All Chapters of 結婚七年目冷たい夫を捨てた夜、義弟が迎えに来ました 〜秘密を抱いた契約妻は、もう愛を乞わない〜: Chapter 31 - Chapter 40

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第30話 白い救急搬送

 深夜の病院の廊下は、白すぎた。 照明の光が床に反射し、誰の顔からも血の色を奪っていく。その中を、奏音を乗せたストレッチャーが運ばれていた。車輪の小さな音が、冷たい廊下に規則正しく響く。 酸素マスクをつけた奏音の顔は、驚くほど小さく見えた。 頬には血の気がなく、閉じた睫毛がかすかに震えている。細い腕には点滴の管が繋がり、胸元は呼吸に合わせて浅く上下していた。 詩乃はストレッチャーの横を歩きながら、何度も名前を呼びそうになった。 大丈夫。  ここにいる。  目を開けて。 そのすべてを飲み込んで、ただ指先だけを差し出す。「奏音、ママここにいるからね」 返事はなかった。 けれど、小さな指がかすかに動いた。詩乃の指を探すように触れ、弱い力で握り返す。 それだけで、詩乃は崩れそうになった。 搬送先は、朔弥が手配した提携専門病院だった。鷹宮系列ではない。だが、怜司が完全に口を出せない場所でもない。だからこそ旭は、搬送記録、同意書、面会者記録、検体管理のすべてを残すよう、病院側へ何度も確認していた。 奏音を救うための搬送。 誰かに奪わせるための搬送ではない。 詩乃は、その一点だけを支えに立っていた。 救急口の前に出ると、夜気が冷たく頬を打った。白い救急車の扉が開かれ、車内の明かりが濡れた地面に落ちている。 医療スタッフが振り返った。「同乗できるご親族は、二名までです」 空気が止まった。 怜司が一歩前へ出る。 当然のような動きだった。父親として乗る。奏音のそばにいる。自分にはその権利がある。彼の横顔には、そう言葉にしなくても分かる硬さがあった。 だが、それより早く、朔弥が救急車へ乗り込んだ。 怜司の表情が変わる。「朔弥」 低い声が夜気に落ちた。 朔弥は振り返らなかった。車内から、詩乃へ手を差し伸べる。「行こう」 短い言葉だった。 詩乃は、その手を見た。 朔弥には隠し事がある。神澤家の資料を燃やしていた。十年前から自分を知っていた。奏音に関わる何かを、まだ話していない。 それでも今この場で、奏音を鷹宮の紙から引き剥がしたのは朔弥だった。 詩乃は、怜司を振り返らなかった。 奏音の乗る救急車へ足をかけ、朔弥の手を取る。その瞬間、背後の空気が硬く凍ったのが分かった。 怜司の顔が強張る。 七年間、詩乃は怜司の背中を見てき
last updateLast Updated : 2026-07-27
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第31話 匿名通報

 翌朝、詩乃の前に現れたのは、白衣の医師ではなかった。 淡い色のジャケットを着た女性が、病室の前で丁寧に頭を下げた。医療ソーシャルワーカーだと名乗ったその人は、柔らかな声をしていた。けれど、その目には慎重な硬さがあった。 奏音は検査後の疲れで、ベッドの上に眠っている。酸素マスクは外れたが、頬の色はまだ薄い。詩乃はその寝顔を見てから、廊下の面談室へ向かった。 旭、美琴、朔弥も同席した。 女性は膝の上で手を揃え、言葉を選びながら口を開いた。「神澤奏音さんの養育環境について、匿名での通報が入っております」 詩乃は、最初、その意味が分からなかった。「……通報?」「はい。病弱なお子さんを連れ回している。父親不明のお子さんを盾にしている。義弟にあたる男性と不適切な関係にあり、その住居にお子さんを滞在させていた。お母様が精神的に不安定で、医療判断に適さない可能性がある、といった内容です」 言葉は丁寧だった。 だからこそ、刃物のように深く入ってきた。 昨日まで画面の中で増えていた悪意が、今度は正式な手続きの顔をして病院へ入り込んでいる。噂はただの文字では終わらない。誰かの手に渡れば、母親から子供を奪う理由へ変えられる。 詩乃の指先が冷たくなった。「ふざけないで」 美琴が低く言った。 次の瞬間、堪えていた怒りが溢れたように声が震える。「この子が昨日どんな状態だったか見てたんですか。詩乃がどれだけ必死に守ってきたかも知らない人間が、何を勝手に」「美琴」 旭が静かに制した。 彼は女性へ向き直り、淡々と告げる。「通報文の開示範囲を確認させてください。受付窓口、受理時刻、通報経路、文面の写し。可能な限り記録を残します」 女性は困ったように眉を寄せたが、旭の声は揺らがなかった。 部屋の隅で、朔弥はスマートフォンを握っていた。画面は暗い。けれど、その指先には白くなるほど力が入っている。表情は消えていた。怒っているのか、考えているのか、詩乃には分からない。 詩乃は膝の上の手を見つめた。 震えている。 怖い。 だが、ここで誰かに任せきりにすれば、また自分の人生が他人の言葉で決められていく。 詩乃は顔を上げた。「私が説明します」 旭がすぐに視線を向ける。「神澤さん、無理をする必要はありません。こちらで対応できます」 詩乃は首を振った。「
last updateLast Updated : 2026-07-28
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第32話 父親の資格

