All Chapters of 結婚七年目冷たい夫を捨てた夜、義弟が迎えに来ました 〜秘密を抱いた契約妻は、もう愛を乞わない〜: Chapter 1 - Chapter 10

61 Chapters

登場人物プロフィール

神澤 詩乃 年齢:29歳 立場:鷹宮怜司の妻/契約結婚で嫁いだ冷遇妻/奏音の母旧華族の血を引く音楽一家・神澤家の一人娘。父は国際的に名を知られたバイオリニスト、母は声楽家として将来を嘱望された女性だった。詩乃自身も幼い頃からヴァイオリンを学び、繊細で品のある所作を身につけて育った。しかし、神澤家は何者かの策略によって巨額の負債を背負わされる。父は名誉と家族を守ろうとして追い詰められ、憤死。母は心中を図ったが一命を取り留め、現在も病院で意識不明に近い状態が続いている。詩乃は家族に残された最後の「価値ある資産」として、借金返済のため鷹宮家へ差し出された。怜司との結婚は愛ではなく契約だった。だが詩乃は、冷えた婚姻の中でも怜司を愛そうとした。彼の胃の弱さ、機嫌の悪い日の食事、出張帰りの疲れ、好む香り、避ける食材、頭痛の兆候まで七年間かけて覚え、黙って尽くし続けてきた。五年前、怜司の子を妊娠する。だが当時の怜司に拒まれ、橘家――新設定では鷹宮家――に子を奪われる恐怖から、親友の兄・水無瀬旭の協力で娘・奏音の存在を隠してきた。性格は、控えめで自己犠牲的。理不尽な扱いを受けても「自分が至らないから」と考えてしまう癖がある。だが、娘を守ることに関してだけは驚くほど強い。外見は、黒髪のロングヘア。肌は白く、顔立ちは派手ではないが、育ちの良さがにじむ静かな美しさがある。痩せ気味で、疲労が重なると儚さが増す。普段は淡い色のワンピースやカーディガンを好むが、鷹宮家では地味で従順な装いを強いられている。神澤 奏音 年齢:5歳 立場:詩乃と怜司の娘詩乃が密かに産み、守り続けてきた娘。心臓に重い病を抱えており、幼いながらも入退院を繰り返している。詩乃にとって唯一の光であり、生きる理由。名前の「奏音」は、音楽一家だった神澤家の名残。亡き祖父が大切にしていた音と、詩乃が母として奏音に願った「この子の人生には、苦しみだけでなく音楽のような優しさが響いてほしい」という祈りが込められている。性格は、病弱だが芯がある。母の顔色をよく見る子で、幼いながら詩乃が傷ついていることに敏感。父親の存在を知らされておらず、最近になって「パパは、ママのこと好き?」と尋ねるようになった。朔弥に対しては、最初から不思議な距離感で接する。「ママを泣かせない人かどうか」で判断する。鷹宮 怜司
last updateLast Updated : 2026-06-29
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第1話 七年目の食卓

 鷹宮家のダイニングには、銀器の冷えた光が満ちていた。 長いテーブルの上に、白磁の皿が間隔を正しく置かれている。薄く削った白身魚の前菜。胃に負担をかけないよう、香辛料を控えた淡い色のスープ。脂を落として焼いた魚料理には、怜司が疲れている夜だけ好む柑橘の香りをほんの少し添えてある。 どれも、詩乃が七年かけて覚えたものだった。 怜司が眉をひそめない味。 黙って箸を置かずに済む温度。 仕事が詰まっている週に出しても、機嫌を損ねにくい献立。 妻として愛された記憶は乏しいのに、夫の不機嫌を避ける方法だけは、身体に染みついていた。 壁の時計が、静かに針を進める。 九時を過ぎたころ、スープの表面に浮いた湯気はすっかり消えていた。燭台の火だけが細く揺れ、磨かれたテーブルに詩乃の影を落としている。