詩乃は、母の病室を訪れた。 法廷を出た足で向かったわけではない。奏音の薬の時間を確認し、体調を見て、旭へ陳述書の準備について連絡を入れ、美琴に付き添いを頼んでからだった。それでも、病室の扉の前に立った時、胸の奥に溜まっていたものが一気に喉へ迫ってきた。 白い扉。 消毒液の匂い。 静かな廊下。 母の部屋は、いつ来ても時間が薄く止まっているようだった。 神澤澄香は、ベッドの上で眠っていた。細い腕はシーツの上に置かれ、点滴の管が静かに伸びている。頬は昔よりさらに小さく、喉元だけに、かつて声楽家だった面影が残っていた。詩乃は椅子を引き寄せ、母の手をそっと握った。 温かかった。 それだけで、涙が出そうになる。「お母様」 詩乃は低く呼んだ。 返事はない。 けれど、詩乃は話し始めた。「今日、法廷で、お母様の診療記録が出されました」 声が震えそうになり、詩乃は一度唇を結んだ。「お父様が亡くなった後のことも、病気のことも、長く眠ったままでいることも。私が奏音の母親として不安定かもしれないと疑わせるために、使われそうになりました」 母の指は動かない。 それでも詩乃は、その手を包む力を少しだけ強めた。「悔しかったです」 言葉にした瞬間、胸の奥が熱くなった。「お母様が弱かったからじゃない。欠けていたからじゃない。お父様を愛して、神澤家を守ろうとして、最後まで必死で立って、それでも全部を失って壊れてしまっただけなのに。それを、私と奏音を引き離す理由にされることが、どうしても許せませんでした」 父の葬儀の日を、詩乃は思い出した。 黒い喪服。降り続く雨。母が棺の前で声を失った瞬間。誰かに支えられながらも、最後まで父の名前を呼ぼうとしていた母。その喉から音が出なくなった時、神澤家の音楽も一緒に止まったようだった。 母は、弱かったのではない。 限界まで耐えたのだ。「私は、お母様を恥だと思ったことはありません」 詩乃は母の手へ額を寄せた。「病気になったことも、眠ったままでいることも、奏音に会っても返事ができないことも、恥ではありません。傷ついた人を、恥のように扱う方が間違っています」 ベッドの横で、色鉛筆の箱が開く音がした。 奏音が小さな椅子に座り、膝の上に画用紙を広げていた。退院後の外出はまだ短時間しかできない。けれど今日は、どうしてもお
Last Updated : 2026-09-13 Read more