第32話 父親の資格 怜司は、詩乃の育児記録を見ていた。 病院の小さな面談室は静かだった。窓のない白い部屋に、紙をめくる音だけが響いている。机の上には、コピーされた記録の束が積まれていた。 診察日。  薬の量。  発作の時間。  食事。  睡眠。  泣いた理由。  笑った理由。 そこには、奏音の五年があった。 怜司が知らなかった五年。 詩乃が一人で抱えてきた五年。 ページをめくるたび、胸の奥に重いものが沈んでいく。熱が出た夜、詩乃は体温を一時間ごとに記録していた。薬を嫌がった日は、どの飲み物に混ぜれば飲めたかまで書いてあった。呼吸が浅くなった夜は、何時何分に抱き起こし、何分で落ち着いたかが細かく残されている。 幼い文字で描かれた花の絵が、ページの端に挟まっていた。 奏音が笑った日、と詩乃の字で添えられている。 怜司は、その一行から目を離せなかった。 知らなかった。 その言葉は、あまりにも軽い。 知らされなかった、と言えば、まだ自分を守れる気がした。だが、紙の厚みはその逃げ道を許さなかった。詩乃は五年間、奏音を見ていた。記録し、守り、眠れぬ夜を越え、次の日も母親であり続けた。 その間、怜司は何をしていたのか。 会食。投資判断。海外出張。芽衣からの連絡。鷹宮家の名を守るための仕事。 そのどこにも、奏音はいなかった。 詩乃も、いなかったのかもしれない。 廊下に出ると、詩乃が検査室の前に立っていた。 顔色は悪い。目元には深い疲労が滲んでいる。それでも背筋だけは折れていなかった。扉の向こうにいる奏音へ、少しでも近い場所に立っている。 怜司は足を止めた。「詩乃」 彼女が振り向く。 その目には、もうかつての従順な妻の色はなかった。怯えも、諦めもある。けれど、それ以上に母親として譲らない硬さがあった。 怜司は育児記録を握りしめた。「なぜ、ここまで黙っていた」 低い声だった。 責めているつもりはなかった。だが、口から出た言葉は責める形をしていた。自分だけが知らなかったという苛立ちが、まだ完全には剥がれ落ちていなかった。 詩乃は疲れた目で彼を見た。「知らせようとしました。五年前に」 怜司の動きが止まる。「妊娠が分かった日、あなたの会社の下で待ちました。何時間も」 詩乃の声は静かだった。 だからこそ、怜司の胸
last updateLast Updated : 2026-07-28
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第33話 母の病室

