All Chapters of 結婚七年目冷たい夫を捨てた夜、義弟が迎えに来ました 〜秘密を抱いた契約妻は、もう愛を乞わない〜: Chapter 61 - Chapter 70

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第61話 母親の戦場

 怜司が差し出した離婚協議停止の合意書を拒絶した翌朝、詩乃は旭の事務所へ向かった。 病院の朝はまだ白く、奏音の眠る病室には薄い光が差していた。手術を控えた小さな身体は、昨夜よりも少しだけ穏やかに呼吸している。詩乃は出かける前、布団から出ていた奏音の手をそっと戻し、枕元に置かれた犬のマスコットの耳を直した。 こんな時に、病院を離れるべきではない。 誰かはそう言うかもしれない。 けれど、手術が無事に終わったあとも奏音のそばにいられる保証が、今の詩乃にはなかった。手術台へ送り出すことだけが母親の役目ではない。目を覚ました奏音の手を握り、痛みを訴える声を聞き、怖い夜に隣で名前を呼ぶこと。その先を守らなければ、手術の同意書にどれだけ震える手で署名しても意味がない。 瑛子はすでに、奏音の医療判断権と暫定監護を鷹宮側へ移す準備を進めている。怜司は母娘を引き離さないと約束した一方で、父親として共同で医療判断へ介入し、離婚を止めようとしている。 瑛子に奪われても、怜司に囲い込まれても、詩乃と奏音が自由に生きられないことに変わりはなかった。 旭の事務所へ着くと、会議室の机にはすでに資料が並べられていた。 五年間の診療記録。投薬記録。夜間発作のメモ。匿名通報の写し。偽造された音声の解析資料。病院への不審なアクセス記録。詩乃の母の入院先へかけられた圧力の記録。奏音の検体を持ち出そうとした人物の映像。芽衣側から動いた金の流れ。そして、怜司が瑛子の母子分離へ反対した記録。 紙の束は重かった。 それは、詩乃が母親として積み重ねてきた時間であり、同時に、奏音を奪おうとする人々の手つきでもあった。整えられた資料の一枚一枚が、逃げずに見なければならない現実として机の上に置かれている。 旭は詩乃の向かいに座り、静かに言った。「ここから先は、鷹宮家と正面から争うことになります」 詩乃は、膝の上の鞄を開けた。 中から取り出したのは、奏音が描いた小さな絵だった。赤いクレヨンで描かれた、二つの手。大きな手と、小さな手が、一本の線で結ばれている。線は少し曲がっていて、ところどころ強く塗りすぎて紙が凹んでいた。 手術の前、奏音はそれを詩乃へ渡した。 離れても、これでつながってるからね。 その時の声を思い出すだけで、詩乃の喉が詰まる。奏音はまだ五歳だ。大人の争いも、血筋も、医療判断
last updateLast Updated : 2026-08-19
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第62話 五年分の証拠箱

 親権と監護をめぐる争いで、詩乃に必要なのは、奏音を愛しているという言葉だけではなかった。 誰が奏音を育てたのか。誰が病気を把握し、薬を管理し、発作の兆候を見逃さないよう夜を越えてきたのか。母親であることは、胸の中の愛情だけでは守れない。紙に残る記録、第三者の証言、時刻と日付の積み重ねによって示さなければならなかった。 その日の午後、美琴が大きな箱を抱えて旭の事務所へ入ってきた。 段ボールの角は少し潰れていて、側面には詩乃の細い字で年月が書かれている。美琴はそれを机の横へ下ろすと、額に浮いた汗を手の甲で拭った。「詩乃の古い部屋に残ってた。全部、奏音ちゃんのもの」 箱を開けた瞬間、紙と薬袋の匂いが広がった。 月ごとに分けられた薬の袋。夜間発作の時刻を書いたノート。食べられたものと、吐いてしまったものの一覧。体温、血圧、睡眠時間。奏音が検査を怖がった日に描いた絵。保育園へ提出した体調連絡票。詩乃が病院へ向かうために使ったタクシーの領収書。 五年分の生活が、その箱の中に詰まっていた。 旭は一つずつ手袋をつけて確認した。薬袋の日付を並べ、ノートの記載と診療明細を照合し、保育園の連絡票に押された印を見て、静かに息を吐いた。「これだけのものを、ずっと残していたんですか」 詩乃は箱の中を見つめた。「証明するためではありませんでした」 声は低かった。「薬を間違えないためです。発作の前に何があったのか、次に気づけるように。先生へ正確に伝えられるように。奏音が苦しい時、私が忘れないように」 良い母親だと誰かに認めてもらうためではなかった。夜中に胸を押さえた奏音の呼吸を数え、朝になって医師へ伝えるため。吐いてしまった食べ物を避けるため。薬を嫌がった時、何なら飲めたのか覚えておくため。ただ、奏音の身体を守りたくて残してきたものだった。 その積み重ねが、今は詩乃から奏音を奪わせないための証拠になる。 美琴は箱の中から、小さな紙を一枚取り出した。赤いクレヨンで、歪んだ丸と花が描かれている。「これ、覚えてる?」 詩乃は頷いた。「初めて検査のあとに、泣かずに帰れた日」 奏音はその日、怖かったけれど頑張ったと言って、花を描いた。詩乃はそれを捨てられなかった。病気の記録だけではない。苦しさの中で、少しだけ笑えた日も残したかった。 その一方で、瑛子側から提出さ
last updateLast Updated : 2026-08-20
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第63話 父親の証拠