屋敷の奥からは、使用人たちの足音が遠く聞こえた。誰も、詩乃に声をかけない。七年も経てば、主人の帰らない夕食を前に妻が一人で立っている光景など、鷹宮家では珍しくもないのだ。 詩乃はスマートフォンを伏せたまま、指先でそっと撫でた。 連絡はない。 今日だけは、帰ってきてほしかった。 結婚七周年だからではない。そんなものを怜司が覚えているとは、もう思っていなかった。祝ってほしいとも、贈り物が欲しいとも思わない。ただ、今夜だけは、話を聞いてほしかった。 詩乃は、胸元に下げた小さなロケットペンダントを握った。 中には、奏音の写真が入っている。 五歳になる娘。詩乃の、ただひとつの光。 鷹宮家には、奏音の存在を知らせていない。知らせられなかった。奏音が鷹宮の血を引くと知られれば、あの子は跡目争いや財閥内の争いに巻き込まれる。怜司の妻としてさえ尊重されない詩乃に、娘を守りきる力などなかった。 それでも、いつまでも隠せるはずがない。 最近の奏音は、父親のことを聞くようになった。『パパは、ママのこと好き?』 あの小さな声が、まだ耳に残っている。 詩乃は答えられなかった。 好きだった。 少なくとも、詩乃は怜司を愛していた。 父の負債を理由に鷹宮家へ差し出され、契約のように結ばれた婚姻だったとしても。夫婦の寝室に温もりがなくても。怜司が詩乃を見ず、鷹宮夫人という役割だけを求めてきても。いつか、いつかと、愚かしいほど静かに待ち続けてきた。 けれど今夜、奏音のことを告げ
last updateLast Updated : 2026-07-10
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第2話 産婦人科の夫

 芽衣は、詩乃を見つけた瞬間、花のような笑みをほどく前に、わざとらしく目を見開いた。「詩乃さん……? どうして、こんなところに」 その声は、偶然の再会に心から驚いた女のものに聞こえた。薄い唇がかすかに震え、細い睫毛が不安げに伏せられる。けれど、怜司の袖を掴む指だけは離れない。淡い爪色をした指先が、まるでそこが自分の居場所だとでもいうように、彼の腕に添えられていた。 詩乃は、白い廊下の冷たさを足裏に感じながら、怜司を見た。 怜司は表情を変えなかった。 驚きも、気まずさもない。妻が病院にいる理由を案じる色さえ、その目には浮かばなかった。ただ、整えられた眉の奥に、予定にないものを見た時の冷えた煩わしさだけがあった。「怜司さん……」 詩乃の声は、喉の奥でひび割れた。 奏音が倒れた。 そう言わなければならない。今は目の前の光景に立ち尽くしている場合ではない。あの子が、小さな身体で苦しんでいる。美琴が待っている。医師が処置をしている。早く行かなければ。 分かっているのに、喉が強張り、息がうまく通らなかった。 芽衣が、わずかに怜司へ寄り添う。衣擦れの音が、静かな廊下にひどく鮮明に聞こえた。「ごめんなさい、怜司さん。私、体が弱くて……また迷惑をかけてしまって」 自分を責めるような、控えめな声だった。だがその声には、他人に守られることに慣れた甘さがあった。芽衣は伏せた顔を少しだけ上げ、詩乃の腹部をかすめるように視線を落とした。「でも、女として生まれた以上、愛する人の子を宿せるのは幸せなことですよね。後継者を産めないままだと……どうしても、周りに心配されてしまいますし」 柔らかな言葉だった。 柔らかいからこそ、深く刺さった。 七年間、子を授からない妻。鷹宮家の血をつなげない女。陰で何度も囁かれてきた言葉が、白い蛍光灯の下で形を持つ。詩乃の耳の奥に、過去の茶会で聞いた婦人たちの笑い声が蘇った。鷹宮瑛子の、落胆を隠さないため息。使用人たちが目を逸らす気配。 芽衣は、何も知らないふりをして、すべてを知っている者の目をしていた。 怜司は咎めなかった。 その沈黙が、どんな言葉よりも冷たかった。 芽衣が小さく肩を震わせる。「少し、寒くて……」 怜司は迷わず、自分の上着を脱いだ。濃紺の布が彼の肩から離れ、芽衣の細い身体へかけられる。芽衣は胸元で上着を握
