All Chapters of 結婚七年目冷たい夫を捨てた夜、義弟が迎えに来ました 〜秘密を抱いた契約妻は、もう愛を乞わない〜: Chapter 81 - Chapter 90

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第81話 第一回口頭弁論

 法廷の空気は、病院の白さとは違う冷たさを持っていた。 高い天井。整然と並ぶ椅子。木目の濃い机。紙をめくる音と、誰かが小さく咳をする音だけが、静かに響いている。詩乃は原告席に座り、膝の上で両手を重ねていた。隣には旭がいる。その存在がなければ、背筋を伸ばしていることさえ難しかったかもしれない。 向かい側には怜司がいた。 黒いスーツを隙なく着こなし、表情はいつも通り整っている。けれど、その目の奥にはわずかな硬さがあった。鷹宮邸でも、病院でもなく、法廷で向かい合う夫婦。その事実が、二人の間に積もった七年を静かに照らしていた。 詩乃側は、婚姻関係がすでに回復不能なまでに破綻していると主張した。 継続的な精神的冷遇。妻として尊重されなかった七年間。芽衣との関係。病院で頬を打たれた事実。妊娠を知らせようとした詩乃の声が届かなかった五年前。そして、奏音の存在を知ったあとも、怜司が離婚を拒み、母娘の生活を管理しようとしたこと。 言葉は淡々としていた。 けれど、その一つひとつを聞くたび、詩乃の身体の奥に過去の痛みが戻ってくる。食卓で待ち続けた夜。呼ばれない名前。玄関で外した指輪。白い病院の廊下で響いた頬を打つ音。 怜司側の弁護士は、それに反論した。 夫婦関係には修復の可能性がある。怜司は自らの過ちを認め、父親としても夫としても改善しようとしている。奏音の治療費を負担し、詩乃の監護を妨げないと明言している。暴力についても、単発の行為であり、継続的な身体的暴力ではない。 さらに、詩乃が五年間奏音の存在を怜司へ知らせなかったこと、怜司の弟である朔弥の住居へ身を寄せたことが示された。 その瞬間、詩乃の指先が冷えた。 朔弥の名前が出るたびに、法廷の空気が少し変わる。夫の弟。避難先。婚約解消。記者会見。感情を否定しなかった男。そこに事実と憶測が混ざるだけで、詩乃の母親としての判断まで曇らせようとする意図が見えた。 怜司は、自分の弁護士が詩乃と朔弥の関係を問題にするたび、表情を硬くした。 裁判官が書面へ目を落とし、それから怜司へ視線を向ける。「被告に確認します。被告は、原告と鷹宮朔弥氏の間に不貞関係があったと考えていますか」 法廷が静まった。 怜司は少し黙った。 詩乃は、呼吸を止めるように彼を見た。ここで怜司が疑いを口にすれば、瑛子側はそれを利用する。朔弥との
last updateLast Updated : 2026-08-30
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第82話 産婦人科の映像