第63話 父親の証拠 調査員が仮住まいを訪れた日、詩乃は部屋を必要以上に飾らなかった。 見栄えのために花を置くことも、急ごしらえの家具を増やすこともしなかった。ここにあるものは、奏音が今日を越えるために必要なものだけでいい。そう思いながら、詩乃は薬の棚を確認し、緊急時の連絡先を壁に貼り直し、携帯用酸素の残量を見た。 低い位置には奏音の衣類が置いてある。自分で取ろうとして転ばないよう、引き出しは軽いものにしていた。廊下には小さな灯りをつけてある。夜中に目を覚ました奏音が、迷わず詩乃の部屋まで来られるように。床には滑りにくいマットを敷き、ベッドの横には水と体温計と犬のマスコットが置かれていた。 調査員は、ひとつずつ静かに確認していった。「お薬は、誰が用意してくれるの?」 小さな椅子に座っていた奏音は、迷わず詩乃を指した。「ママ。白いのは朝で、小さいのは夜。でも、奏音は勝手に飲んじゃだめなの」 詩乃の胸が、少しだけ熱くなった。 何度も教えてきた言葉だった。薬はお菓子ではないこと。苦しくても、自分だけで飲んではいけないこと。白い薬と小さい薬の違い。奏音は幼いなりに、きちんと覚えていた。 調査員の筆記音が、部屋の静けさに落ちる。 その時、玄関のインターホンが鳴った。 画面に映っていたのは怜司だった。 詩乃の背筋が固まる。予定にはない訪問だった。調査員も困惑したように顔を上げる。以前の怜司なら、鷹宮の名を使って当然のように入ってきただろう。ここが誰の生活の場であるかなど、考えもしなかったはずだった。 けれど、怜司は玄関の外で待っていた。「父親として、生活環境を確認したい」 インターホン越しの声は低かった。「入るかどうかは、詩乃が決めてくれ」 詩乃はしばらく黙っていた。 入れたくない気持ちはある。けれど、ここで拒めばまた、父親を遠ざけていると使われるかもしれない。詩乃は調査員を見た。「立ち会いをお願いします」 その条件で、怜司の入室を認めた。 怜司は玄関で靴を脱ぎ、部屋へ入った。視線が薬の棚、連絡先、酸素、低い引き出しを順に追う。驚きに近い色が、ほんの少しだけ目に浮かんだ。 調査員が問いかけた。「奏音さんのお薬について、ご存じですか」 怜司は答えた。 薬の名前、朝と夜の量、最近の検査数値、発作時にまず確認すべき呼吸状態。完璧で
last updateLast Updated : 2026-08-20
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第64話 婚約破棄の記者会見

