Masuk薄暗い部屋の中で、チクタクという時計の秒針の音だけが、やけに大きく響いていた。
ベッドの上に身を投げ出したまま、紗良はただぼんやりと見慣れた寝室の天井を見つめていた。エアコンの微かな駆動音。肌に触れるシーツの冷たさが、体温を容赦なく奪っていく。
目を閉じれば、裏切りの光景が否応なしにフラッシュバックする。
乱れたシーツ。男女の混じり合う汗の匂い。美波の甘えた声と、慎吾の残酷な響き。
(人形抱いてるみたいでつまらない)
あの言葉が、鋭い棘となって胸の奥に深く突き刺さったまま抜けない。五年間の献身をあっさりと否定された喪失感。足元が音を立てて崩れ落ちるような絶望。
それに直面し、これからどうすべきか、一人で静かに考えなければならないはずだった。自分は捨てられたのだという現実を、冷たい暗闇の中で噛み締めなければならないはずだった。
それなのに。
(俺、先輩がずっと好きでした。高校のときから)
低く、地を這うような湊斗の声が、思考の隙間に滑り込んでくる。
(佐伯先輩が先輩を悲しませてるなら、俺――全力で先輩をおとしにかかりたいと思います)
車内で掴まれた手首が、じんじんと熱を持っていた。火傷しそうなほどの彼の体温が、衣服越しに直接肌へ伝わってきたあの感覚が、どうしても消えない。冷たいシーツに包まれているのに、掴まれた箇所だけが熱を帯びているようだった。
冷たい絶望と、火傷しそうなほどの熱。
まったく違う矛盾した二つの感情が、狭いベッドの上でぐるぐると交錯する。慎吾の裏切りという現実に向き合わなければならないのに、気づけば湊斗の真っ直ぐな瞳と、宣戦布告のような告白ばかりが頭の中を支配していく。
紗良は小さく息を吐き出し、ベッドの中で寝返りを打った。
右を向いても、左を向いても、思考は晴れない。目を閉じても眠りは訪れず、ただ時間だけが無情に過ぎていく。
大きく、分厚い手。シャワー後の石鹸の爽やかな匂い。退路を断つような真っ直ぐな言葉。
高校時代から、ずっと好きだった?
あの生意気で、バスケにしか興味がないと思っていた後輩が。長い時間、そんな想いを隠し持っていたなんて。
(どうして、今更……)
胸の奥がぎゅっと締めつけられる。パジャマの胸元を強く握りしめ、再び寝返りを打った。シーツが擦れる音が、静寂の部屋に響く。
考えれば考えるほど、頭の中はひどく鈍く靄がかかったままで、何の答えも浮かんでこない。
チク、タク。時計の針は止まらない。
何度も何度も寝返りを打ち、シーツをくしゃくしゃに丸め、ただ天井を見つめ続ける。
やがて、分厚いカーテンの隙間から差し込む光の色が変わった。
冷たい群青色だった夜空が、少しずつ白み始めている。小鳥の囀りが微かに聞こえ始め、朝の訪れを告げていた。
結局、紗良は一睡もできないまま、新しい朝を迎えてしまった。
◇◇◇
洗面所に立ち、冷たい水で顔を洗う。
タオルで水滴を拭き取り、鏡を見つめた瞬間、紗良は思わず深いため息を漏らした。
鏡に映る自分の顔は、ひどく疲弊していた。青白い肌。そして何より、目の下にはくっきりと濃い隈が刻まれている。眠れなかった夜の長さと、感情の激しい揺れ動きが、残酷なほど可視化されていた。
少し多めにコンシーラーを叩き込み、なんとか体裁を整える。
重い鉛のような身体を引きずり、紗良はマンションを出た。初夏の朝の空気はまだ微かな冷たさを残しているが、日差しは少しずつ強まり始めている。足取りは重く、視界はどこか霞んでいた。
始業時間よりかなり早く到着したオフィスは、まだ人もまばらで、静けさに包まれていた。
朝の光がブラインドの隙間から差し込み、無機質なデスクを白く照らしている。自分の席に向かって歩き出した紗良は、ふと足を止めた。