 詩乃のスマートフォンが鳴ったのは、奏音の検査結果を待つ廊下だった。 見知らぬ番号だった。けれど、市外局番に見覚えがある。母が長く入院している療養病院のものだと気づいた瞬間、詩乃の胸が嫌な音を立てた。「神澤様でいらっしゃいますか」 電話口の声は、ひどく事務的だった。 長期入院費の支払いに関する確認。療養病棟の移動。今後の受け入れ体制の見直し。言葉はどれも丁寧で、形だけ聞けば、ただの手続きに過ぎなかった。 だが、詩乃には分かった。 これは確認ではない。 圧力だ。 鷹宮家の手が、奏音だけでなく、母の病室にまで伸びてきたのだ。 詩乃は電話を切ったあと、しばらく動けなかった。指先が冷えている。奏音は検査室の中にいる。ようやく搬送を終えたばかりで、まだ結果も出ていない。なのに今度は母まで人質にされようとしている。 旭がすぐに車を手配した。 美琴は奏音のそばに残ると言い、朔弥は何も言わずに詩乃へ同行した。怜司は少し離れた廊下からこちらを見ていたが、詩乃はその視線を受け止める余裕などなかった。 母の病院は、都心から少し離れた静かな場所にあった。 古い建物ではない。けれど、長く眠る人たちの気配が染みついているような白い廊下には、独特の静けさがあった。消毒液の匂い。遠くで鳴るナースコール。低く交わされる職員の声。時間だけがゆっくり溜まっていく場所。 母の病室の扉を開けると、薄いカーテン越しの光がベッドの上に落ちていた。 神澤澄香は、眠っていた。 長年、意識は混濁したままだ。目を開ける日もある。詩乃の声に反応するように指を動かす日もある。けれど、かつて舞台の上で豊かな声を響かせた母は、もう長い言葉を話せない。 詩乃はベッド脇へ歩み寄った。 母の手は細かった。骨と皮だけになったような指先に、昔の面影がわずかに残っている。ピアノの伴奏に合わせ、胸を開いて歌っていた母。詩乃の髪を結いながら、音は嘘をつかないのよと笑った母。 その面影は、喉元の白さと、長い指の形にだけ残っていた。「お母様」 詩乃はそっと呼んだ。 返事はない。 それでも、詩乃は母の手を両手で包んだ。「ごめんなさい。私、また守れなかった」 声が震えた。 父を失い、神澤家が壊れ、借金の代わりに鷹宮家へ嫁いだ。母だけは病室で静かに命を繋いできた。せめてこの人だけは、争いの外に置いて
last updateLast Updated : 2026-07-29
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第34話 白百合の送り主

 怜司は、秘書室の記録をすべて出させた。 問い合わせ履歴。外部通話の記録。メールの控え。病院側へ送られた確認文書。普段なら秘書室長がまとめて報告するような細かな書類まで、怜司は一枚ずつ目を通した。 詩乃の母が入院している病院へ連絡したのは、怜司本人ではなかった。 瑛子の側近。 だが、使われた名義は鷹宮グループ秘書室だった。外から見れば、怜司の指示で動いたようにしか見えない。長期入院費の確認も、療養病棟の移動に関する照会も、今後の受け入れ体制の見直しも、すべて怜司の名前の影をまとって病院へ届いていた。 怜司は書類を机に叩きつけた。「俺の名義を使ったのは誰だ」 秘書室長は顔色を失っていた。「瑛子様のご指示と伺っております。ご家族に関わる緊急確認であるため、通常手続きの範囲で対応するようにと」「通常手続き?」 怜司の声が低く沈む。「病床の人間を追い詰めることが、いつから通常手続きになった」 言った直後、怜司は自分の言葉に遅れて気づいた。 怒っている。 だが、その怒りはまず、自分の名前を使われたことに向かっていた。詩乃が白百合を見て何を感じたか。母の病室でどれほど追い詰められたか。その痛みへの想像は、怒りの後からようやく追いついてくる。 その遅さが、自分でも不快だった。 怜司は秘書室長を下がらせ、すぐに瑛子へ連絡を入れた。 鷹宮家の本邸。 瑛子は応接室で、変わらぬ姿勢で茶を飲んでいた。薄い磁器のカップを置く動作ひとつにも乱れはない。怜司が入ってきても、眉ひとつ動かさなかった。「母さん。神澤澄香の病院へ問い合わせたな」「ええ」 あまりにも淡い返事だった。 怜司の眉が動く。「俺の秘書室名義で」「あなたの妻の母親でしょう。あなたの名義で確認するのが自然よ」「確認ではない。圧力だ」 瑛子は小さく笑った。「言葉を強くすれば、正義になると思っているの?」 怜司は黙った。 瑛子は、まるで家計の話でもするように続けた。「奏音を守るには、母親の弱点を把握する必要があるわ」「母親の弱点?」「神澤詩乃は、娘と母親を差し出せば必ず折れる。あの子を鷹宮に戻すには、それが一番早い」 怜司は言葉を失った。 母の声には、迷いも悪意の自覚もない。鷹宮家の血を守るために当然の処置をした、という平坦な確信だけがあった。 初めて、怜司は瑛子の
last updateLast Updated : 2026-07-29
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第35話 十年前の客席