last updateLast Updated : 2026-07-10
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第3話 頬を打つ音

  詩乃は、息を吸った。 病院の廊下に流れる消毒液の匂いが、ひどく鋭く肺へ刺さる。白い照明の下、怜司の影が一歩分だけ近づいていた。革靴の先が、磨かれた床に冷たく映っている。 芽衣は怜司の腕の中にいた。細い肩を震わせ、上着の襟元を握りしめている。その横顔は青ざめて見えたが、伏せた睫毛の影の奥で、ほんのかすかに唇の端がゆるんでいた。 詩乃は、その笑みを見なかったことにできなかった。「違います……今のは、私がぶつかったんじゃありません」 声はかすれていた。頬の内側が乾き、舌がうまく動かない。それでも、言わなければならなかった。 看護師たちが困ったように視線を交わす。廊下の隅には、小さな黒い半球の監視カメラがあった。天井の端で黙ってこちらを見下ろしている。その存在に気づいた瞬間、詩乃は細い希望を掴むように顔を上げた。「見ていたはずです。あそこに、カメラも……」「詩乃」 怜司の声が、言葉を切った。 低く、硬い声だった。夫が妻を呼ぶ声ではない。秩序を乱した者を黙らせる声だった。「私は、娘が……」 奏音の名を出しかけて、詩乃は息を詰めた。 言えない。 ここでは、言えない。 芽衣の目がわずかに細くなる。怜司の背後で、看護師の一人が不自然に目を伏せた。誰かが遠巻きに立ち止まり、誰かが携帯電話を握りしめる気配がした。人の視線が集まり、空気だけが重くなっていく。 詩乃は唇を噛み、もう一度だけ言葉を繋ごうとした。「私は、急いで病室に行かなければならなくて……だから、こんなことをしている時間は……」 乾いた音が、廊下に響いた。 一瞬、何が起きたのか分からなかった。 視界が横へ弾ける。白い床、薄い壁、掲示板に貼られた面会時間の紙。そのすべてが斜めにずれて、耳の奥で鈍い音が鳴った。遅れて、左の頬に熱が走る。焼けるような痛みが皮膚の上に広がり、口の中に鉄の味がにじんだ。 詩乃は、よろめいた足でどうにか立っていた。 怜司が手を下ろす。 その顔に、動揺はなかった。 自分が妻を打ったという事実よりも、妻が人前で場を乱したことのほうが重大だと信じている顔だった。整った目元は冷たく、唇は薄く結ばれている。七年間、詩乃が見続けてきた、鷹宮家の長男の顔。「怜司さん、そんな……」 芽衣が震える声を出した。「詩乃さんも、きっと悪気は……」 止める気などない
last updateLast Updated : 2026-07-10
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第4話 愛の記録を消す夜

