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第七話「年下エースの不器用な独占欲」

Author: ひなた翠
last update Petsa ng paglalathala: 2026-07-05 18:46:26

 五月上旬のうららかな陽光が、会社の敷地内に整備された遊歩道を明るく照らしていた。

 初夏を思わせる少し強めの風が、青々と茂る街路樹の葉を揺らし、木漏れ日が足元で不規則な模様を描いている。

 体育館へ向かう道すがら、紗良はふと立ち止まり、自分の両手を目の高さに掲げてじっと見つめた。

 華奢で、決して大きくはない手。手のひらを返すと、そこには薄くタコができている。トレーナーとして、柔道整復師として、数え切れないほど人の身体に触れ、圧をかけ、癒してきた証だった。

(あのころは、必死だった)

 紗良の脳裏に、かつての記憶が鮮明に蘇ってくる。

 慎吾が大学の試合中に膝に致命的な怪我を負い、深く絶望していたあの時期。少しでも彼の力になりたくて、彼の痛みを和らげたくて、紗良は柔道整復師の資格を取ることを決意した。

 昼間は大学に通い、夜は眠い目をこすって分厚い参考書に齧りついた。専門用語が羅列されたページを何度もめくり、自分の身体でツボや筋肉の付き方を確認しながら、頭に叩き込んだ。それと並行して、高額な治療費やリハビリ費用を工面するために、身を粉にしてアルバイトに明け暮れた。

 疲労で倒れそうになった日も、自分の時間がまったく取れなくて泣きそうになった夜も、すべては彼のためだった。彼の膝が少しでも良くなるなら、彼が再びコートで笑顔を見せてくれるなら、どんな苦労も厭わなかった。

 同じ資格、同じ手。

 あのころの自分は、自分のすべてを懸けて彼のために走り回っていたのに。

 今の自分は――あの夜に見た惨めな彼の姿や、甘ったるい香水の匂いを思い出し、まだ彼との関係を完全に断ち切れないでいる。それなのに、別の男の身体を癒す場所へと足を踏み入れようとしているのだ。

 自分の不甲斐なさに、紗良は唇を噛んだ。

 手のひらに残る過去の重みと、これから向かう未知の場所への戸惑いが、紗良の胸の奥で静かに渦を巻いていた。それでも、立ち止まっているわけにはいかない。紗良は一つ大きく深呼吸をして、体育館へと歩みを進めた。

    ◇◇◇

 重厚な金属製の扉に手をかけ、力を込めて押し開ける。

 その瞬間、むっとした熱気とともに、汗と床のワックス、そして微かな湿り気を帯びたスポーツ特有の匂いが鼻を突いた。

 ダム、ダム、と床に激しく弾むバスケットボールの重低音。キュッ、キュキュッ、とゴム底のシューズが軋む小気味いい音が、高い天井の広大な空間に幾重にも反響している。選手たちの掛け声や、荒い息遣いが入り混じり、一種の熱狂的な音楽のようだった。

 高い位置に設けられた窓からは、午後の強い光が斜めに差し込み、コートの上に舞い上がる細かな埃をきらきらと黄金色に照らしている。

 昨夜のレストランの、肌を刺すような冷房と、息が詰まるほどの閉鎖的な冷たさ。偽りの家族を演じるためのあの空間とは、完全に対極にある場所だった。嘘偽りのない、ただひたすらに己の身体と技術を磨き上げるための、健全で清潔な世界。その眩しさに、紗良は思わず目を細めた。

「神崎さんですね。お待ちしていました。今日からよろしくお願いします」

 壁際で待機していた、温厚そうな中年男性の前任トレーナーが笑顔で歩み寄ってきた。

「こちらこそ、よろしくお願いいたします。至らない点も多いかと思いますが、精一杯努めさせていただきます」

 紗良は深く頭を下げ、丁寧な挨拶を返す。事務的な引き継ぎを終えた後、練習の合間を縫って選手たちに紹介されることになった。

 ホイッスルの音が鳴り響き、汗だくの屈強な男たちがコートの端に集まってくる。巨漢の選手たちに囲まれると、紗良の身体はより一層華奢に見えた。

 ペコリと頭を下げた紗良の視界の端に、集まった選手たちの一番後ろ、コートの中に立つ湊斗の姿が映った。

 一瞬、彼と視線が交差する。

 黒に近いダークネイビーの髪が汗で額に張り付き、鋭い眼差しが紗良を真っ直ぐに捉えていた。しかし、彼は表情を一切変えず、ただ短く顎を引いて頷くだけだった。あの夜、車の中で熱を帯びた瞳で告白してきた彼とはまるで違う。

