All Chapters of 結婚七年目冷たい夫を捨てた夜、義弟が迎えに来ました 〜秘密を抱いた契約妻は、もう愛を乞わない〜: Chapter 21 - Chapter 30

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第19話 利用する男

 夜が深くなっても、朔弥のマンションには生活の音がほとんどなかった。 高層階の窓の向こうには、街の灯が遠い星のように散っている。厚い硝子に遮られ、車の音も人の声も届かない。空調の低い唸りと、壁時計の秒針だけが、広すぎるリビングの静けさをわずかに刻んでいた。 その中央で、奏音は詩乃の袖を握ったまま眠っていた。 熱は先ほどより下がっている。けれど呼吸はまだ浅く、ときおり胸の奥で小さな音が鳴る。詩乃はソファの端に腰かけ、細い髪を指ですくっては、額へ張りついた汗を柔らかなガーゼで拭った。「大丈夫。ママ、ここにいるからね」 眠っている娘へ向けた声は、ひどく静かだった。 朔弥は少し離れたダイニングの椅子に座り、その光景を見ていた。 母親というものを、彼はよく知らない。 少なくとも、自分にとってそれは、熱を測り、乱れた毛布を直し、苦しげな呼吸に耳を澄ませる存在ではなかった。家の中にいながら、最初からそこにいないものとして扱われる感覚なら、骨の奥まで馴染んでいる。 誰かが名を呼ばれて振り向くたび、自分ではないと知ること。  食卓に席があっても、会話の中には席がないこと。  笑っていれば、何も求めていない人間に見えると覚えたこと。 奏音が小さく咳き込んだ。 詩乃は弾かれたように身を起こした。ガーゼへ水を含ませ、乾いた唇を湿らせる。体温計を脇へ差し込み、ずれた毛布を首元まで引き上げた。袖口から覗く手首は白く、力を込めれば折れてしまいそうに細い。 自分の顔色の方が、よほど悪い。 それでも奏音がうっすら目を開けると、詩乃はすぐに微笑んだ。「眠っていていいの。ここにいるから」 その言葉を聞いた瞬間、朔弥は窓の方へ視線を逸らした。 黒い硝子には、リビングの光景がぼんやり映っている。ソファの上の母子と、離れた場所にいる自分。まるで一枚の絵の中で、彼だけが後から描き足された異物のようだった。 自分がここへ置いた母子。 守っているようで、逃げ道を選ばせているのは自分だ。  救っているようで、必要な時まで手元に留めているようでもある。 どちらなのか。 以前なら、考えるまでもなかったはずだった。 詩乃は奏音の呼吸が落ち着いたのを確かめると、ようやくソファの背へ身体を預けた。瞼はすぐに重く落ち、握ったままのガーゼが膝の上へ滑る。 呼吸が少しずつ深くなった
last updateLast Updated : 2026-07-21
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第20話 灰になる神澤家

 更に夜が深くなると、朔弥の部屋はひどく静かになった。 高層階の窓の外では、都市の灯がまだ眠らずに瞬いている。だが、厚いガラスを隔てた室内には、車の音も人の声も届かない。遠くで空調が低く鳴り、奥の寝室からは、奏音のかすかな寝息だけが細く流れていた。 詩乃も、ようやく眠った。 奏音の手を握ったまま椅子に沈み、何度も目を覚ましながら、それでも疲労に負けてまぶたを閉じた。朔弥は一度だけその姿を見に行き、扉の隙間からしばらく見つめた。 母の手を離さず眠る子供。  その子を守るように、眠ってなお身体を傾ける女。 利用するだけのはずだった。 朔弥は無言で扉を閉めた。 廊下の照明は足元だけを淡く照らしている。彼は音を立てないように書斎へ入り、内側から鍵をかけた。部屋には紙と革と、わずかなインクの匂いがした。整えられた棚。閉じられたノートパソコン。使われることの少ない万年筆。どれも持ち主の生活ではなく、秘密を隠すために置かれているようだった。 朔弥は机の前に立つ。 一番下の引き出しには、小さな鍵がついている。彼は上着の内ポケットから古い銀色の鍵を取り出し、ゆっくり差し込んだ。 金属の擦れる音が、夜の中でやけに大きく響いた。 引き出しの中には、厚い封筒がいくつも収められていた。 神澤家に関する調査報告書。  鷹宮グループの内部資料。  古い投資計画書。  資金移動の記録。  海外法人を経由した債権の譲渡。  神澤家が、どのようにして巨額の負債を背負うに至ったかを示す書類。 そして、神澤詩乃の父が追い詰められていく過程。 朔弥は一枚ずつ紙を取り出した。 紙の端は古びているが、文字ははっきり残っている。数字、日付、署名、社名。どれも冷たい記号にすぎない。だが、その裏で一つの家が壊れ、一人の男が誇りを失い、一人の母が心を折られ、一人の娘が鷹宮家へ差し出された。 詩乃が知らない過去。 知れば、もう彼を見る目は変わるだろう。 朔弥は、さらに奥の封筒へ手を伸ばした。 それだけは、ほかの資料と違って薄かった。白い封筒は何度も開かれた跡があり、端が少し柔らかくなっている。封を解くと、中から一枚の写真が滑り出た。 十年前の詩乃だった。 舞台の上で、ヴァイオリンを構えている。 今より少し幼い。頬にはまだ柔らかさが残り、黒髪は照明を受けて艶やかに光
last updateLast Updated : 2026-07-22
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第22話 二つの証明書