 法廷の中央に置かれたモニターへ、産婦人科の監視映像が映し出された。 映像は静かだった。音声はない。白い廊下を行き交う人々の足音も、受付で交わされていたはずの声も、誰かが息を呑む音も聞こえない。ただ、少し粗い画質の中で、人の動きだけが淡々と流れていく。 詩乃は原告席で、膝の上の手を強く握っていた。 画面の中には、あの日の自分がいる。奏音の急変を聞いて病院へ駆けつけ、怜司と芽衣を産婦人科の前で見つけた日の自分。青ざめた顔で立ち尽くし、それでも小児病棟へ向かおうとしていた自分。 白川芽衣が映る。 彼女は怜司の腕に寄り添うように歩いていた。細い肩。守られる女の仕草。けれど次の瞬間、画面の中の芽衣は、自ら詩乃の肩へ身体を寄せるように動いた。ほんの小さな角度だった。けれど、映像は嘘をつかない。 ぶつかったのは、詩乃ではなかった。 芽衣だった。 彼女はよろめいたふりをして、怜司の腕へ倒れ込む。怜司が反射的に支える。詩乃は驚いて一歩下がり、看護師へ何かを訴えるように手を伸ばしていた。 その手は、誰にも取られなかった。 看護師たちは戸惑い、視線を交わし、けれど動かない。患者も、付き添いの家族も、遠巻きに立ち止まっている。誰も詩乃を助けない。誰も、芽衣が自分からぶつかったとは言わない。 そして、怜司が詩乃の頬を打つ。 音はなかった。 それなのに、法廷にいた全員が、その乾いた音を聞いたように静まり返った。怜司の手が振り下ろされ、詩乃の顔が横へ向く。細い身体がよろめく。口元に手を添えたまま、彼女は何かを言おうとしている。だが音のない映像の中で、その言葉は誰にも届かない。 詩乃の指先が震えた。 あの時の熱が、頬に蘇る。痛かったのは皮膚だけではない。妻として見られていないこと、母としての必死さを誰にも信じてもらえないこと、奏音の名を飲み込むしかなかったこと。そのすべてが、白い廊下の光と一緒に胸の奥へ戻ってくる。 怜司は、画面から目を逸らさなかった。 映像の中の自分が詩乃を打つ。芽衣を庇い、詩乃を責め、衆人環視の中で妻の尊厳を折った。その瞬間を、彼は一秒も逃げずに見ていた。 怜司側の弁護士が、慎重に口を開いた。「当時、白川芽衣氏は妊娠初期であり、被告はその安全を案じて動揺していた事情があります。突発的な反応であって、継続的な暴力とは——」「その主張は必
last updateLast Updated : 2026-08-31
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第83話 七年分の妻

 証言台に立った女性は、かつて鷹宮邸で長く働いていた元使用人だった。 名を呼ばれた時、彼女は一度だけ傍聴席の方を見た。そこに瑛子の姿はない。だが、鷹宮家の空気を知る者なら、見えない場所からでも圧が届くことを知っている。彼女は当初、証言を拒んでいた。瑛子側から連絡があったことも、これ以上鷹宮家に関わりたくないと漏らしていたことも、旭は把握していた。 それでも、彼女は来た。 両手で、一冊の古い業務帳を抱えていた。 黒い表紙は擦れ、角は丸くなっている。長く使われたもの特有の柔らかさがあり、ページの端には細かな付箋が挟まれていた。裁判官に促され、彼女は業務帳を提出する。法廷の中で紙をめくる音が、やけにはっきり響いた。「これは、鷹宮邸で勤務していた頃の記録です」 元使用人の声は小さかったが、逃げてはいなかった。「正式な業務報告ではありません。私個人の控えです。使用人へ指示された内容や、日々の注意事項を書き留めていました」 旭がその帳面の該当箇所を示す。 そこには、怜司の生活に関する細かな記録が並んでいた。 朝の胃薬。会食前の食事制限。頭痛がある日の照明を落とす指示。出張前に用意するシャツの種類。雨の日に避ける革靴。深夜に帰宅した時の温かい食事。季節の変わり目に替える寝具。海外出張から戻った翌朝のハーブティー。 そして、そのほとんどの欄に、神澤詩乃の名があった。 奥様より指示。  奥様確認済。  奥様、旦那様の体調不良を察し、夕食変更。  奥様、薬の残数確認。  奥様、寝具を薄手へ変更。  奥様、深夜帰宅に備え粥を準備。 詩乃は原告席で、静かにその文字を見つめていた。 自分が消したはずの記録よりも、さらに細かな七年間が、第三者の帳簿に残っていた。怜司のために整えた朝も、待ち続けた夜も、誰にも見られていないと思っていた小さな気配りも、そこには日付と共に刻まれていた。 元使用人は、ゆっくり顔を上げた。「奥様は、旦那様のことを何でもご存じでした」 その言葉で、法廷の空気がわずかに動いた。「お薬の時間も、お食事の好みも、体調を崩される前の癖も、どの会食の前に胃が痛くなるかも。旦那様が言葉にされなくても、奥様は先に気づいて準備されていました」 怜司は黙って聞いていた。 表情は崩れていない。けれど、指先だけが机の端にかかっている。業務帳の
last updateLast Updated : 2026-09-03
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第84話 消された記録