 朔弥が白川芽衣との婚約解消を表に出すと決めた時、鷹宮家も白川家も、内々の処理を望んだ。 体面を守るためには、その方が都合がよかった。婚約は双方協議のうえ円満に解消。詳細は私的事情により非公表。そう発表すれば、しばらく憶測は出ても、やがて別の話題に流れる。鷹宮家の名にも、白川家の名にも、決定的な傷は残らない。 だが、朔弥はそれを拒んだ。 記者会見の場に、彼は一人で現れた。 会場には、すでに多数の報道関係者が集まっていた。カメラのレンズが並び、照明の光が白く熱い。マイクの先に貼られた各社のロゴが、まるで獲物を待つ口のように見えた。 朔弥は壇上に立つと、ゆっくり頭を下げた。「本日をもって、白川芽衣さんとの婚約を解消いたします」 ざわめきが広がった。 朔弥は表情を変えなかった。「理由は、婚約関係の重大な破綻です。白川さんは、婚約者である僕ではなく、兄である鷹宮怜司との間に子をもうけたと主張しています。加えて、病気の幼い子供を巻き込む行為が確認されています」 会場の空気が一気に変わった。 記者たちの手が動き、シャッター音が細かく重なる。誰かが質問を叫んだが、朔弥はすぐには答えなかった。用意した紙を見ることもなく、正面を向いていた。「婚約解消は、白川さんの妊娠そのものを責めるものではありません。子供の命と、白川さんが行った行為は別です。ただし、僕との婚約関係を維持する理由はありません」 その言葉は冷静だった。 冷静すぎるほどだった。 記者の一人が手を挙げる。「神澤詩乃さんとの関係について伺います。白川さんとの婚約破綻に、神澤さんは関係しているのでしょうか」 朔弥は逃げなかった。「義姉と僕の間に、婚姻を壊すような関係はありません」 会場に、さらに強いざわめきが生まれる。「では、神澤詩乃さんを女性として愛してはいないのですか」 その質問に、朔弥はほんの少しだけ黙った。 カメラのシャッター音が、そこで薄く止まる。 否定すれば、詩乃を守れるのかもしれない。何の感情もないと言えば、少なくとも今この瞬間、彼女へ向かう視線は少し逸れるかもしれない。 けれど、それは別の嘘になる。 詩乃はもう、誰かの都合のために嘘を重ねられる女ではない。 朔弥は静かに答えた。「今、その質問に答えれば、彼女をさらに傷つけます」 否定しなかった。 会場が
last updateLast Updated : 2026-08-21
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第65話 手術室へ向かう娘

 奏音の手術当日、病院の朝はいつもより白く見えた。 廊下を行き交う看護師の足音も、医療機器の小さな音も、どこか遠く聞こえる。詩乃は病室の窓際に立ち、手術着へ着替えた奏音の髪をそっと整えていた。細く柔らかな髪を耳の後ろへかける指が、何度も震えそうになる。 奏音の腕には点滴がつながっている。胸元には複数の機器が取りつけられ、小さな身体には大きすぎるほどの準備が施されていた。怖くないはずがなかった。けれど奏音は、詩乃を安心させるように笑っていた。「ママ、泣いてない?」「泣いてないよ」「ちょっと泣きそう」「奏音も?」 奏音は小さく頷いた。 その頷きがあまりに正直で、詩乃は胸が潰れそうになった。いい子にしなくていい、泣いていいと何度も伝えた。奏音はそれを覚えていて、今ようやく怖いと言えるようになっていた。「泣きそうでもいいよ」 詩乃は奏音の手を包んだ。「怖い時は、怖いって言っていいの」「ママも?」「うん。ママも怖い」 奏音の目が少し丸くなる。「大人も怖いの?」「怖いよ。でも、奏音と一緒に頑張る」 奏音は詩乃の指を握った。点滴の管に触れないよう、そっと、けれど離したくないというように。「手術の間、ママどこにいる?」「すぐ近くで待ってる。先生たちが奏音を頑張って助けてくれている間、ママもずっと待ってる」「寝てる間も?」「寝てる間も」「起きたら?」「一番に会いに行く」 奏音は少し安心したように息を吐いた。 病室の入口には、美琴が立っていた。目元を赤くしながらも、泣かないように必死に唇を結んでいる。旭は医師との最終確認を終え、書類を手に静かに詩乃へ頷いた。 そして少し離れた廊下に、怜司がいた。 彼は病室へ踏み込まなかった。入っていいかどうかを、以前のように当然の権利として決めない。ただ、詩乃が気づく距離で立ち止まり、視線だけを奏音へ向けている。 奏音がその姿に気づいた。「ママ」「なあに」「あの人も、待ってるの?」 詩乃は一瞬、言葉を探した。 怜司の顔が硬くなる。父親と呼ばれることを期待しているのではない。ただ、奏音の中で自分がまだ名前のない存在であることを、彼は受け止めようとしているようだった。「うん。待ってるよ」 詩乃が答えると、奏音は少し考えてから、怜司へ向かって小さく手を動かした。「待っててね」 たった
last updateLast Updated : 2026-08-21
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第66話 止まった心臓

