All Chapters of 結婚七年目冷たい夫を捨てた夜、義弟が迎えに来ました 〜秘密を抱いた契約妻は、もう愛を乞わない〜: Chapter 41 - Chapter 50

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第40話 本物の血

 瑛子のもとに鑑定結果が届いたのは、詩乃が朔弥を拒絶した翌日の朝だった。 鷹宮家本邸の応接室には、磨き上げられた銀の盆と、湯気の立つ紅茶が置かれている。窓の外では庭師が無言で枝を整えていた。すべてがいつも通りだった。人の人生が紙一枚で揺らぐ朝でさえ、鷹宮家の空気は乱れない。 瑛子は封筒を開いた。 芽衣が怜司へ見せた鑑定書ではない。鷹宮家が独自に進めていた、別経路の正式な結果だった。検体管理、採取記録、照合手順。すべてが整えられている。 奏音と怜司の親子関係。 その結論は、疑いようのない形で記されていた。 瑛子は紙面を見下ろし、ゆっくりと微笑んだ。「やはり、鷹宮の子だったのね」 声には、祖母としての温かさなどなかった。 見つけたのは子供ではない。価値ある血筋。使える証明。鷹宮家の正統を補強する札。その程度の熱しか、彼女の目には浮かんでいない。 一方、芽衣の腹の子に関する鑑定は保留となっていた。 サンプルの不備。  鑑定経路の不自然さ。  担当者の退職扱い。  書類の署名と管理番号の不一致。 整っていたはずの嘘が、端から静かに崩れ始めている。 瑛子はその報告書を横へ置いた。 芽衣をすぐに切る気はなかった。あの女にはまだ使い道がある。怜司の感情を揺らし、詩乃を追い詰め、世間の目を逸らすには便利な駒だった。 だが、鷹宮の血筋に手を出した代償は、いずれ払わせる。 瑛子はベルを鳴らし、使用人へ怜司を呼ぶよう命じた。 同じ頃、怜司もまた、別室でその結果を受け取っていた。 奏音は自分の娘。 その文字を見た瞬間、胸の奥に湧いたものを、怜司はすぐには名づけられなかった。喜びか。安堵か。怒りか。喪失か。 父親だと証明された。 そのはずだった。 だが同時に、その紙は怜司へ突きつけていた。お前は五年間、父親ではなかった、と。 奏音が初めて泣いた夜も、初めて笑った日も、熱に苦しんだ朝も、薬を嫌がって詩乃を困らせた時間も、怜司は何も知らなかった。詩乃の育児記録には、奏音の五年が詰まっていた。そこに自分の名前は一度もなかった。 血は証明された。 だが、父親であった時間は、どこにもなかった。 怜司は鑑定書を握りしめた。 紙の端がわずかに歪む。 その頃、詩乃は奏音の病室にいた。 奏音は眠っている。昨夜より呼吸は落ち着いていたが、顔色はま
last updateLast Updated : 2026-08-02
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第41話 母親を切り離す準備

 瑛子は、本物の鑑定結果を前に微笑んでいた。 奏音は、怜司の子。 つまり、鷹宮の血を引く子供。 その結論が紙の上に刻まれた瞬間から、瑛子の中で神澤詩乃の意味は変わっていた。孫の母親ではない。鷹宮の血筋を保護するうえで邪魔になる女。感情に流され、家の価値も医療の優先順位も理解できない、不安定な母親。 そう定義してしまえば、扱いは簡単だった。 鷹宮邸の応接室には、顧問弁護士、鷹宮系列医療法人の理事、瑛子の側近が集められていた。紅茶は用意されている。花も飾られている。けれど、そこに和やかさは一切なかった。 瑛子は鑑定書をテーブルの中央へ置いた。「奏音を正式に鷹宮の保護下へ置く準備を始めて」 弁護士は慎重に眼鏡を押し上げた。「現時点で親権を一気に移すのは難しいかと。神澤詩乃氏が実母であり、五年間の養育実績もあります。強引な申し立ては、かえって反発を招きます」「親権でなくてもいいわ」 瑛子は静かに言った。「まずは、あの子の治療をこちらで管理できればいい」 医療法人の理事が、低く口を開いた。「医療判断権であれば、争点を作ることは可能です。奏音さんは重い心疾患を抱えています。母親が適切な医療判断を下せない状態にあると示せれば、緊急時の代理判断、あるいは第三者管理を求める余地はあります」 弁護士は資料をめくった。「匿名通報、SNS上の噂、義弟である朔弥様との関係疑惑、鷹宮系列専門病院への転院同意を拒んだ事実。これらを組み合わせれば、母親の判断に疑義があるという主張は組み立てられます」 瑛子は薄く笑った。「娘の命より、自分の意地を優先した母親。そう見えれば十分よ」 その場の誰も、すぐには反論しなかった。 言葉としては冷酷だった。だが、鷹宮家の会議では、冷酷さはしばしば合理性と呼ばれる。命も、血筋も、母親の涙も、すべて管理すべき対象として扱われる。 側近が静かに頷く。「すでに各所から資料を集めています。病院への移動履歴、夜間搬送の記録、避難先の情報、通報内容の写し。必要であれば、精神的な不安定さを示す証言も整えます」「証言は慎重に」 弁護士が釘を刺した。「捏造と見られれば不利になります」「捏造ではなく、解釈よ」 瑛子はカップを手に取った。「あの女は泣いた。逃げた。鷹宮の提案を拒んだ。事実を並べて、母親にふさわしくない形に整えるだ
last updateLast Updated : 2026-08-03
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第42話 母親面談

