All Chapters of 結婚七年目冷たい夫を捨てた夜、義弟が迎えに来ました 〜秘密を抱いた契約妻は、もう愛を乞わない〜: Chapter 11 - Chapter 20

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第10話 知られてはいけない名前

「その名前を、ここで出さないで」 詩乃の声は震えていた。 けれど、弱くはなかった。 白い頬にはまだ赤い腫れが残り、唇の端は乾いている。鷹宮家の広いリビングに立つ彼女は、誰が見ても追い詰められていた。だが、その目だけは朔弥をまっすぐ射抜いている。 奏音。 その名だけは、この家で出してほしくなかった。 怜司に知られれば、奏音は守れなくなる。瑛子に知られれば、血筋と後継ぎの話に変えられる。芽衣の耳に届けば、どんな形で利用されるか分からない。あの子は病室で眠っている。ただ生きようとしているだけの、小さな子供なのに。 朔弥は、軽く肩をすくめた。「ごめん。配慮が足りなかったかな」 謝罪の形をしていた。 けれど、本気で悪いと思っている声ではなかった。柔らかく、少し困ったように響く声の奥に、冷たい確認の気配がある。詩乃は気づいた。朔弥はわざと名前を出したのだ。詩乃が何を一番恐れているのか、どこを押せば声を荒げるのか、それを見極めるために。 怜司が一歩近づいた。 革靴の音が、大理石の床に硬く落ちる。「奏音とは誰だ」 詩乃は答えなかった。 喉の奥が焼けつくように痛む。呼吸をすればするほど、胸が狭くなる。怜司の視線は、詩乃の顔から逸れない。これまで自分の妻に秘密などあるはずがないと思っていた男の目だった。家の中に置いた家具と同じように、詩乃の生活も感情も、すべて自分の管理下にあると信じてきた目。 瑛子も目を細めた。「奏音……?」 その声には、疑念よりも不快が混じっていた。詩乃の背後に、自分たちの知らない何かがある。その事実だけで、瑛子の支配欲を刺激したのだろう。 リビングの空気が重く沈む。使用人たちは壁際で息を殺し、誰一人動かない。白い封筒はテーブルの上に残り、結婚指輪が朝の光を受けて冷たく光っていた。 その時、詩乃のスマートフォンが鳴った。 短く、鋭い音だった。 詩乃は肩を震わせ、鞄から端末を取り出す。画面に表示された名前を見た瞬間、胸が大きく跳ねた。 水無瀬旭。 病院からの連絡かもしれない。奏音に何かあったのかもしれない。怜司の視線を感じながらも、詩乃は通話を押した。「旭さん」『すぐ病院へ戻って。医師が話したいと』 旭の声は低く、短かった。 余計な説明がない。その分、事態の重さが伝わってくる。詩乃の指先から血の気が引いた。窓の
last updateLast Updated : 2026-07-15
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第11話 父親ではない男

第11話 父親ではない男 怜司と朔弥は、詩乃を挟んで向かい合っていた。 リビングの朝の光は白く、床に落ちる影だけが濃い。瑛子はソファの横で微動だにせず、使用人たちは壁際で息を潜めている。誰も声を出さない。だが全員が、この場にある空気のひび割れる音を聞いていた。 怜司の手首を押さえたまま、朔弥は薄く笑っている。 いつもの軽い笑みだった。女たちに向ける甘い顔。世間が「無能な私生子」と笑う時に、彼自身もまた笑って受け流すための顔。けれどその指には、柔らかさとは正反対の力があった。「どけ」 怜司の声は低かった。 怒鳴りはしない。けれど、その静けさがかえって危うい。詩乃は胸の奥が冷えていくのを感じた。怜司の怒りは、炎ではなく刃に似ている。熱を見せず、必要な場所だけを切る。 朔弥は動かなかった。「兄さん、今ここで詰問して、子供に何かあったらどうするの」「黙れ」「黙らないよ」 朔弥の笑みが、ほんのわずかに深くなる。「兄さんが黙っていたせいで、義姉さんは五年も一人で育ててきたんだろうから」 詩乃は息を呑んだ。 その言葉は庇護の形をしていた。けれど同時に、怜司の胸を抉るための刃でもあった。朔弥が自分を守っているのか、それとも怜司を煽っているだけなのか、詩乃には判別できない。 おそらく、どちらも本当なのだ。 救命具の形をした爆弾のような男。 そう思った瞬間、背筋に薄い寒気が走った。 怜司の視線が詩乃へ戻る。「五年?」 詩乃は答えなかった。「娘は、五歳なのか」 言葉の一つ一つが、重く落ちる。詩乃は唇を引き結んだ。答えてはいけない。だが、もう遅かった。怜司の中で、時間が結び直されていく。五年前。詩乃の様子が一時期不安定だったこと。病院へ通っていた理由を曖昧にしていたこと。長く外出していた日々。 そして、隠された娘。 怜司の目が変わった。 それは、父親が初めて我が子を知った時の目ではなかった。 柔らかさも、戸惑いの中の喜びもない。そこにあったのは、自分の知らないところで、自分の血を引くかもしれない存在が育っていたという事実への、冷たい衝撃だった。 所有物を奪われかけた男の目。 詩乃は、その目を見た瞬間、心臓を掴まれたような恐怖を覚えた。 怜司が奏音を愛するとは思えない。小さな手を握り、熱を測り、夜中に咳き込めば背をさすり、食べられ
last updateLast Updated : 2026-07-15
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第12話 救済の条件