 怜司の執務室には、雨の匂いが薄く滲んでいた。 窓の外では灰色の雲が低く垂れ、硝子を伝う雨粒が、室内の光を歪ませている。重厚な机の上には、二通の鑑定書が置かれていた。白い紙。整った文字。感情を持たない数字。 その無機質な紙の前で、芽衣は柔らかく微笑んでいた。 淡い桜色のワンピースは、彼女の白い肌をより儚く見せている。肩に落ちるカーディガンは少し頼りなく、守られるべきものを演出するように細い鎖骨を覗かせていた。香水は甘い。近づけば、花と蜂蜜のような匂いがする。 芽衣は怜司のそばに寄り添い、指先でそっと袖を掴んだ。「怜司さん、私……本当に怖かったんです」 声は震えている。 机の上の一通には、芽衣の腹の子が怜司の子である可能性が高いと記されている。もう一通には、奏音との親子関係を確認できないという曖昧な文言が並んでいた。 芽衣にとって、それは望んだ形だった。 詩乃を疑わせる。  奏音を遠ざける。  怜司の中に芽衣と胎児だけを残す。 それで、すべて元に戻るはずだった。「私は、怜司さんを困らせたくなかっただけなんです」 涙が零れた。 頬を伝う角度も、伏せる睫毛の震え方も、完璧だった。けれど芽衣は泣きながらも、怜司の顔色を見ていた。指先の力をほんの少し強め、怜司が抱き寄せる瞬間を待つ。 以前なら、そうなった。 怜司は芽衣の涙を疑わなかった。詩乃が何を言っても、芽衣が震えればそちらを庇った。弱い女を守ることが、自分の責任だと思っていた。 だが、今は反応が遅い。 怜司の視線は鑑定書に落ちたままだった。 紙の上の文字を読んでいるはずなのに、彼の耳には別の声が残っていた。 ママ。 病室の中から詩乃を呼んだ、小さな声。 怜司を父とは知らない子供。詩乃の陰に隠れ、知らなくていい人だと告げられた子供。わずかに見えた幼い輪郭と、怯えるように母を求める声。 あれは嘘だったのか。 そう思おうとしても、思い切れない。「怜司さん……信じてくださらないんですか?」 芽衣の声に、不安が混じった。 怜司はようやく視線を上げた。泣いている芽衣の頬へ手を伸ばし、親指で涙を拭う。その仕草だけ見れば、優しい庇護者のものだった。けれど、声はどこか冷えていた。「確認はする」 芽衣の表情が、一瞬だけ固まった。 信じる、ではなかった。 確認する。 その違いが
last updateLast Updated : 2026-07-23
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第23話 真実を隠す男