 聞き取りの部屋は、病院の会議室だった。 白い壁。長机。天井に埋め込まれた冷たい照明。机の中央には録音機が置かれ、赤い小さなランプが点いている。 詩乃の前には、医療ソーシャルワーカー、児童相談関係者、病院の第三者委員が座っていた。隣には旭がいる。彼は書類の束を整えながら、詩乃が答える前に必要な記録を差し出せる位置にいた。 それだけで、少し呼吸ができた。 けれど、怖くないわけではなかった。 この部屋での言葉ひとつが、奏音のそばにいられるかどうかへ繋がるかもしれない。泣けば不安定だと見られる。怒れば攻撃的だと書かれる。黙れば説明責任を果たしていないと受け取られる。 詩乃は膝の上で指を組み、息を整えた。「神澤さん。奏音さんをこれまでどのように育ててこられたか、お聞かせください」 質問は丁寧だった。 だからこそ、慎重に答えなければならなかった。「生まれてすぐ、心臓に異常があると分かりました。定期的に通院し、薬は朝と夜、医師の指示通りに管理しています。発熱や呼吸の乱れがある時は、記録を取り、必要に応じて主治医へ連絡してきました」 旭が、診療メモを机の上へ置いた。 日付ごとに並んだ記録。体温。脈拍。服薬時間。食事量。発作の有無。詩乃が五年間、眠れない夜の中で書き続けた文字だった。「病状は把握されていましたか」「はい」 詩乃は別のノートを開いた。「熱が上がる前、奏音は左手で胸元を触る癖があります。苦しい時は言葉で説明できないので、呼吸の浅さと顔色を見ます。薬の副作用で食欲が落ちる時期があり、その時は主治医と相談して食べられるものを変えました」 医療ソーシャルワーカーの表情が少し変わる。 詩乃は続けた。「検査の前は怖がります。小さな犬のぬいぐるみを握ると少し落ち着きます。採血の時は、右手ではなく左手を握ってほしいと言います。右手は痛いことをされる手だと思っているので」 児童相談関係者が、手元の紙に何かを書き込んだ。 質問は続いた。 治療費はどう工面していたのか。  通院の付き添いは誰がしていたのか。  保育園へはどのように病状を伝えていたのか。  夜間発作の時、どの病院へ連絡したのか。 詩乃は一つずつ答えた。 家計簿を出した。通院費の領収書を出した。保育園へ提出した体調表を出した。薬の変更があった日のメモも、食事制限の一覧も、
last updateLast Updated : 2026-08-04
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第43話 弱点になった義弟

