All Chapters of 結婚七年目冷たい夫を捨てた夜、義弟が迎えに来ました 〜秘密を抱いた契約妻は、もう愛を乞わない〜: Chapter 51 - Chapter 60

61 Chapters

第50話 五年前の秘書

 怜司は、五年前の記録を調べ始めた。 詩乃が妊娠を知らせようと会社を訪れた日。 秘書に取り次ぎを拒まれた日。 それが本当にあったのか。誰が対応したのか。どの部署が記録を残していたのか。怜司は部下へ命じ、当時の来訪者記録、受付端末のログ、秘書室の通話記録まで洗わせた。 最初、彼は自分が事実を確認しているだけだと思っていた。 だが、本当は違った。 詩乃の言葉が胸に刺さっていたのだ。 知らせようとしました。五年前に。 若さまが、断りもなく会社に踏み込むなと仰っています。 その声が、何度も耳の奥で蘇る。 怜司にとっては、記憶にも残らないほど小さな出来事だった。会議前の忙しい時間。予定外の来客。名ばかりの妻。大した用件ではないと決めつけ、秘書に処理させたのかもしれない。 けれど、詩乃にとっては違った。 奏音を一人で産む決意へ繋がった夜。 父親に知らせる最後の扉が閉じた夜。 当時の秘書は、すでに退職していた。 怜司は、その居場所を探させた。退職後の勤務先、連絡先、住所変更の履歴。部下は数日かけて、都内から離れた小さな法律事務所で事務員として働く元秘書へ辿り着いた。 会った場所は、ホテルの小さな応接室だった。 元秘書は、怯えていた。 年齢より老けて見えた。きちんと整えた髪も、膝の上で握りしめた手も、どこか落ち着きがない。怜司が向かいに座るだけで、彼女は深く頭を下げた。「お久しぶりでございます、怜司様」「五年前のことを聞きたい」 怜司は前置きをしなかった。 録音機が机の上に置かれている。元秘書の目がそこへ揺れた。「神澤詩乃が、会社へ来た日だ。覚えているか」 元秘書の唇が、わずかに震えた。 沈黙。 その長さが、答えに近かった。「……覚えております」「何をしに来た」「奥様は、怜司様へ直接お話ししたいと仰っていました」「内容は」 元秘書は目を伏せた。「詳しくは聞いておりません。ただ……体調が悪そうで、何度もお腹のあたりに手を添えていらして。とても大事なお話だと。ご家族に関わることだと」 怜司の喉が、静かに詰まる。 妊娠について話したかったのだ。 詩乃はその時、奏音を抱えた身体で会社の下に立っていた。冷えた足を擦りながら、父親である怜司には伝えなければならないと、何時間も待っていた。 その姿が、今さら怜司の中で形を持
last updateLast Updated : 2026-08-08
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第51話 母の嘘

 鷹宮邸の応接室は、いつもと変わらず美しかった。 磨かれた床。重厚なカーテン。季節の花を生けた銀の花器。壁に掛けられた古い肖像画。そこはかつて、詩乃が何度も頭を下げた場所だった。 怜司の帰宅時間を尋ねるために。  会食の席次を確認するために。  神澤家への支払い猶予を願うために。  そして、何度も冷たく退けられるために。 その部屋で、今度は怜司が瑛子と向き合っていた。 瑛子はソファに腰かけ、紅茶を手にしている。白磁のカップを持つ指先には、わずかな乱れもない。怜司が入ってきた時も、彼女は驚いた顔ひとつ見せなかった。「五年前、詩乃が会社へ来たことを知っていたな」 怜司の声は低かった。 瑛子は紅茶を置いた。 受け皿にカップが触れる音が、澄んで響く。「ええ」 あまりにも簡単な返事だった。 怜司は一瞬、息を呑んだ。問い詰めれば否定されると思っていたわけではない。それでも、その平坦な肯定は胸の奥を冷たくした。「なぜ俺に伝えなかった」「必要なかったからよ」 瑛子は、そう言った。 罪を問われているという意識など、そこにはなかった。古い帳簿を処分した理由でも説明するような、整った声だった。「詩乃は妊娠していたかもしれない」「そうね」「俺の子だ」「今になってみれば、そうだったわね」 怜司の指が震えた。 瑛子は、怜司の動揺を静かに見つめていた。息子を心配する母の目ではない。予定外に乱れた駒の動きを観察する目だった。「あの頃の神澤詩乃は、鷹宮家にふさわしい女ではなかったわ。神澤家は壊れ、父親は死に、母親は病床。本人は従順なだけで、家の役にも立たない。そんな女が子供を盾にあなたへ縋れば、鷹宮にとって邪魔になるだけだった」 怜司は、母の言葉を聞いていた。 詩乃が会社の下で待っていた日。 冷えた足を擦りながら、それでも父親である自分に伝えようとしていた日。 その姿を想像するたび、胸の奥が鈍く痛む。だが瑛子の口から語られる詩乃は、人間ではなかった。処理すべき背景。切り捨てるべき要素。鷹宮家に不利益をもたらす可能性。「あなたも、あの頃は詩乃に興味などなかったでしょう」 瑛子の言葉が、怜司を刺した。 否定しようとした。 だが、できなかった。 興味などなかった。 その通りだった。 詩乃が何を食べ、どんな顔で朝を迎え、夜にどれほど待
last updateLast Updated : 2026-08-09
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第53話 守るという檻