 水無瀬旭は、詩乃の話を最後まで遮らなかった。 病院の人気のない廊下で、詩乃はスマートフォンを握りしめていた。窓の外には、夜明け前の街灯が滲んでいる。頬の熱はまだ引かず、触れれば皮膚の下で鈍く疼いた。 怜司と芽衣が産婦人科から出てきたこと。芽衣が言葉の刃を隠して笑ったこと。怜司が、何の迷いもなく詩乃を打ったこと。奏音の病状。そして、五年前から守ってきた秘密。 すべてを聞き終えたあと、旭はしばらく黙っていた。 電話越しの沈黙は重かった。けれど、それは詩乃を責める沈黙ではなかった。怒りを不用意に爆発させず、必要な刃だけを研いでいるような静けさだった。『結婚当初に署名させられた書類を覚えている?』「……婚前契約書と、離婚届ですか」『そう。名目は財閥のリスク管理。でも実際には、君が逃げる時に不利になるよう作られている。慰謝料、財産分与、守秘義務、接触制限。どれも鷹宮側に都合がいい』 詩乃は目を閉じた。 白い紙。分厚い契約書。まだ婚礼衣装の疲れが身体に残る中で、鷹宮家の顧問弁護士から示された書類。怜司は隣にいたが、何も言わなかった。ただ、署名するのが当然だという顔で詩乃を見ていた。『奏音ちゃんの存在が知られれば、親権や後継者問題を口実に動かれる可能性がある』 詩乃の指先が冷えた。「奪われる、ということですか」『可能性は否定できない。鷹宮家は、血筋を所有物のように扱う家だ』 廊下の向こうで、看護師の足音が遠ざかる。機械音がかすかに聞こえた。詩乃は病室の扉を見た。あの向こうで、奏音が眠っている。『だが、怜司氏はまだ知らない。なら、そこが唯一の猶予だ』「猶予……」『離婚協議書の中に、親権、監護権、養育に関する請求を放棄する条項を入れる。彼が君を軽んじて、書類をまともに読まないなら、そこにつけ込むしかない』 ひどい話だった。 けれど、ひどい相手に正面から礼儀正しく向き合えば、守れるものまで奪われる。詩乃はもう、それを知らないふりはできなかった。「……お願いします」『今夜中に草案を作る。君は必要なものだけ持って、鷹宮家を出て。長居はしないこと』「はい」『それから、頬の写真を撮っておいて。日時が分かる形で。診断書も取る』 詩乃は唇を噛んだ。 夫に打たれた頬を証拠として残す。その事実が、胸の奥をきしませた。けれど、奏音の寝息を思えば、ため
last updateLast Updated : 2026-07-10
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第5話 妻の拒絶

 怜司は、詩乃の鞄を見た。 それは旅立ちの荷物というには小さく、家出というには整いすぎていた。余分なものを持たず、必要なものだけを選び抜いた重みがある。だが怜司は、そこに込められた決意を読み取らなかった。 昨夜の病院での一件に腹を立て、拗ねて出ていこうとしている。 その程度のことだと、すぐに結論づけた。「鷹宮の妻として、夜中に屋敷を出るなど許されると思っているのか」 朝の光はまだ弱く、玄関ホールの大理石を冷たく照らしていた。怜司の声は低く、屋敷の奥までよく通る。使用人たちが、壁際で息を殺した。誰も顔を上げない。誰も、詩乃の頬の腫れを見ようとしない。 詩乃は答えなかった。 ただ、鞄の持ち手を握り直した。指先は白くなっていたが、震えはなかった。怜司の横を通り抜けようと、一歩だけ足を進める。 その沈黙が、怜司の神経を逆撫でした。 これまでの詩乃なら、まず謝った。言い訳をし、目を伏せ、怜司の機嫌を損ねたことを詫びた。自分に非がなくても、最後には自分が至らなかったのだと頭を下げた。 その女が、今は何も言わない。「聞こえなかったのか」 怜司は詩乃の腕を掴んだ。 細い手首は、驚くほど冷えていた。詩乃が痛みに眉を寄せる。それでも声は上げなかった。彼の指を振りほどこうとせず、かといって従うようにも力を抜かない。その静かな抵抗が、怜司にはひどく不気味に思えた。「離してください」 詩乃の声は小さかった。 だが、はっきりしていた。 怜司は一瞬だけ眉を動かし、そのまま彼女を屋敷の奥へ引いた。鞄が詩乃の膝に当たり、金具が硬い音を立てる。使用人の一人がわずかに顔を上げたが、すぐに視線を落とした。 この屋敷では、見ないことが礼儀だった。 