 朔弥は、病室へ近づくことをやめた。 表向きは、警護体制の見直しだった。病院内の人員配置を整理し、外部との連絡窓口を旭に一本化する。そう説明すれば、誰も強くは疑わない。 けれど本当の理由は、もっと単純だった。 朔弥がいるだけで、詩乃の弱点になる。 義弟との関係疑惑。支援者との不適切な距離。病弱な子供への影響。悪意ある者たちは、朔弥が病室の前に立つだけで、いくらでも言葉を作れる。 だから彼は、離れた。 病院の外に部屋を取り、そこから報告だけを受け続けた。奏音の体温、検査値、食事量、睡眠時間。詩乃が何時間眠ったか。病室周辺に不審な出入りがないか。芽衣側の資金の動き。瑛子の側近がどの窓口へ接触したか。 すべて把握している。 なのに、扉を開けて中へ入ることだけができない。 その日、奏音は病室のベッドで、ぼんやり窓の外を見ていた。 熱は少し下がっていたが、まだ顔色は白い。点滴の管を気にしながら、小さな手で布団の端を握っている。「ママ」「なあに」「朔弥さん、もう来ないの?」 詩乃は、答えに詰まった。 奏音の声は責めていない。ただ不思議そうで、少し寂しそうだった。以前のように笑って、軽く返せばいい。そう思うのに、喉の奥が塞がる。「少し、お仕事が忙しいみたい」「そっか」 奏音は小さく頷いた。 納得したふりをするような頷きだった。けれど、すぐに視線を落とし、布団の端をきゅっと握った。 詩乃の胸が痛んだ。 守るために距離を置いている。 それは正しいはずだった。信用できないものを奏音のそばへ置けない。朔弥が近づけば、母親適性を疑う材料にされる。今は、感情より安全を選ばなければならない。 それでも、奏音の小さな寂しさまで自分が奪っているような気がした。「奏音」 詩乃は娘の髪をそっと撫でた。「寂しい?」 奏音は少し迷ってから、首を横に振った。「ママがいるから、だいじょうぶ」 その優しさが、詩乃にはつらかった。 子供に大丈夫と言わせてしまうほど、自分たちは追い詰められている。詩乃は涙を落とさないように、奏音の額へ唇を寄せた。 同じ頃、朔弥は病院近くの一室で、端末に届く資料を見ていた。 芽衣側の金の流れ。  匿名通報の送信元。  ぬいぐるみに仕込まれていた録音機器の購入経路。  複数のアカウントへ流れた広告費。  白川家の
last updateLast Updated : 2026-08-05
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第44話 白川芽衣の証言

 芽衣が鷹宮邸へ呼ばれたのは、午後の光が応接室の絨毯を淡く照らす時間だった。 彼女は、鏡の前で何度も表情を作った。 怯えすぎてはいけない。嘘が濃く見える。強すぎてもいけない。庇護される女ではなくなる。少し青ざめ、少し疲れ、けれど怜司を信じている女の顔。涙を堪えながら、それでも鷹宮家のために話す健気な女。 芽衣は白いワンピースに薄いカーディガンを羽織り、腹部へそっと手を添えた。 まだ膨らみなどほとんどない。 それでも、その仕草だけで周囲は勝手に意味を読み取る。母になる女。守られるべき女。傷つけてはいけない存在。 鷹宮邸の応接室に入ると、瑛子はすでに待っていた。 花は飾られている。紅茶も用意されている。けれど、瑛子の顔に優しい姑の微笑みはなかった。背筋を伸ばし、静かに座るその姿は、招いた相手を慰めるものではない。証言台に立たせるための目だった。「お呼び立てして悪かったわね」「いえ……私でお役に立てるなら」 芽衣は小さく首を振った。 声を震わせる。目元を伏せる。腹部に添えた手へ、わずかに力を込める。「私は、怜司さんを信じています。お腹の子のことも、怜司さんがきっと守ってくださるって。でも……詩乃さんと朔弥さんのことを考えると、不安で」 瑛子は、その演技を見抜いていた。 芽衣の涙は、出す場所を計算している。震える指も、伏せた睫毛も、すべて自分を弱く見せるための道具だ。だが、道具は使えるなら使えばいい。 瑛子はカップを置いた。「あなたが見たことを、ありのまま話しなさい」 芽衣は一度、唇を噛んだ。 そして、用意してきた言葉を口にした。「詩乃さんは、朔弥さんの部屋に滞在していました。奏音ちゃんも一緒だったと聞いています。怜司さんから逃げるように、朔弥さんを頼って……」「聞いています?」 瑛子の声がわずかに冷える。 芽衣はすぐに言い直した。「実際に、そうした話を複数の方から聞きました。それに、奏音ちゃんも朔弥さんをとても慕っているようでした」「直接聞いたの?」 芽衣は一瞬だけ間を置いた。 その短い間に、嘘をどこまで混ぜるかを決める。「はい。奏音ちゃんが言っていました。朔弥さんのお城に行くって。まるで、そこが本当の家みたいに」 瑛子の目が、細くなった。 芽衣は続ける。「子供の言葉なので、深い意味はないのかもしれません。でも
last updateLast Updated : 2026-08-05
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第45話 録られていた声