第35話 十年前の客席 詩乃が朔弥を呼び出したのは、母の病院の裏手にある小さな中庭だった。 夜の花壇には誰もいない。昼間は見舞客が休むためのベンチも、今は冷えた影の中に沈んでいる。病棟の窓明かりだけが、硝子越しに薄く落ちていた。遠くでナースコールの音が微かに鳴り、すぐに消える。 詩乃は、古いパンフレットを胸に抱えて立っていた。 母の病室で見つけた、十年前の演奏会のものだった。紙は少し黄ばみ、角は丸くなっている。けれど、ページの中に写った客席の隅の青年だけは、今も鮮明に詩乃の中へ焼きついていた。 足音が近づく。 朔弥は、何も言わずに中庭へ入ってきた。黒いコートの裾が夜風にわずかに揺れる。いつものような軽い足取りではなかった。詩乃からの電話を受けた時点で、何を聞かれるか分かっていたのだろう。 それでも、彼は逃げずに来た。 詩乃はパンフレットを開き、写真のページを差し出した。「これは、あなたですか」 声は静かだった。 写真の端。客席の隅に立つ若い男。今より少し幼く、まだ表情の作り方を覚えきっていないような横顔。けれど、間違いなく朔弥だった。 朔弥は写真を見た。 否定しなかった。「そうだよ」 その一言で、詩乃の胸が冷えていった。 どこかで、違うと言ってほしかったのかもしれない。偶然似た誰かだと。記憶違いだと。そうであれば、まだ目の前の男を少しだけ信じる余地が残った。 けれど、朔弥は認めた。「私のことを、十年前から知っていたんですね」「知っていた」「なぜ、黙っていたんですか」 朔弥はすぐには答えなかった。 夜風が百合の匂いを運んでくる。母の病室に届いた白い花の香りが、まだ詩乃の服に染みついているようだった。鷹宮瑛子の美しい脅し。母を人質に取るような手口。そこへ重なる、朔弥の隠し事。 詩乃はパンフレットを握りしめた。「私の家の資料を燃やしていたことも、奏音に関わる何かを隠していることも、十年前から私を知っていたことも。どれも偶然ではないですよね」 朔弥の唇が、わずかに動いた。 いつものように笑おうとしたのだと分かった。軽く受け流し、冗談めかし、核心から一歩ずれる。彼がこれまで何度も使ってきた顔。 けれど、笑みは形にならなかった。「今話せば、君は僕を切る」 その声は低かった。 詩乃は息を呑む。 切る。 その言葉が、
last updateLast Updated : 2026-07-30
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第36話 切られた救済者

 朔弥は、病室の前に立つことを許されなくなった。 警護の配置も、情報の共有も、病院側との連絡も、すべて旭を通す形に変わった。朔弥が直接、詩乃へ電話をかけることはない。奏音の病室の扉を叩くこともない。 それは、詩乃が決めた境界線だった。 当然だと、朔弥は理解していた。 十年前から詩乃を知っていたこと。神澤家の資料を隠していたこと。奏音に関わる何かを、まだ話していないこと。どれも、信用を失うには十分すぎる。 けれど、理解できることと、痛まないことは別だった。 端末には、定期的に報告が届く。 奏音の検査数値。  熱の推移。  酸素量。  詩乃の睡眠時間。  病室周辺の人の出入り。  芽衣側の不審な動き。  瑛子の関係者による問い合わせ。 朔弥はすべて把握していた。 把握しているのに、近づけない。 奏音が小さな声で「朔弥さん、忙しいの?」と尋ねたことも、報告の中で知った。詩乃が少し沈黙したあと、「少しお仕事」と答えたことも。 朔弥はその文面を見たまま、しばらく動けなかった。 忙しい。 それならまだいい。 本当は、君のお母さんに近づく資格を失ったんだよ。 そう言えないことが、ひどく苦しかった。 自分で招いた結果だった。 詩乃を利用するつもりだった。奏音の存在も、怜司を壊すための切り札として見ていた。助けたのは事実でも、その下に別の目的があった。だから今、切られても仕方がない。 仕方がないはずなのに、病室前の警護報告を見るたび、胸の奥が焦げるようだった。 その隙を、芽衣は見逃さなかった。 詩乃と朔弥の間に亀裂が入った。朔弥が病室へ直接近づかなくなった。警護の連絡系統が変わり、病院内の動きにわずかな隙が生まれた。 芽衣は、泣き腫らした顔を鏡の前で整えながら、スマートフォンの画面を閉じた。 直接病室へ入る必要はない。 子供は、子供の場所へ来る。 小児病棟のプレイルーム。絵本と積み木、小さな椅子、柔らかなマット。そこに差出人不明の贈り物が届いても、不自然には見えない。 小さなぬいぐるみ。 淡いクリーム色のうさぎだった。丸い耳に、ふわふわの腹。病気の子供を励ますための善意にしか見えない。けれど、その中には録音機能付きの小型機器が仕込まれていた。 奏音の声を録る。 朔弥さんのお城。  ママと朔弥さん。
last updateLast Updated : 2026-07-30
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第37話 お前だけは触るな

