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略奪された夜、一途な後輩に拾われました
略奪された夜、一途な後輩に拾われました
ひなた翠

第一話「残酷な現実から逃げ出した先で」

last update Veröffentlichungsdatum: 28.06.2026 21:11:03

 五月上旬の風は、半袖でも過ごせるほどに心地よい温度を含んでいた。日が落ちかけて、ポツリポツリとオレンジ色の街灯がともり始める時間帯。神崎紗良は、ずっしりと重いエコバッグの持ち手をぎゅっと握り直した。暮れゆく街の空気は穏やかで、帰路を急ぐ人々の足音には微かな生活の匂いが混じっている。

(最近、慎吾の様子がおかしい)

 連絡の頻度が減り、一緒にいてもどこか上の空な態度が気にかかっていた。スマートフォンの画面を見つめては誤魔化すように伏せる仕草や、急な残業が増えたこと。ただの杞憂であればいい。仕事が忙しいだけだ。そう自分に言い聞かせながらも、不安の種は少しずつ紗良の胸の中で黒い根を張っていた。

 心配でたまらず、彼のために身体に良い食材を買い込み、仕事帰りに彼のアパートを訪ねたのだ。柔道整復師の資格を持つ紗良にとって、以前膝を壊した恋人の体調を気遣い、食事でサポートするのは、もはや日常の延長のようなものだった。

 エコバッグの中には、消化の良い鶏肉や、彼が好きな彩り豊かな緑黄色野菜が詰まっている。彼の健康を守り、疲れた身体を癒すことが、自分にできる最大限の愛情表現だと信じて疑わなかった。

 しかし、見慣れたアパートの共同廊下に足を踏み入れた瞬間、紗良の足がコンクリートの床に縫い付けられたようにピタリと止まった。

(嘘……)

 薄暗い廊下の奥から、艶めかしい声が耳に届く。それはどう聞いても、紗良が向かおうとしている慎吾の部屋から漏れ聞こえていた。甘く、ねっとりとした女の嬌声と、それに応えるような低い男の吐息。隙間風に乗って微かに鼻をかすめるのは、他人の体温と汗を思わせる生々しい匂い。

(まさか)

 全身の血の気が引き、指先が氷のようにひどく冷たくなる。鼓動が早鐘のように打ち始めた。ドクン、ドクンとうるさいほどに耳の奥で血液が波打つ。頭では「何かの間違いだ」「彼がそんなことをするはずがない」と必死に否定しながらも、真実を確かめなければという抑えきれない衝動に駆られ、紗良は音を立てないように冷たい金属のドアノブに震える手をかけた。確かめたくないのに、逃げ出したいのに、手は勝手に動いてしまう。ゆっくりと、軋む音に細心の注意を払いながら、重い玄関ドアを開ける。

 途端に、ひわいな水音と粘着質な声がより鮮明に鼓膜を打った。息を呑む。玄関の靴箱の脇には、見覚えのある女性用の靴が無造作に脱ぎ捨てられていた。華奢なピンヒールに、煌びやかなビジューが輝いている。紗良が選ぶような実用的で地味な靴とは違う、自らを飾るためだけの靴。さらに、ワンルームへと続く短い廊下には、脱ぎ散らかされた服が点在している。柔らかな素材のブラウス、短いスカート、そしてレースの下着。

 視界の端に映ったそのブラウスの柄に、紗良は絶句した。それは紛れもなく、義理の妹である美波に「これ可愛い、貸して」と無理やり奪われた紗良自身の服だった。一度貸せば二度と返ってくることのない、幼い頃から幾度となく繰り返されてきた「奪われた」記憶の象徴が、そこにあった。ここまで来てしまえば、相手が誰なのかは痛いほどにわかってしまう。

(見たくない。逃げ出したい)

 心の中で悲鳴のような声を上げているのに、足は勝手に前へと進んでしまう。自分の目で決定的な瞬間を確かめなければ、この残酷な現実を信じることができなかった。足が小刻みに震え、心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく鳴っている。膝が笑い、うまく力が入らない。それでも一歩、また一歩と、紗良は重い足を引きずって奥へと進んだ。空気がひどく澱んでいる。むせ返るような甘い香水の匂いと、男女の混じり合った汗の匂いが壁に張り付いていた。

 開け放たれた扉の先。明るい照明の下で、二つの身体が激しく重なり合っていた。慎吾と美波だった。今まで紗良がされたことのないような獣のような体位で、二人は貪るように求め合っている。肌と肌がぶつかり合う生々しい音。乱れたシーツ。快楽に歪んだ慎吾の顔と、彼に縋り付くように腕を回す美波の白い背中。視界がぐらりと揺れた。胃の奥から酸っぱいものが込み上げてくる。呼吸の仕方を忘れたように、喉がひゅっと鳴った。

「お義姉ちゃんとどっちがいい? どっちが好き?」

 肌を重ね合わせ、甘えたような、どこか挑発的な声で美波が問いかける。その声には、姉からすべてを奪い取る優越感がはっきりと滲んでいた。

「お前に決まってるだろ。あいつは人形抱いてるみたいでつまらない」

 慎吾が下品に笑いながら答えた。迷いの一切ない、残酷な即答だった。

(人形みたいで、つまらない……)

 その言葉が、鋭い刃となって紗良の胸を深く、無惨にえぐった。ずっと自分の感情を押し殺してきた。幼い頃から大切なものを奪われ続けても、波風を立てないように、親を困らせないようにと耐えて生きてきた。感情を殺し、ただ穏やかに微笑むことが、紗良の生きる術だった。慎吾のためにも尽くしてきた。彼が怪我で荒れていた時も、ただ静かに寄り添い、少しでも彼の痛みを和らげようと必死に資格まで取ったのに。彼はそれを「つまらない人形」だと笑ったのだ。自分が必死に押し殺してきた感情の果てを、彼はただの退屈だと切り捨てた。