 美琴が小さな記録媒体を持ってきた時、詩乃は奏音の眠るベッド脇にいた。 病室の灯りは落とされている。奏音は点滴の管をつけたまま、浅い寝息を立てていた。頬にはまだ血の気が薄く、枕元の犬のマスコットを指先で掴んでいる。 美琴は扉の前で一度足を止めた。 怒っている顔だった。けれど、その怒りの奥に、どうしようもない痛みが混じっている。詩乃はその表情だけで、良い知らせではないと分かった。「解析、出た」 美琴の声は低かった。 詩乃は奏音の手を毛布の中へ戻し、静かに廊下へ出た。待機室には旭がいた。机の上に端末が置かれ、美琴が持ってきた記録媒体を差し込む。 数秒の沈黙のあと、小さな音声が流れた。『朔弥さんのところ』 詩乃の指が膝の上で止まる。 それは、奏音の声だった。 幼くて、少し掠れていて、まだ病み上がりの弱さを含んだ声。『お城みたい』 短い間。『ママと一緒』 音声はそこで切れた。 たったそれだけだった。 けれど、それだけで十分だった。つなぎ方次第で、いくらでも意味を変えられる。朔弥のところへ行く。お城みたい。ママと一緒。幼い子供の無邪気な言葉は、悪意ある手にかかれば、詩乃と朔弥の関係を疑わせる刃になる。 詩乃の胸の奥が冷えた。 奏音の声まで、道具にされる。 病気の子供が怖い夜に見つけた、少しだけ安心できる言葉。その小さな断片まで、母親を奪うための材料に変えられようとしている。 美琴が机を握りしめた。「許せない」 声が震えている。「奏音ちゃん、何も悪くないのに。何も知らないのに。こんなふうに切り取られるために喋ったんじゃないのに」 旭は音声の波形を確認しながら、表情を険しくしていた。「録音日時は、ぬいぐるみがプレイルームに置かれた時間帯と一致します。機器の購入履歴も追えました。白川家の関連会社を通じて購入されています」「芽衣さんですか」 詩乃が問うと、旭は即答しなかった。「直接名義ではありません。複数の会社と担当者を挟んでいます。白川芽衣氏の関与を強く疑わせる材料ではありますが、まだ逃げ道があります」 詩乃は目を閉じた。 また、届かない。 芽衣の影はそこにある。けれど、決定的な名前だけが紙の上に出てこない。泣きながら怯えた顔をすれば、きっとまた誰かが庇う。子供に向けた悪意さえ、知らなかったと言って逃げるのだろう。
last updateLast Updated : 2026-08-05
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第46話 夫の署名

 鷹宮邸の応接室は、昼間だというのに薄暗かった。 重いカーテンが半分だけ引かれ、磨かれた床には窓枠の影が細く落ちている。壁に掛けられた肖像画も、銀の盆に置かれた茶器も、すべてがいつも通り整っていた。整いすぎていて、人の感情だけが余分なものに見える部屋だった。 瑛子は、怜司の前へ一冊の書類を差し出した。 白い表紙には、奏音の名前が記されている。 医療判断権に関する申立書。 怜司はその文字を見下ろした。「目を通しなさい」 瑛子の声は静かだった。 怜司は書類を開く。中には、詩乃の養育環境に疑義があること、母親が感情的で、最善の治療選択を妨げている可能性があること、父親である怜司が医療判断へ関与すべきであることが、整った文章で並んでいた。 そこに書かれている詩乃は、怜司の知る詩乃ではなかった。 疲れ切った目で奏音の手を握っていた母親ではない。  熱の変化を記録し、発作の時間を残し、薬の副作用まで細かく書き続けた女ではない。  ただ、不安定で、感情的で、子供の治療を妨げる存在として描かれていた。 怜司は、ページをめくる指を止めた。「あなたが父親だと証明された以上、責任を取りなさい」 瑛子はそう言った。 父親。 かつてなら、その言葉は権利のように響いたかもしれない。鷹宮の血を引く子。自分の娘。五年間隠されていた存在。それを取り戻すための、強い言葉。 だが今は、違った。 重かった。 詩乃の育児記録が、怜司の脳裏に浮かぶ。 夜間の発作。  服薬時間。  食事量。  眠れなかった夜。  検査で泣いた日のメモ。  少し笑えた日の小さな花の絵。 五年分の紙の厚み。 そこに、怜司の名前は一度もなかった。 血は繋がっている。 だが、父親として積み重ねた時間はない。 瑛子は、怜司の沈黙を迷いと受け取ったのだろう。わずかに眉を寄せた。「迷う必要はないわ。あの女は奏音を守れない。だから私たちが奪うの」 怜司は顔を上げた。「奪う、ですか」「正しい場所へ戻すのよ」 瑛子は当然のように言った。「病弱な子供を連れ回し、義弟の部屋へ滞在させ、専門病院への転院も拒んだ。母親としての判断に問題があると見るには十分でしょう。奏音は鷹宮の子よ。鷹宮が最善を選ぶべきだわ」 その声音には、揺らぎがなかった。 怜司は、母の顔を見つめた。 こ
last updateLast Updated : 2026-08-06
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第47話 ママを選ぶ声