 暫定審理は、手術室前の小さな待機スペースで始まった。 詩乃の背後には、閉ざされた手術室の扉がある。赤いランプが点灯し、その下で医療スタッフが何度か早足に通り過ぎていくたび、詩乃の喉は締めつけられた。画面の向こうには、担当者、瑛子側の弁護士、病院の関係者が並んでいる。整った顔。整った資料。整った言葉。そこに奏音の体温も、手術室の空気も、詩乃の指先の冷たさも映ってはいない。 それでも、詩乃は椅子に座っていた。 膝の上で両手を握りしめる。爪が掌に食い込むほど力を入れていなければ、今にも立ち上がって手術室の扉へ駆け寄ってしまいそうだった。奏音は今、あの向こうで生きようとしている。小さな胸を開かれ、見知らぬ強い光の下で、医師たちに命を預けている。 泣きたい。 叫びたい。 今すぐ扉を開けて、奏音のところへ行きたい。 けれど、その願いさえ、詩乃が母親として不安定である証拠に変えられるかもしれない。 画面の向こうで、瑛子側の弁護士が淡々と口を開いた。「神澤詩乃氏は、これまで鷹宮家が提示した高度医療環境への移行を繰り返し拒否してきました。現在、奏音さんは重大な手術を受けています。このような状況で、母親が冷静かつ適切な医療判断を下せるのか、大きな疑義があります」 詩乃は息を整えた。 隣に旭がいる。少し離れて怜司が立っている。さらに奥、画面に映らない位置に朔弥がいた。彼は会議には参加していない。ただ、そこにいる。詩乃が気づくぎりぎりの距離で、声を出さずに立っている。 弁護士は続けた。「鷹宮家は、手術費、専門医、術後療養先を含め、最高水準の支援を用意していました。それを拒んだ事実は、母親の意地が子の利益に優先された可能性を示すものです」 詩乃は、画面を見た。 声を震わせてはいけない。 奏音のために。 自分のためではなく、奏音のそばにいるために。「私は、治療を拒んでいません」 声は静かに出た。「娘の治療と引き換えに、母親としての権利を手放すことを拒んでいるだけです」 画面の向こうで、担当者の一人がペンを動かした。 瑛子側の弁護士が、わずかに目を細める。「では、鷹宮家の介入を拒むことが、奏音さんの利益になると断言できますか」「娘の命を守るための支援は受けます」 詩乃は言った。「ですが、娘を私から切り離すための支援は受けません」 言い終え
last updateLast Updated : 2026-08-21
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第67話 目覚めるまでの歌

 手術は終わった。 その言葉を聞いた瞬間、詩乃は膝から力が抜けそうになった。けれど、終わったという言葉は、無事にすべてが戻ったという意味ではなかった。 奏音の心臓は動いている。 医師はそう告げた。 ただ、まだ目を覚まさない。 集中治療室の前は、手術室の前とは違う静けさに満ちていた。厚いガラスの向こうに、奏音の小さな身体が横たわっている。白いシーツ。複数の管。人工呼吸器。胸元に貼られた電極。一定の間隔で音を立てるモニターの数字。五歳の子供にはあまりにも多すぎるものが、奏音の周りに並んでいた。 詩乃はガラスに近づき、声もなく娘を見つめた。 約束したのだ。 起きたら、一番に会いに行くと。手術の間も、寝ている間も、ずっと近くで待っていると。離れても、赤いクレヨンの線のようにつながっていると。 それなのに、今もガラスの向こうへ入ることは許されない。 医師は、身体への負担が大きかったため、覚醒まで時間が必要だと説明した。一度、心拍が停止したこと。戻ったとはいえ、体力の消耗が激しいこと。状態を慎重に見ながら、刺激を最小限にしなければならないこと。 詩乃は頷いた。 分かっているつもりだった。 けれど、母親の身体は納得してくれなかった。今すぐ駆け寄って、奏音の手を握りたい。額に触れたい。怖かったね、頑張ったねと耳元で言いたい。けれど詩乃に許されているのは、ガラス越しに見守ることだけだった。 椅子に座ると、ようやく呼吸が浅くなっていることに気づいた。 詩乃は両手を膝の上で握り、目を閉じた。そこに浮かんだのは、母の声だった。 神澤家の古い音楽室。磨かれた木の床。窓から入る午後の光。声楽家だった母が、幼い詩乃の髪を撫でながら歌ってくれた子守歌。父のヴァイオリンが遠くで調弦する音。まだ何も壊れていなかった家の、柔らかな記憶。 詩乃は、小さく歌い始めた。 かすかな声だった。 ガラスの向こうに届くかどうかも分からない。それでも、歌わずにはいられなかった。 奏音を産んだ夜、誰にも祝われなかった病室で、この歌を聞かせた。発作で苦しむ夜も、検査の朝も、薬を嫌がって泣いた日も、何度も歌った。詩乃にできることが何もない時、それでも奏音のそばにいると伝えるために歌った。 怜司は、少し離れた場所でその声を聞いていた。 妻が音楽一家の娘だったことは知っていた。神澤家
last updateLast Updated : 2026-08-22
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第68話 証言台の夫

