夜が深くなっても、朔弥のマンションには生活の音がほとんどなかった。 高層階の窓の向こうには、街の灯が遠い星のように散っている。厚い硝子に遮られ、車の音も人の声も届かない。空調の低い唸りと、壁時計の秒針だけが、広すぎるリビングの静けさをわずかに刻んでいた。 その中央で、奏音は詩乃の袖を握ったまま眠っていた。 熱は先ほどより下がっている。けれど呼吸はまだ浅く、ときおり胸の奥で小さな音が鳴る。詩乃はソファの端に腰かけ、細い髪を指ですくっては、額へ張りついた汗を柔らかなガーゼで拭った。「大丈夫。ママ、ここにいるからね」 眠っている娘へ向けた声は、ひどく静かだった。 朔弥は少し離れたダイニングの椅子に座り、その光景を見ていた。 母親というものを、彼はよく知らない。 少なくとも、自分にとってそれは、熱を測り、乱れた毛布を直し、苦しげな呼吸に耳を澄ませる存在ではなかった。家の中にいながら、最初からそこにいないものとして扱われる感覚なら、骨の奥まで馴染んでいる。 誰かが名を呼ばれて振り向くたび、自分ではないと知ること。 食卓に席があっても、会話の中には席がないこと。 笑っていれば、何も求めていない人間に見えると覚えたこと。 奏音が小さく咳き込んだ。 詩乃は弾かれたように身を起こした。ガーゼへ水を含ませ、乾いた唇を湿らせる。体温計を脇へ差し込み、ずれた毛布を首元まで引き上げた。袖口から覗く手首は白く、力を込めれば折れてしまいそうに細い。 自分の顔色の方が、よほど悪い。 それでも奏音がうっすら目を開けると、詩乃はすぐに微笑んだ。「眠っていていいの。ここにいるから」 その言葉を聞いた瞬間、朔弥は窓の方へ視線を逸らした。 黒い硝子には、リビングの光景がぼんやり映っている。ソファの上の母子と、離れた場所にいる自分。まるで一枚の絵の中で、彼だけが後から描き足された異物のようだった。 自分がここへ置いた母子。 守っているようで、逃げ道を選ばせているのは自分だ。 救っているようで、必要な時まで手元に留めているようでもある。 どちらなのか。 以前なら、考えるまでもなかったはずだった。 詩乃は奏音の呼吸が落ち着いたのを確かめると、ようやくソファの背へ身体を預けた。瞼はすぐに重く落ち、握ったままのガーゼが膝の上へ滑る。 呼吸が少しずつ深くなった
Last Updated : 2026-07-21 Read more