「その名前を、ここで出さないで」 詩乃の声は震えていた。 けれど、弱くはなかった。 白い頬にはまだ赤い腫れが残り、唇の端は乾いている。鷹宮家の広いリビングに立つ彼女は、誰が見ても追い詰められていた。だが、その目だけは朔弥をまっすぐ射抜いている。 奏音。 その名だけは、この家で出してほしくなかった。 怜司に知られれば、奏音は守れなくなる。瑛子に知られれば、血筋と後継ぎの話に変えられる。芽衣の耳に届けば、どんな形で利用されるか分からない。あの子は病室で眠っている。ただ生きようとしているだけの、小さな子供なのに。 朔弥は、軽く肩をすくめた。「ごめん。配慮が足りなかったかな」 謝罪の形をしていた。 けれど、本気で悪いと思っている声ではなかった。柔らかく、少し困ったように響く声の奥に、冷たい確認の気配がある。詩乃は気づいた。朔弥はわざと名前を出したのだ。詩乃が何を一番恐れているのか、どこを押せば声を荒げるのか、それを見極めるために。 怜司が一歩近づいた。 革靴の音が、大理石の床に硬く落ちる。「奏音とは誰だ」 詩乃は答えなかった。 喉の奥が焼けつくように痛む。呼吸をすればするほど、胸が狭くなる。怜司の視線は、詩乃の顔から逸れない。これまで自分の妻に秘密などあるはずがないと思っていた男の目だった。家の中に置いた家具と同じように、詩乃の生活も感情も、すべて自分の管理下にあると信じてきた目。 瑛子も目を細めた。「奏音……?」 その声には、疑念よりも不快が混じっていた。詩乃の背後に、自分たちの知らない何かがある。その事実だけで、瑛子の支配欲を刺激したのだろう。 リビングの空気が重く沈む。使用人たちは壁際で息を殺し、誰一人動かない。白い封筒はテーブルの上に残り、結婚指輪が朝の光を受けて冷たく光っていた。 その時、詩乃のスマートフォンが鳴った。 短く、鋭い音だった。 詩乃は肩を震わせ、鞄から端末を取り出す。画面に表示された名前を見た瞬間、胸が大きく跳ねた。 水無瀬旭。 病院からの連絡かもしれない。奏音に何かあったのかもしれない。怜司の視線を感じながらも、詩乃は通話を押した。「旭さん」『すぐ病院へ戻って。医師が話したいと』 旭の声は低く、短かった。 余計な説明がない。その分、事態の重さが伝わってくる。詩乃の指先から血の気が引いた。窓の
Last Updated : 2026-07-15 Read more