上がろうとして、うまく足に力が入らず、結局ベンチの前で半端に止まった。 「少し、頭を冷やしたくて」「そうか」 ゼルヴァンはそれだけ言い、すぐには近づいてこなかった。 それが、セレフィアにはまず救いだった。 追ってきたからといって、問い詰めるわけではない。無理に答えを求めるわけでもない。扉のそばで立ち止まり、こちらの様子を見ている。その距離が、温室の湿った空気の中でかえってよくわかる。「ミレナが心配していた」  彼は淡々と続ける。 「お前が紙を出しっぱなしで、灯りもそのままにしていたと」 セレフィアは目を伏せた。たしかにそうだった。机の上も、紙も、途中のまま。いつもの自分なら、どれほど混乱していても、それだけはきちんと整えてから部屋を出たはずなのに。「ごめんなさい……」「責めていない」 短い返答。けれどいつもより少しだけやわらかい。 温室の中へ水の落ちる音がひとつ、細く響く。葉の影がガラスへ揺れ、外の曇り空がそこへ白く滲む。ゼルヴァンは扉から二歩だけ進み、それ以上は詰めてこない。「落ち着いたか」 その問いに、セレフィアはすぐ答えられなかった。落ち着いているわけではない。けれど、さっき客間にいた時のように、胸の中があふれてどうしようもないわけでもない。温室の湿り気と、葉の匂いと、彼が無理に近づいてこない距離とが、どうにか呼吸をつなぎとめていた。「……まだ、少し」  正直にそう言う。「わかった」 それだけで、彼はまた黙った。 その沈黙の中で、セレフィアは初めて気づく。彼が黙る時、自分は以前のように「何を考えているのかわからない」と怯えるのではなく、「待たれている」と感じるようになっていたのだと。 待っている。 自分が話せるまで。あるいは話さなくてもよいなら、そのまま落ち着くまで。 その沈黙は、監視ではない。 見張っているのでも、答えを引きずり出そうとしているのでもない。ただ、そこにいて、こちらの意志が整うのを待つための時間。 そう思った瞬間、セレフィアの胸の奥で何かがひどく静かにほどけた。「……あなたは」  気づけば、そう口にしていた。 「いつも、待っていらしたのですね」 ゼルヴァンの目が、わずかに動く。「何を」「私が」
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-08-26
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第24話 逃げたくない③

 セレフィアは、自分がいま何を言ったのかを、数拍遅れて実感した。残りたい、と口にした。はっきりではない。だが十分に。しかもゼルヴァンの前で。 頬が熱くなる。けれど、不思議ともう引き返したい気持ちはなかった。 ここまで来てしまったのだ。逃げたくないと、自分で言ったのだから。 ゼルヴァンはしばらく黙っていた。その沈黙は相変わらず、追いつめるためのものではない。むしろ、いま口にされた言葉へ不用意に触れぬように、一度熱を落ち着かせるための沈黙だった。「怖くていい」  やがて、彼は低く言う。 「逃げたくないと思うことと、怖いことは両立する」 セレフィアは目を上げた。 怖くていい。 また、そういう言い方だ。怯えたままでも立っていれば十分だと言った時と同じ。彼はいつも、こちらの感情を消そうとしない。怖がるなとも、強くなれとも言わない。ただ、その感情があっても次へ進める形を置く。「だから」  ゼルヴァンは続ける。 「いまここで全部を決めなくていい」  一歩だけ近づく。 「ただ、逃げるのをやめたいなら、そのたびに戻ってくればいい」 戻ってくればいい。 その言葉に、セレフィアの胸の奥で何かが静かに揺れる。温室へ逃げ込んだあとでも、戻ってきていいのだと。逃げたことを咎めず、そのあとに戻ることまで含めて許す言葉。「……戻っても」  セレフィアは自分でも驚くほど小さな声で尋ねる。 「よいのですか」「当たり前だ」  ゼルヴァンは、わずかに眉を寄せた。 「君は追われているわけじゃない」 その一言で、セレフィアの喉の奥が熱くなった。 追われているわけじゃない。 王都ではずっと、何かに追われていた気がする。姉の機嫌。母の視線。家の体面。破談の損失。与えられた役目。遅れぬように、崩さぬように、失敗せぬように。常に何かの後ろから押され、前へ、別の名前へ、別の役目へ追いやられてきた。 けれどここでは違う。少なくとも、ゼルヴァンはそう言う。追われているわけじゃない、と。 その事実が、あまりにもやさしくて、セレフィアはほんの少しだけ目を潤ませた。涙が落ちるほどではない。だが目の奥が熱くなり、ガラス越しの夕光が少しだけ滲む。 ゼルヴァンは、それを見ても何も言わない。慰めも、手を伸ばすことも、ここではしない。ただ距離を保ったまま立ち、こちらの意志が整うのを
