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第六話「美しき妹の残酷な微笑み」

Penulis: ひなた翠
last update Tanggal publikasi: 2026-07-04 16:39:03

 五月上旬の夜。

 外気は半袖でも過ごせるほどに暖かく心地よいというのに、案内された高級レストランの個室は冷房が効きすぎていて、肌を刺すような冷たい空気が満ちていた。

 高い天井から吊るされたシャンデリアが、磨き上げられたテーブルの表面に冷たい光を落としている。防音の効いた室内は、外の喧騒を一切遮断しており、しんと静まり返っていた。紗良はその不自然なほどの静寂と冷気に、無意識のうちに腕をさすった。

 今日は、数ヶ月に一度の家族での食事会だった。

 あの浮気発覚の夜、そして湊斗からの突然の告白の夜から、数日が経過していた。慎吾への気持ちの整理はつかないまま、関係は宙吊りになっている。湊斗の「全力でおとしにかかる」という熱を帯びた言葉も、答えを出せないまま保留にしていた。

 心が二つの極端な感情の間で揺れ動き、疲労困憊している状態での家族との食事会は、紗良にとってひたすらに気が重いだけの行事だった。

 先に到着して個室の椅子で待っていた紗良のもとへ、ノックの音もなく不意に扉が開いた。一足先に姿を現したのは、義妹の美波だった。

 紗良と視線がぶつかるなり、美波は美しい顔をあからさまに醜く歪めた。

「ださっ。ブランド物できなさいよ。ボロボロの鞄によれよれの服で最悪」

 開口一番、挨拶の代わりに美波が吐き捨てた毒が、冷え切った個室の空気をさらに凍らせる。

 美波の視線は、紗良の足元に置かれた使い古した鞄と、地味な色合いのブラウスをねっとりと舐め回すように見下ろしていた。彼女自身は、流行の最先端をいくハイブランドのワンピースに身を包み、完璧なメイクを施している。その対比は残酷なほど明確だった。

「ああでも、お姉ちゃんはそういうの似合わないから。これくらいがちょうどいいかあ」

 くすくすと、人を小馬鹿にしたような笑い声が静かな個室に響く。

 美波は幼い頃から、紗良が大切にしているもの、気に入っているものを次々と奪ってきた。可愛いぬいぐるみ、お気に入りの洋服、そして、長年付き合ってきた恋人でさえも。少しでも目立つものを持てば、あるいは少しでも幸せそうにしていれば、必ず彼女の標的になり、完膚なきまでに奪い取られる。

 だから紗良は、美波の興味を惹かない「ボロボロの鞄」と「よれよれの服」を身に纏うことで、自分を守るしかなかった。美波の視界に入らないように、価値のない人間であるかのように振る舞うこと。それは長年かけて身につけた、惨めで、ひどく悲しい処世術だった。

(あの夜も、そうだった)

 慎吾の部屋の廊下に散乱していた自分の服を思い出す。美波が「貸して」と言って持ち去った服が、別の女としての彼女を彩るために使われていた現実。胃の奥がギリリと痛み、酸っぱいものが込み上げてきそうになるのを、紗良は必死に飲み込んだ。

 紗良は何も言い返さず、ただ膝の上で手を固く重ねて視線を落とした。ここで反論すれば、彼女はさらに喜んで攻撃をエスカレートさせるだけだと知っているからだ。

 数分後、再び扉が開いた。今度は両親が連れ立って個室に入ってくる。

 その瞬間、美波の纏う空気が劇的に一変した。

「パパー、ママー、遅いよお。お姉ちゃんと二人でずっと待ってたんだから」

 つい数秒前まで冷酷な言葉を吐いていた口から、ひどく甘ったるい、砂糖菓子のような声が出る。美波は弾んだ足取りで駆け寄るようにして、椅子から立ち上がりかけた紗良の腕に親しげに絡みついた。

 押し付けられる体温と、彼女から漂うあの夜のシーツと同じ甘ったるい香水の匂いに、紗良の全身に凄まじい悪寒が走る。吐き気を催すほどの不快感に身体が硬直したが、振り払うことはできない。

