書庫でもなく、客間でもなく、そこへ行こうと決めた時、セレフィアはほとんど息をするように廊下を曲がっていた。 逃げたのだ、と自分でもわかっていた。 誰に、と問われれば、はっきりとは答えられない。ゼルヴァンから逃げたのか。自分の胸の中で膨れあがりすぎた気持ちから逃げたのか。あるいは、文字の癖ひとつから手紙の向こうにいた自分まで見抜いていた彼の目から、これ以上何かを知られてしまう前に、息を整えたかったのか。 たぶん、その全部だった。 あのあと客間へ戻ってからも、机の上の紙はずっと視界にあった。走り書きの残る一枚。余白の置き方。行の流れ。筆圧の抜き方。婚約中の手紙と同じだと、ゼルヴァンはそう言った。 最初は代筆かと思った。 でも、ただの代筆にしては文の返り方が深すぎた。 だから、無いことにはしなかった。 だから、覚えていた。 言葉の一つひとつが胸の奥に残りすぎて、まともに呼吸ができなくなる。嬉しい。恥ずかしい。知られていたことが、もう恐怖だけではなくなっている。むしろ救いに近いものへ変わってしまったことが、ひどく怖い。 それはもう、後戻りのできない変化だった。 このまま客間にいて、ミレナが茶を淹れ、ネリサが灯りを見て、バルタザルが帳面を運んで、いつものように夜へ入っていけば、きっと自分は何もなかったふりをしてしまうだろう。胸が苦しいのに、きちんと笑って、いつものように頷いて、気持ちが落ち着くのを待ってしまう。 けれど今日は、それをしたくなかった。 いや、できなかった。 逃げたくない気持ちが、もう胸いっぱいにあふれそうになっていたからだ。 だからこそ、いったん逃げた。 矛盾している、とセレフィアは思う。逃げたくないから逃げるなんて。だがいまの彼女には、その矛盾ごと抱えて走るしかなかった。 温室は、城の南の端にある。 冬の盛りにもかろうじて青を絶やさぬための、小さなガラスの部屋だ。市場へ下りた時、ネリサが「春が進めば、ここも少しずつ役目が変わります」と言っていた。いまはまだ本格的な花の季節ではない。けれど薬草と、寒さに強い葉ものと、育ちの遅い苗を守るための場所として、静かに息をしている。 扉を開けると、むっとするほどではない、やわらかな湿り気が肌へ触れた。 外の冷えを長く吸っていた頬と指先が、その違いに一瞬だけ戸惑う。温室の空気はあた
Zuletzt aktualisiert : 2026-08-26 Mehr lesen