怜司が差し出した離婚協議停止の合意書を拒絶した翌朝、詩乃は旭の事務所へ向かった。 病院の朝はまだ白く、奏音の眠る病室には薄い光が差していた。手術を控えた小さな身体は、昨夜よりも少しだけ穏やかに呼吸している。詩乃は出かける前、布団から出ていた奏音の手をそっと戻し、枕元に置かれた犬のマスコットの耳を直した。 こんな時に、病院を離れるべきではない。 誰かはそう言うかもしれない。 けれど、手術が無事に終わったあとも奏音のそばにいられる保証が、今の詩乃にはなかった。手術台へ送り出すことだけが母親の役目ではない。目を覚ました奏音の手を握り、痛みを訴える声を聞き、怖い夜に隣で名前を呼ぶこと。その先を守らなければ、手術の同意書にどれだけ震える手で署名しても意味がない。 瑛子はすでに、奏音の医療判断権と暫定監護を鷹宮側へ移す準備を進めている。怜司は母娘を引き離さないと約束した一方で、父親として共同で医療判断へ介入し、離婚を止めようとしている。 瑛子に奪われても、怜司に囲い込まれても、詩乃と奏音が自由に生きられないことに変わりはなかった。 旭の事務所へ着くと、会議室の机にはすでに資料が並べられていた。 五年間の診療記録。投薬記録。夜間発作のメモ。匿名通報の写し。偽造された音声の解析資料。病院への不審なアクセス記録。詩乃の母の入院先へかけられた圧力の記録。奏音の検体を持ち出そうとした人物の映像。芽衣側から動いた金の流れ。そして、怜司が瑛子の母子分離へ反対した記録。 紙の束は重かった。 それは、詩乃が母親として積み重ねてきた時間であり、同時に、奏音を奪おうとする人々の手つきでもあった。整えられた資料の一枚一枚が、逃げずに見なければならない現実として机の上に置かれている。 旭は詩乃の向かいに座り、静かに言った。「ここから先は、鷹宮家と正面から争うことになります」 詩乃は、膝の上の鞄を開けた。 中から取り出したのは、奏音が描いた小さな絵だった。赤いクレヨンで描かれた、二つの手。大きな手と、小さな手が、一本の線で結ばれている。線は少し曲がっていて、ところどころ強く塗りすぎて紙が凹んでいた。 手術の前、奏音はそれを詩乃へ渡した。 離れても、これでつながってるからね。 その時の声を思い出すだけで、詩乃の喉が詰まる。奏音はまだ五歳だ。大人の争いも、血筋も、医療判断
Last Updated : 2026-08-19 Read more