「相変わらず仲良しね」

 それを見た母が、目を細めて穏やかに微笑む。その笑顔には、娘たちが仲良くしているという微塵の疑いもない純粋な安堵が浮かんでいた。

「お前は姉さんに甘えすぎだぞ」

 継父もまた、呆れたように苦笑しながらも、その瞳には目に入れても痛くない末娘への深い愛情が滲んでいた。

 両親の前では「可愛い妹」の仮面を完璧に被る美波。紗良もまた、この場で波風を立てないために、そして何より母を悲ませないために「優しい姉」を演じるしかなかった。絡みつかれた腕の不快感を必死に堪え、引き攣りそうになる頬の筋肉を無理やり動かして、静かに微笑みを返す。

 この家族という名の閉鎖された舞台では、誰もが決められた役を演じ続けていた。血の繋がらない家族が、表向きの平穏を保つための危うい均衡。

 席につき、上着を脱ぐ両親を見つめていた紗良は、ふと視線を留めた。

 母の服装に、小さな、しかし明確な違和感を覚えたのだ。

 外は初夏のような陽気で、街を歩く人々は皆、軽やかな半袖や薄着を楽しんでいたというのに。母は手首までしっかりと隠れる長袖のブラウスに、首元をすっぽりと覆う窮屈そうなハイネックを着込んでいた。

 レストランの冷房が効いているとはいえ、外から来たばかりの服装としてはあまりにも不自然だ。よく見れば、母の顔色はどこか青白く、頬のあたりが少しやつれているようにも見える。メイクで隠してはいるが、目元には疲労の影が落ちていた。

「具合悪い?」

 気遣うように尋ねると、母は一瞬だけ、弾かれたように肩をびくりと震わせた。しかし、すぐにいつもの柔らかく穏やかな笑みを浮かべてみせる。

「首の皺が気になって隠してるのよ。もう若くないから」

 その声は少しだけ上ずっていたが、言葉自体は自虐を交えたありふれたものだった。

「そんなことしなくていいのに。君はいつだって綺麗だよ」

 隣に座る継父が、優しく言い含めるように母の肩を抱き寄せた。母はほんのりと頬を染め、恥ずかしそうにうつむく。表面上は、どこからどう見ても仲睦まじい、理想的な夫婦の姿そのものだった。

 けれど、紗良の胸の奥には、冷房の刺すような冷たさとはまったく質の違う、じわじわと這い上がってくるような微かな寒気が張り付いていた。

 母の小さな震え。隠すように覆われた首元。継父の完璧すぎる笑顔。

 母を心から心配したい気持ちと、目の前で繰り広げられる「幸せそうな家族」という絵図を信じるしかない無力感が、思考の中で矛盾して絡み合う。自分が声を上げれば、この薄氷の上に成り立つ平穏が崩れ去ってしまうのではないかという恐怖が、紗良の口を噤ませた。

 やがて、美しく盛り付けられた色鮮やかな前菜が運ばれ、食事の席は和やかに進んでいった。高級な食材が使われているはずなのに、紗良の舌には何の味も感じられなかった。ただ機械的に咀嚼し、飲み込む作業を繰り返す。

「佐伯くんとはどうだ?」

 グラスの白ワインを傾けながら、継父が何気ない口調で問いかけてきた。

 その名前が出た瞬間、紗良の心臓がドクンと嫌な音を立てた。あの夜のむせ返るような香水の匂いと、別れを拒絶して床に這いつくばり、すがりついてきた彼の惨めな姿が鮮明にフラッシュバックする。

(一番大切なのはお前なんだよ。だから、頼む……許してほしい)