階段を上がる間、詩乃の足音は乱れなかった。逃げるようでも、縋るようでもない。ただ、どこか遠い場所へ向かう人間のように静かだった。 寝室の扉が開かれる。 七年分の冷えた空気が、そこには残っていた。広いベッド。整えられたリネン。淡い香りのする花瓶。夫婦の部屋でありながら、温もりの記憶だけが欠けている。 怜司は詩乃の腕を離した。 詩乃はすぐに彼から距離を取った。扉に近い場所に立ち、鞄を胸元へ引き寄せる。その仕草が、まるで身を守るための盾のように見えた。 怜司の胸に、名のつかない苛立ちが広がる。「昨夜のことを、まだ根に持
last updateLast Updated : 2026-07-10
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第6話 危険な救いの手

 怜司は、鳴り続けるスマートフォンを見下ろした。 手の中には、詩乃の残した白い封筒がある。薄い紙の重みと、硬い小さな輪の感触。封を開ければ何かが分かる。そう思いながらも、怜司はそれを机の上へ放った。 乾いた音が寝室に落ちる。 詩乃の持ち物など、あとで見ればいい。 怜司はスマートフォンを取った。「芽衣」 名を呼んだ声は、無意識にやわらいでいた。自分では気づかないほど自然に、詩乃には一度も向けたことのない温度を帯びていた。『怜司さん……ごめんなさい。こんな時間に』 電話の向こうで、芽衣の声は不安げに震えていた。細い息遣いが混じり、今にも泣き出しそうに聞こえる。『少し、気分が悪くて……赤ちゃんに何かあったらって思ったら、怖くなってしまって』「落ち着け。無理をするな。医師には連絡したのか」『まだです。怜司さんに迷惑をかけたくなくて』「迷惑ではない」 怜司は窓辺へ歩いた。 朝になりきれない空が、薄い灰色に沈んでいる。庭木の影が長く伸び、濡れた石畳が冷たく光っていた。玄関へ向かったはずの詩乃の姿は、もう見えない。 それでも怜司は、追わなかった。 芽衣のかすかな嗚咽が、耳元を満たしている。「すぐに誰かを向かわせる。横になっていろ」『でも、詩乃さんのこと……私のせいで、怜司さんと喧嘩になったんじゃ』「気にするな。あれは詩乃の問題だ」 そう言いながら、怜司は机の上の封筒へ一度だけ視線を向けた。 白い封筒は、何も言わずそこにあった。 そのころ、詩乃は山道を歩いていた。 鷹宮家の屋敷は、市街地から離れた高台にある。昼ならば車で走り抜けるだけの道も、徒歩ではひどく長い。夜明け前の空気は冷たく、薄いコートの下へ容赦なく染み込んできた。 舗装された道の端に、詩乃の足音だけが響く。 靴擦れが痛んだ。かかとの皮が剥けているのか、歩くたびに鋭い痛みが走る。鞄の持ち手は手のひらに食い込み、肩は重い。スマートフォンの充電は残りわずかで、画面を見るたびに胸が締めつけられた。 奏音の検査時間が近づいている。 母親なのに、そばにいられない。 その事実が、詩乃の足をさらに急がせた。息は乱れ、喉の奥が冷たく痛む。頬の腫れは熱を持ったままで、夜気に触れるたび鈍く疼いた。「奏音……」 小さく呼ぶと、白い息がこぼれた。 助けなければならない。守らなければな
last updateLast Updated : 2026-07-10
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第7話 身の程知らずの女

