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第21話 旅立ちの朝と、残された者たちの腹くくり

東の空がうっすらと白み始めた、夜明け前。 デストーロ邸の裏門には、最小限の荷物を背負った二人と、それを見送る私とお父様が立っていた。 「……シーラ様。今まで、本当にありがとうございました」 「一ヶ月後にまた戻ってくるけどね。永遠の別れみたいに言わないで。……本当に」 ネモが深々とお辞儀をする。その目にはうっすらと涙が浮かんでいたけれど、もう迷いの色はなかった。 隣に立つライト様は、まだ鼻目を真っ赤に腫らしているものの、その表情は近衛騎士団副隊長らしい引き締まった男の顔に戻っている。 「ネモを、頼みましたわよ。もし北のシュヴァルツランドに迷い込んだら――」 「わかってる。迷わず北の国境前でネモを逃がして、僕は毒を飲む。……絶対に、そんなことにはさせないけどね」 ライト様は胸ポケットに忍ばせた二つの小瓶を上からそっと叩いた。 よし、覚悟は完璧ですわね。 「あはは、ライト様、道中気をつけてね〜!もし駆け落ちはダメだったな〜って思ったら、いつでも戻ってきていいからね? 二人の『縁』、綺麗に切り直してあげるから!」 「ひぃっ……! ぜ、絶対に無事に辿り着いて見せますから!!」 お父様の悪意のない(しかし研ぎ澄まされた)笑顔に、ライト様が背筋をピシッと伸ばして叫ぶ。 まったく、うちの父は最後まで容赦がありませんわ。 「……行きなさい。ちゃんとドルトブルクに着いてヴァレン神官に会うのよ?仮に、駆け落ちがバレても、西のヴェストライヒ帝国に入れば、この国の法律もゼクス王子の権限も届きません」 「「はいっ!!」」 二人は一度だけ力強く頷き合うと、朝もやが煙る通りへと駆け出していった。 一度も振り返ることなく。 ……さて。 「行っちゃったねぇ、シーラ。……で、これからどうするんだい?」 お父様がのんびりとした口調で尋ねてくる。 私は小さく息を吐き出し、背後の屋敷――そしてその先にある王宮の方角を仰ぎ見た。 「どうするもこうするもありませんわ。ライト様は『恨みを買った令嬢とその家族の怒りが収まらないため、ほとぼりが冷めるまでどこかへ逃亡した』、ネモは『溜まった有給の消化』。これで押し通します」 「ゼクスくん、納得してくれるかなぁ?」 「大丈夫ですわ。あのクソ王子は『僕の権限で休暇を許可する』と
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第22話 求人票を出したら、とんでもないのが引っかかりました

「はぁぁぁぁぁ……っ」 私の深いため息が、無駄に広いデストーロ邸の廊下に寂しく響き渡る。 朝の見送りを終え、自室に戻るなり私が机に突っ伏し始めてから1時間。 ネモとの過去の思い出――あの、爵位剥奪という危機の時に彼女が見せてくれた一途な忠誠心を思い出して胸が温かくなったのも束の間、速攻で現実という名の壁が押し寄せてきたからだ。 「そうよ……分かっていたじゃないの私。ネモがいない=私のメンタルケア兼、雑務担当兼、唯一の友達(暫定)が留守になるってことくらい……!」 ネモは優秀すぎたのだ。 私の好みも、お父様やお母様の「取り扱い上の注意」も完璧に把握し、私が不機嫌になれば絶妙なタイミングで好物の紅茶を出し、王宮からの嫌がらせのような書類作業も文句を言いつつもいつもアシストしてくれていた。 それが、今日から丸々一ヶ月、不在。 「……無理。3日で私がパンクするわ」 私はなんとか気力を振り絞り、羊皮紙と羽ペンをひっつかんだ。 「1ヶ月限定の『臨時使用人』の求人票書かなくちゃ……」 条件はこうだ。 勤務期間: 約1ヶ月間(正社員の使用人が戻るまで) (長期雇用も相談可能) 業務内容: 雑用、給仕、シーラ・デストーロの話し相手 給与: 相場の三倍(退職金、業務で死亡した場合のみ死 亡時の補償あり) 備考: デストーロ家の家業(各種『縁』の処理)に理解があり、テルウィス・デストーロに怯えないタフな精神をお持ちの方。 人の恨みやそこからくる死(暗殺など)と隣り合わせの仕事が怖くない方。 