 奏音の容体が安定したあと、暫定監護と医療判断権に関する審理が再開された。 会場は病院内の会議室だった。手術の直後であることを考慮し、一部はオンラインで接続されている。詩乃は旭の隣に座り、膝の上で両手を重ねていた。奏音は集中治療室で眠っている。心臓は動いている。指も動いた。けれど、まだ完全に目を覚ましたわけではなかった。 それだけで、詩乃の胸はずっと張り詰めている。 それでも、この場から逃げるわけにはいかなかった。 画面の向こうには担当者が並び、瑛子側の弁護士が資料を整えている。瑛子本人も同席していた。背筋を伸ばし、薄い笑みを浮かべる姿は、病院の会議室でさえ鷹宮邸の応接室に変えてしまうような圧を持っていた。 その場で、怜司が自ら証言を申し出た。 瑛子側の弁護士は、最初それを有利な材料だと受け取ったようだった。怜司は奏音の父親であり、詩乃との離婚を拒んでいる。ならば、鷹宮家側に立つはずだと考えるのは自然だった。 だが、怜司は証言台に立つと、最初に深く息を吸った。「まず、私自身の過ちを認めます」 会議室の空気が、わずかに動いた。 怜司は詩乃を見なかった。見れば、言葉が揺れると思ったのかもしれない。ただ、まっすぐ前を向いて続けた。「私は、神澤詩乃を妻として尊重してきませんでした。病院で、彼女の頬を打ったこともあります。七年間、彼女が何を抱え、何を失い、何を守っていたのか、知ろうともしませんでした」 詩乃の指が、膝の上で強く重なった。 頬を打たれた時の熱が、かすかに蘇る。白い廊下。芽衣の泣きそうな顔。怜司の冷たい目。あの時の痛みは、皮膚だけではなかった。 怜司は続けた。「五年前、彼女が妊娠を知らせようとして会社を訪れた可能性も、私は知ろうとしませんでした。当時の秘書室に、私的な連絡は重要案件以外取り次がないようにという空気を作っていたのは私です。結果として、奏音の存在を知らないまま、父親として何もしてきませんでした」 瑛子側の弁護士が、明らかに困惑した顔をした。「鷹宮怜司さん。ご自身が父親として不十分だったと認めるのですか」「はい」 即答だった。 会議室の沈黙が深くなる。「では、父親として不十分だったあなた個人ではなく、鷹宮家へ監護や医療判断を移した方が、奏音さんのためではありませんか」「いいえ」 怜司の返答は、迷いがなかった
last updateLast Updated : 2026-08-22
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第69話 偽証する女