斜め向かいの席に、すでに出勤していた湊斗の姿があった。
彼はパソコンの画面に向かって何やらキーボードを叩いていたが、紗良の気配に気づくと、パタリと手を止めた。
ダークブラウンの瞳が、真っ直ぐに紗良を捉える。
昨夜の熱を帯びた告白がフラッシュバックし、紗良の心臓が大きく跳ね上がった。
(どうしよう、どんな顔をすれば……)
戸惑う紗良をよそに、湊斗はスッと立ち上がり、歩み寄ってきた。
長い足で距離を詰められ、紗良の目の前でぴたりと止まる。そして、無遠慮なほど顔を覗き込んできた。
長い睫毛。端正な鼻筋。石鹸の微かな匂いが鼻をくすぐる。
至近距離で視線が絡み、紗良が息を呑んだ瞬間、彼が口を開いた。
「目の下の隈、ひどいですよ」
飄々とした、いつもと変わらないトーン。
あまりにストレートな指摘に、紗良の中で張り詰めていた緊張が、別の意味で弾け飛んだ。
「それはそっちが急に告白するから!」
オフィスであることを忘れ、思わず抗議の声が口をついて出た。
昨夜のあれほど情熱的な告白をしておきながら、翌朝第一声が隈の指摘だなんて。デリカシーというものがないのだろうか。
顔を赤くして睨みつける紗良を見て、湊斗はふっと目を細めた。
面白がるような、それでいてどこか安堵したような笑みが唇の端に浮かぶ。
「ああ、俺のせいで寝不足ならよかった」
悪びれる様子もなく、むしろ満足げに呟く彼に、紗良は目を丸くした。
「どういうこと?」
「クソ男のせいで眠れない夜だったのなら、腹立つでしょ? 俺が」
低く、甘さを孕んだ声。
その言葉の意味を理解した瞬間、紗良は雷に打たれたように固まった。
――クソ男のせいで眠れない夜。
確かに、自分は昨日、恋人の浮気現場を目撃した。五年間の裏切りという残酷な現実を突きつけられ、どん底の悲しみに突き落とされたはずだった。
本来なら、その絶望感や彼に対する怒り、今後の悲哀で一晩中泣き明かしていてもおかしくなかった。
それなのに。
ベッドの中で紗良の頭を占めていたのは、慎吾のことではなかった。
手首に残る熱。大きな手。そして、「全力でおとしにかかる」という湊斗の宣戦布告。
気づけば、自分が「浮気された悲劇の女」だったという現実をすっかり棚に上げ、湊斗のことばかりをぐるぐると考え続けていたのだ。
衝撃的な出来事の連鎖に、直前の強烈な絶望が上書きされてしまっていた。
ポカンと口を開けたまま固まる紗良を見て、湊斗がくすくすと喉の奥で笑った。
「先輩らしいね。高校のころから変わってない。自分が捻挫してるのを忘れて、バスケ部の優勝に喜んで捻挫を悪化させたこともあったでしょう?」
懐かしむような、慈しむような響き。
高校時代。マネージャーとしてベンチで応援していた紗良は、足を痛めていたにもかかわらず、ブザービーターで優勝が決まった瞬間、痛みを忘れてコートに飛び出してしまった。結果、捻挫を悪化させてこっぴどく叱られたのだ。
その時の記憶が蘇り、紗良は気まずさに視線を泳がせた。
「……あったね」
ぽつりと認めると、湊斗の瞳がさらに優しく和らいだ。
過剰に慰めるわけでもなく、ただ軽妙なやり取りで、紗良の心を絶望の淵から引っ張り上げてくれる。
この軽やかさは、彼の優しさだ。傷口を直接抉らないようにしながら、確実に「俺はここにいる」と伝えてくる。
紗良は胸の奥が温かくなるのを感じながら、上目遣いで湊斗を見つめ返した。
「もしかして、わざと告白を?」
悲しみを忘れさせるために、あんな突拍子もないタイミングで告白したのだろうか。
そう問うと、湊斗の表情からスッと笑みが消えた。
代わりに、昨夜車内で見たのと同じ、濃密で熱を帯びた感情が瞳の奥に宿る。
「まあ、忘れてくれたら嬉しいなとは思いましたけど。告白は本気ですよ。絶対、俺のものにしたい。先輩、抱きたいな」