 朔弥の差し出した手は、白い廊下の光の中でひどく綺麗に見えた。 病院の壁は清潔で、消毒液の匂いが薄く漂っている。遠くで台車の車輪が鳴り、看護師の柔らかな靴音が通り過ぎていく。その日常の音の中で、朔弥の言葉だけが妙に重かった。 僕と手を組んで。 詩乃は、その言葉をすぐには受け取らなかった。 彼の手は救いの形をしている。だが、触れた瞬間に何かを失うのではないかという予感があった。薄い笑み。穏やかな声。必要な情報を必要な時にだけ差し出す冷静さ。どれも、優しさとは少し違うものだった。「……お金が欲しい、という話ではないんですね」 詩乃の声は掠れていた。 朔弥は小さく笑った。「義姉さんから奪える金なんて、たかが知れてる」 残酷な言い方だった。けれど、侮辱というより事実を並べただけの声だった。「兄さんと離婚したいんだろう。なら、僕を使えばいい」「使う……?」「鷹宮家の内側は、外から見るよりずっと面倒だよ。兄さんの予定、瑛子さんの監視網、芽衣の動き、使用人の口の軽さ、顧問弁護士が作った婚前契約の癖。そういうものを知らないまま正面からぶつかれば、義姉さんは潰される」 詩乃の背筋に冷たいものが走った。 朔弥は脅しているのではない。淡々と、地図を広げるように危険の位置を指しているだけだった。だからこそ怖かった。そこにある道も、罠も、抜け穴も、彼には見えている。「旭さんがいます」「法の上ではね」 朔弥は廊下の窓へ視線を向けた。 外は白く明るい。だが、ガラスに映る彼の横顔には薄い影が差していた。「でも鷹宮家は、法の外側にも手を伸ばす。奏音ちゃんの病院。義姉さんのお母様の入院先。美琴さんの演奏活動。水無瀬旭の事務所。圧力をかけられる場所はいくらでもある」 詩乃の指先が冷えた。 彼は鷹宮家の危険性を語っているのではない。 自分もまた、その危険を使える側の人間だと示しているのだ。「あなたは、何が目的なんですか」 詩乃は朔弥を見据えた。 問いかけた声は静かだったが、胸の奥はざわついていた。奏音の命がかかっている。けれど、命を救うために娘の未来を誰かの手に渡すわけにはいかない。 朔弥はすぐには答えなかった。 廊下の向こうで、扉の閉まる音がした。沈黙が二人の間に細く垂れる。やがて彼は、少しだけ目を伏せた。「兄さんが大事にしているものを、壊したい
last updateLast Updated : 2026-07-16
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第13話 鷹宮家の血