 詩乃の問いに、朔弥はすぐには答えなかった。 書斎には、焦げた紙の匂いがまだ残っている。灰皿の中で黒く崩れた紙片の端に、半分だけ残った文字が白く浮かんでいた。 神澤。 それは、詩乃にとって見過ごせる名ではなかった。 奏音は詩乃の後ろで、眠たげに目を擦っている。小さな呼吸が浅く揺れ、その音だけが、張り詰めた沈黙の中に落ちていた。 詩乃は怒鳴らなかった。 責め立てもしなかった。 ただ、朔弥を見ていた。鍵を渡した男。勝手に入らないと約束した男。奏音を守ると言った男。その男が、神澤家の名が記された書類を燃やしていた。「私に隠していることはありませんか」 もう一度、同じ問いが落ちる。 朔弥は嘘をつくことに慣れていた。 人を騙すことにも、必要な情報だけを渡すことにも、罪悪感を覚えないように生きてきた。鷹宮家で生き残るには、そうするしかなかった。優しさも本音も、見せた瞬間に踏まれるものだったから。 けれど、詩乃の目の前では、いつものように笑えなかった。 薄い笑みを作ろうとして、失敗する。「あるよ」 短く認めた。 詩乃の指が震えた。奏音の肩に添えた手に、わずかに力が入る。「それは、奏音に関わることですか」「関わる」 詩乃の顔色が変わった。 朔弥は、その変化から目を逸らせなかった。娘のことになると、詩乃は一瞬で母親の顔になる。疲れも恐怖も押し殺し、ただ守るために立つ。その強さが、朔弥には眩しく、同時に痛かった。「でも、今出せば君たちが危なくなる。だから、まだ言えない」 詩乃は唇を噛んだ。 その沈黙には、怒りよりも深い疲労があった。怜司も、瑛子も、芽衣も、皆が自分の都合で真実を奪ってきた。守るためだと言い、家のためだと言い、正しい判断だと言いながら、詩乃から選ぶ権利を取り上げてきた。「私から、判断する権利を奪わないでください」 静かな声だった。 だが、朔弥の胸には深く刺さった。 彼は引き出しへ視線を落とした。 鍵のかかった奥に、まだ一通の封筒がある。奏音が怜司の子であることを示す、本物の証明。出せば、詩乃は知る。知れば、備えられる。 けれど同時に、怜司と瑛子は奏音を奪いに来る理由を強める。 朔弥が迷った、その時だった。 机の上の端末が震えた。 画面を見た瞬間、彼の表情が変わる。数秒だけ文章を読み、すぐに別の通知を開いた。
last updateLast Updated : 2026-07-23
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第24話 逃げた妻

 報告を聞いた瞬間、怜司の指がスマートフォンの縁に食い込んだ。 確保に失敗した。 その短い一文が、執務室の空気を一瞬で凍らせた。通話の向こうで部下が説明を続けている。詩乃と奏音は朔弥の車で離脱。水無瀬旭と水無瀬美琴も同行。行き先は不明。現場では朔弥側の警護と衝突し、これ以上の追跡は困難。 怜司はしばらく何も言わなかった。 窓の外には夜の街が沈んでいる。硝子に映る自分の顔は、いつも通り冷静に見えた。だが、手の中の端末だけが軋みそうなほど握り締められている。「朔弥は、いつから詩乃に近づいていた」 低い声だった。『現在調査中です。ただ、不明点が多く……』「答えになっていない」『申し訳ありません。ただ、鷹宮朔弥様が以前から神澤家について情報を集めていた形跡があります』 怜司の眉が、わずかに動いた。「神澤家?」『はい。神澤斎臣氏の死亡前後の資金関係、当時の債権移動、関係会社の記録などを洗っていた可能性が』 怜司は沈黙した。 神澤家。 詩乃の実家。落ちぶれた旧華族。父の死。母の入院。借金。七年前、結婚の条件として処理された背景情報。 怜司にとって、それは過去の資料の一部にすぎなかった。 詩乃が鷹宮家へ来た理由。  詩乃が抵抗できなかった理由。  詩乃が七年間、黙って妻の席に座っていた理由。 考えようと思えば、いくらでも考えられたはずだった。けれど怜司は、考えなかった。必要がなかったからだ。詩乃はそこにいた。鷹宮の妻として、朝食を整え、会食の席次を調え、怜司の薬を用意し、怜司の帰りを待っていた。 その詩乃が、今は朔弥の車で逃げている。 その事実だけで、胸の奥に黒いものが広がった。 詩乃が自分から離れようとしていることよりも、朔弥の保護下に入ったことが許せなかった。 なぜ、朔弥なのか。 なぜ、あの男に鍵を預けた。 なぜ、怜司ではなく。「引き続き追え。朔弥の所有物件、関係会社、交友関係、すべて洗え。旭の通信記録もだ」『承知しました』「それと、神澤家の件も調べ直せ」 通話を切ったあとも、怜司はしばらく端末を握ったままだった。 机の上には、偽りかもしれない鑑定書が置かれている。芽衣の子は自分の子。奏音については不確定。紙の上の結論は整っているのに、なぜか胸の奥の違和感は消えなかった。 同じ夜、芽衣も詩乃たちが逃げたことを知
last updateLast Updated : 2026-07-24
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第25話 母親失格の烙印