 朔弥が病院へ向かうと告げた時、旭はすぐに止めた。「今、あなたが直接現れるべきではありません」 声は冷静だった。だが、その奥には明確な警告があった。「神澤さんは、あなたと奏音ちゃんの距離を置くと決めた。警護も情報も、私を通す約束です。ここで勝手に動けば、彼女の信頼をさらに失います」 朔弥はコートに袖を通しながら、端末を握っていた。 画面には、ぬいぐるみに仕込まれていた小型機器の写真が表示されている。淡いクリーム色のうさぎ。幼い子供が何の疑いもなく抱きしめるような形。その腹の中に、録音機器。 奏音の声を奪うための仕掛け。 朔弥の目から、温度が消えていた。「詩乃に嫌われるのと、奏音ちゃんに何か起きるのとなら、前者の方がましだ」 旭は一瞬、黙った。 その言葉に、軽さはなかった。いつもの皮肉も、計算も、逃げ道もない。朔弥は本気でそう言っていた。 旭は眼鏡の奥で目を細めた。「行くなら、証拠を壊さないでください。脅迫めいた接触も避けること。こちらで使えなくなります」「分かってる」「分かっている人の顔ではありません」 朔弥は初めて、少しだけ口元を歪めた。「じゃあ、覚えておく」 病院へ向かう前に、朔弥は芽衣の居場所を掴んだ。 高級ホテルのラウンジだった。 世間には体調不良を装い、怜司には不安で眠れないと訴えながら、芽衣は人目の少ない奥の席に座っていた。淡い色のワンピースにカーディガン。テーブルの上には、飲みかけのハーブティーと小さな端末が二台。 一台は表向きのもの。 もう一台は、匿名投稿の指示に使われているものだった。 朔弥は正面の椅子を引き、許可を待たずに座った。 芽衣は顔を上げた。 驚いたふりをしたあと、すぐに薄く笑う。「怖い顔。詩乃さんに嫌われたの?」 朔弥は笑わなかった。「お前だけは、子どもに触るな」 芽衣の指先が、カップの取っ手で止まった。 ほんの一瞬だけ、余裕が剥がれた。けれどすぐに、彼女は傷ついたように眉を寄せる。「何のこと? 私、今は体調が悪くて、病院にも行けていないのに」「プレイルームのぬいぐるみ」 朔弥は端末をテーブルに置いた。 画面には、取り出された小型機器の写真が映っている。「録音機能付き。起動状態。配送経路は今追ってる。差出人は空欄だけど、支払いに白川家の関係会社を経由した形跡がある」
last updateLast Updated : 2026-07-31
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第38話 匿名の告発

