All Chapters of 結婚七年目冷たい夫を捨てた夜、義弟が迎えに来ました 〜秘密を抱いた契約妻は、もう愛を乞わない〜: Chapter 91 - Chapter 94

94 Chapters

第91話 母の名前を汚さない

 詩乃は、母の病室を訪れた。 法廷を出た足で向かったわけではない。奏音の薬の時間を確認し、体調を見て、旭へ陳述書の準備について連絡を入れ、美琴に付き添いを頼んでからだった。それでも、病室の扉の前に立った時、胸の奥に溜まっていたものが一気に喉へ迫ってきた。 白い扉。 消毒液の匂い。 静かな廊下。 母の部屋は、いつ来ても時間が薄く止まっているようだった。 神澤澄香は、ベッドの上で眠っていた。細い腕はシーツの上に置かれ、点滴の管が静かに伸びている。頬は昔よりさらに小さく、喉元だけに、かつて声楽家だった面影が残っていた。詩乃は椅子を引き寄せ、母の手をそっと握った。 温かかった。 それだけで、涙が出そうになる。「お母様」 詩乃は低く呼んだ。 返事はない。 けれど、詩乃は話し始めた。「今日、法廷で、お母様の診療記録が出されました」 声が震えそうになり、詩乃は一度唇を結んだ。「お父様が亡くなった後のことも、病気のことも、長く眠ったままでいることも。私が奏音の母親として不安定かもしれないと疑わせるために、使われそうになりました」 母の指は動かない。 それでも詩乃は、その手を包む力を少しだけ強めた。「悔しかったです」 言葉にした瞬間、胸の奥が熱くなった。「お母様が弱かったからじゃない。欠けていたからじゃない。お父様を愛して、神澤家を守ろうとして、最後まで必死で立って、それでも全部を失って壊れてしまっただけなのに。それを、私と奏音を引き離す理由にされることが、どうしても許せませんでした」 父の葬儀の日を、詩乃は思い出した。 黒い喪服。降り続く雨。母が棺の前で声を失った瞬間。誰かに支えられながらも、最後まで父の名前を呼ぼうとしていた母。その喉から音が出なくなった時、神澤家の音楽も一緒に止まったようだった。 母は、弱かったのではない。 限界まで耐えたのだ。「私は、お母様を恥だと思ったことはありません」 詩乃は母の手へ額を寄せた。「病気になったことも、眠ったままでいることも、奏音に会っても返事ができないことも、恥ではありません。傷ついた人を、恥のように扱う方が間違っています」 ベッドの横で、色鉛筆の箱が開く音がした。 奏音が小さな椅子に座り、膝の上に画用紙を広げていた。退院後の外出はまだ短時間しかできない。けれど今日は、どうしてもお
last updateLast Updated : 2026-09-13
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第92話 漏れた裁判記録

 最初に気づいたのは、美琴だった。 朝の薬を飲み終えた奏音が、窓際の椅子で絵本を広げている時だった。詩乃は体温を記録し、次の診察へ持っていく書類を整理していた。退院後の生活はまだ不安定だったが、奏音は少しずつ笑う時間を取り戻している。そんな穏やかな朝に、美琴のスマートフォンが小さく震えた。 画面を見た美琴の顔色が変わった。「詩乃」 呼び方だけで、悪い知らせだと分かった。 詩乃は奏音へ視線を向けた。奏音はまだ絵本を見ている。こちらの空気が変わったことには気づいていない。詩乃は静かに立ち上がり、美琴を廊下へ連れ出した。 美琴が差し出した画面には、いくつもの見出しが並んでいた。 心中未遂の母を持つ冷遇妻。  病気の娘をめぐる財閥兄弟の争奪戦。  義弟との新生活を望む妻。  暴力夫、それでも離婚拒否。 詩乃は、指先が冷えていくのを感じた。 非公開で扱われるはずの裁判資料が、ネット上へ漏れていた。 母の自死未遂。奏音の病状。詩乃と朔弥の関係を疑わせる記述。怜司が詩乃を打った事実。それらが、誰かの好奇心を満たすための見出しへ変えられている。 母の傷が、面白おかしく消費されている。  奏音の病気が、争奪戦という言葉で飾られている。  詩乃の恐怖も、怜司の暴力も、朔弥との複雑な関係も、すべてが誰かの指先で拡散されていく。 美琴は怒りで唇を震わせた。「最低。裁判資料まで漏らすなんて、もう人間のやることじゃない」 詩乃は画面を見つめたまま、すぐには答えられなかった。 怒りはあった。恐怖もあった。けれど何より、奏音に知られたらという思いで喉が詰まった。あの子は、自分の病気が人に迷惑をかけていると思い込んだことがある。母が責められる理由は自分だと、小さな胸を痛めたことがある。 これを見せるわけにはいかない。 その頃、怜司のもとにも報告が届いていた。 鷹宮グループの広報部と法務部が、すでに慌ただしく動き始めている。削除請求。発信元の調査。媒体への抗議。二次拡散への警告。怜司は会議室の画面に並ぶ見出しを見て、表情を失った。「削除を急げ。裁判所にも報告する。流出経路を洗え」 声は冷たかった。 だが、削除請求を出せば出すほど、別の批判も生まれた。 財閥による言論統制。  都合の悪い裁判記録を消そうとしている。  妻を黙らせ、次は世間を黙ら
last updateLast Updated : 2026-09-14
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第93話 父親だけの一日