静かなオフィスに、地を這うような低い声が響いた。
退路を断つような、圧倒的な執着。
さらりと口にされた「抱きたい」という生々しい言葉に、紗良の全身の血液が一気に沸騰したように熱くなる。
心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅くなる。冗談めかした口調の裏に隠された、隠しようのない本気の熱量。
「し……仕事して」
燃えるように熱くなった頬を隠すように、紗良は視線を逸らし、震える声で彼をあしらうことしかできなかった。
湊斗はそれ以上追い詰めることはせず、ただ短く笑って自分のデスクへと戻っていく。
背中越しに聞こえる衣擦れの音すらも、今の紗良にはひどく刺激的だった。
眠れぬ夜の冷たい絶望は、いつの間にか、火傷しそうなほどの熱に完全に塗り替えられていた。
休日の朝。東向きに大きく設けられたガラス窓から、薄金色の柔らかな朝の光が湊斗の家のキッチンへとたっぷりと差し込んでいた。 木目の美しい真新しいアイランドカウンターには、色違いのマグカップが二つ並んでいる。深いネイビーのものは湊斗の、そして淡い桜色のものは彼が「先輩に似合うから」と選んでくれたものだ。 紗良は胸元でエプロンの紐をきゅっと結び直し、朝ごはんの支度を始めていた。 トントントン、と一枚板の重厚なまな板の上で、リズミカルに包丁が鳴る。赤く熟れたトマトを均等に切り分け、シャキッとしたみずみずしいレタスを冷たい水で洗い、手で丁寧にちぎって透明なガラスボウルへ移す。指先に触れる冷水が心地よく、葉先から滴る水滴が朝日に反射して、きらきらと小粒の宝石のように輝いていた。 隣のコンロでは、熱したフライパンの上で厚切りのベーコンがパチパチと軽快な音を立てている。跳ねる油の音に混じって、食欲をそそる香ばしい肉の匂いがふわりと立ち上り、甘い部屋の空気を塗り替えていった。空いたスペースに新鮮な卵を割り入れると、ジュッとひときわ派手な音が鳴り、透明な白身がふっくらと縁を焦がしながら純白へと変わっていく。 背後のカウンターに置かれたガラス製のコーヒーメーカーからは、ぽたぽたと琥珀色の雫が落ちるたびに、深く苦みのある豆の香りが部屋の隅々まで満たし始めていた。 五感を優しく撫でるような、満ち足りた朝の風景。 フライパンの取っ手を握り、軽く揺すりながら、紗良は細く、長い息をついた。 穏やかで、優しさに満ちた時間だった。胸を締めつける不安に怯えることも、誰かの不機嫌な顔色を窺うこともない。何よりも、自分が大切にしているものを理不尽に壊される心配がどこにもないのだ。ただ純粋に、これから共に食卓を囲む愛しい人のためだけに料理をする。そんな当たり前の日常が、これまでの人生を思えば、紗良にとってはひどく特別で、奇跡のように尊く感じられた。(ずっと、息を潜めて生きてきたな……) ふと、過去の暗い記憶が脳裏を過る。 幼いころから、何度も何度も大切なものを奪われてきた。お気に入りの服、大切にしていた鞄、ささやかな小物、そして最後には恋人までも。 継父の連れ子である義妹・美波に狙われ、奪われることに慣れすぎてしまった紗良は、いつしか自分の感情を心の奥底に押し殺すようになっていた。