 仕事モードの紗良に合わせて、ただの一選手として、節度ある態度で振る舞ってくれているのだ。その適度な距離感と、彼なりの気遣いに、紗良は少しだけ肩の力を抜いた。

 短い顔合わせが終わり、再び練習が再開された。

 紗良は壁際に立ち、カルテを抱き抱えるようにしてコートを見つめる。前任者から渡された選手ごとのウィークポイントやケアの履歴に目を通しながらも、どうしても視線は一人の選手に引き寄せられてしまった。

 一条湊斗。

 高校時代も、彼はすでにずば抜けた才能を発揮していた。しかし、海外で厳しい研鑽を積み、数々の修羅場を潜り抜けてきた今の湊斗は、当時とは比べ物にならないほど別格の存在感を放っていた。

 しなやかで低い姿勢からの、相手を置き去りにするような鋭いドリブル。床を滑るように滑らかな、それでいて力強いステップ。ディフェンスの隙を縫って放たれる、迷いのない美しい弧を描くシュート。

 鍛え上げられた無駄のない筋肉が、午後の光を浴びて躍動している。汗が首筋を伝って落ちるたびに、光を反射して輝いた。

 ボールを持っているときも、そうでないときも、彼の視線は常にコート全体を把握し、次の一手を計算している。揺るぎない集中力。勝利への執念。

 その圧倒的な存在感と、アスリートとしての究極の美しさに、紗良は思わずカルテを持つ手に力を込め、息を詰めて見入ってしまった。彼が動くたびに、周囲の空気が彼を中心に渦巻いているようにさえ感じられる。

 やがて全体練習が終わり、熱気に包まれていた体育館が少しずつ落ち着きを取り戻していく。選手たちは各自のペースでクールダウンに入り、個別のケアの時間が始まった。

 簡易ベッドの傍らに用意されたパイプ椅子に座り、紗良は選手たちの筋肉の張りをほぐし、疲労を取り除いていく。

 順番が回り、ひときわ大きな影が紗良の前に落ちた。

 湊斗が、紗良の前の椅子に腰を下ろす。

「……よろしくお願いします」

 少し掠れた、低い声。彼から発せられる熱気と、男らしい汗の匂い、そして微かな石鹸の香りが紗良の鼻腔をくすぐる。

「はい。よろしくお願いします」

 紗良は呼吸を整え、彼の足首と膝に触れた。

 職業的な冷静さを保とうと、指先にすべての意識を集中させる。骨の並び、筋肉の張り、腱の硬さ。仕事として、これまで何百人ものアスリートに触れてきたのと同じように、機械的にケアを進めようとする。

 しかし、指先から伝わってくる感触は、どうしようもなく彼が「一条湊斗」であることを意識させた。

 引き締まったふくらはぎ。しなやかで強靭な太腿。確かな熱を持つ彼の体温が、手のひらを伝って紗良の体内に流れ込んでくるようで、指先がひどく落ち着かない。トクン、トクンと脈打つ彼の鼓動が、自分の心臓の音と重なり合っていくような錯覚に陥る。

 黙々とケアを進めていると、不意に湊斗が上体を前に倒し、顔を寄せてきた。

 周囲の誰にも聞こえない、紗良の耳元にだけ届く低い声で呟く。

「先輩がクソ男のために頑張って勉強したのかと思うと、悔しいっすね」

(……っ)