 芽衣が証人として現れた時、会議室の空気がわずかに揺れた。 淡い色のワンピース。薄く伏せられた睫毛。片手は腹部に添えられ、もう片方の手には白いハンカチが握られている。頬は青ざめ、目元には涙の跡があった。守られるべき妊婦。傷つけられた婚約者。夫を奪われた女。どの顔にも見えるように、芽衣は自分を整えていた。 詩乃は旭の隣で、その姿を見つめていた。 奏音はまだ集中治療室にいる。完全に目覚めたわけではない。そんな時に、この女は涙を武器にして、奏音の声まで自分の証言へ組み込もうとしている。 芽衣は震える声で話し始めた。「詩乃さんと朔弥さんは、以前から特別な関係だったと思います。詩乃さんは奏音ちゃんを連れて朔弥さんの部屋へ逃げました。奏音ちゃんも、朔弥さんを父親のように慕っていて……」 ハンカチが目元に添えられる。「私が怜司さんの子を授かったと知って、詩乃さんは嫉妬したんだと思います。だから奏音ちゃんを隠して、怜司さんから遠ざけたんです」 会議室に重い沈黙が落ちた。 瑛子側の弁護士は満足げに資料を整えている。瑛子は背筋を伸ばしたまま、表情を動かさなかった。ただ、芽衣の涙を道具として見る冷たい目だけが、薄く光っていた。 旭が静かに口を開いた。「確認します。白川さんは、奏音さんから直接『朔弥さんのお城』という言葉を聞いたと証言していますね」「はい」「その日時を、もう一度お願いします」 芽衣は用意してきた通りに答えた。 旭はすぐに別の資料を示す。「その日、その時刻、白川さんは別の病院で診察を受けています。受付記録、診療明細、院内カメラの出入り記録もあります。奏音さんとは接触していません」 芽衣の涙が、一瞬だけ止まった。 旭は続けた。「次に、神澤さんと朔弥氏が夜を共にしたとされる日について。こちらが入退室記録です。朔弥氏は同じ建物の別階にある部屋で生活しており、神澤さんと奏音さんが滞在していた部屋へ入った記録はありません。管理用キーも封印されたままです」 朔弥は少し離れた席で、何も言わなかった。 詩乃は、机の上に置かれた記録を見た。あの夜、鍵を渡された時の音が蘇る。自分が怯えない距離を、彼は本当に守っていた。その事実が、今こうして紙の上に残っている。 旭は、さらに音声解析資料を出した。「白川さんが偶然見つけたと主張している奏音さんの音声に
last updateLast Updated : 2026-08-23
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第70話 母親は私です

 暫定判断が出た時、詩乃はしばらく文字を読むことができなかった。 白い紙の上に、整った文章が並んでいる。奏音の生活上の監護者は神澤詩乃とする。日常的な医療判断については、母親である神澤詩乃の意思を最優先とする。詩乃の同意なく、奏音の転院、検体採取、居住地変更を行ってはならない。 瑛子と芽衣については、詩乃または病院側の許可なく奏音へ接触することを禁じる。 怜司には父親として、定期的な情報共有と面会の機会が認められる。ただし、詩乃の監護を妨げてはならない。 完全に終わったわけではない。 離婚はまだ成立していない。最終的な親権の争いも残っている。鷹宮家がこのまま退くはずもなく、瑛子が別の手を用意していることも分かっている。 それでも、今この瞬間、奏音を詩乃から奪うことはできなくなった。 詩乃は決定書を胸に抱いた。 紙一枚が、これほど重いものだと知らなかった。五年間の記録、奏音の泣き声、夜中の発作、薬袋、診療明細、偽造された音声、白百合の脅し、切り取られた言葉。そのすべてが、この紙の裏側に積み重なっている。 旭が静かに言った。「神澤さん。奏音ちゃんが目を開けたそうです」 詩乃は顔を上げた。 次の瞬間には、もう歩き出していた。廊下を急ぐ足がもつれそうになる。消毒液の匂いも、白い照明も、遠くの機械音も、すべてが滲んで見えた。 集中治療室の扉の前で、看護師が詩乃を迎えた。「短時間だけですが、入れます」 詩乃は頷いた。 扉が開く。 奏音は、白いシーツの中で目を開けていた。 まだ顔色は薄く、唇も乾いている。細い腕には点滴がつながり、胸元にはいくつもの管が伸びていた。けれど、その目は確かに詩乃を探していた。「ママ……?」 かすれた声だった。 詩乃はベッド脇へ駆け寄った。「いるよ。ずっといたよ」 涙で声が崩れそうになる。けれど、奏音を不安にさせたくなくて、詩乃は必死に笑った。 奏音の指が、ほんの少し動く。 力の入らない小さな指だった。それでも詩乃の手を探し、触れた瞬間、弱く握った。「手術、終わった?」「終わったよ。奏音、頑張ったね」「ママも、頑張った?」 詩乃の涙がこぼれた。 我慢できなかった。 奏音がまだ母のことを心配している。その優しさが、愛おしくて、苦しくて、胸の奥から溢れた。「うん。奏音と一緒に頑張ったよ」 奏
last updateLast Updated : 2026-08-23
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