夜の帳が完全に下りた頃、ビル群の間をすり抜ける夜風が、紗良の火照った頬を心地よく撫でていった。 オフィスビルが立ち並ぶ大通りから一本入った裏道。アスファルトの上を、家路を急ぐ人々の乾いた靴音が等間隔に響いている。街灯のオレンジ色の光が路上に長い影を落とし、疲労を滲ませた会社員たちが次々と駅の改札へと吸い込まれていく時間帯だ。 仕事を終えたばかりの紗良もまた、最寄り駅へ向かって歩幅を広げていた。副社長に就任した湊斗の秘書兼専属トレーナーとしての日々は、目が回るほど忙しい。膨大なスケジュール管理に加え、彼のコンディションを整えるためのメニュー作成など、息をつく暇もない。 それでも、胸の奥には常に温かい火が灯っているような、充実感に満ちた心地よい疲労だった。彼の傍で、彼を支えるために立てているという確かな実感が、紗良の足取りを羽のように軽くしている。(早く帰って、夕食の準備をしないと) 明日の朝食の献立に思考を巡らせながら、交差点の角を曲がろうとした、その時だった。 ガシッ。 背後から、乱暴な力で右腕を掴まれた。「……っ!」 息を呑む。あまりの強い力に、骨が軋むような痛みが走った。(誰――) 恐怖で背筋が粟立ち、全身の産毛が逆立つ。すれ違う数名の通行人が、不穏な気配にチラリと視線を向けてくる。 強引に引き止められ、紗良は怯えながら振り返った。 そこに立っていたのは、見知らぬ暴漢などではない。しかし、紗良の知っている人物とも到底思えなかった。 焦点の定まらない、不気味に血走った目。落ち窪み、影の落ちた頬。無精髭が汚らしく伸び、かつては隙なくセットされていたはずの髪は脂じみて額にべったりと張り付いている。サイズの合わなくなったヨレヨレのスーツからは、ツンとした饐えたような汗の匂いと、鼻を突く強いアルコールの臭いが混ざり合って漂ってきた。 かつて同社の営業課エースとして華やかなオーラを纏い、自信に満ち溢れていた男の面影は、もはや欠片も残っていない。 そこには、会社を解雇され、全てを失って惨めに痩せこけた佐伯慎吾が、幽鬼のように立っていた。「放して。大声で叫ぶよ?」 紗良は必死に喉の奥から声を振り絞った。震えそうになる膝にグッと力を込め、通行人の目があるこの状況を最大限に利用する。大声を出せば、間違いなく周囲の人が集まってくる。その緊張感が
夜の静寂が包み込む、湊斗のマンションのリビング。 広い室内には間接照明の柔らかい橙色の光だけが落ち、静かな空調の駆動音と、二人の落ち着いた呼吸音だけが心地よく重なり合っていた。 シャワーを浴び終えたばかりの湊斗は、薄手の黒いTシャツとグレーのハーフパンツという無防備な格好で、ゆったりとしたローソファに深く背を預けている。紗良はその足元、毛足の長い厚手の絨毯の上に膝をつき、彼のがっしりとした右の足首を両手で包み込んでいた。 マッサージオイルを手のひらに取り、両手を擦り合わせて人肌に温める。それを、アスリート特有の硬く引き締まったふくらはぎから膝裏にかけて、ゆっくりと滑らせていった。 疲労の溜まった滑らかな筋肉の筋を親指の腹で捉え、じんわりと体重をかけて押し上げていく。皮膚の下で脈打つ、力強い血液の巡り。 彼の濡れた髪から漂う爽やかなシャンプーの香りと、彼特有のシトラスとムスクが入り混じった甘い体臭が、熱気を帯びて鼻腔をくすぐる。皮膚を通して直接伝わってくる彼の生々しい熱量に、紗良の胸の奥はじんわりと甘く痺れていた。「……そこ、すごく気持ちいいです」 頭上から降ってきたのは、すっかり気の抜けた、掠れた低い声だった。 昼間の会社で見せる、隙一つない冷徹な副社長の顔も、コートの上で見せる獰猛で闘争心剥き出しのアスリートの顔もない。ただ、自分にだけ全てを委ねて甘える、途方もなく愛おしい男がそこにいた。 指先に少しだけ力を込めながら、紗良はずっと胸の奥で温めていた疑問を、ふと口にした。「ねえ、湊斗くん。……高校のころ、なんで私を好きになったの?」 特別な意図があったわけではない。ただ、この甘く穏やかな空気に背中を押されただけの、何気ない問いかけだった。 紗良の指先を見下ろしていた湊斗は、少しも淀むことなく、ぽつりと口を開いた。「捻挫してるのを忘れて、優勝が嬉しくて走り回ってたときですかね」 即答だった。 思いがけない具体的な記憶に、紗良は思わず手を止めて彼を見上げた。 それは、紗良が高校時代にバスケ部のマネージャーをしていた頃の出来事だ。数日前に不注意で足を挫いて湿布を貼っていたにもかかわらず、男子バスケ部の地区優勝が決まった瞬間、自分の怪我の痛みすら忘れて、誰よりも跳びはねて喜んでいたという、今思い出しても顔から火が出そうな失態。「それ、