 旭が鷹宮邸と怜司の会社に残されているはずの記録提出を求めた時、法廷の空気はまた別の冷たさを帯びた。 五年前、詩乃が妊娠を知らせようとして会社を訪ねた日の入館記録。結婚七周年の夜、怜司が病院へ向かった時刻を示す車両記録。詩乃が屋敷を出ようとした際の防犯映像。怜司が詩乃の腕を掴み、寝室へ連れ戻した時間帯の廊下の記録。 それらは、婚姻中の生活実態を示す重要な資料だった。 詩乃が自ら家を壊したのではないこと。逃げようとした時に止められたこと。妊娠を知らせる機会を奪われたこと。怜司の支配が、言葉だけでなく行動として積み重なっていたこと。 しかし、鷹宮側から返ってきた回答は、あまりにも整っていた。 保存期間経過。  機器交換に伴うデータ消失。  システム更新時の上書き。  旧端末廃棄済み。  該当データなし。 詩乃はその一覧を見つめ、指先が冷えていくのを感じた。 偶然にしては、あまりにも偏っていた。 怜司に有利な記録は残っている。鷹宮家に必要な車両ログや会議記録は整っている。けれど詩乃が助けを求めた日、詩乃が怯えた夜、詩乃が逃げようとした瞬間だけが、まるで最初から存在しなかったように消えていた。 瑛子側の弁護士は、静かに言った。「すでに存在しない記録について、推測で論じることは適切ではありません。保存期間を過ぎたデータが消去されるのは通常の運用です」 瑛子は表情を変えない。 まるで、そこに詩乃の七年など最初からなかったと言うように。 旭は反論しようとした。だが、存在しないとされた記録を法廷に出すことはできない。詩乃の言葉だけでは足りない。あの日、確かに自分が怜司に腕を掴まれ、寝室へ戻されたことを、どれほど身体が覚えていても、紙の上には残らない。 その時、傍聴席の後方で椅子が軋んだ。 朔弥が立ち上がった。 彼は旭のもとへ歩み寄り、小さな保存媒体を差し出した。黒い、何の装飾もない媒体だった。表面には暗号化済みを示す短い管理番号だけが記されている。「鷹宮家の内部サーバーに残っていた予備データです」 法廷がざわめいた。 旭はそれを受け取り、目を細める。「どのように入手しましたか」 朔弥は少しだけ笑った。「正規の権限外から」 詩乃の息が止まった。 その一言が意味するものを、彼女にも理解できた。これを証拠として使えば、朔弥自身が不
last updateLast Updated : 2026-09-03
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第85話 婚姻を壊したのは誰

 怜司側が、奏音の存在を五年間知らされなかった事実を提示した時、法廷の空気は静かに重くなった。 妻が夫の子を無断で産み、父親へ知らせず、別の男性の協力を得て戸籍と生活を整えていた。婚姻関係における信頼を壊したのは、怜司だけではない。詩乃にも重大な責任があるのではないか。 怜司側の弁護士は、慎重な口調でそう述べた。 言葉だけを聞けば、整っていた。法廷に並べられる文章としては、十分に形を成していた。けれど詩乃の胸には、その言葉の冷たさが刃のように入ってくる。奏音を産んだ夜の痛みも、熱を測り続けた五年も、病室で細い手を握りしめた時間も、すべてが「無断」という一語に押し込められようとしていた。 旭が隣で資料を整える。 詩乃は膝の上の手を握り、ゆっくり息を吸った。「原告は、奏音さんの存在を被告に知らせなかった事実を認めますか」 問いは静かだった。 詩乃は顔を上げた。「隠した事実は、否定しません」 法廷にわずかなざわめきが生まれる。 怜司の視線が、詩乃へ向いた。責める目ではなかった。けれど、何かを待っている目だった。詩乃が自分を悪者にしない言葉を探すのか、それとも五年の空白を別の誰かのせいにするのか、彼自身も分からないまま待っているように見えた。 詩乃は続けた。「でも、知らせようとしました」 その言葉に、怜司の指がわずかに動いた。「五年前、妊娠が分かった日に、怜司さんの会社へ行きました。会社の前で何時間も待ちました。秘書の方に、取り次いでほしいと何度も頼みました。父親である怜司さんへ、どうしても伝えなければならないと思っていたからです」 声は震えなかった。 震えさせてはいけなかった。 あの日の寒さは、今も身体に残っている。足先が冷えて、立っているだけで腹の奥が引きつるようだった。けれど詩乃は帰れなかった。小さな命が自分の中にいると知ったばかりで、その命の父親へ伝えないまま帰ることが、どうしてもできなかった。 けれど扉は開かなかった。「秘書の方に、こう言われました」 詩乃は、怜司を見た。「若さまが、断りもなく会社に踏み込むなと仰っています」 法廷の空気が止まった。 怜司の顔から、静かに血の気が引く。 詩乃は目を逸らさなかった。「私は、奏音を隠したかったのではありません。伝えることを諦めたんです」 その言葉は、詩乃の胸の奥から
last updateLast Updated : 2026-09-04
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第86話 義弟の証言台