 奏音の熱が少し下がった日の午後、病院側から短い説明があった。 奏音本人への聞き取りを行いたいというものだった。 詩乃は、すぐに首を振った。「無理です。奏音はまだ五歳です。病気で疲れています。大人の争いに巻き込むべきではありません」 声は抑えていた。けれど、指先は冷たくなっていた。 ベッドの上の奏音は、ようやく少し眠れるようになったばかりだ。酸素マスクは外れているが、頬の色は薄く、点滴の跡も痛々しい。そんな子供に、誰を選ぶのか、誰といたいのかを尋ねるなど、詩乃には刃物を向けることと同じに思えた。 だが、瑛子側は引かなかった。 子供本人の意思確認。 その言葉は、正しく聞こえる。子供の声を尊重するためだと、いくらでも言える。けれど詩乃には分かっていた。本当の目的は、奏音の言葉を切り取ることだ。 母親といたいと言えば、父親を知らされていなかった証拠にされる。  朔弥が優しいと言えば、義弟との距離を疑う材料にされる。  分からないと言えば、母親が情報を与えてこなかったせいにされる。 どの言葉を選んでも、誰かが別の意味へ変えてしまう。 旭が強く条件を出した。医師の立ち会い。短時間。誘導的な質問の禁止。録音記録の保全。詩乃は同席できない代わりに、ガラス越しに様子を確認できること。 それでも、詩乃の胸はざらついたままだった。 小さな面談室に、奏音が入っていく。 看護師に付き添われ、ゆっくり歩く姿は、いつもよりさらに小さく見えた。薄いカーディガンの袖から出た手は細く、指先にはお気に入りの犬のマスコットが握られている。 詩乃はガラスの向こうで、息を殺して見つめていた。 奏音は小さな椅子に座った。足が床につかず、わずかに宙へ浮いている。緊張しているのか、ぬいぐるみの耳を何度も撫でていた。 担当者は柔らかい声で話しかけた。「奏音ちゃん、今日は少しだけお話を聞かせてね」 奏音は小さく頷いた。 その姿を見るだけで、詩乃は胸が潰れそうだった。「奏音ちゃんは、誰といると安心する?」 問いは優しかった。 けれど、ガラス越しの詩乃には、その優しさの中に針が見えた。 奏音は少し考えた。 ぬいぐるみを胸に寄せ、視線を下げ、それから小さく答えた。「ママ」 詩乃は、唇を噛んだ。 泣いてはいけない。 この場で泣けば、また不安定だと見られるかもしれ
last updateLast Updated : 2026-08-06
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第48話 切られた面会時間