自分で自分の身を守れる方。 白黒つけられない問題に白黒つけることに対して抵抗感のない方。 任期満了後も含めて様々な方からの罵詈雑言に耐え、受け流せる方。 歓迎:使用人経験のある方。法律に詳しい方。 ……うん。 やっぱり誰も来ない気がする! 自信ある!! 自分で書いていて絶望した。 『デストーロ子爵家』という名前だけで、普通の人は関わりを恐れて逃げ出すのだ。おまけに「あの」ポイズナー侯爵家を事実上の潰しに追い込んだ噂が広まっている今、好き好んでこの屋敷の門を叩く酔狂な人間がどこにいるというのか。 しかし、背に腹は代えられない。 私は気休め程度に求人票を王都の商業ギルドと公衆掲示板へ出しに行った。
last updateآخر تحديث : 2026-07-22
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第23話 臨時侍女の面接と、自由すぎる後悔

「……とりあえず、座っていただけますかしら」 私の頭痛はすでに限界値を突破していた。 応接室のソファには、ギラギラとした情熱の目を輝かせるマリアンヌ様。 そして、私の「追い返して」をスルーしてなぜか当たり前のように隣に座っているゼクス殿下。 「シーラ様! 私は面接の準備など万全ですわ! 履歴書代わりにフォンタナ公爵家の最新の資産目録と、私がいかにシーラ様をお慕いしているかを綴った羊皮紙三十枚の論文を持参いたしました!」 「要りません。あと資産目録は公爵家に怒られるから今すぐしまってください」 私が深いため息をついたその時、それまで放心状態だったゼクス殿下がハッと目を見開いた。 「はっ……! 僕だって……僕だって黙っていられないぞ! シーラ、僕もここで働きたいんだ! シーラの給仕だって、雑用だって、盾になることだって……!そして最終的にはこの仕事を辞めてもらって、家業も廃業!僕も、この国も愛で溢れさせるんだ!!!」 「不採用です。殿下は不審者ですので物理的に騎士団を呼びます」 私の冷徹な一言に、殿下はズーンと撃沈……しかけたが、そこでマリアンヌ様が立ち上がった。 「お戯れを、ゼクス殿下! 一国の王子がこのような怪しいブラック求人……いえ、聖戦に応募するなど言語道断! シーラ様のお役に立てるのは、この私マリアンヌ・フォンタナだけでございますのよ!」 「な、なんだと……!? 僕はシーラへの愛なら誰にも負けない!」 「愛!? 殿下の愛など、あの変なバグを起こした薄っぺらい感情に過ぎませんわ! 私の愛は、あの絶望の淵から救っていただいた『尊厳の救済』に根ざした純粋なる狂信……ではなく尊崇ですのよ!!」 「狂信って言ったよねいま!?」 「うるさーーーーーい!!!!」 応接室に私の怒号が響き渡った。 二人がピクッと動きを止める。 言わせておけば好き勝手に言い合いやがって……! 「殿下は論外! 追い返します! そしてマリアンヌ様……もう分かりましたわ。採用です! 採用にしますから静かにしてください!!」 「まあ……っ! シーラ様、採用……! 聖戦の開幕ですわーーーっ!」 こうして、もうめんどくさくなった私の投げやりな決断により、デストーロ子爵家にまさかの『公爵令嬢の臨時侍女』が誕生してしまったのだった。
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第24話 フォンタナ公爵の憂鬱

公爵は額に青筋を浮かべ、殺気すら孕んだ目で私とお父様を睨みつけてきた。 「デストーロ子爵……誤魔化されんぞ! 我がフォンタナ公爵家が、お前たちのような『忌み嫌われる縁切り屋』と繋がりを持っているなどと王都に知られたら、我が家の名誉は地に落ちる! 貴様、最初から我が家を弱みを握って利用するつもりだったのではないだろうな!?」 公爵の言葉には明確な敵意と、デストーロ家に対する根深い恐怖が混ざっていた。 王都の大貴族にとって、デストーロ家と懇意にすることは政治的な死を意味する。マリアンヌ様がここにいること自体が、公爵家にとっては脅威なのだ。 だが、お父様は顔色ひとつ変えず、相変わらずニコニコと呑気な笑みを浮かべたまま、お茶を一口すすった。 