 限界だった。もうこれ以上、一秒たりともここにいたくない。吐き気を堪え、紗良は音を立てずに後ずさった。足がもつれそうになるのを必死に堪え、そのまま静かに部屋を出る。食材の入ったエコバッグの持ち手が指に深く食い込んでいる。彼のために選んだ色とりどりの野菜も、消化に良い肉も、今はただの重い石のようだった。じわじわと広がる手のひらの痛みにすら気づかないまま、紗良はただ足だけを動かし続けた。扉を閉め、外の空気に触れても、肺の奥にはまだあの部屋の濁った空気がこびりついているようだった。

    ◇◇◇

 どこをどう歩いたのか、まったく記憶がなかった。街の喧騒も、すれ違う人々の笑い声も、すべてが分厚いガラスの向こう側の出来事のようだった。足元がふわふわと浮ついているような感覚。信号の光が滲んで見え、車のヘッドライトがやけに眩しい。

 頭の中では、何度も先ほどの光景と残酷な言葉がリフレインしている。「お前に決まってるだろ」「つまらない」。その声が響くたびに、胸の奥が冷たく凍りついていく。

 気がつけば、見慣れたオフィス街、自分の勤める会社の近くまで戻ってきていた。日がすっかり落ち、夜の帳が下りた街は、冷たい風が吹き抜けている。

「先輩?」

 不意に、背後から声をかけられた。びくりと肩を震わせて振り返る。そこには、黒いジャージ姿で汗だくになった一条湊斗が立っていた。会社の体育館でのバスケの練習を終えたばかりなのだろう。首にタオルをかけ、肩で息をしている。ダークブラウンの鋭い瞳が、幽鬼のように力なく立ち尽くす紗良を驚いたように捉えている。

 見知った顔。いつもクールで、けれどどこか温かい高校時代からの後輩の顔を見た瞬間――紗良の中で張り詰めていた太い糸が、ぷつりと音を立てて切れた。

(ああ、私……)

 麻痺していた感情が怒涛のように押し寄せ、堪えていた涙が決壊する。ぽろぽろと大粒の涙が頬を伝い、止めようとしても溢れ出て止まらなかった。声を殺そうとしても、喉の奥からヒックと情けない音が漏れる。視界が涙で完全に歪み、立っていることすらままならなくなる。

 湊斗は目を丸くして驚きながらも、すぐに長い足で距離を詰め、崩れ落ちそうになる紗良の身体を力強く抱きしめた。硬い胸板。大きな腕。彼は理由も聞かず、ただ静かに、大きな手で紗良の背中をさすってくれる。優しく、慈しむような手つきだった。

「汗臭くてすみません」

 頭の上から降ってきた少し掠れた声。湊斗の体温と、体育館特有の熱気、そして汗の匂いが鼻をくすぐった。それは、先ほどの部屋で嗅いだ不快な香水と体液の生々しい匂いとは違う、健全で嘘のない真っ直ぐな温度だった。彼の汗ばんだシャツ越しに伝わる心音は、力強く、規則正しい。その確かな命の響きが、紗良の凍りついた心を少しずつ溶かしていくようだった。

「練習後の匂いは、好きだから」

 涙声でそう答えると、背中を撫でていた湊斗の手がほんの少しだけ止まった。彼の身体が微かに強張ったのがわかる。

「それは今、言っちゃまずいですよ。俺も一応男なんで」

 飄々とした、けれどどこか真剣な響きが混じる声。その過剰に慰めることのない、彼らしい不器用な優しさに触れ、紗良は胸に顔を埋めたまま、震える声を絞り出した。言いたくない。けれど、誰かに聞いてほしかった。

「浮気してた。義理の妹と。今、見ちゃって」

 口に出すことで、事実が完全に確定してしまうのが怖かった。声に出した途端、ひどい喪失感が襲いかかり、膝の力が完全に抜ける。立っていられなくなる紗良の身体を、湊斗の腕がしっかりと支える。彼は言葉を返す代わりに、少しだけ腕の力を強めてくれた。安っぽい同情の言葉も、適当な慰めも口にしない。紗良の嗚咽が落ち着くまで、ただ確かな熱を持って、そこにいてくれた。夜の冷たい風から守るように、大きな体で包み込んでくれる。

 やがて、紗良のしゃくりあげるような呼吸が少し落ち着いたのを見計らい、湊斗はゆっくりと身体を離す。そして、紗良の白くなった指先が痛いほど握りしめていたエコバッグに視線を落とした。

「先輩、腹減ったんで何か作ってもらえます? 家、近いんで」

 同情でも哀れみでもない、日常へと引き戻すような当たり前のトーンだった。湊斗の長い指先が、エコバッグから覗く食材を真っ直ぐに指さしていた。

(優しい――。どうしてこんなに)

 彼なりの気遣いだとわかった。一人で帰せば、またあの部屋の光景を思い出して泣き崩れてしまうと見抜いているのだ。悲しみの淵から掬い上げてくれるような温かさに、紗良はただ小さく、こくりと頷くことしかできなかった。手の中にあるエコバッグの重みが、今は少しだけ、違う意味を持って感じられた。

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Kommentare (1)
goodnovel comment avatar
さく
いやーん 素敵な告白... 後輩君がいいよ!
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