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第四話「窓を開けても薄まらない裏切りの匂い」

مؤلف: ひなた翠
last update تاريخ النشر: 2026-07-01 17:35:58

 あの日から、紗良の時間はひどく曖昧なまま流れ続けていた。

 オフィスのデスクでパソコンのモニターに向かっていても、文字はただの記号の羅列にしか見えない。キーボードを叩く指先は冷たく、意識はすぐに別の場所へと飛んでいってしまう。

(人形みたいで、つまらない)

 慎吾の残酷な響きが、不意に耳の奥で蘇る。あの薄暗い部屋、脱ぎ散らかされた自分の服、混じり合う汗の匂い。そのたびに胸の奥が冷たく凍りつき、息が詰まりそうになる。

(俺、先輩がずっと好きでした。高校のときから)

 かと思えば、湊斗の地を這うような真っ直ぐな声が、冷えた胸の奥に火傷しそうなほどの熱を落としていく。掴まれた手首の体温。退路を断つような強い瞳。

 裏切りと、思いがけない熱。二つの相反する記憶がぐるぐると頭の中で交錯し、紗良の思考を麻痺させていた。

 許すべきなのか、終わらせるべきなのか。

 五年という月日は、簡単には切り捨てられない重さを持っている。けれど、あの光景を見なかったことにはもうできない。湊斗の告白に対する答えも出せないまま、心の中の天秤はどちらにも傾かず、ただギシギシと嫌な音を立てて揺れ続けていた。

「紗良」

 不意に、頭上から声が降ってきた。

 びくりと肩を震わせて顔を上げると、いつの間に営業から戻ったのか、スーツ姿の慎吾がデスクの脇に立っていた。人当たりの良い、いつもの完璧な笑顔。周囲の目を気にすることなく、ごく自然にパーソナルスペースへと入り込んでくる。

「最近、様子が変じゃないか」

 覗き込むような距離。甘く、軽薄な響きを含んだ声。心配している風を装っているが、その瞳の奥には紗良に対する確固たる所有感が滲んでいる。

 紗良は小さく息を呑み、キーボードから手を離して膝の上で固く握りしめた。

「……別に、普通だけど」

「そう? ならいいけどさ。心配で早く帰れそうだから手料理が食べたい、それと膝が痛いからマッサージも」

 悪びれもせず、当然の権利のように彼は要求を口にする。

 本来なら、ここで「浮気していたくせに」と突き返すべきなのだ。あんなおぞましい現場を見たのだから。それなのに、紗良の口からは全く違う言葉が漏れ出ていた。

「わかった。……合鍵、使って入ってるね」

(私、何を言ってるんだろう)

 こくりと頷いた自分の身体に、激しい嫌悪感が込み上げる。長年染み付いた「世話焼きな彼女」としての習慣が、思考よりも先に身体を動かしてしまったのだ。

 満足そうに「頼んだ」と笑って立ち去る慎吾の背中を見送りながら、紗良は奥歯を強く噛み締めた。

 大学三年の秋。バスケ部の主将として輝いていた彼が、試合中の怪我で膝を壊し、すべてを失ったように荒れていたあの頃。

 絶望の底にいる彼を放っておけなくて、少しでも痛みを和らげたくて、必死に柔道整復師の資格を取った。高額な治療費を工面するために、両親の反対を押し切って始めた一人暮らしの生活費を極限まで削り、身を粉にしてアルバイトをし、ついには借金までした。

 あの献身的な日々の記憶が、今の紗良を呪いのように縛り付けている。私が支えなければ彼はダメになってしまうという、痛みを伴う思い込み。

 けれど、あの夜、彼は別の女を抱きながら笑っていたのだ。紗良の五年間のすべてを、「つまらない」の一言で切り捨てて。

    ◇◇◇

 終業後、紗良は見慣れたアパートの前に立っていた。

 鞄の中から取り出した合鍵は、金属特有の冷たさを持っている。何度もこの鍵で扉を開け、彼を待つために部屋に入った。彼にとって自分が「都合よく待つ女」であることを象徴するような、冷たくて重い鍵。

 冷え切った指先で鍵穴に差し込み、ゆっくりと回す。

 ガチャリという無機質な音が、ひどく大きく響いた。

 重い扉を開けた瞬間――むわっと、鼻を突く匂いがした。

(この匂い……)

 胃の奥から、酸っぱいものが込み上げてくる。

 それは紛れもなく、義妹の美波が好んでつけている甘ったるい香水の残り香だった。あの夜、扉の向こうで嗅いだ、汗と体液の入り混じった生々しい匂いの記憶がフラッシュバックする。

 足が竦む。心臓が早鐘のように打ち始め、呼吸が浅くなる。

 誰もいない静まり返った部屋。脱ぎ散らかされた服も、見知らぬ女の靴もない。いつものように片付いた室内なのに、空気だけが確実に汚染されていた。

 紗良は吐き気を堪えながら靴を脱ぎ、ふらつく足取りで部屋の奥へと向かった。そのまま真っ直ぐに窓へと近づき、勢いよくサッシを開け放つ。

 初夏の夜風が、遠慮なく室内に流れ込んできた。

 生ぬるい風がカーテンを揺らし、部屋にこびりついた不浄な空気を少しずつ外へと押し流していく。大きく深呼吸を繰り返し、肺の奥まで夜の空気を吸い込んで、ようやく少しだけ吐き気が治まった。

(早く、空気を入れ替えなきゃ)

 逃げるようにキッチンへと立ち、買ってきた食材をカウンターに広げる。

 大葉、鶏肉、色鮮やかなトマト。

 並べた食材を見下ろし、紗良は小さく息を吐いた。

(……あの日の記憶を呼び起こす食材だって、わかっているのに)