 翌朝、噂は昨日よりも濃くなっていた。 詩乃の名前は、どこにも書かれていない。けれど、鷹宮家、契約妻、病弱な娘、義弟。そんな断片を並べられれば、関係者にはすぐ分かる。 匿名の言葉は、真実よりもずっと自由だった。 鷹宮家にしがみついていた妻が、都合が悪くなると義弟と逃げた。  病気の子供を盾にして、夫から金を引き出そうとしている。  実の父親かも分からない子供を、名門の血筋に紛れ込ませようとしていた。 画面の中で、誰かが勝手に詩乃の人生を作り替えていく。 詩乃はスマートフォンを握ったまま、息苦しさを覚えた。胸の奥に冷たい手を入れられ、肺を掴まれているようだった。 自分が責められるだけなら、耐えられる。 七年間、似たような視線はいくらでも浴びてきた。借金の代わりに嫁いだ女。後継者を産めない妻。鷹宮家にふさわしくない女。そう見られることには、もう痛み方を覚えてしまっている。 けれど、奏音は違う。 奏音の病気まで、好奇の目に晒されている。あの小さな身体が、見知らぬ人間の憶測の中で利用されている。そのことが、詩乃には何よりつらかった。「発信元を追います」 旭は冷静に言った。 テーブルの上には複数の端末と資料が並んでいる。仮住まいの部屋は生活の気配よりも、逃避先の硬さの方が強かった。閉ざされたカーテン。開封されたばかりの飲料水。奏音の薬袋。急いで畳まれた小さな服。「ただ、すぐに表へ出る相手ではないでしょう。複数のアカウントを経由している可能性があります」「そんなこと言ってる間に広がるじゃない」 美琴の声は怒りで震えていた。「今すぐ否定しようよ。詩乃が黙っていたら、あいつらの言葉が本当みたいになる」「今反応すれば、火に油を注ぐ」 朔弥が窓際で言った。 彼は腕を組んだまま、カーテンの隙間から外を見ている。昨夜からほとんど眠っていないはずなのに、表情には疲労よりも冷たい集中があった。「相手は、義姉さんが動揺して表に出るのを待ってる。感情的に否定すれば、その言葉まで切り取られる」「じゃあ、黙って見てろって言うの?」「黙るんじゃない。証拠を集める」 二人の声が行き交う。 旭は冷静に画面を見つめ、美琴は怒りを堪えきれずに拳を握り、朔弥は淡々と危険を測っている。 誰もが守ろうとしてくれている。 それは分かっていた。 分かっているのに
last updateLast Updated : 2026-07-24
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第26話 燃え残り

 詩乃は、あの文字を忘れられなかった。 神澤。 灰皿の中に半分だけ残っていた、焦げた紙片。火に喰われ、縁は黒く縮れ、けれどその二文字だけは、まるで焼け残ることを選んだように白い部分へ浮かんでいた。 朔弥が灰皿を引いた手も。 触らない方がいい、と告げた穏やかな声も。 その時の笑みも、ずっと胸に引っかかっていた。 朔弥はいつものように笑っていた。軽く、何もないように。けれど詩乃には分かった。あれは人を安心させるための笑みではない。隠すための笑みだった。 奏音がようやく眠ったあと、詩乃は寝室の扉を静かに閉めた。 仮住まいの部屋は、夜になるといっそう息苦しくなる。厚いカーテンに閉ざされた窓。壁際に積まれた荷物。薬袋と診察書類。小さなぬいぐるみだけが、この逃避先に生活の温度を持ち込んでいた。 朔弥はリビングにいた。 窓際に立ち、端末の画面を見ている。外の光は遮られているのに、彼の横顔だけが薄く白く浮いていた。「朔弥さん」 詩乃が呼ぶと、朔弥は顔を上げた。「奏音ちゃんは?」「眠りました」「そっか。熱は?」「今は落ち着いています」 そこで会話が切れた。 詩乃は数歩だけ近づき、まっすぐ彼を見た。「それは、私の家に関するものですか」 朔弥は答えなかった。 沈黙が落ちる。 その沈黙だけで、詩乃の胸はさらに冷えていった。否定しない。笑ってはぐらかす準備をしている。あるいは、言うべき言葉を探している。 どちらにしても、答えはそこにあった。「答えてください」 朔弥は少し笑った。 けれど、その笑みは薄かった。「今は、答えられない」 詩乃の指先が冷たくなる。 まただ、と思った。 また、今は言えない。 また、守るためという顔で真実を隠される。 怜司は、詩乃を妻という場所に置いたまま、何も知らせなかった。瑛子は、家のためという言葉で人の尊厳を踏みにじった。芽衣は涙で事実を曲げた。そして今、朔弥まで同じ言葉を選ぼうとしている。 守るため。  危ないから。  まだ早いから。 そのたびに、詩乃から判断する権利だけが奪われていく。「あなたも、私から判断する権利を奪うんですね」 声は大きくなかった。 それでも、朔弥の顔から笑みが消えた。 彼は何かを言おうとして、言えなかった。詩乃の視線から逃げずにいるだけで、精一杯のように見えた
last updateLast Updated : 2026-07-25
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第27話 二つ目の嘘