 面談室の空気は、ひどく重かった。 閉ざされた白い部屋。机の上には、怜司が差し出した契約書が置かれている。詩乃を守るための文言と、詩乃を縛るための文言が、同じ紙の上に並んでいた。 その前で、怜司と朔弥が向き合っている。 怜司は朔弥の姿を見た瞬間、表情を硬くした。「お前には関係ない」 朔弥は笑った。 けれど、その笑みは冷えていた。「関係ならあるよ。兄さんが奏音ちゃんの命を使って、詩乃を妻の座へ縛ろうとしてるんだから」「俺は二人を守る」「守るふりをして、逃げ道を消しているだけでしょ」 怜司の視線が冷える。「お前には法的な権利がない。奏音の父親でもなければ、詩乃の夫でもない」 朔弥の笑みが、わずかに薄くなった。「父親であることを、今まで何もしなかった五年間の免罪符にするつもり?」「黙れ」「黙らないよ。少なくとも僕は、奏音ちゃんを詩乃から奪おうとはしない」 怜司が椅子を引いて立ち上がった。「だが、お前は詩乃を奪おうとしている」 空気が止まった。 詩乃は、二人を見比べた。 怜司は父親という名で、詩乃と奏音を自分の管理下へ置こうとしている。朔弥は救済者の顔で、詩乃の逃げ道を何度も用意してきた。どちらも、奏音を守ると言う。詩乃を助けると言う。 けれど、そのどちらの言葉にも、詩乃自身の意思が置き去りにされていた。「二人とも、やめてください」 声は静かだった。 それでも、二人は同時に詩乃を見た。「奏音を守る方法も、私がどこにいるかも、私が決めます」 怜司の眉が動く。 朔弥の目が、わずかに伏せられる。 その時、扉が開き、旭が入ってきた。彼は机の上の契約書を取り、素早く目を通す。表情は変わらない。けれど、最後の項目まで読んだ時、目元がわずかに険しくなった。「怜司氏。この条件は、短期的には非常に強い。瑛子氏が進めている母子分離を止める効力も、病院側への圧力を抑える効果も見込めます」 怜司は黙って聞いていた。「ですが、離婚協議の停止、居住地の指定、交友関係の制限は別問題です。奏音さんの安全と、神澤さんの離婚問題は切り分けるべきです」 面談室に沈黙が落ちた。 怜司は契約書を見下ろす。 紙の中には、彼なりの防壁があった。瑛子を止めるための文言。芽衣を遠ざけるための文言。治療費を鷹宮家本体から切り離すための文言。 だが、その防
last updateLast Updated : 2026-08-09
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第54話 切り取られた母親