 それは浮気現場を目撃したあの残酷な夜、彼のために買い、結局は湊斗の家で調理することになったのと同じ食材だった。トラウマをえぐるようなものだから避けたかったのに、慎吾から「手料理が食べたい」と甘えられた瞬間、スーパーで無意識にこの食材をカゴに入れてしまったのだ。

 消化に良く、タンパク質が豊富な鶏肉の治部煮。それは膝を壊した彼のために紗良が試行錯誤して行き着いた『回復メニュー』であり、彼が一番好きな手料理でもあった。

「彼の身体を治さなきゃ」「彼の好きなものを作ってあげなきゃ」――そんな長年染み付いた呪いのような習慣が、嫌な記憶を遠ざけたいという理屈よりも勝ってしまった。その事実に、ひどく惨めな気持ちになる。

 同じ食材。けれど、あの夜、湊斗の清潔なキッチンで作った時の安堵感とはまるで違う。香水の匂いが残る裏切った男の部屋で、彼のために手を動かしている自分が滑稽でならなかった。

 まな板の上に野菜を置き、包丁を握る。トントン、トントンと、規則正しい音が静かな部屋に響き渡る。

 あの夜、エコバッグを持ったまま立ち尽くした廊下がすぐ後ろにある。同じ場所なのに、今は嘘のように静かで、全く違う時間が流れているようだった。

 鍋に火をかけ、出汁の香りが立ち昇る。

 もう終わりにしたいと心が叫んでいるのに、身体は勝手に彼のために料理を作っている。その矛盾に、胸が引き裂かれそうだった。

 ブブッ、とエプロンのポケットの中でスマートフォンが振動した。

 手を止め、画面を確認する。慎吾からのメッセージだった。

『残業になった』

 短いテキスト。いつものことだ。

 紗良は無表情のまま、画面をタップする。

『じゃあ帰るね』

 すぐに既読がつき、返信が飛び込んできた。

『少し遅くなるだけだから待ってて』

(待ってて)

 その言葉が、ひどく重く、息苦しく感じられた。

 いつもそうだ。彼は待たせる側で、紗良は待つ側。それがこの五年間の二人の関係性を決定づけていた。

(あの人なら、こんなふうに私を待たせたりしない)

 不意に、汗だくで笑う湊斗の顔が脳裏をよぎる。過剰に甘やかすことはないけれど、決して紗良を蔑ろにしない、真っ直ぐな瞳。

 紗良は包丁を置き、火を弱めた。

 シンクに両手をつき、開け放たれた窓の外へと視線を向ける。

 遠くに見える街灯が、オレンジ色の光を頼りなく放っていた。夜風が紗良の柔らかい髪を揺らし、頬を撫でていく。

 静寂の中で、鍋の中の煮汁がコトコトと微かな音を立てている。

 香水の匂いは薄まってきたけれど、紗良の胸の奥にこびりついた違和感と嫌悪感は、どうしても消え去ってくれなかった。

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  • 略奪された夜、一途な後輩に拾われました   第二十二話「動き出したそれぞれの時計」

     キーボードを叩く乾いた音が、静かなオフィスに規則正しく響き渡っている。 空調から吹き出す冷たい風が、うなじを撫でた。コピー機から漂ってくる微かなオゾン臭と、紙の匂い。いつもと変わらない、平和で無機質な会社の昼下がり。 紗良はパソコンのモニターから視線を外し、凝り固まった肩を小さく回した。キャビネットからファイルを取ろうと、キャスター付きの椅子から腰を浮かせた瞬間だった。「いたっ」 下腹部から腰の奥にかけて、電気が走ったような鋭い痛みが突き抜ける。 思わず短い悲鳴を漏らし、紗良は腰をさすりながら中腰の姿勢でピタリと固まった。筋肉の奥深くが軋み、熱を持っている。昨夜の、激しく終わりの見えなかった情事の生々しい記憶が、鈍い痛みに乗って脳裏に鮮やかに蘇った。(もう、足までガクガクしてる……) ふと強い視線を感じて横を向くと、パーテーションを隔てた隣のデスクでキーボードを叩いていたはずの湊斗が、こちらを見ていた。顔の角度だけをこちらに向け、身体はパソコンに向かったままだが、その端整な顔の口元はだらしなく、たまらなく嬉しそうに歪んでいる。「つらそうですね」 周囲の社員には聞こえない程度の、低く掠れた囁き声。その響きには、自分がいかに彼女を愛し抜いたかという、隠しきれない優越感が滲んでいた。「誰のせいよ」 紗良は顔の輪郭がカッと熱くなるのを感じながら、小声で彼を睨みつけた。「本当に朝までって……あり得ない」「体力だけはあるんで」 反省の色など微塵もない、爽やかで無邪気な笑顔だった。プロのバスケットボール選手としての無尽蔵のスタミナを、まさかあんな形で一晩中見せつけられるとは思ってもみなかった。「ありすぎ!」 頬を膨らませて文句を言うものの、くすくすと嬉しそうに笑う彼の顔を見ると、どうにも本気で怒ることができない。むしろ、彼が自分にそれほどまでの執着と熱情を向けてくれた事実が、胸の奥を甘い痺れで満たしていく。 呆れと、深く甘い愛しさ。相反する感情が胸の中で心地よく混ざり合い、紗良の唇から自然と笑みがこぼれた。 その時、机の上の内線電話がけたたましいコール音を鳴らした。 ビクッと肩を震わせ、受話器を取る。『紗良さん、下の受付にお客様です』「わかりました」 短い返事を返し、受話器を置く。来客の予定など入っていなかったはずだ。不思議に思いな

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