 芽衣は、画面の中で増えていく言葉を見つめていた。 詩乃の名前は伏せられている。奏音の顔も出ていない。けれど、鷹宮家、契約妻、義弟、病弱な娘。必要な断片だけは、丁寧に散らされていた。 匿名の噂は、朝を迎えてさらに形を変えていた。 可哀想な妻ではなく、家を揺さぶる女。  守られるべき子供ではなく、名門を脅す道具。  夫から逃げたのではなく、義弟と逃げた女。 芽衣はベッドの上で、ゆっくりと息を吐いた。 望んだ流れだった。 詩乃が疑われればいい。奏音が清らかな被害者として見られなければいい。怜司が、あの母娘を見るたびに迷えばいい。守るべきものとしてではなく、疑うべきものとして見ればいい。 そうすれば、怜司のそばに残るのは自分だけになる。 芽衣は腹部へそっと手を添えた。 柔らかな部屋着。整えられた髪。薄く色づいた唇。鏡に映る自分は、守られるにふさわしい女に見えた。けれど、スマートフォンに届いた一通の連絡で、その表情が崩れる。 白川家の関係会社に、調査の手が伸びている。 芽衣の指先が冷えた。 すぐに別の番号へ電話をかける。鑑定機関の担当者。あの男なら、余計な口を利く前に手を打てる。そう思った。 呼び出し音は続いた。 出ない。 もう一度かける。やはり繋がらない。 芽衣は苛立ちを抑え、別の連絡先へ探りを入れた。返ってきた答えは、短かった。 担当者は退職扱い。  所在不明。  連絡不能。「……何よ、それ」 小さく漏れた声は、震えていた。 その時、鷹宮家から呼び出しが入った。 応接室に通された瞬間、芽衣は空気がいつもと違うことを悟った。 花は飾られている。茶器も用意されている。すべてが上流の家らしく整っている。けれど、そこに温度はなかった。 瑛子は、ソファに腰かけていた。 優しい姑のような顔はしていない。背筋を伸ばし、指先ひとつ乱さず、ただ芽衣を見ている。その視線だけで、芽衣は喉の奥が詰まるのを感じた。「座りなさい」 穏やかな声だった。 芽衣は従った。 テーブルの上には、鑑定書のコピーが置かれていた。怜司へ見せたものと同じ文面。芽衣の腹の子については都合よく肯定し、奏音については曖昧に否定へ傾ける書類。 瑛子はそれを指先で軽く押さえた。「これは誰が用意したの?」 芽衣は目を伏せ、唇を震わせた。「私には、分かりま
last updateLast Updated : 2026-07-26
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第28話 同意書の夜