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-08-27
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第24話 逃げたくない④

 俺でもいい。 そういう言い方をするのだ、この人は。助けるとか、頼れとか、大きな言葉ではなく。消える前に、言え。しかも最後に、ごく自然に「俺でもいい」と置く。 そのささやかな近さが、いまはとても嬉しかった。「……はい」  セレフィアは言う。 「次は、そうします」 次は。 その未来形があることもまた、少しだけうれしい。もう逃げ込むことが前提ではない。逃げそうになった時、消える前に、言う。そういう別の選び方が、自分の中に生まれた。 客間の扉が見える頃には、セレフィアははっきりと思っていた。 逃げるのをやめたい。 いや、もう少し正確に言えば、彼の前では逃げない自分でいたい。 それは簡単なことではないだろう。これまでずっと、自分の気持ちからも、望みからも、選ぶことからも目を逸らしてきたのだから。けれど今日、温室で彼の沈黙の意味を知った。待たれていたのだと知った。そのことが、セレフィアの中の何かを大きく変えた。 信頼が、また一段深くなったのだと思う。 好きだからそばにいたい。尊敬しているから、なおさら隣へ立ちたい。そしていま、信頼しているから、逃げずにいたい。 その三つが、もう切り離せなくなっていた。 客間の前でゼルヴァンが立ち止まり、扉を開けるために手をかける。その横顔を見上げながら、セレフィアは胸の奥でそっと思った。 この人となら、春までの時間をただ怯えてやり過ごすのではなく、自分の意志で歩いていけるかもしれない、と。 扉の向こうから、暖炉の火の匂いがふわりと流れてきた。 セレフィアは、そのぬくもりの中へ、今度は自分の足で戻っていった。
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-08-27
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第25話 姉、帰還①

 王都に春が近づく時、空気は最初に匂いから緩む。 まだ風は冷たく、石畳の隙間には夜のあいだに白く張った薄氷が残る。けれど昼の陽が高くなるにつれ、それは音もなく溶け、馬車の車輪に泥をつけ、通りを行く人々の裾へ細かな水を跳ね返す。街路樹の枝はまだ裸で、花も咲かない。それでも、冬の盛りのような張りつめ方はどこか薄れ、かわりに、緩んだ足元へ気づかぬまま踏み出してしまいそうな危うさが町のいたるところへ漂いはじめる。 ヴァルダンジュ伯爵家の正門へ、一台の馬車が滑り込んだのは、そんな曖昧な午後だった。 晴れているのに空はどこか白く、陽の色も、冬の鋭さと春の鈍さのあいだで決めかねているような日。屋敷の前の石畳には半ば乾いた泥が残り、門番の靴の裏へ重たい音をつけていた。 馬車は、伯爵家の客用にしては粗末だった。 もちろん、庶民の荷車のようなものではない。木材も車輪も、それなりに手入れはされている。だがヴァルダンジュ伯爵家の娘が恋人の元から戻るために乗るには、あまりに飾りが足りず、あまりに疲れて見える馬車だった。金の紋もなく、艶やかな塗装もない。扉の取っ手に付いた真鍮も少しくすんでいる。長旅というほどではないのに、車体には乾いた泥がこびりつき、窓の縁には手で拭った跡が粗く残っていた。 御者が飛び降り、扉を開く。 最初に見えたのは、淡い灰紫の裾だった。王都で流行の形を意識した仕立てではあるが、布の端にわずかな皺が寄り、裾には泥の細かな跳ねが残っている。次に、細い手。指先の爪だけはきちんと磨かれていた。最後に、顔。 オルフィーヌだった。 姉は、以前と変わらず美しかった。 目元は少しだけ痩せて見える。頬の血色も、王都へ出る前より薄い。だがそれは失意というより、寝不足や苛立ちの影に近かった。鼻筋は相変わらずよく通り、唇の輪郭も整っている。髪は旅の乱れを抱えてなお艶を失っておらず、女中が数分もかければ元へ戻せる程度の崩れしかない。 だが、その目だけが、以前より鋭かった。 傷ついて帰ってきた女の目ではない。 怒っている目だった。自分を裏切った恋人へではなく、世界そのものへ腹を立てている人間の目。「遅いわ」  馬車の踏み台へ足をかける前に、オルフィーヌはそう言った。 「迎えはもっとましなものを寄越せなかったの?」 門のところまで出てきていた侍女頭が慌てて頭を下げる