 怜司は、病院へ向かわなかった。 向かおうと思えば、すぐにでも行けた。車を出させ、受付へ名を告げ、鷹宮の姓を使えば扉はいくつも開く。だが、衝動のまま動くには、耳に残った名が重すぎた。 奏音。 詩乃があれほど青ざめた名前。 娘、と彼女は言った。自分たちには関係ないとも言った。だが五歳という言葉が、怜司の中で冷たく組み上がっていく。五年前。詩乃が一時期、妙に顔色を悪くしていた頃があった。食事の席に出ない日が増え、使用人から体調不良とだけ聞かされた。怜司は深く問わなかった。妻の不調など、自分の業務を妨げない限り、屋敷の中で処理されるべき事柄だと思っていた。 執務室の窓の外には、曇った午後の光が沈んでいた。 怜司はデスクに置かれた資料へ目を落とす。詩乃の近年の外出記録。病院名。水無瀬旭の事務所に関する報告。五歳の女児。神澤奏音。詩乃がたびたび小児病棟へ出入りしていたこと。 すべてが合いすぎていた。「なぜ黙っていた」 呟いた声は、誰にも届かず革張りの椅子の背に沈んだ。 怒りがあった。詩乃が自分に隠し事をしていたことへの怒り。鷹宮の血を引くかもしれない子を、勝手に外へ置いていたことへの怒り。自分の知らない世界を、彼女が五年も抱えていたことへの不快感。 だが、その底にあるはずの五年前の記憶だけは、怜司の中で奇妙に欠けていた。 冷えた夜、会社の下で待っていた詩乃。取り次ぎを求めたという秘書の報告。自分が「帰らせろ」と命じたこと。それらは記憶ではなく、不要な処理済みの書類のように片隅へ追いやられていた。 扉が開き、瑛子が入ってきた。 淡いスーツに真珠のブローチ。いつもと変わらぬ装いだったが、その目だけは冷たく冴えていた。「調べは進んでいるのね」「まだ確定ではありません」「確定させなさい」 瑛子は当然のように言った。「芽衣さんのお腹の子も、まだ何も分からないのでしょう。もしその子が本当にあなたの血を引いているなら、鷹宮家として無視はできません」 怜司は母を見た。「詩乃は渡さないと言うでしょう」「詩乃さんの意思など関係ないわ」 瑛子の声には、ためらいがなかった。「あの女は子を産めない役立たずだと思っていたけれど、役目を果たしていたのなら話は別よ。母親としては不適格でも、産んだ事実だけは評価してあげてもいい」 その言い方に、怜司はわずかに
last updateLast Updated : 2026-07-16
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第14話 初めて聞く娘の声

第14話 初めて聞く娘の声 病室の中から聞こえた声は、細かった。「ママ……?」 それは、白い扉越しにかすかに届くほどの小さな声だった。けれど怜司の足を止めるには、十分すぎるほどだった。 詩乃を責める言葉も、扉を開けろという命令も、喉の奥で凍りつく。 奏音。 名前として聞いた時には、まだ形がなかった。書類の上に浮かぶ不確かな可能性。五年前という時期に重なる疑惑。詩乃が隠していた秘密。怜司にとって、それはまだ自分の支配の外側で起きた不愉快な事実にすぎなかった。 だが今、声がした。 弱く、幼く、それでも確かに生きている子供の声だった。 怜司は、病室の扉を見つめたまま動けなかった。 詩乃の顔色が変わる。「奏音」 彼女は怜司の横をすり抜け、扉へ向かおうとした。だが怜司も、反射的に一歩踏み出す。「待て」 詩乃は振り返った。 その目に浮かんだのは、恐怖だった。 病院の廊下は静かだった。夜の照明は柔らかく落とされ、壁際の手すりに淡い影が伸びている。遠くで機械の電子音が鳴り、消毒液の匂いが薄く漂っていた。そんな穏やかな空気の中で、詩乃だけが張り詰めた糸のように立っている。「入らないでください」 小さな声だった。 けれど、拒絶は明確だった。 怜司の眉がわずかに動く。「会わせろ」「嫌です」「俺の子かもしれない」「だから、です」 詩乃の答えは早かった。 怜司の目が冷える。だが詩乃は退かなかった。頬の腫れはまだ赤く、唇には疲労の色がある。それでも、病室の扉の前に立つ姿だけは、鷹宮家でうつむき続けていた女とは別人のようだった。 扉の向こうで、もう一度声がした。「ママ……」 細く、不安げな声。 詩乃の肩が震えた。 怜司を遮ることと、奏音のもとへ行くこと。その二つが一瞬、彼女の中で引き裂き合う。次の瞬間、詩乃は扉へ手をかけた。「ここで待っていてください」 それだけ言って中へ入ろうとする。 怜司は続こうとした。 だが、その前に落ち着いた声が廊下へ響いた。「ここから先は、母親の許可なく入れません」 怜司の足が止まる。 廊下の向こうから、水無瀬旭が歩いてきていた。濃い色のスーツに、乱れのない姿勢。表情は静かで、声にも過剰な怒りはない。だがその立ち位置は、明らかに詩乃と病室を守る側だった。 怜司は、旭を見た。 この男だ。 
last updateLast Updated : 2026-07-17
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第15話 白い病室の契約