 封筒が届いたのは、午後の病棟が少しだけ静かになる時間だった。 奏音は検査後の疲れで眠っている。小さな胸は穏やかに上下し、枕元には昨日の薬袋と、触れられなかったうさぎのぬいぐるみの代わりに美琴が買ってきた小さな犬のマスコットが置かれていた。 詩乃はベッド脇の椅子に座り、奏音の指先をそっと撫でていた。 看護師が控えめに扉を叩いた。「神澤さん宛てに、お届け物です」 差し出されたのは、白でも茶でもない、薄い灰色の封筒だった。差出人の名前はない。病院の受付で預かったというだけで、誰が持ち込んだのかはすぐには分からなかった。 旭が受け取ろうとしたが、詩乃は首を振った。「私が見ます」 指先で封を切る音が、妙にはっきり響いた。 中から出てきたのは、古い資料のコピーだった。 神澤家の投資計画書。  鷹宮グループ関連会社の印。  複数の資金移動を示すメモ。  日付と金額。  債権譲渡。  聞き覚えのない会社名。 文字のひとつひとつが、冷たい水のように詩乃の胸へ落ちていく。 さらに、一枚の写真が滑り出た。 十年前の演奏会。 舞台の上に立つ詩乃が写っていた。白いドレスをまとい、ヴァイオリンを構えている。照明の中で背筋を伸ばし、まだ何も失っていない顔で前を向いている。 そして、客席の隅。 若い朔弥が立っていた。 遠目でも分かる。あの横顔。あの影の落ち方。今より少し幼いのに、なぜか目だけは冷めている。まるで、最初から彼女を見ていたように。 詩乃の喉が塞がった。 封筒の底に、小さなメモが残っていた。 あなたを最初に売ったのは、誰? 文字を読んだ瞬間、息ができなくなった。 手の中の紙が揺れる。視界の端で、奏音の寝顔が滲む。朔弥が神澤家の過去を知っていたことは分かっていた。資料を燃やしていた。十年前の客席にいた。答えられないと言った。 けれど、これは違う。 知っていたのではない。 関わっていたのかもしれない。「詩乃」 美琴が彼女の肩に手を置いた。 詩乃は返事をしようとしたが、声が出なかった。胸の奥で、長く閉じ込めていた何かが崩れていく。父が倒れた日。母が病室から戻らなくなった日。鷹宮家へ嫁ぐと決められた日。音楽を手放した日。 そのすべての前に、もし朔弥がいたのなら。 救済者の顔で近づいた彼は、いったい何を抱えていたのか。 旭
last updateLast Updated : 2026-07-31
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第39話 救済者の罪

 水無瀬旭の事務所は、病院とは違う静けさを持っていた。 白い消毒液の匂いも、医療機器の音もない。磨かれた床と、整然と並ぶ書棚。窓の外には夜の街の灯が沈み、会議室の硝子には、詩乃の青ざめた顔が薄く映っていた。 机の上には、匿名で届いた資料が並べられている。 神澤家の投資計画書のコピー。  鷹宮グループ関連会社の印。  資金移動のメモ。  十年前の演奏会で撮られた写真。  そして、若い朔弥の名前が記された紙片。 詩乃は、そのすべてを見下ろしていた。 隣には旭がいる。美琴は奏音の病室に残った。詩乃はこの場へ来る前、眠る奏音の額に触れた。熱は少し下がっていた。けれど、母の指を探すように小さな手が動いた瞬間、詩乃は胸が裂けそうになった。 その手を守るために、知らなければならない。 扉が開いた。 朔弥が入ってくる。 黒いコートを脱ぐこともなく、会議室の入口で足を止めた。視線が机の上へ落ちる。並べられた資料を一つずつ見た瞬間、彼の顔から余計な表情が消えた。 言い逃れはできない。 詩乃にも、それが分かった。「座ってください」 旭が言った。 朔弥はゆっくり椅子に腰を下ろした。いつもの軽い笑みはない。肩の力は抜けているのに、どこか深い場所だけが強張っているように見えた。 詩乃は、写真を彼の前へ置いた。 舞台の上の自分。  客席の隅の朔弥。「あなたは、神澤家の破綻に関わっていたんですか」 声は静かだった。 自分でも驚くほど、震えていなかった。 朔弥は答えなかった。 沈黙が落ちる。 会議室の時計の秒針だけが、やけに大きく聞こえた。詩乃はその音を数えながら、朔弥の顔を見つめ続けた。逃げるな。笑うな。誤魔化すな。そう言葉にしなくても、目だけで告げていた。「答えてください」 長い沈黙のあと、朔弥が口を開いた。「関わっていた」 詩乃の顔から、血の気が引いた。 分かっていたはずだった。資料を見た時点で、もう疑いではなくなっていた。それでも、本人の口から聞く言葉は別物だった。胸の奥に残っていた最後の薄い膜が、音もなく破れた。 朔弥は視線を落とした。「神澤家を直接壊した主犯は、僕じゃない。計画を組んだのも、僕一人じゃない」「言い訳ですか」「違う」 朔弥の声は低かった。「でも、僕はその流れを知っていた。途中で気づいた。止める方法
last updateLast Updated : 2026-08-01
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