 その音声が投稿されたのは、夕方の病棟が少しだけ騒がしくなる時間だった。 匿名アカウント。 顔も名前もない発信者が、短い文章と一緒に、一本の音声を載せていた。 母親の本音。 たったそれだけの言葉が添えられている。 最初に気づいたのは美琴だった。待機室でスマートフォンを見ていた彼女の顔色が、見る見るうちに変わった。怒りより先に、血の気が引く。次に、唇が震えた。「詩乃」 呼ばれた声だけで、詩乃は嫌な予感を覚えた。 奏音は病室で眠っている。泣き疲れた夜のあと、ようやく少し落ち着いたところだった。詩乃は椅子から立ち上がり、待機室へ入る。 美琴は無言でスマートフォンを差し出した。 再生ボタンを押す。『朔弥さんのところ』 奏音の声だった。 幼くて、かすれていて、聞くだけで胸が痛くなる声。『お城みたい』 短い空白。『ママと一緒』 その次に、詩乃自身の声らしきものが繋がった。『怜司さんには、会わせたくない』 詩乃は息を止めた。 確かに、自分の声だった。けれど、これは違う。こんな流れではなかった。奏音の声も、詩乃の声も、別々の場所で、別々の夜に発されたものだ。意味も、相手も、温度も違う。 それなのに、一本の音声として繋がれると、まるで詩乃が父親から奏音を遠ざけ、朔弥と新しい居場所を作ろうとしているように聞こえた。 美琴が端末を奪うように引き戻した。「これ、編集されてる」 彼女は音声をもう一度再生し、途中で止める。「ここ。呼吸の間が変。奏音ちゃんの声の後ろにある空調音と、詩乃の声の後ろの響きが違う。ここで環境が切り替わってる。あと、言葉の頭が少し削れてる」 音楽家の耳は、怒りの中でも正確だった。 旭はすぐに端末を受け取り、保存を指示した。「元投稿のURL、投稿時刻、拡散経路を保全します。音声解析も依頼します」「解析なんか待ってたら、また広がる」 美琴の声が震えた。 旭は頷いた。「分かっています。だから同時に、編集音声である可能性を示す初動の説明を出す準備をします。ただ、断定は解析結果が出てからです」 詩乃は、机に手をついた。 世論は、解析を待たない。 もうすでに、投稿は広がり始めていた。画面の中で、知らない人間たちの言葉が増えていく。 母親失格。  病気の子供を使う女。  父親を奪うな。  義弟と逃げるため
last updateLast Updated : 2026-08-10
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第55話 逆再生の証拠

 美琴は、何度も同じ音声を聞き返していた。 待機室の小さな机の上には、旭の端末と、解析用に複製された音声データが並んでいる。奏音の声が入った匿名投稿は、すでに保存され、投稿時刻も拡散経路も記録されていた。 けれど、美琴はそれだけでは足りないと思っていた。 画面の中の波形を見つめながら、彼女はイヤホンを片耳に差し込む。何度聞いても、胸が痛む。奏音の幼い声。詩乃の震えた声。それらが、誰かの手で雑に繋ぎ合わされ、母親を傷つける刃に変えられている。「ここ、変」 美琴は再生を止めた。 旭が顔を上げる。「どの部分ですか」「奏音ちゃんの声の後。息を吸う間がないのに、次の音へ飛んでる。普通、人が喋る時って、部屋の響きも呼吸も一緒に残る。でもここだけ、空気が変わってる」 美琴は専門家ではない。 けれど、音楽家だった。 声の切れ目。反響。部屋の広さ。空調の低いノイズ。録音機器の位置が変わった時の、わずかな濁り。そういうものを、耳が勝手に拾ってしまう。 旭は専門の解析担当者と通話を繋ぎ、データを共有した。 音声は、細かく分解された。通常再生だけでなく、速度を落とし、ノイズだけを抽出し、一部は逆再生にして、切り貼りされた境目の波形を確認する。 逆向きに流れる奏音の声は、言葉ではなく、ただ痛々しい音の塊に聞こえた。 詩乃は、その場にいることができず、少し離れた椅子に座っていた。奏音の声が、また別の形で壊されていくようで、耳を塞ぎたくなる。 それでも、逃げなかった。 やがて、解析担当者の声が端末から聞こえた。『少なくとも三つの環境音が混在しています。最初の子供の声は、広めの空間で録られています。反響と背景ノイズから、小児病棟のプレイルームに近い可能性が高い』 旭が頷く。『次に繋がる女性の声は、廊下ですね。硬い壁面の反射が強い。病室前の廊下で録られたものと見ていいでしょう。さらに、その前後に不自然な無音処理があります。編集痕です』 美琴が唇を噛んだ。「やっぱり」 解析担当者は続けた。『さらに、ぬいぐるみに仕込まれていた録音機器の元データと、投稿音声の一部が一致します。完全一致ではありません。加工されています。ただ、音質の癖と背景ノイズの特徴は同じです』 詩乃の手が、膝の上で震えた。 奏音の声は、盗まれていた。 そして、編集されていた。 そ
last updateLast Updated : 2026-08-10
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第56話 痛みを隠す子