 怜司が廊下の向こうへ消えたあとも、病室の空気はしばらく張りつめていた。 白い壁。淡い照明。規則正しく鳴るモニターの音。奏音は詩乃の手を握ったまま、疲れたように目を閉じている。小さな胸が浅く上下するたび、詩乃の呼吸も同じように揺れた。 扉の外には、旭と美琴、そして朔弥がいた。 美琴は病室に入るなり、詩乃の頬を見て唇を噛んだ。怒鳴りたいのを必死に堪えている顔だった。けれど奏音が眠っているのを見て、声を低く抑える。「……あの男、ここまで来たの」「うん」 詩乃は小さく頷いた。 旭は腕を組み、朔弥へ冷静な目を向けていた。弁護士としての目だった。感情ではなく、危険の種類を見極める目。「鷹宮朔弥さん。あなたが持ち込む情報には価値がある。鷹宮家の内部事情、白川芽衣氏の行動、怜司氏の動向、医療機関への接続。いずれも、詩乃さんと奏音ちゃんを守る上で役に立つ可能性はあります」 旭の声は静かだった。「ですが、危険でもある。あなた自身が鷹宮家の人間であり、怜司氏への私怨を持っている以上、こちらにとって完全な味方とは言えません」 朔弥は否定しなかった。 白い病室の入口に立ち、いつものように薄く笑っている。だが、その笑みは少しだけ淡かった。「僕は善人じゃない。だからこそ、鷹宮家のやり方が分かる」「開き直りに聞こえますね」 美琴が鋭く言った。 朔弥は肩をすくめる。「否定はしないよ」 詩乃は、奏音の手を布団の中へそっと戻した。点滴の管に触れないように気をつけ、細い指先を包み込む。奏音は眠っている。何も知らずに、まだ母の温度を探すように指を少し動かした。 この子を守るために、何を選べばいいのか。 正しい道だけを選べる状況ではない。けれど、間違った手を取れば、奏音まで巻き込まれる。 詩乃は立ち上がり、朔弥を見た。「条件があります」 朔弥の目が、わずかに細くなる。「聞こうか」「一つ。奏音を復讐に利用しないこと」 朔弥は笑わなかった。「一つ。奏音に、私の許可なく近づかないこと。病室にも、検査にも、医師との話し合いにも、勝手には関わらないでください」「うん」「一つ。母の病院には手を出さないこと。情報を取るためでも、鷹宮家を動かすためでも、絶対に」 詩乃の声は静かだった。だが、言葉の芯は硬かった。「一つ。嘘をついたら、その場で関係を切ります。どん
last updateLast Updated : 2026-07-18
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第16話 指輪のない妻と動き出す支配

 空の引き出しを見つめたまま、怜司はしばらく動かなかった。 そこには、何かがあるはずだった。 胃薬を飲む時間。頭痛が出る前に避けるべき予定。商談の前に選ぶべきネクタイ。疲労が溜まった日に出されていた、香りの薄い茶。どれも怜司が命じた覚えはない。だが、いつも当然のように整えられていた。 その当然が、消えていた。 机の上には、白い封筒から出された離婚協議書が置かれている。隣には結婚指輪。詩乃の指から外された輪が、朝の光を受けて冷たく光っていた。 怜司はそれを見下ろし、奥歯を噛んだ。 離婚。 五年間隠された娘。 自分の知らない病室、自分の知らない男たち、自分の知らない娘の声。 詩乃が、本気で自分の手の届かないところへ行こうとしている。その事実が、遅れて腹の底を焼いた。「ふざけるな」 低い声が、寝室に落ちた。 怜司はスマートフォンを取り上げた。表示した番号は、奏音が入院している病院の上層部へ通じるものだった。鷹宮財閥は医療テックにも出資している。病院経営の表に名前がなくとも、無関係ではいられない場所はいくらでもある。 数回の呼び出し音の後、相手が出た。「鷹宮怜司です」 名乗っただけで、電話の向こうの空気が変わる。「神澤奏音という女児が入院しているはずだ。安全確認を徹底していただきたい。鷹宮家の血を引く可能性がある」 言葉は丁寧だった。 だが、その底にあるものは保護ではない。詩乃と奏音の行き先を知り、誰と会い、どの医師と話し、いつ病室を出るのかを把握するための網だった。「ええ。母親の情緒が不安定である可能性もある。面会者の記録は残しておいてください」 詩乃の顔が脳裏に浮かぶ。 病室の前で自分を拒んだ目。 今は、知らなくていい人よ。 その言葉を思い出した瞬間、怜司の指に力が入った。スマートフォンの縁が、掌に硬く食い込む。 通話を切ると、怜司はすぐに部下へ連絡した。「詩乃と朔弥の関係を調べろ」 窓の外では、庭師が植え込みの手入れをしている。刃物が枝を落とす小さな音が、ガラス越しに聞こえた。「いつから接触していたのか、何を企んでいるのか、全部だ。病院での接触、移動記録、通話履歴、使っている車も確認しろ」 部下が短く応じる。 怜司は続けた。「水無瀬旭もだ。あの男がどこまで関わっているのか調べる」 命じる声は冷静だった。
last updateLast Updated : 2026-07-18
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第17話 夫人の提案