「やだなぁ、公爵閣下。そんな滅相もない。……あ、そういえば言い忘れていましたけど」 お父様はふと、思い出したかのようにポンと手を打った。 「今回のマリアンヌちゃんの面接、実はゼクス王子殿下もご臨席されていたんですよ? ほら、ついさっきまでそこにいらっしゃいましたし」 「……は?」 公爵の顔から、一瞬で血の気が引いていく。 ちゃん呼びはショックすぎてスルーしてるわ。 ……娘より王子の方が大事なのね。 「ぜ、ゼクス殿下が……ここに……!?」 「ええ。殿下もマリアンヌちゃんがここで働くことを大変熱心に応援してくださっていてねぇ。最終的には『公爵家の令嬢がデストーロ家で働くなんて素晴らしい!』とおっしゃって、ご自分も応募して不採用になって帰られたところです」 お父様の言っていることは(不採用の件を含めて)事実なのだが、言い方のせいで『王家(ゼクス王子)公認でマリアンヌがここにいる』という最悪の政治的状況に聞こえてしまう。 あと、『公爵家の令嬢がデストーロ家で働くなんて素晴らしい!』の部分、そう捉えられる言葉でしたけど、ちょっとあなたの曲解も入っていますわよ? まあいいわ。 そっちの方が好都合だし。 「な……っ!? 王子殿下がご存知……!? 既に王家に捕捉されているというのか……!?」 公爵は愕然とし、その場に崩れ落ちそうになった。 もし今ここでマリアンヌ様を力ずくで連れ戻せば、「王家の意向に背いた」と取られかねない。 逆に、このまま放っておけば「王家公認の極秘任
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第25話 駆け落ちのリアルは泥と名もなき温もり

王都を離れ、西へと続く街道。 威勢よく飛び出したはいいものの、最初の試練はあまりにも泥臭い形で二人に襲いかかった。 「おーい! 乗せてくださーい! 困ってる二人組でーす!」 ライトが極上の爽やかスマイルを浮かべ、街道を行く馬車へ向かって大きく手を振る。 しかし、通り過ぎる行商の馬車は速度を緩めるどころか、怪しむような目線を向け、容赦なく泥水を撥ねて走り去っていった。 「うそでしょ……僕、近衛騎士団の看板顔だよ? 顔はそこそこだと思っていたのになんでみんな目をそらすのぉぉ……」 頭から泥を被り、道端にへたり込むライト。 ネモは心底呆れたように小さく溜め息を吐き、ハンカチで己の衣装の汚れを拭った。 「あんた相変わらずバカで安心したわ。朝もやの中から現れた若い男女が手を振っていたら、駆け落ちを疑うのが普通!駆け落ちやそれの幇助はこの国では重罪なの!!!……だからこそ、準備と計画が大事だと何度も言ったじゃん!変装しているとはいえ、いつ通報されてもおかしくないわ……」 「うう……。でも1週間を準備にあてて、3週間で往復するのは無理だよぉ……。現実は甘くないよぉ……」 日が傾き始め、二人が絶望しかけたその時。 ガラガラと鈍い音を立てて、一台の古びた荷馬車が二人の前で足を止めた。 御者台に乗っていたのは、日焼けした顔に深いシワを刻んだ老農夫だった。 「おいおい、若い二人連れがこんなところで何やってんだ? 泥だらけじゃねーか」 「あ、あの! 僕たち、訳あって西の村を目指して移動している途中でして……っ」 慌てるライトを制するように、老農夫は破顔した。 「ハッ!まあ、訳なんて聞かねぇよ。西の街道沿いなら途中まで乗せてってやる。腹も減ってんだろ、ばあさんが持たせてくれたパンと自家製の干し肉でも食いな」 「えっ……いいんですか!?」 「いいから乗りな。若いモンが苦労してんのを見ると、ほっとけなくてね」 渡された固いパンを噛み締めると、じんわりと温かい小麦の味が口いっぱいに広がった。 孤児院や王宮、デストーロ邸などの貴族社会のドロドロとした虐待や権力闘争、腹の探り合いしか知らなかった二人の胸に、名もなき庶民の温かさがじんわりと染み渡っていく。 「美味しい……っ。泣きそうだ……」 「……ええ、本当に。温
last updateآخر تحديث : 2026-07-25
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第26話 愛の国の詐欺師と狂信の侍女