 朔弥が証言台へ立った時、法廷の空気は一段冷えた。 黒いスーツに身を包み、いつもの軽薄な笑みを消した彼は、鷹宮家の次男というより、何かを差し出す覚悟を決めた男に見えた。詩乃は原告席から、その横顔を見つめていた。彼が何を話すのか、すべては知らない。神澤家の過去についても、まだ語られていない部分が残っている。 それでも今日問われるのは、詩乃と朔弥の関係だった。 怜司側、あるいは瑛子側が最も汚しやすい場所。夫の弟。避難先。鍵。記者会見で否定しなかった感情。その断片だけを並べれば、詩乃は簡単に不貞の妻へ仕立てられる。 瑛子側の弁護士が立ち上がった。「鷹宮朔弥さん。あなたは神澤詩乃さんと肉体関係を持ちましたか」 最初から、容赦のない問いだった。 法廷の視線が一斉に朔弥へ向かう。 朔弥は瞬きもせずに答えた。「ありません」「怜司氏との婚姻が継続している間に、恋愛関係となった事実はありますか」「ありません」「では、なぜ神澤さんと奏音さんを自宅へ住まわせたのですか」「鷹宮家からの接触を避けるためです。病院も、神澤さんの母親の入院先も監視されていました。安全な場所が必要でした」 弁護士は資料をめくる。「あなたの自宅であることに変わりはありませんね」「はい。ただし、居住区画は分けています。神澤さんと奏音ちゃんが使った部屋と、僕が滞在した部屋は別階です。入退室記録、防犯記録、警備員の勤務表は提出済みです」 旭が静かに頷く。 朔弥は続けた。「鍵は神澤さんへ渡しました。僕は彼女の同意なく部屋へ入りませんでした。奏音ちゃんに触れる時も、必ず神澤さんの許可を求めています」 詩乃は膝の上で指を握った。 それは事実だった。靴紐ひとつ結ぶにも、朔弥は許可を求めた。倒れかけた詩乃を支えた夜でさえ、背中へ手を回さず、離れられる余地を残して立っていた。 だが、朔弥はそこで終わらなかった。「ただし、僕に最初から純粋な善意だけがあったわけではありません」 法廷がざわめいた。 詩乃も顔を上げる。 朔弥はまっすぐ前を向いていた。「最初は、兄さんを傷つけるために義姉さんへ近づきました」 怜司の目が鋭くなる。 朔弥はその視線を避けなかった。「兄さんが失ってから苦しむものを、先に見つけたかった。兄さんが当然のように見過ごしていた妻と、その娘が、どれほど大切なもの
last updateLast Updated : 2026-09-05
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第87話 証人・白川芽衣