 詩乃が目を覚ました時、窓の外は白く明けていた。 病室の隅に置かれた簡易ベッドは硬く、薄い毛布には消毒液の匂いが染みついている。わずかに身じろぎしただけで、背中と肩が軋んだ。昨夜からほとんど眠っていないはずなのに、眠りに落ちた感覚さえ曖昧だった。 最初に耳へ届いたのは、機械の規則正しい音だった。 奏音のベッドの横で、モニターが小さく光を点滅させている。白いシーツに沈む娘の顔はまだ青白い。だが、検査を終えた体は静かに眠っていた。「……奏音」 詩乃は掠れた声で名を呼び、そっと起き上がった。 頬が痛んだ。昨夜、怜司に打たれた場所は熱を持ち、少し動かすだけで皮膚が引きつれる。けれど、それよりも胸の奥にある重さのほうが苦しかった。 朝の診察で、医師は慎重に言葉を選んだ。 検査は無事に終わったこと。今すぐ危険な状態ではないこと。けれど、今後はより細かな管理が必要になること。治療の選択肢について、早い段階から考えていかなければならないこと。「将来的に、移植の可能性も視野に入れる必要があります」 その言葉が落ちた瞬間、詩乃の指先から温度が抜けた。 医師の声は穏やかだった。残酷さを薄い布で包むように、慎重で、丁寧だった。それでも意味は変わらない。奏音の小さな心臓は、母親の祈りだけでは守りきれないところまで来ている。 詩乃は頷いた。 泣き崩れることはしなかった。質問をし、説明を聞き、必要な書類について尋ねた。母親として冷静であろうとした。けれど膝の上で重ねた手は、氷のように冷えていた。 医師が去ったあと、詩乃は鞄の中を確認した。 通帳、印鑑、奏音の写真、病院関係の書類。入れたはずのものを一つずつ確かめるうちに、呼吸が止まった。 ない。 離婚協議書がない。 指先が鞄の底を何度も探る。布の端をめくり、小さな内ポケットまで確かめる。だが、白い封筒はどこにもなかった。 昨夜、怜司の寝室で落としたのだ。 中には離婚協議書と結婚指輪が入っている。怜司に見られていれば、すべてが崩れる。見られていなくても、鷹宮家に残しておくわけにはいかない。 その時、スマートフォンが短く震えた。 美琴からだった。 画面には、SNSのスクリーンショットが送られてきている。投稿者の名前を見ただけで、詩乃の胸が冷えた。 芽衣。 写真には、白いカップと上品なスイーツが写っ
last updateLast Updated : 2026-07-10
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第8話 封筒の中身

第8話 封筒の中身 白い封筒は、瑛子の指先に挟まれていた。 朝の光を受けても、紙は少しも柔らかく見えなかった。むしろ白すぎるほど白く、詩乃の目には刃物のように映った。表に書かれた文字は、自分のものだ。 鷹宮怜司様。 昨夜、怜司の寝室で落としたものだった。 詩乃の喉が、ひゅっと狭くなる。指先が冷えていく。中には、離婚協議書と結婚指輪が入っている。怜司が封を開けた様子はなかった。けれど、それが誰の手に渡ったのかを思えば、開けられていないことなど慰めにもならなかった。 瑛子は、封筒をリビングのテーブルへ叩きつけた。 乾いた音が響く。その内側で、硬いものが小さく鳴った。指輪の音だった。 七年間、詩乃の薬指にあり続けた輪。外すたびに胸が痛むと思っていたもの。けれど今、その音は、罪の証を突きつけられたように冷たかった。「離婚ですって?」 瑛子の声は低かった。怒鳴ってはいない。だからこそ、リビングの隅々まで凍りつくように通った。「あなたのような女が、自分から鷹宮家を捨てられると思っているの?」 使用人たちが壁際に並んでいる。誰も顔を上げない。だが、耳だけはこちらを向いていることが、空気で分かった。瑛子はその沈黙を知っていて、あえてそこで言葉を選んだ。「神澤家の借金がなければ、あなたはこの家の敷居を跨ぐことさえできなかった女よ。父親が残した負債を抱えて、行き場を失って、鷹宮家に拾われた。