 奏音が痛みを隠すようになったのは、音声の騒ぎが少し落ち着いた後だった。 最初は、ほんの小さな変化だった。 検温の時、胸に手を当てる回数が減った。息が浅いのに、詩乃が気づく前に笑うようになった。薬を飲む時、苦い顔をしていたのに、最近は「へいき」と言って水を飲み干す。 詩乃は最初、体調が少し落ち着いてきたのだと思いたかった。 けれど、違った。 奏音は苦しくないのではない。 苦しいと言わなくなっただけだった。 その日の午後も、検査前の奏音はベッドの上で犬のマスコットを握っていた。怖い検査の前には、いつも唇を噛む。右手を引っ込め、詩乃の袖を探す。それなのに、奏音は小さく笑った。「ママ、私、泣かないよ」 詩乃の胸が締めつけられた。「泣いてもいいのよ」「でも、泣いたらママ困るでしょ」「困らない」 即座に答えたつもりだった。 けれど、奏音は信じきれない顔で、マスコットの耳を撫でた。「いい子にする」 その言葉が、詩乃には何より痛かった。 母親失格と言われたのは詩乃だった。悪意ある音声に晒されたのも詩乃だった。だが、傷ついているのは奏音だった。 自分が病気だから、ママが困っている。 自分が泣くから、ママが責められる。 自分がいるから、大人たちが怖い顔をする。 幼い胸の中で、そんなふうに結ばれてしまったのだと気づいた時、詩乃は息ができなくなった。 夜になっても、奏音は変わらなかった。 消灯後、病室の灯りが落ちる。機器の小さな音だけが、一定の間隔で響いている。詩乃は許可された時間の範囲で、奏音のそばにいた。椅子に座り、娘の呼吸を見守る。 奏音は眠っているように見えた。 けれど、夜中に小さく目を開けた。 詩乃はすぐに気づいた。母親としての勘ではない。五年間、夜の呼吸を聞き続けた身体が、奏音のわずかな変化を覚えていた。 奏音は、胸元を押さえていた。 苦しいのだ。「奏音」 呼びかけると、奏音は驚いたように目を見開き、すぐに笑おうとした。「だいじょうぶ」「苦しい?」「だいじょうぶ」 細い声だった。 詩乃はベッドへ身を寄せた。「大丈夫じゃない時は、大丈夫って言わなくていいの」 奏音の目に涙が溜まった。 それでも、泣くのを我慢するように、布団の端を握る。「ママ、私、いい子にするから」 小さな声だった。「どこにも行か
last updateLast Updated : 2026-08-13
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第57話 手術同意の条件

 奏音の手術は、予定より早まることになった。 医師の説明は慎重だった。今すぐ命が尽きるという話ではない。だが、数値の悪化は見過ごせず、このまま経過を見るより、手術へ踏み切る方が奏音のためになる可能性が高い。 可能性。 その言葉が、詩乃の胸に重く落ちた。 手術には、いくつもの同意が必要になる。母親である詩乃の同意。医療チームの判断。父親である怜司への説明。費用。術後の管理。療養先。面会体制。 奏音を救うための手続きのはずだった。 けれど、詩乃は知っている。 鷹宮家にとって、手続きはいつも鎖にもなる。 その日の午後、詩乃は病院の応接室へ呼ばれた。 白い壁に淡い絵が掛けられ、低いテーブルの上には花が置かれている。病院らしく整えられたその部屋に、鷹宮瑛子は場違いなほど優雅に座っていた。 怒鳴らない。 声を荒げない。 むしろ、慈悲深い救い主のような顔をしている。「奏音の手術費、術後の個室、専門医の手配。すべて鷹宮が用意できます」 瑛子は静かに言った。 詩乃は黙って聞いていた。 喉の奥が乾いている。手術という言葉が頭から離れない。小さな身体で酸素マスクをつけて眠る奏音の顔が浮かぶ。救える道があるなら、どんなものにでも縋りたい。 だが、瑛子が差し出す救いには、必ず刃が隠れている。 瑛子の側近が、薄い書類をテーブルへ置いた。「その代わり、手術後の療養先は鷹宮家指定の施設にすること。面会は、医師の判断に従って制限すること。あなたは、母親として感情的にならないこと」 感情的。 その言葉が、詩乃の胸を冷やした。 奏音が泣けば抱きしめる。痛いと言えば手を握る。怖い検査の前に、ぬいぐるみを持たせる。それらすべてを、瑛子は感情的と呼ぶのだろう。 詩乃は書類を見下ろした。 術後療養先。  面会管理。  医療判断への包括同意。  保護者の情緒的干渉を避けるための措置。 美しい言葉で、母親を病室の外へ出す準備がされていた。「つまり」 詩乃は、ゆっくり顔を上げた。「手術を盾に私を遠ざけるんですね」 瑛子は微笑んだ。「盾ではないわ。条件よ」 その声には、わずかな揺らぎもなかった。「あなた一人では、奏音に最善を与えられない。これは事実です。母親として本当にあの子を思うなら、鷹宮の力を拒む理由はないはずよ」「鷹宮の力を拒んでいるの
last updateLast Updated : 2026-08-13
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第58話 父親の初めての反抗