 紗良は息を飲み、言葉に詰まって手を一瞬だけピタリと止めた。

 あの夜、自分がどれだけ慎吾のために尽くしてきたか、そして裏切られたかを、彼はすべて知っている。知ったうえで、それでも紗良の過去の献身を惜しむような、彼の真っ直ぐで不器用な言葉。

 彼の「悔しい」という感情には、嘘偽りのない独占欲と、紗良を不当に扱った慎吾への静かな怒りが込められていた。

 どう返していいか分からず、紗良はただ無言で彼の膝の裏に指を滑らせた。少し強めに圧をかけると、彼は「んっ」と短く息を漏らしたが、それ以上は何も言わなかった。

 そこに、不意に大きな声が響いた。

 わちゃわちゃと、気のいい先輩選手たちが二人、タオルを首にかけながら集まってきたのだ。

「おっ、新入りトレーナーさん! こいつ、格好いいし若いからって食っちゃダメっすよ」

 にやにやと意地悪く笑いながら、色黒の先輩選手が紗良に向かって冗談を飛ばす。紗良が愛想笑いを浮かべていると、もう一人の先輩がすかさず言葉を被せた。

「そうそう、こいつ、一途に好きな人いるから! 他の女には目もくれないんすよ」

「やめっ、言うなって!」

 湊斗が慌てて身を乗り出し、顔を真っ赤にして先輩たちを制止する。先ほどまでの、コート上の別格のアスリートとしての冷静な顔や、紗良を揶揄うような大人の顔はどこへやら、そこには年相応の、恋をからかわれて焦る青年の素顔があった。

「いろんな実業団チームや海外から好条件で声をかけられてたのに、全部蹴ってうちみたいな弱小チームに来た理由、ずっと好きな女がいるからなんですよ。やばいっすよね、こいつの執念」

 先輩選手たちは、後輩の純情を面白がるように楽しそうに言い残し、ガハハと笑いながらロッカールームへと去っていく。

(好きな女がいるから……)

 紗良は、膝の上に置いた手元のタオルを無意識にきつく握りしめた。

 自分だけが知らなかった、彼の片想いの長さと、人生の選択すら左右するほどの本気度。周囲公認のその事実に、胸の奥がちくりと疼く。

 私が彼に与えてしまった影響は、どれほど大きいのだろう。彼の才能を、私のせいで狭めてしまっているのではないかという罪悪感と、それほどまでに思われていることへの、言葉にならない熱い感情。

 周囲に誰もいなくなり、再び二人きりになると、湊斗はバツが悪そうに視線を逸らし、耳まで赤くして小さく呟いた。

「……そういうことなんで」

 しかし、すぐに彼は顔を上げ、鋼色の瞳で紗良を真っ直ぐに見据えた。

 その瞳には、誤魔化しようのない真剣な光が宿っている。

「俺、格好いいし若いから――先輩なら食っていいっすよ」

 にこっと、不敵で、ひどく甘い笑み。

 揶揄って距離を縮めたいのに、先輩たちに本気で揶揄われると照れてしまう。その両面が彼の中に同居している不思議さに、紗良は熱くなる頬をごまかすように手を伸ばした。

「そもそも食べ物じゃないでしょう」

 湊斗の頬を、容赦なく抓る。指先に伝わる彼の肌は若々しく、張りがあった。

「いてててて、先輩、痛いっす! 力強い!」

 情けない声を上げ、大げさに顔をしかめながらも、湊斗の瞳は少しも笑っていなかった。

 真剣な光を帯びたまま、至近距離で紗良を見つめ返す。その視線の熱さに、紗良の方が耐えきれなくなりそうになる。

「でも、本気なんで。忘れないでくださいね」

 低い声で言い残し、彼は立ち上がってコートへと小走りで戻っていく。

 長い足。広い肩幅。汗でシャツが背中に張り付いている。

 再びボールを突く音が響き始める。

 紗良は手元のカルテに視線を落とそうとして――気づけば、光の中を走る湊斗の広い背中を、ずっと目で追ってしまっていた。

 かすかに逸らそうとした視線は、どうしてか彼から離れてくれなかった。胸の奥で、確かに何かが芽生え始めていることを、もう否定することはできなかった。

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