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-08-28
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第25話 姉、帰還②

 母は、娘の帰還を待ちわびていた顔をしていなかった。むしろ、見た瞬間にまず目の奥で計算が走る顔だった。王都の恋人に捨てられた娘。辺境へ嫁いだはずの次女。壊れかけた家の面子。そこへ、どの駒をどう置き直すか。その計算。「オルフィーヌ」  母は声だけを柔らかくした。 「まあ……本当に帰ってきたのね」「帰ってきたわ」  オルフィーヌはすぐに答えた。 「最初からわかっていたでしょう。あの男、結局は父の金と名をあてにしていただけだったもの」 伯爵夫人の目が細くなる。「詳しいことはあとで聞くわ」  そう言いながら、彼女は娘の姿を上から下へひととおり見た。 「とりあえず、部屋へ。外聞もあるもの」 外聞。 迎えた直後にまずそれを言うところが、この家らしかった。 オルフィーヌも、それに対して傷ついたような顔はしない。なぜなら彼女自身もまた、この家と同じ論理で息をしているからだ。世間がどう見るか。どのように取り繕うか。誰の目に何を見せるか。それが最優先であることに、少しも疑いを持たず育ってきた。「お父様は?」「書斎よ」  母は短く答える。 「この件、すぐに話を通さなければならないから」「そう」  オルフィーヌは顎を少し上げた。 「なら、ちょうどいいわ。私も話があるの」 その口調に、母がわずかに眉を寄せる。だが何も言わない。二人はよく似ていた。高慢さの質も、感情より先に損得が顔を出すところも。 その日の夕刻、伯爵の書斎には重たい沈黙が落ちていた。 父は机の向こうにいた。窓の外は白く曇り、王都の家並みが薄い光の下へ沈んでいる。机の上には封書がいくつも重なり、いままさに仕事を切り上げさせられたばかりなのだろう、羽根ペンの先へまだインクが濃く残っていた。 その机の前に、オルフィーヌと母がいる。「捨てられたのか」  父は感情のない声で言った。 オルフィーヌの目がかっと鋭くなる。「そういう言い方はやめてくださる?」  彼女は冷たく返す。 「婚約寸前まで話を進めておいて、あちらが急に腰を引いたのよ。あれは向こうの愚かさだわ」「愚かさで済めばいいがな」  父の声はさらに低い。 「相手方の家からは、すでに“感情の行き違い”とやらの文が来ている。王都では、お前が執着して騒いだという形になりつつある」 その一言で、オルフィーヌの頬に熱が差し
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-08-29
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第25話 姉、帰還③

「向こうがどこまで把握しているかもわからんのに、甘いことを言うな」 だが母は、もう完全には否定しなかった。「把握していないとは思えないけれど……」  彼女は指先で机の端を軽く叩く。 「ただ、あちらが黙っているのなら、そこには黙っている理由があるはずよ。面倒を広げたくないのかもしれないし、あるいは」  目が細くなる。 「まだセレフィアを“本物”として使っている最中なのかもしれない」 使っている。 その言葉に、オルフィーヌは薄く笑った。「でしょうね。あの子はそういうの、得意だもの」  唇の端だけが上がる。 「人の役に立つ顔をして、黙って埋まるのは」 父は何も言わなかった。否定もしない。その沈黙が、かえってこの家の冷たさを濃くする。セレフィアがどういうふうに育てられ、どういうふうに使われてきたかを、彼はもちろん知っている。知っていて、いまその評価を利用しようとしている。「いずれにしても」  伯爵夫人が静かに言う。 「様子見の手紙は出すべきね」「様子見では足りん」  父は机の引き出しを開け、便箋を一枚引き出した。 「まず、王都でオルフィーヌが戻ったことを知らせる。そのうえで、辺境伯家の現状と、セレフィアの扱いを探る」「探るだけ?」  オルフィーヌの声が尖る。「馬鹿を言うな」  父は紙を机へ叩くように置いた。 「いきなり“返せ”と書いて何が得られる。