重厚なマホガニー材の扉の向こう側は、いつも冷たく張り詰めた空気に満ちていた。 一条グループの副社長室。足音を吸い込む分厚い高級絨毯が敷き詰められたその空間には、静かな空調の駆動音と、万年筆が紙を滑る硬質な音だけが響いている。 紗良は手元のスケジュール帳を胸元で抱え直し、深呼吸をしてから、コンコンと二度ノックをした。「どうぞ」 低く、一切の感情を削ぎ落とした声が聞こえ、紗良は静かに扉を押し開けた。 広い室内の奥、黒いレザーデスクに向かっているのは一条湊斗だった。 仕立ての良いダークネイビーのスーツを完璧に着こなした彼は、手元の分厚い決裁書類の束を鋭い眼差しで見下ろしている。端整な眉間には深いシワが刻まれ、その横顔は人を寄せ付けない冷徹な経営者のそれだった。 新体制の立ち上げから数週間。多忙を極める彼のスケジュールは分単位で埋め尽くされ、息をつく暇すらなさそうだった。「一条副社長。今夜の取引先との会食の件で、最終確認にお伺いしました。……それと、十五時からの会議の前に、温かいコーヒーをお淹れしましょうか?」 紗良が静かに声をかけ、デスクへと近づく。 その声が鼓膜に届いた瞬間だった。書類に落ちていた湊斗の視線がサッと上がり、紗良を捉える。 ピタリと、万年筆の動きが止まった。 眉間に刻まれていた険しいシワが嘘のようにふっと解けていく。氷のように冷たかったダークブラウンの瞳に眩いほどの熱が灯り、彼の美しい唇が、紗良だけに向けられた愛おしげで艶やかな笑みを描いた。「ありがとう、紗良さん」 低く滑らかな声。 紗良が「では、確認を――」と言いかけたその時だった。 湊斗が万年筆を置くと同時に立ち上がり、長い脚でデスクを回り込んできた。そのまま紗良の後ろへと回り込むと、スッと手を伸ばして副社長室の扉の鍵をカチャリと内側から施錠した。 金属の重い音が静かな室内に響く。「湊斗く――んっ!?」 驚いて振り返る間もなく、手頸を強く引かれた。 前傾姿勢になった紗良の身体はそのまま彼の腕の中へと引き寄せられ、硬く鍛え抜かれた胸元に吸い寄せられるようにぴったりと密着した。 上質なスーツの生地越しに伝わる強烈な体温。ふわりとシトラスとムスクの甘い香りが鼻腔を満たした。「……あ……っ、待って、ここ会社……っ」「鍵、かけましたから大丈夫です」 低いかすれ
空調の効いた社内の大会議室は、いつもとは違うピンと張り詰めた緊張感に包まれていた。 一条グループによる買収が正式に完了し、今日が新しい経営陣による新体制発表の場だった。ずらりと並べられたパイプ椅子には、不安と期待の入り混じった顔つきの社員たちが座り、前方を見つめている。 紗良は最後列の壁際に立ち、壇上へと進み出る見慣れた、けれどどこか見違えるような広い背中を見つめていた。 マイクの前に立ったのは、仕立ての良いダークネイビーのスーツに身を包んだ一条湊斗だった。 バスケットボールで鍛え上げられた長身にしなやかに沿う、上質な生地。首元には誠実さを感じさせる深い青のネクタイが結ばれている。照明を受けて微かに艶めく黒髪の下、彼のダークブラウンの瞳は、威風堂々と社員たちを見据えていた。 彼が一条グループ会長の孫であり、親会社からの出向という形で新体制の副社長に就任すること。