 奏音の呼吸が乱れ始めたのは、夜が深くなってからだった。 最初は、小さな咳だった。眠りの底から浮かび上がるように、細く、乾いた音がした。詩乃はすぐに目を覚ました。枕元の灯りをつけ、奏音の額に手を当てる。 熱い。 思った瞬間、胸の奥が冷えた。「奏音?」 呼びかけても、奏音の返事は曖昧だった。頬は赤く、唇は乾き、胸を押さえるように小さな手が寝巻きの上で震えている。「くるしい……」 その一言で、詩乃は立ち上がった。 主治医へ連絡を入れる。薬の時間、熱の上がり方、呼吸の状態、胸の痛み。声が震えないよう必死に抑えながら説明する間にも、奏音の呼吸は浅く早くなっていく。 朔弥は隣室から出てきた時点で、すでに端末を耳に当てていた。「車を下に回して。病院まで最短で。警護も二台」 避難先から病院へ戻る危険はある。 鷹宮家に居場所を掴まれる可能性も、病院で待ち伏せされる可能性もある。それでも、治療を後回しにはできなかった。 詩乃は奏音を毛布で包み、胸へ抱いた。 小さな身体が熱い。苦しそうに息を吸うたび、詩乃の腕の中で細い肋骨が上下する。その動きがあまりに頼りなくて、詩乃は何度も「大丈夫」と囁いた。奏音に向けているのか、自分に言い聞かせているのか分からなかった。 病院の救急口に着くと、すぐに医師と看護師が駆け寄った。 ストレッチャーに移される瞬間、奏音の手が詩乃の袖を掴む。「ママ……」「ここにいる。ずっといるから」 詩乃はその手を握り返した。 処置室へ向かう廊下は、白く冷たかった。夜の病院には昼間と違う静けさがある。足音だけが響き、消毒液の匂いが濃く、照明の白さが人の顔色を奪う。 その廊下の先に、怜司がいた。 黒いコートを羽織ったまま、壁際に立っている。怜司の背後には部下らしき男が控え、さらに少し離れたところに病院関係者が緊張した顔で並んでいた。 詩乃は足を止めた。 怜司の視線は、まず奏音を追った。処置室の扉の向こうへ運ばれていく小さな身体。その後で、詩乃を見た。「鷹宮系列の専門病院へ移せ」 怒りを押し殺した声だった。「そこなら、今より高度な治療が受けられる」 詩乃は即座に首を振った。「嫌です」「今は意地を張る場面ではない」「意地ではありません」 声が掠れた。 鷹宮系列の病院。 そこに入れば、奏音は完全に怜司と瑛子の支配
last updateLast Updated : 2026-07-26
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第29話 書かなくていい紙

 詩乃は、震える手でペンを握っていた。 処置室の扉は閉ざされている。向こう側から、医療機器の電子音が一定の間隔で響いていた。その音が鳴るたび、詩乃の胸は内側から締めつけられる。奏音が今、小さな身体で必死に息をしようとしている。そう思うだけで、足元が崩れそうだった。 目の前には、怜司が差し出した転院同意書がある。 鷹宮系列の専門病院。最新設備。心臓外科の権威。奏音を救える可能性が少しでも上がるなら、今すぐ縋りつきたい条件ばかりだった。 けれど、その紙には治療以外のものが混じっていた。 旭が同意書に目を通し、表情を険しくする。「神澤さん、これはすぐに署名してはいけません」 詩乃の指が止まった。 旭は書類の下部を指で押さえた。「緊急時の医療判断権を、怜司氏および鷹宮家指定代理人にも認める文言が入っています。さらに転院後の面会制限、検査への包括同意、医療情報の共有範囲まで、母親であるあなたに不利な形で整えられている」 詩乃は紙を見下ろした。 細かな文字が滲む。難しい言い回しの奥に、はっきりとした意図が透けて見えた。 これは奏音を救うための紙ではない。 奏音を、鷹宮家の管理下へ移すための紙だ。 詩乃は顔を上げた。「この文言は、何ですか」 怜司は動じなかった。「必要な手続きだ」「治療のための同意書に、どうして私の医療判断権を制限する内容が入っているんですか」「奏音を助けるためだ」 声は冷静だった。 娘が処置室にいるこの状況でさえ、怜司は取り乱さない。むしろ、詩乃が逃げ場を失っていることを理解した上で、さらに追い詰めているように見えた。「今ここでサインを渋るのか」 怜司は低く言った。「娘が命の危険に晒されているんだぞ。母親であるお前が、ここで迷うなど母親失格だ」 その言葉に、詩乃の中で何かが切れた。 怖かった。 奏音を失うのが怖い。選択を誤るのが怖い。後で、あの時違う道を選べばよかったと悔やむ未来が怖い。 けれど、その恐怖を利用して母親失格だと断じる怜司のやり方だけは、どうしても許せなかった。 詩乃はペンを握ったまま、怜司を睨んだ。「娘の命を盾にして、母親から権利を奪おうとする。そんなあなたのやり方が、父親だと言えるの!?」 怜司の目が、わずかに細くなった。 怒るでもない。傷つくでもない。 むしろ、狙っていた言葉
last updateLast Updated : 2026-07-27
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