「……で? その『運命の番』の人とやらは、あなたに何と叫んだのですか?」 デストーロ子爵家の応接室。 冷ややかなティーカップを傾けながら、私は目の前でボロボロと涙をこぼす小柄な令嬢――侯爵家の令嬢・リリィを見つめた。 彼女は震える手でハンカチを握りしめ、悲痛な声をあげた。 「『結婚して二人で店を出そう』と言われたのです……っ! サッギー神官様からも『お二人は神が定めた運命の番です』とお墨付きをいただいて……っ! なのに……『二人で愛の証として誓約書にサインしましょう』と差し出された書類が……っ」 「……男の事業にかかる、巨額の『連帯保証人契約書』だった、と」 「はいぃ……っ! 私が怯えて躊躇すると、彼もサッギー神官様も『神の定めた運命を疑うのか!』『愛の国アーモレの民でありながら、愛を金で推し量る気か!』と……っ! 恐ろしくて、断れなくて……っ」 「ふふ……」 私は書類の写しを一目見た瞬間、思わず冷酷な笑みを漏らした。 元・離婚弁護士としての血が、久々に沸き立つのを感じる。 「『愛の誓約書』と見せかけた、典型的な欺罔(詐欺)及び公序良俗違反の保証契約書ですわね。神聖なる信仰と『愛』を免罪符にした、反吐が出るような経済的搾取……。神官までグルとは、いい度胸ですこと」 「シーラ様! そのような下等生物、今すぐ私の私設騎士団で物理的に粉砕して差し上げますわ!」 私の隣で、侍女服に『シーラ様絶対尊崇』と書かれた謎のハチマキを締めたマリアンヌ様が、鼻息荒く立ち上がった。 「ありがとうございます。そう言ってくださるだけで嬉しいですわ」 リリィが少し困ったように、でも嬉しそうに言った。 「マリー、座りなさい。暴力は最終手段です。……行きますわよ。愛の国の害虫駆除の時間です」 神殿近くの高級カフェの個室。 待ち合わせ場所に現れたのは、胡散臭いキザな笑顔を貼り付けた男・ダッマーシーと、肥満体のサッギー神官だった。 「やあやあ、リリィ! ようやく愛の誓約書にサインする気になったかい? ……ん? なんだねその怪しげな女と、雑巾を握りしめたおかしな侍女は」 ダッマーシーが眉をひそめる。私は優雅に一礼し、冷ややかな微笑を向けた。 「初めまして。リリィ様の代理人を務めます、シーラ・デストーロと申します。本日はこち
last updateآخر تحديث : 2026-07-26
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第27話 西の国境と、清廉なる神官

王都を遠く離れ、西の国境に位置する村・ドルトブルク。 街道でのスパイとの接触を経て、私たちはあえて移動速度を落とした。 急いで移動すればそれだけで「訳あり」だと怪しまれる。あくまで「のんびりと西の観光地を楽しみに来た若い二人連れ」を装い、数日かけてようやく目的地へ足を踏み入れたのだ。 だが、無事に宿を取り、借りた部屋の鍵をかけた瞬間―― 「うわああああああん! もう嫌だぁぁぁぁぁ! 怖いよぉぉぉぉぉっ!!」 ライトが床に膝をつき、子供のように号泣しながら崩れ落ちた。 「急にスパイは出てくるし! シーラさんの毒薬はポケットの中でゴツゴツ当たって圧迫感すごいし! 命がいくつあっても足りないよぉぉぉ!!」 「……静かにしなさいバカライト。壁に耳ありよ」 私は心底呆れた溜め息を吐きながら、泥と汗にまみれたライトの襟首を引っ張り上げ、椅子へと押し込めた。 「観光客の演技は完璧だったでしょ。……でも、確かにここからは本番ね。気を引き締めないと」 ドルトブルクは、西の国境を守る要衝であると同時に、小さな教会が存在する村。 そこに、私たちの運命の鍵を握る人物――ヴァレン神官がいる。 翌日。 私たちは旅の無事を感謝する参拝客を装い、木造の小さな教会、ドルトブルク教会へと足を運んだ。 王都の神殿といえば、肥満体で強欲な神官のような、きらびやかな宝石をジャラジャラと身にまとった腐敗した聖職者ばかりが目につく。 だが、そこに現れた人物は、私たちの想像を遥かに超えていた。 「ようこそ、ドルトブルク教会へ。