まず向こうの温度を見る」 母も頷いた。「そして、必要なら次を打つ」  伯爵夫人は娘を見る。 「セレフィアは最悪、病気療養でもなんでも理由はつけられる。辺境の寒さに耐えられない、あるいは身の程を超えた務めで心身を壊したでもいい」  その声はあまりにも滑らかだった。 「オルフィーヌは“本来の婚約者”として北辺へ向かう。そういう筋書きは作れるわ」 セレフィアを切り捨てる算段。 それはひどく自然に、机の上へ置かれた。ためらいもなく。あまりにもいつも通りに。 父はそれを受けて、すぐに文面を考えはじめる。誰の名で出すか。表向きは伯爵家としての季節の挨拶を兼ね、娘の体調や王都の近況をさりげなく挟む。その中へ、オルフィーヌの帰還をどう書き込むか。辺境伯の反応をどう引き出すか。 オルフィーヌはその横で腕を組んだまま、もう未来を決めた顔をしていた。恋人に捨てられた失意など、その高慢さ
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-08-29
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第25話 姉、帰還④

「どこから」「伯爵家より」  ミレナは答え、 「旦那様のところへ先に回っております」 セレフィアは、次の瞬間に自分の鼓動が少し速くなるのを感じた。 父母からではなく、伯爵家から。つまり公的な体裁を帯びた文だ。しかもそれが、まずゼルヴァンのもとへ行っている。内容が単なる季節の挨拶ではないことは、その時点でほぼ確かだった。「……何か、聞いてる?」 ミレナは小さく首を振る。「詳しくはまだ。ただ、バルタザル様のお顔が……」  そこで言葉を濁す。 「少し、いつもより冷たく見えました」 それは、よくない時の印だ。 バルタザルは感情を大きく表へ出す人ではない。だからこそ、その静かな目元の温度が少し下がるだけで、かえって城の空気はぴんと張る。 セレフィアは外套を脱ぐのも忘れたまま、しばらくその場に立ち尽くした。 王都から不穏な手紙。 春が近い。 契約の期限も、少しずつ迫っている。 そこへ、何が書かれているのか。 胸の奥で、小さな恐れが古い習慣のように顔を出す。切り捨てられることへの恐れ。自分の意志などおかまいなしに、また誰かの都合で次の役へ押しやられる恐れ。春まで、選べる未来があるとゼルヴァンに言われたばかりなのに、王都の手紙は簡単にその足元へ影を落とす。 だが、以前とは少し違った。 ただ怯えるだけではない。温室で「逃げるのをやめたい」と言った自分が、もう胸の奥にいるからだ。怖い。けれど、怖いからといって何も知らないまま部屋に閉じこもっているわけにはいかない。「旦那様は、どちらに」「執務室かと」  ミレナが答える。 「ただ……お呼びがあるまで、こちらでお待ちになるようネリサ様から」 それはきっと、彼らなりの配慮なのだろう。手紙の内容をまず確認し、必要ならどう伝えるかを整えるための。以前の自分なら、その配慮の中へ大人しく身を預け、呼ばれるまで何も考えぬふりをしていたかもしれない。 けれどいま、セレフィアの胸の中へ浮かんでくるのは別の感情だ。 知りたい。 そして、逃げたくない。 その二つが、静かに熱を持ち始める。「……わかったわ」 そう答えながらも、セレフィアの視線は扉の向こうへ向いたままだった。 王都でオルフィーヌが戻ったことを、この家はどう扱うのだろう。辺境伯夫人の座を取り戻せると、姉は本気で思うだろうか。いや、思う
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-08-30
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第26話 王都への招待状①

 その封蝋を見た瞬間、部屋の空気が少しだけ変わった。 朝の執務室は、まだ一日の熱を持たない静けさの中にあった。高い窓の外には、北辺らしい薄い白の空が広がっている。晴れているわけではない。だが雪が降る気配もない。雲は低くなく、風は冷たいまま高いところを流れていて、光だけがやわらかく拡散している。春が近いといっても、北辺の朝はまだ油断を許さない。石壁の内側にさえ冷えが残り、暖炉へくべられた薪の匂いが、磨かれた机と革表紙の帳面の匂いに混ざっていた。 そこへ、王都からの使いが持ち込んだ封書が置かれた。 羊皮紙は上質で、厚みがある。端には無駄な飾りがなく、むしろ簡素なくらいなのに、その簡素さがかえって権威を濃くしていた。