 怜司が瑛子に背いたという知らせは、病院の廊下より先に、鷹宮グループの役員室を震わせた。 それは、詩乃を愛しているからという綺麗な理由だけではなかった。 奏音が自分の娘だと証明されたことも、もちろん大きい。血の繋がりを知った瞬間から、怜司の中で何かが変わったのは事実だった。 けれど、それ以上に大きかったのは、瑛子のやり方が奏音を苦しめていると、ようやく理解し始めたことだった。 面会制限。 母親適性の疑義。 療養先の指定。 医療判断権の移行。 紙の上ではどれも整った言葉だった。だが、その結果として、夜の病室で奏音は母を探して泣いた。詩乃はガラス越しに娘の名を呼び、触れることも許されず立ち尽くした。 あれは管理ではなかった。 子供から母親の手を奪う行為だった。 怜司は執務室で、一つずつ手続きを進めた。 奏音の手術費は、鷹宮家本体ではなく、自分の管理する医療基金から支払う。名義は怜司個人。病院側への通知にも、詩乃の同意を最優先とする文言を入れた。 医療判断権には触れない。 面会制限も求めない。 術後の療養先も、医師と詩乃の判断を優先する。 怜司にとって、それは初めてのことだった。 金を出すのに、支配しない。 力を使うのに、奪わない。 条件をつけず、ただ支える。 その単純なことが、これほど難しいのだと、怜司は初めて知った。 だが、瑛子が黙っているはずがなかった。 その日の午後、鷹宮グループの役員会では、怜司の判断能力に関する議題が持ち出された。 瑛子は、静かに席へ着いていた。 声を荒げることはない。怒りを見せることもない。ただ、用意された資料を役員たちの前へ配らせる。「怜司は現在、家庭問題により感情的な判断を下している可能性があります」 会議室の空気が変わった。「外部の女に影響され、鷹宮家の医療法人と財務判断を私的に動かそうとしている。後継者としての冷静さを欠いていると見られても仕方がありません」 怜司は黙って聞いていた。 外部の女。 瑛子は詩乃をそう呼んだ。 かつてなら、その呼び方に疑問を持たなかったかもしれない。神澤詩乃は鷹宮家へ差し出された妻であり、家の中では常に格下だった。けれど今は、その言葉が耳障りだった。 詩乃は外部の女ではない。 少なくとも、奏音にとっては世界の中心だった。 役員の一人が慎重
last updateLast Updated : 2026-08-15
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第59話 謝罪ではなく証拠