長旅でお疲れでしょう」 静かに姿を現したのは、透き通るような白い肌と、静謐な雰囲気を纏った若い神官だった。 絹のような銀髪に、澄み渡った青い瞳。無駄な装飾のない純白の法衣を身に包んだその姿は、どこか浮世離れした美しさと、圧倒的な「聖性」を漂わせている。 彼こそが、ヴァレン神官だった。 「旅のお方とお見受けします。宜しければ、こちらの温かい紅茶で喉を潤してください」 穏やかな微笑みを浮かべ、私たちを別室へと優しく招き入れてくれるヴァレン神官。 その慈愛に満ちた対応に、ライトはすっかり毒気を抜かれたように瞳を輝かせた。 (うわ〜! 王都の神官と違って、めちゃくちゃ良い人じゃん……! 神様って本当にいたん
last updateآخر تحديث : 2026-07-29
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第28話 危うい天秤

「……ご想像にお任せいたしますわ」 私のその一言が部屋に落ちた瞬間、空気の温度が急速に下がり始めた。 ヴァレン神官の澄み切った青い瞳から、先ほどまでの穏やかな聖性が完全に消え去る。 静寂。磁器のカップに反射する光すら、凍りついたかのように動かない。 「なるほど」 ヴァレン神官は静かに目を細め、ゆっくりと背もたれに体を預けた。 「シーラ・デストーロは、あなたにどこまで話したのですか? 私の正体が『7天人』であることだけでなく……私がこの地で『運命の番』の書き換えを行っていることまで、ご存知なのでしょうね」 やっぱりシーラ様の仕業だと確信された……! でも、言葉に毒はない。 だが、その声の低さには、自分の秘密を知る者を前にした明確な「査定」の響きがあった。 (……しまっ……!) また背筋を冷や汗が伝う。 シーラ様は「味方よ」「彼の元に行けば結ばれる」とおっしゃっていた。 けれど、目の前にいるこの男は違う。 自分の足元を脅かす危険分子を、生かして返す気など毛頭ない――そんな「怪物」の本性が、純白の神官服の隙間から覗いていた。 「私は確かに、国家の推し進める『運命の番』という理不尽に抗う者です」 ヴァレン神官は微笑むことすらやめ、淡々と冷酷な論理を紡ぎ始める。 「ですがね……自分の足元を脅かす無能な足手まといや、私を売る可能性のある裏切り者を匿うほど、お人好しではありません」 「ヴァレン様、私たちは――」 「王都の近衛騎士団第一隊副隊長と、あのシーラ・デストーロの『片腕』が、極秘裏に私に接触してきた」 私の言葉を遮り、ヴァレン神官は静かにデスクの引き出しへと手を伸ばした。 取り出されたのは、黒い金属で装飾された小さな魔導具だ。王都の騎士団本部に直通する通信用の代物。 「……フッ、これだけで十分でしょう。『反逆の疑いがある要人二名を拘束した』と国に通報すれば、私の立場はより強固なものになります。シーラ様への『借りの返済』は、これで終わりとさせていただきましょう」 カチリ、と魔導具が起動する重苦しい音が部屋に響き渡った。 万事休す――そう思った瞬間。 「……おい、待て。神官」 ぬっと、私の前に影が落ちた。 さっきまでスパイの存在に怯えて泣き叫んでいたはずの男――ライトが
last updateآخر تحديث : 2026-07-30
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第29話 クソ王子の取り扱い説明書

王宮、近衛騎士団・第一部隊の隊長室。 西の辺境へと旅立ったライトの穴を埋めるべく、俺は山のように積まれた書類の山と格闘していた。 ライトは文字の読み書きが小学校低学年レベルまでしかできないため、ライトの分の書類もいつもこなしていたが、実務が大幅に増え、事務的な仕事をする時間が少なくなってしまい、今に至る。 今頃無事に西に着いただろうか。 そんなことを思いながら、無表情でペンを走らせていると、ノックもなしにドアが勢いよく開いた。 「やあ、ネスト! 忙しそうだねぇ!」 豪奢な衣装を身にまとった銀髪の青年――この国の第一王子であり、唯一の王位継承者であるゼクスが、我が物顔で部屋に踏み込んできた。 