 午後の病棟には、消毒液の匂いと、窓から差し込む薄い冬の日差しが満ちていた。 白い床を打つ靴音が、一定の間隔で近づいてくる。急ぎもせず、迷いもない。その音だけで、廊下にいた看護師たちが無意識に背筋を伸ばした。 鷹宮瑛子は、病院という場所にさえ馴染もうとはしなかった。 乱れひとつない髪。襟元には小粒の真珠を連ねたブローチ。淡い灰青色のスーツは、冷たい照明の下でも皺ひとつ見せない。彼女が歩けば、白い廊下はたちまち鷹宮家の応接間へと変わり、そこにいる者すべてが招かれざる客になる。 詩乃は、奏音の病室の前で待っていた。「わざわざ来てくださったことには、感謝します」 声が硬くならないよう努めたが、指先は冷えていた。組んだ手の内側へ爪が食い込んでいる。 瑛子は答えず、病室の小窓へ視線を向けた。 眠っている奏音の胸が、薄い掛け布団の下でかすかに上下している。点滴の管につながれた腕は細く、頬にはまだ血の気が戻りきっていない。 瑛子の目に、ほんの一瞬、失望に似た影が差した。 小さい。弱い。鷹宮の名を継ぐ子としては、あまりに頼りない。 言葉にされなくとも、詩乃には分かった。胸の奥で、冷たい怒りがゆっくりと形を持つ。 その時、奏音が寝返りを打った。 枕に埋もれていた横顔が、淡い光の中に現れる。すっと通った鼻筋。長い睫毛の下の目元。眠っていてもわずかに寄る眉。 瑛子の瞳が細くなった。「……なるほど」 低く落ちた声に、詩乃の背を寒気が走った。 瑛子はようやく彼女を見た。「鷹宮の血を引くなら、あの子はこの家のものです」「奏音は物ではありません」 考えるより先に言葉が出ていた。 瑛子の唇に薄い笑みが浮かぶ。子供の反抗を眺めるような、温度のない笑みだった。「あなたに育てられるより、鷹宮家へ入った方があの子のためよ。治療も、環境も、教育も、望みうる最良のものを与えられる」「それは、奏音を助けたいからではありませんよね」「理由など重要ではないわ。結果として、あの子は救われる」 瑛子は革の手袋を外し、指先を一度だけ揃えた。その動作まで静かで、余白がない。「病院にはすでに話を通しています。状態を確認するための資料も取り寄せているわ。怜司も、父親として必要な確認を進める準備に入っている」「勝手なことをしないでください」 詩乃の呼吸が浅くなる。 奏音
last updateLast Updated : 2026-07-19
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第18話 義弟の部屋