何より、封蝋だ。深い赤に押された紋章は、ヴァルダンジュ伯爵家のものでも、辺境伯家のものでもない。王宮の印。 バルタザルがその封を目にした時、ごくわずかに目元の温度が下がった。ネリサはそれを見て何も言わず、ただ侍女へ「奥方様を」と指示する。誰も慌ててはいない。声も動きも平静だ。だが平静のまま、空気の張りが変わる。そういう時があることを、セレフィアはもうこの城で知っていた。 呼ばれて執務室へ入った時、ゼルヴァンは窓際ではなく机の前にいた。書類の山の手前へ、まだ開かれていない封書がひとつ置かれている。その傍らにバルタザル。少し下がった位置にネリサ。誰も大袈裟な顔はしていない。けれど、いまここで何かが「ただの手紙」では済まないことは、もう部屋の匂いだけでわかった。「来たか」 ゼルヴァンの声はいつも通り低い。だがいつもよりわずかに硬い。「……はい」 セレフィアは扉のところで一礼し、進み出た。足元の敷物は厚いのに、なぜか石床の冷たさが靴裏越しに伝わる気がした。「座ってくれ」 その一言に、やはりまず椅子が用意されるのだと、こんな時でも思う。王都なら、こういう知らせは立たされたまま受けることが多かっただろう。逃げ場のないかたちで。けれどこの城では違う。大事な話ほど、座って聞かされる。その順番の違いが、今のセレフィアには以前より深く沁みる。 椅子へ腰を下ろすと、ゼルヴァンはようやく封書へ手を伸ばした。封を切る音は小さかった。けれどその小ささが、逆に部屋の静けさを強調する。厚い羊皮紙を開き、一度だけ目を走らせる。その間の数秒が、妙に長い。 やがて彼は紙
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-08-31
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第26話 王都への招待状②

「そうだ」  ゼルヴァンは頷く。 「断るなら、それ相応の理由がいる。形式だけの招待ではない」 王宮からの招待状ではなく、王命。つまり、逃げるにしても相応の手順と傷がいる。伯爵家からの手紙とは重さが違う。噂でかわすことも、曖昧な返事で先延ばしにすることも難しい。 ネリサが静かに言葉を足した。「王都の季節の舞踏会は、ただの社交ではございません。春の人事と婚姻、各地の報告も兼ねます」  それから、セレフィアを見る。 「辺境伯家が夫妻そろって顔を見せるか否かは、かなり目立ちます」 目立つ。 その響きだけで、王都の灯りと音が脳裏によみがえった。磨かれた床、絹擦れの音、笑い声の裏に潜む値踏み、香水と蝋燭と酒の匂い。伯爵令嬢として立っていた頃は、それをただ苦しいものとしてしか感じられなかった。まして今は違う。辺境伯夫人の名を帯び、しかもオルフィーヌの実家が必ず何かを仕掛けてくるとわかっている場だ。 心臓の音が少し速くなる。「王都からの伯爵家の手紙も」  バルタザルが言う。 「この件に合わせて動く可能性が高いでしょう」 伯爵家。つまり父と母。そしてオルフィーヌ。 姉が戻ったことは、もう聞かされていた。恋人に捨てられ、けれど高慢さは少しも失わず、本気で辺境伯夫人の座を取り戻せると信じていることも。実家が再びセレフィアを切り捨てる算段を始めていることも。あまりにこの家らしくて、ひどく、そして予想どおりだった。 だからこの王命は、ただの出席命令ではない。 舞踏会という明るい言葉の下へ、王都の実家と姉の思惑がもう透けて見える。 ゼルヴァンは、その全部をわかっている顔でセレフィアを見た。「行くかどうかは」  彼は低く言う。 「お前が決めろ」 その一言に、セレフィアは顔を上げた。 決めろ。 またそれだ。春までの契約を告げられた時と同じ。残るか、去るか、自分で決めろと言われた時と同じ。王都の舞踏会へ行くかどうかもまた、自分が決めることだと、この人は言う。「……私が」  喉が少し乾く。 「決めてよいのですか」 問いながら、自分で少しだけ苦くなる。いつまで経っても同じことを聞いている気がするからだ。決めていいのか、と。だがそれでも、確認せずにはいられない。選ぶことに慣れていない人間は、自由を差し出されるたび、まだ本当にそこへ触れていいのかを確
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-03
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