 都合のいい言葉で縛り付けようとする彼の狡さが、今も紗良の足を重い鎖のように繋ぎ止めている。

「……順調です」

 飲み込むような、掠れた声で、紗良は嘘を吐いた。嘘をつくことの罪悪感と、真実を言えない情けなさで、胃の奥が鉛のように重く沈む。

 すると、隣に座っていた美波が、にこっと愛らしい、まるで天使のような笑みを浮かべて会話に割り込んできた。

「浮気とか、平気?」

 心臓が、大きく跳ねた。

 両親には、ただの「姉を心配する妹らしい無邪気な質問」として聞こえる、計算し尽くされたトーン。けれど、紗良にだけははっきりと分かった。当事者である彼女から放たれた、すべてを知っているからこそ言える、あまりにも残酷な挑発。

 両親の死角となるテーブルの下で、美波は冷たく見下すような不機嫌な視線を紗良の横顔に突き刺している。お前は何も持っていない、彼すらも私が奪ったのだという勝ち誇った目。

 紗良はサラダを運ぼうとしていた箸を一瞬だけピタリと止めたが、すぐに平常心を装って、何事もなかったかのように口に運び、咀嚼した。表情の筋肉を強張らせ、ただ淡々と受け流す。ここで動揺を見せれば、美波の思う壺だ。

「そういえば」

 娘たちの間に流れる張り詰めた空気を知る由もない継父が、ふと話題を変えた。

「一条くんの教育係をしているそうだね。彼、すごい経歴だ」

 湊斗の名前が、継父の口から「一条くん」として出た瞬間、紗良の胸が小さく、しかし確かに揺れた。

(俺、先輩がずっと好きでした。高校のときから)

 あの一途で熱を帯びた告白と、車内で強く掴まれた手首の火傷しそうなほどの体温が蘇る。あのどん底の夜に、唯一差し出された温かい手。

「すごいですよね。高校の後輩でもあるんです。高校のときから努力家でした」

 紗良は、内側の揺らぎが表情に出ないように細心の注意を払いながら、短く答えた。

「佐伯くんも彼を知っているんだろう?」

 継父の無邪気な質問が、紗良の傷口に塩を塗り込む。

「はい。すごく可愛がっていました」

 嘘だった。可愛がっていたどころか、慎吾は湊斗の圧倒的な才能と若さに深く嫉妬し、卑劣な言い訳の道具にしたのだ。「あいつがちやほやされているのを見て辛かったから、浮気をした」と。その後輩への醜い劣等感が、すべての発端だった。

「ねえパパ、私の話は?」

 紗良ばかりに話題が向くのが気に入らなかったのだろう。自分が常に舞台の主役であり、注目を集めていないと気が済まない美波が、わざとらしく唇を尖らせて不貞腐れてみせた。

 継父はすぐに「ごめんごめん」と相好を崩し、美波の華やかな大学生活の話へと矛先を変える。母もまた、美波の話に相槌を打ちながら微笑んでいる。

 紗良は小さく息を吐き出し、冷たい水を一口飲んだ。この空間は、やはり自分にとっては息苦しいだけの檻だった。

    ◇◇◇

 食事会が終わり、冷房の効きすぎたレストランから外へと出たときだった。

 夜風は心地よく温かく、凍えていた紗良の身体を優しく包み込んだ。ようやく呼吸がしやすくなったと感じた帰り際、先に車に向かおうとしていた継父が立ち止まり、思い出したように紗良を振り返った。

「柔道整復師の資格を持っていたよな? バスケチームのトレーナーの補助を次の人が決まるまで頼めないか」

 突然の依頼に、紗良は息を呑んだ。

 バスケチーム。そこは、湊斗がいる場所だ。

 彼に物理的に近づくことになるという逡巡が、一瞬だけ頭を過った。告白の返事を保留にしている今、彼と毎日顔を合わせる環境に行くのは危険な気がする。けれど、柔道整復師の資格を持つ身として、また会社での立場として、義父であり親会社の関係者でもある継父からの頼みを断る正当な理由は、どこにも見当たらなかった。

「……はい。分かりました」

 紗良が静かに了承すると、継父は「助かるよ」と満足げに頷いた。

 その言葉が、停滞していた自分の運命を大きく動かす歯車になることなど、この時の紗良はまだ知る由もなかった。

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