 病院を出る時、詩乃は最後まで頷けなかった。 奏音は小さなブランケットに包まれ、美琴の腕の中でうとうとしている。点滴は一時的に外され、必要な薬と書類は旭がすべて確認してくれた。医師からは、短時間の移動であれば問題ないと許可が出ている。だが、それでも病室を離れることに、詩乃の胸は引き裂かれるようだった。 白い廊下の向こうには、まだ鷹宮家の気配が残っている。 瑛子が連れてきた男たちは、朔弥の警護と病院側の職員に阻まれ、表向きは引き下がった。けれど、本当に消えたわけではない。病院の入口にも、駐車場にも、どこか不自然に立ち止まる人影があった。見られている。そう感じるだけで、詩乃の背中には冷たい汗が滲んだ。「本当に、行かなければいけませんか」 詩乃は旭へ尋ねた。 問いというより、最後の抵抗だった。 旭は、手元の書類を鞄へしまいながら答えた。「今は安全を優先すべきです。病院も、お母様の入院先も、すでに監視対象になっている。奏音ちゃんを守るためには、場所を変える必要があります」「でも、朔弥さんの部屋なんて……」 言葉が途切れる。 義弟の部屋。 その響きだけで、どれほど悪意ある噂に変えられるか分かっていた。怜司は詩乃と朔弥の関係を疑うだろう。瑛子はそれを詩乃の不貞として扱うだろう。芽衣はきっと、涙を浮かべて誰かに囁く。詩乃が鷹宮家を裏切ったのだと。 旭は詩乃の迷いを読み取ったように、静かに言った。「攻撃材料は、向こうが必要なら作ります。事実があってもなくても」 詩乃は息を呑んだ。「それより今は、実際に手が届かない場所へ移す方が大事です」 朔弥は少し離れた場所で待っていた。 いつもの軽い笑みはない。病院のガラス扉の向こうに立つ彼は、外の夜を背負っているように見えた。街灯の光が肩に落ち、顔の半分を淡く照らしている。華やかな顔立ちなのに、その瞬間だけ、ひどく疲れて見えた。 詩乃は奏音を抱き取った。 小さな身体は温かかった。眠っているのに、母の服を握る指だけは離れない。その力が弱いほど、詩乃は自分の迷いを恥じた。「……分かりました」 朔弥の車は、病院の裏口に回されていた。 街は夜へ沈み始めていた。窓の外を流れるビルの明かりは冷たく、車内には革の匂いと、わずかな薬の匂いが混じっている。奏音は詩乃の膝に頭を預け、時折浅い寝息を立てた。美琴は隣で何
last updateLast Updated : 2026-07-19
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第21話 偽りの鑑定書

 その封筒が怜司の執務室へ届いたのは、午後の雨が窓を濡らし始めた頃だった。 差出人は、例の鑑定機関だった。白い封筒の表面には事務的な印字が並び、余計な装飾はない。だが怜司はそれを見た瞬間、胸の奥に重いものが落ちるのを感じた。 机の上には、神澤奏音について集めさせた資料が置かれている。 五歳。心疾患。母親は神澤詩乃。入院記録。水無瀬旭の関与。病室前で聞いた小さな声。 ママ。 その響きが、まだ耳に残っていた。 怜司は封を切った。 紙の擦れる音が、雨音に混じる。中から出てきた鑑定書は二種類あった。一つは白川芽衣の腹の子に関するもの。もう一つは、奏音に関する簡略な報告だった。 怜司はまず、芽衣の方に目を落とした。 数値。検査項目。専門的な文言。最後に示された結論。 胎児が鷹宮怜司と生物学的親子関係にある可能性は、極めて高い。 指先が紙の端を押さえる。 次に、奏音の報告へ視線を移した。こちらは不完全だった。サンプルが限定的であり、追加検査が望ましいと記されている。その下に、曖昧な言い回しでこう書かれていた。 現時点では、鷹宮怜司との親子関係を強く支持する結果は得られていない。 怜司は、眉を寄せた。 紙の上の文字は冷静だった。そこに感情はない。だが、その無機質さがかえって思考を乱した。 奏音を見たわけではない。声を聞いただけだ。病室の隙間から一瞬、小さな顔の輪郭を見ただけだった。それでも、怜司の中には説明のつかない感覚があった。 あの声。  詩乃が守ろうとした必死さ。  瑛子が見たという怜司の面影。  五年前という時期。 それらと、紙の上の結果が噛み合わない。 扉が叩かれた。「入れ」 芽衣が入ってきた。 淡いワンピースに薄手のカーディガン。栗色の髪は柔らかく肩へ落ち、顔色はいつもより白い。守られるべき女として完璧な姿だった。だが怜司は、以前ほど自然に立ち上がることができなかった。 芽衣の視線が、机の上の書類へ吸い寄せられる。「……届いたんですね」 声が震えた。「芽衣」 怜司が名を呼ぶと、彼女は唇を噛み、ゆっくり近づいてきた。目にはすでに涙が浮かんでいる。あまりにも早い涙だった。以前なら、その涙を見ただけで怜司は迷わなかった。庇い、言葉を選び、彼女が傷つかないように結論を整えていた。 けれど今は、その涙の速さが、なぜ
last updateLast Updated : 2026-07-20
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