優秀聡明でありながら、気まぐれで容赦がない暴君。幼い頃から周囲に甘やかされ、「我慢」という言葉を知らずに育った男だ。 その凶暴な気性と圧倒的な才覚ゆえに、王都の貴族たちは現国王以上にこの王子を恐れている。 「……ゼクス殿下。執務室にお戻りください。私は今、ライトの残務処理で手が離せないのです」 俺は頭を抱えた。 唯一の同い年の貴族で、幼い頃からの腐れ縁であるが故に、俺は、この暴君の「我慢を知らない子どもっぽさ」を割とよく理解している。 「いいじゃないか、幼馴染の誼だよ。それにしてもあいつ、数年見てきたけど思ったよりもアホだったな。地頭はいいと思っていたのだが、詰めが甘かったな」 ゼクスは応接用のソファにドカリと深々と腰掛け、可笑しそうに鼻で笑った。 「有力貴族の娘に手を出して命の危機を感じたからって、速攻で雲隠れするなんてさ。あいつなら返り討ちにすることもできるが、政治的な後処理のことを考えると、怒り狂った親戚連中に消される前に逃げ出したのは、あいつにしては賢い選択だけど」 「……」 俺は書類から目を逸らし、固まった。 (……そうだった。ゼクスは『ライトは女関係のトラブルから逃げるためにどこかに潜伏している』と思い込んでいるんだった……) 本当は、ネモという名のデストーロ家の侍女と西へ駆け落ち(逃避行)したなどと知れたら、王室総出の大騒動になる。俺は静かに黙秘を貫くことにした。 「自業自得です。……殿下、陛下から何かお小言でも賜ったのですか?」 「いや? お父様はただ『ライトは最近どうした? 姿が見
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第30話 愛の檻は、あまりに甘く残酷に

ネモとライト。 二人の背中が光の中に消えたあの日から、私の時間は、少しだけ止まったままだった。 あの二人とまた会えるのだろうか? 喉の奥に刺さった小骨のように、時折チリリと痛む。 けれど、この世界は、感傷に浸る隙など一秒も与えてはくれない。 「――シーラ・デストーロ嬢。王宮より、第一王子ゼクス・デ・ロマンス様がお呼びです」 翌朝、デストーロ子爵邸に響いたのは、迎えの騎士の無機質な声だった。 案内されたのは、王宮の奥深く。 豪華な装飾が施された、けれどどこか「逃げ場」のない空気の漂う、王子の私室だった。 「やあ、シーラ。昨日までの仕事、ご苦労様。不当な縁を断ち切る君の姿、実に見事だったよ」 ゼクスは、窓辺で優雅にハーブティーを口に含みながら、私を振り返った。 どこから見てたんだよ。 率直にきもい。 相変わらずの、眩しすぎるほどに整った顔。 そして、それ以上に恐ろしい、一点の曇りもない「正義」に満ちた微笑み。 「お褒めに預かり光栄ですわ、殿下。……それで、御用件は? 私、次の『縁切り』の予約が詰まっておりますの。世の中には、腐った絆に苦しむ人々が、殿下の想像以上に多いものですから」 私は銀のハサミをドレスのポケットに忍ばせたまま、冷徹に言い放った。 だが、ゼクスはその微笑みを崩さない。 「ああ、その予約なら、すべてキャンセルしておいたよ」 「……なんですって?」 「君が縁を切りすぎるせいで、この国の『愛のエネルギー』が不足しているんだ。これは国家的な危機だよ。だから、今日から君には特別な公務に就いてもらう」 ゼクスは私のすぐ目の前まで歩み寄ると、その長い指先で、私の頬をなぞるように触れた。 「僕の隣で、二十四時間、愛の尊さを学ぶ『監視付き』の公務。……監禁、と呼んでもいいけれど?」 私は反射的に銀のハサミを抜き放ち、その鋭い刃先を、王子の喉元へ突きつけた。 「冗談が過ぎますわ、殿下。私との『縁』、このハサミで切り離して差し上げてもよろしくてよ?」 だが。 ゼクスはあろうことか、喉元に刃を当てられたまま、さらに一歩、私との距離を詰めてきたのだ。 銀の刃が、彼の肌に薄く赤い筋を作る。 「逃げようなんて無駄だよ、シーラ。君が僕との『縁』を切るたびに、僕は何度でも結
last updateآخر تحديث : 2026-08-01
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