 暫定判断が出たのは、夕方の光が病棟の廊下を薄く染める頃だった。 奏音の医療判断権は、ひとまず詩乃を中心に維持される。旭が積み上げた診療記録、投薬管理、通院費の領収書、保育園への体調表、そして五年間の育児記録が効いたのだ。 詩乃は、その言葉を聞いた瞬間、膝から力が抜けそうになった。 守れた。 そう思いかけた。 けれど、続く説明が胸を冷やした。 鷹宮家側の申し立ても、完全には退けられなかった。理由は、奏音の重い病状。父親である怜司の存在。そして、詩乃と朔弥の関係に関する疑義が完全には晴れていないこと。 結果として、病室での宿泊付き添いは制限されることになった。 一定時間以降、詩乃は病室の外で待機しなければならない。面会記録は厳格化され、入退室の時刻、同席者、会話内容の一部まで記録対象に入る。朔弥の奏音への直接面会は一時停止。 それは、半分勝ちで、半分負けだった。 奏音を鷹宮家に渡さずに済んだ。 けれど、詩乃は娘の隣で夜を越す権利を削られた。 夜が来ると、その現実は紙の上よりずっと残酷だった。 奏音は眠っていた。 小さな胸が規則正しく上下し、枕元の機器が静かな音を刻んでいる。熱は落ち着いている。呼吸も昼間より安定している。医師は、今夜は大きな変化がなければ休ませる方針だと説明した。 それでも、詩乃には分かっていた。 奏音は夜中に目を覚ますことがある。 暗い部屋で不安になり、手探りで母の袖を探す。発作の前ではなくても、検査の疲れで泣くことがある。夢の中で苦しくなり、小さな声で「ママ」と呼ぶことがある。 その時、そばにいられない。 看護師が申し訳なさそうに近づいてきた。「神澤さん……そろそろ、お時間です」 詩乃は奏音の手を握ったまま、動けなかった。 奏音の指は温かい。眠りの中でも、詩乃の親指へ少しだけ触れている。その頼りない重みを離すことが、どうしてもできなかった。「もう少しだけ」 声は、思ったよりも小さかった。 看護師は目を伏せた。「お気持ちは分かります。でも、規則ですので……」 規則。 その言葉は冷たかった。 誰かを守るために作られたはずのものが、今は母親の手を娘から離すために使われている。 詩乃は、ゆっくり頷いた。「分かりました」 奏音の手を布団の中へ戻す。マスコットを枕元へ置き直す。毛布の端を整える。
last updateLast Updated : 2026-08-07
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第49話 ガラス越しの夜

 奏音の泣き声は、病室の外には微かにしか聞こえなかった。 厚い扉と硝子に遮られ、細く滲むだけの声。けれど詩乃には分かった。奏音が自分を探している。泣き方で分かる。痛い時の泣き声ではない。怖い時の声だった。 詩乃は扉の前に立ち、硝子に手をついた。 薄暗い病室の中で、奏音が小さな身体を起こそうとしている。酸素マスクがずれ、看護師が慌てて直そうとする。奏音は涙で濡れた顔を左右に振り、小さな手でマスクを外そうとしていた。「ママ……ママ……」 声は、ほとんど届かない。 それでも、詩乃の胸には刺さった。「お願いします」 詩乃は看護師に向き直った。「少しだけでいいんです。声をかけるだけでいい。手を握るだけでいいから、入らせてください」 看護師は苦しそうに目を伏せた。「神澤さん、お気持ちは本当に分かります。でも、夜間の入室は認められていません。暫定判断の条件に反する可能性があります」「でも、奏音が」「病院スタッフで対応します」 丁寧な言葉だった。 けれど、それは扉だった。 詩乃の前に置かれた、透明で冷たい壁。病室はすぐそこにある。奏音の涙も、苦しそうな顔も見えている。それなのに、母親である詩乃は中へ入れない。 詩乃は、もう一度硝子へ向かった。「奏音」 声が震える。「奏音、ママここにいるよ。大丈夫。ここにいるから」 届かない。 奏音は泣きながら、枕元のマスコットを掴んだ。けれど、それでは足りない。眠りから覚めた時、そこに母の手がない。病院の機械音と知らない天井の下で、母だけがいない。 奏音の指が、また酸素マスクへ伸びる。 看護師が止める。奏音は嫌がって、細い肩を震わせた。 詩乃の喉から、声にならない息が漏れた。 その時だった。「医師を呼べ」 低い声がした。 怜司だった。 詩乃は振り返った。怜司は廊下の少し離れた場所に立っていた。いつからそこにいたのか分からない。整った顔は硬く、視線は病室の中の奏音へ向けられている。 看護師が戸惑う。「鷹宮様、ですが規則が」「規則を破れと言っているんじゃない」 怜司は静かに言った。「医師と記録担当者を呼べ。水無瀬弁護士にも立ち会わせる。奏音の精神的安定のために母親の一時入室が必要だったと、手続きとして残す」 詩乃は息を止めた。 怜司は看護師ではなく、病院側の責任者へ視線を向けた
last updateLast Updated : 2026-08-08
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