 水無瀬旭の事務所には、夜の冷たい静けさが沈んでいた。 窓の外には街の灯が並んでいる。けれど会議室の中にあるのは、温度のない白い照明と、机いっぱいに広げられた証拠の束だった。 芽衣の付き人が録音機器を持ち込んだ記録。  白川家関連会社から支払われた購入代金。  匿名投稿の管理に使われた端末の接続履歴。  切り貼りされる前の奏音と詩乃の音声。  病院への不審なアクセス記録。  奏音の検体を持ち出そうとした人物の映像。 ひとつひとつは細い糸だった。 けれど、束ねれば形になる。 詩乃は机の前に座っていた。隣には美琴がいる。旭は資料を分類し、証拠能力の強さごとに付箋をつけていた。 少し離れた場所に、朔弥が立っていた。 詩乃は、彼を見ないようにしていた。見れば、胸の中の痛みがまた別の形になる。神澤家の破綻に関わっていた男。けれど奏音の声を取り返すために、今も動いている男。 許せない。 それでも、助けられている。 その矛盾は、まだ詩乃の中でほどけていなかった。 朔弥が、分厚い封筒を机の端へ置いた。 鈍い音がした。 詩乃は、その封筒を見る。「これは何ですか」 朔弥は軽く笑おうとして、やめた。「謝罪じゃない。証拠」 その言葉に、詩乃の指がわずかに止まった。 旭が封筒を開く。中には、芽衣の付き人が指示を受けた際の通話記録、白川家関係者の送金履歴、瑛子の側近と病院関係者の接触記録が入っていた。どれも、表からでは取れない資料だった。 朔弥が独自に集めたもの。 けれど、そこに神澤家の破綻に関する資料はなかった。十年前の客席の真実も、彼が何を隠しているのかも、まだ語られない。 今、差し出されたのは、奏音を守るために必要なものだけだった。 詩乃は封筒から目を上げた。「これを出せば、あなたにも不利なことがあるのではありませんか」 朔弥は少しだけ肩をすくめた。「少しね」「それでも、出すんですか」「奏音ちゃんの声を盗んだ奴を、そのままにする方が嫌だから」 その声には、いつもの軽薄さがなかった。 美琴が唇を噛む。怒りと悔しさと、言葉にできない複雑な感情が顔に滲んでいた。 詩乃は何かを言おうとして、言えなかった。 その時、会議室の扉が叩かれた。 旭が応じる前に、怜司が入ってきた。 黒いスーツのまま、手には封筒を持っている。朔弥
last updateLast Updated : 2026-08-15
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第60話 母娘を離さない檻

 旭の事務所に、重い沈黙が落ちた。 怜司が差し出した封筒の中には、離婚協議停止に関する合意書が入っていた。詩乃は表紙の文言を見ただけで、指先が冷えていくのを感じた。 けれど、そこに書かれていた内容は、単純な脅しではなかった。 奏音を詩乃から引き離さない。 奏音の居住場所には、必ず詩乃を同行させる。 手術、転院、検体採取、退院後の療養について、詩乃の同意を必須とする。 瑛子と芽衣には、詩乃の許可なく奏音へ接触させない。 治療費と母の入院費は、怜司個人が継続して負担する。 そこまでは、確かに詩乃と奏音を守る内容だった。 だが、続く文言で、紙の色が変わった。 詩乃は離婚協議を撤回する。 奏音の手術後、母娘は怜司が用意する住居へ移る。 法的な夫婦関係を継続し、離婚調停を申し立てない。 朔弥との接触は、警護や治療に関する必要最低限に限定する。 詩乃は、書類から顔を上げた。「どうして、ここまでして離婚を止めるんですか」 怜司は答えなかった。「私は、もうあなたの妻ではいられません」「戸籍上は、まだ妻だ」「そういう話をしているのではありません」 詩乃の声が震えた。「私は七年間、あなたに愛されることを待ちました。奏音を妊娠した時も、何度もあなたを頼ろうとしました。でも、あなたは私を見なかった」 怜司の表情が、わずかに歪む。「今になって、奏音を私から引き離さない代わりに、妻として戻れと言うんですか」「戻れとは言っていない」「同じことです」 詩乃は合意書を持ち上げた。「あなたが用意した場所で、あなたの妻として、あなたの許可を受けながら生きろと書いてあります」 怜司は低く言った。「母さんは、俺を外して奏音を奪う準備を進めている」 旭が目を上げる。 怜司は、もう一枚の書類を机に置いた。 瑛子側が準備していた、暫定監護と医療判断権に関する保全申立ての写しだった。 詩乃の養育環境には問題がある。 奏音を最高水準の医療環境へ移す必要がある。 母親と義弟の関係が、子供へ悪影響を与える恐れがある。 その言葉を見た瞬間、詩乃の胸が冷たく沈んだ。「俺が父親として介入し、申立ての内容を変えさせた」 怜司の声は静かだった。 瑛子は、詩乃と奏音を分離しようとしていた。だが怜司は、奏音を詩乃から切り離さないことを条件に、父親として共同
last updateLast Updated : 2026-08-16
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