 裁判所の提案により、怜司と奏音だけで過ごす時間が設けられた。 父親としての面会を、詩乃の目の届かない場所で短時間だけ行う。ただし、医療スタッフが近くに待機し、異変があればすぐ詩乃へ連絡できること。奏音の体調を最優先し、予定より早く切り上げる判断も認められること。行き先は事前に共有し、移動距離も短くすること。 条件は細かかった。 それでも、詩乃は不安を隠せなかった。 奏音の髪を整え、薄手の上着のボタンを留め、薬と水の入った小さなポーチを確認する。何度も確認したはずなのに、まだ足りない気がした。胸の違和感が出た時の薬、連絡先、酸素、保険証の写し。どれもバッグに入っている。それでも、詩乃の手は何度も同じ場所へ伸びた。「ママ」 奏音が小さく呼んだ。「怜司さんと、ちょっとだけ行ってくるね」 その声に、詩乃は胸が締めつけられた。「うん。疲れたら、すぐ休んでね。苦しくなったら、我慢しないで言うのよ」「うん。大丈夫って言わない」 奏音は真剣に頷いた。 詩乃が何度も伝えてきた言葉だった。痛い時は痛いと言う。怖い時は怖いと言う。いい子でいようとして我慢しない。奏音がそれを覚えていることに、少しだけ救われる。 怜司は玄関の外で待っていた。 高価な車ではなく、福祉搬送にも対応できる落ち着いた車を用意していた。医療スタッフが同乗せずとも、すぐ後ろの車で待機している。運転手も、奏音の体調に合わせて休憩できる場所を事前に確認しているらしい。 以前の怜司なら、もっと目立つ場所を選んだだろう。貸し切りの施設、高価な食事、誰もが羨むような贈り物。けれどその日、彼が選んだのは、小さな植物園だった。 人混みの少ない時間帯。 歩く距離の短い温室。 休めるベンチが多い場所。 奏音は温室の入口で、葉に落ちる光を見上げた。「お花、いっぱい」「ああ」 怜司は歩幅を落とした。奏音の隣を歩くためには、いつもの速度では速すぎる。ほんの数歩進むたびに、奏音の顔色を見る。楽しそうか。疲れていないか。息は乱れていないか。詩乃が毎日していることを、怜司はぎこちなく真似ていた。 奏音は小さな黄色い花の前で立ち止まった。「ママ、黄色好きかな」「好きだと思う」「怜司さんは?」 怜司は少し考えた。「……あまり考えたことがない」「じゃあ、今日から好き?」 奏音の問いに、怜司は
last updateLast Updated : 2026-09-15
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第94話 触れない義弟

 朔弥は、詩乃との接触を減らしていた。 裁判へ悪影響が出ないように。義弟との関係をまた切り取られないように。詩乃の母親としての立場を、余計な疑いで傷つけないように。そう理由を並べれば、誰もが納得する距離だった。 けれど詩乃は、その距離の中に別のものも見ていた。 彼自身の遠慮。罪悪感。踏み込めば壊してしまうものを知っている男の、慎重すぎる沈黙。 その日、詩乃は証拠資料を受け取るため、小さな劇場を訪れた。 表向きには閉館後だった。古い劇場の客席には誰もいない。非常灯に近い淡い明かりだけが通路を照らし、深い赤色の椅子が静かに並んでいる。舞台の幕は上がっていた。板張りの床には、わずかに埃と木の匂いが残っている。 詩乃は舞台の上に立った。 何年ぶりだろう、と思った。 幼い頃から、音楽は家の中にあった。父のヴァイオリン、母の歌声、譜面台、調律されたピアノ、客席の暗がりと舞台の光。神澤家が壊れる前、詩乃の未来は、こういう場所の先に続いているはずだった。 けれど父を失い、母が病床へ沈み、借金の代わりに鷹宮家へ嫁いだ日から、詩乃は自分の音楽を畳んだ。 音を出す余裕などなかった。 妻として息を殺すことと、母として奏音を守ることだけで、人生は埋まっていった。 客席の後ろから、朔弥の声がした。「君は、こういう場所に立っていたんだね」 詩乃は答えなかった。 振り向くと、朔弥は客席の一番後ろに座っていた。近づいてこない。舞台下に立つこともしない。彼の膝の横には、資料の入った封筒が置かれている。 その距離が、痛いほど明確だった。「ここは、知り合いの持ち物?」「昔の伝手。今はほとんど使われていない劇場だよ。人目が少ない場所の方がいいと思って」「私と会う場所まで、証拠にされるからですか」「そう」 朔弥は否定しなかった。「君がこれ以上、僕のせいで傷つくのは嫌だから」 詩乃は舞台の中央で、少しだけ視線を落とした。 助けられている。 けれど、近づけば危うい。 この関係を、どう呼べばいいのか分からなかった。「証言台で」 詩乃はゆっくり口を開いた。「愛していると言った理由を、聞いてもいいですか」 客席の奥で、朔弥の表情がわずかに変わった。「裁判で言う必要はなかったでしょう」「嘘をつけば、君を守れる気がしなかった」「本当のことを言えば、私が困る
last updateLast Updated : 2026-09-16
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