そして、プロのバスケ選手としてのキャリアも続行することが発表されると、会議室には静かなどよめきが広がった。 低い、しかしよく通る落ち着いた声で、湊斗が就任の挨拶を紡いでいく。 その立派な姿を見つめながら、紗良の胸の奥は不思議な温かさで満たされていた。(本当に、副社長になっちゃったんだな……) 数日前、彼のマンションの静かな寝室で、湊斗から打診を受けた日のことを思い出す。『俺の秘書兼専属トレーナーとして、一番近くで俺を支えてくれませんか』 真剣な瞳で、真っ直ぐに乞われた。 新副社長からの直接の指名。それは明らかに異例の人事だった。これまでの紗良であれば、「私なんかにそんな大役は務まらない」「周囲の目が気になる」と怯え、波風を立てないように逃げていたかもしれない。 だが、紗良はもう、自分を低く見積もって安全な場所に隠れるのはやめたのだ。 彼が守り抜いてくれた「奪われない場所」で、本当の自分を取り戻した。だからこそ、今度は誰かに流されたり、世話焼きの延長でしぶしぶ引き受けるのではなく、自らの明確な意志で彼を支えたいと強く願った。 柔道整復師としての知識と、総務で長年培ってきた事務処理能力。そのすべてを使って、彼と共に歩んでいきたいと、自分の足でその道を選び取ったのだ。 拍手に応えて深く頭を下げる湊斗を見つめていると、胸の奥がキュッと締め付けられる。 誇らしさと、眩しさ。 体育
キーボードを叩く乾いた音が、静かなオフィスに規則正しく響き渡っている。 空調から吹き出す冷たい風が、うなじを撫でた。コピー機から漂ってくる微かなオゾン臭と、紙の匂い。いつもと変わらない、平和で無機質な会社の昼下がり。 紗良はパソコンのモニターから視線を外し、凝り固まった肩を小さく回した。キャビネットからファイルを取ろうと、キャスター付きの椅子から腰を浮かせた瞬間だった。「いたっ」 下腹部から腰の奥にかけて、電気が走ったような鋭い痛みが突き抜ける。 思わず短い悲鳴を漏らし、紗良は腰をさすりながら中腰の姿勢でピタリと固まった。筋肉の奥深くが軋み、熱を持っている。昨夜の、激しく終わりの見えなかった情事の生々しい記憶が、鈍い痛みに乗って脳裏に鮮やかに蘇った。(もう、足までガクガクしてる……) ふと強い視線を感じて横を向くと、パーテーションを隔てた隣のデスクでキーボードを叩いていたはずの湊斗が、こちらを見ていた。顔の角度だけをこちらに向け、身体はパソコンに向かったままだが、その端整な顔の口元はだらしなく、たまらなく嬉しそうに歪んでいる。「つらそうですね」 周囲の社員には聞こえない程度の、低く掠れた囁き声。その響きには、自分がいかに彼女を愛し抜いたかという、隠しきれない優越感が滲んでいた。「誰のせいよ」 紗良は顔の輪郭がカッと熱くなるのを感じながら、小声で彼を睨みつけた。「本当に朝までって……あり得ない」「体力だけはあるんで」 反省の色など微塵もない、爽やかで無邪気な笑顔だった。プロのバスケットボール選手としての無尽蔵のスタミナを、まさかあんな形で一晩中見せつけられるとは思ってもみなかった。「ありすぎ!」 頬を膨らませて文句を言うものの、くすくすと嬉しそうに笑う彼の顔を見ると、どうにも本気で怒ることができない。むしろ、彼が自分にそれほどまでの執着と熱情を向けてくれた事実が、胸の奥を甘い痺れで満たしていく。 呆れと、深く甘い愛しさ。相反する感情が胸の中で心地よく混ざり合い、紗良の唇から自然と笑みがこぼれた。 その時、机の上の内線電話がけたたましいコール音を鳴らした。 ビクッと肩を震わせ、受話器を取る。『紗良さん、下の受付にお客様です』「わかりました」 短い返事を返し、受話器を置く。来客の予定など入っていなかったはずだ。不思議に思いな