それを忘れたの?」 詩乃は唇を結んだ。 白い頬には、昨夜と先ほどの痛みが重なっている。熱を持った皮膚が、呼吸のたびに引きつれた。けれど瑛子の言葉は、頬より深いところを殴った。「お母様の病院のことも、少しは考えなさい。鷹宮の名があるからこそ、今までどれほどのものが守られてきたと思っているの。あなた一人の浅はかな感情で、何もかも手放せるとでも?」 母のことを出された瞬間、詩乃の胸が強く縮んだ。 病室の白いカーテン。眠り続ける母の横顔。かつて声楽家として舞台に立つはずだった人の、細くなった指。神澤家が崩れてから、詩乃は母の命まで自分の責任のように抱えてきた。 だが、それでも。 奏音がいる。 あの小さな手の熱が、まだ掌に残っている。 詩乃は息を吸い、テーブルの封筒へ手を伸ばした。「返してください」 指先が紙に触れる寸前、瑛子の手がそれを遮った。真珠の指輪が光
last updateLast Updated : 2026-07-13
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第9話 義弟の婚約者

第9話 義弟の婚約者 朔弥がリビングに足を踏み入れた瞬間、空気の形が変わった。 それまで詩乃へ向けられていた瑛子の怒りも、怜司の苛立ちも、使用人たちの息を殺した沈黙も、すべてが一度、別の方向へ歪む。窓から差し込む朝の光は変わらず白いのに、部屋の温度だけが数度下がったようだった。 朔弥は、それを楽しむように微笑んでいた。 仕立ての良いジャケットを少しだけ崩し、片手をポケットに入れている。上流の男らしい身なりをしているのに、どこか意図的に品行を踏み外している。その軽さが、鷹宮家の完璧な調度品の中ではひどく目立った。「朝から楽しそうだね。家族会議なら、僕も混ぜてよ」 瑛子の顔に、露骨な不快が浮かんだ。 外では決して見せない顔だった。慈善活動の場で穏やかに微笑む上流夫人の仮面が、朔弥の前では薄く剥がれる。彼女にとって朔弥は、鷹宮家の傷だった。夫の裏切りの証であり、怜司という完璧な後継者像の横に落ちた染みだった。「誰があなたを通したの」 瑛子の声は静かだったが、刃を含んでいた。 朔弥は肩をすくめる。「玄関は開いていたよ。使用人も、僕の顔くらいはまだ覚えてくれているみたいだ」 使用人の一人が、びくりと肩を震わせた。瑛子の視線が横へ流れただけで、その者はさらに深く頭を下げる。 怜司は、手にした離婚協議書を握ったまま朔弥を見た。「芽衣の件で来たのか」 低い声だった。 それを聞いた瞬間、詩乃の胸の奥がきしんだ。白川芽衣。その名は、つい昨夜から詩乃の世界に冷たい釘のように打ち込まれていた。産婦人科の白い廊下。怜司の上着。医師の言葉。芽衣が腹部に添えた手。どれも、目を閉じても消えない。 朔弥は笑った。「僕の婚約者が、兄さんにずいぶん世話になっているみたいだからね」 婚約者。 その一語で、詩乃は改めて朔弥を見た。 そうだ。芽衣は朔弥の婚約者であるはずだった。だが昨夜、彼女は怜司に寄り添い、産婦人科で夫婦のように振る舞っていた。普通ならば、朔弥が怒る場面だった。傷つき、問い詰め、婚約者を奪われた男として怜司を責めても不思議ではない。 けれど朔弥の顔には、怒りがなかった。 傷ついてもいない。 むしろ、彼はこの部屋にいる全員の表情を眺めているようだった。誰がどの言葉で息を呑み、誰がどの沈黙を隠すのか。それを見極めるために、わざと軽い声で刃を落とし
last updateLast Updated : 2026-07-14
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