 白川芽衣が証人として法廷へ入ってきた時、空気がまた一段、薄く冷えた。 淡い色のワンピースに、柔らかなカーディガン。腹部へ添えられた手。伏せられた睫毛と、わずかに潤んだ瞳。守られるべき妊婦としての姿は、今日も崩れていなかった。 けれど詩乃は、もうその涙だけを見て怯えることはなかった。 芽衣は証言台に立ち、かすかに震える声で語り始めた。「怜司さんとは、長い間、心が通じ合っていました」 その言葉に、法廷の空気がわずかに動く。「私は怜司さんの子を妊娠しています。怜司さんも、私とお腹の子を大切にしてくれると言ってくれました。詩乃さんとの関係が終わったら、私と家庭を作るものだと思っていました」 詩乃は膝の上で手を握った。 芽衣側から提出されたメッセージには、怜司の言葉が並んでいた。体調を気遣う短い文章。迷惑ではないと答えた記録。夜中でも何かあれば駆けつけるという約束。具合が悪いなら無理をするな、心配している、すぐ行く。そんな言葉の数々が、画面の写しとして法廷へ置かれている。 詩乃は、それを静かに見つめていた。 かつて自分には向けられなかった言葉だった。 妊娠を知らせようと会社の前で待った夜、自分には扉さえ開かなかった。奏音を宿した身体で立ち尽くした詩乃には届かなかった言葉が、芽衣には夜中でも届いていた。 胸が痛まないわけではない。 けれど、その痛みはもう、詩乃を折るものではなかった。 怜司は、メッセージが本物であることを認めた。「私が送ったものです」 その声は低く、逃げがなかった。 芽衣はその答えに、ほんの少しだけ安堵したように見えた。だが、続く言葉で表情が固まる。「ただし、白川芽衣と結婚を約束した事実はありません」 芽衣の指先が、腹部の前で強張った。 旭の反対尋問が始まる。 声は穏やかだった。だが、問われる内容はひとつひとつ芽衣の足場を削っていった。「白川さん。妊娠が判明したとされる日付について確認します」 芽衣は小さく頷いた。 旭は診療記録、滞在記録、怜司との接触日時を順に並べる。ここで胎児の父親が誰かを断定するわけではない。だが、芽衣の語る時期と、記録上の怜司の行動にはいくつか不自然な空白があった。「この期間、怜司氏は海外出張中です。帰国後にお二人が会った記録はありますが、白川さんの主張する妊娠週数との整合性について、
last updateLast Updated : 2026-09-06
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第88話 夫が認めた暴力

 怜司が証言台へ立った時、法廷の空気は静かに硬くなった。 鷹宮怜司という男は、これまで裁かれる側に立つことの少ない人間だった。会議室では決定する側にいた。屋敷では命じる側にいた。病院では名前だけで周囲を黙らせる側にいた。その彼が、今は証言台の前に立ち、裁判官の問いを待っている。 詩乃は原告席から、その姿を見ていた。 背筋は伸びている。黒いスーツにも乱れはない。けれど、以前のように何も揺らがない男には見えなかった。頬を打った映像を見た日から、怜司の中の何かは確かに変わっている。だが、その変化が詩乃を自由にするものなのか、別の形で縛るものなのかは、まだ分からなかった。 旭が立ち上がり、静かに尋ねた。「被告は、原告の頬を打ったことを認めますか」 怜司は、即座に答えた。「認めます」 法廷の中に、紙をめくる音が小さく響いた。「原告が鷹宮邸を出ようとした際、腕を掴み、屋敷内へ連れ戻したことは」「認めます」「当時、原告が拒絶していたことを認識していましたか」 怜司の喉が、わずかに動く。「当時は、家を出ようとする妻を止めているだけだと思っていました」 詩乃の指先が冷たくなる。 あの夜の手首の痛みが蘇る。引き戻される足音。寝室の扉。触らないでくださいと初めて拒んだ声。怜司にとっては妻を止めた行為でも、詩乃にとっては逃げ道を塞がれた夜だった。 怜司は続けた。「ですが、映像を見て分かりました。彼女は怯えていました。私は、それを見ていませんでした」 旭は視線を落とさず、次の問いへ移った。「婚姻期間中、原告の意思よりも、鷹宮家の体面を優先していましたか」「はい」「五年前、原告が妊娠を知らせようとして会社へ来た可能性について、あなたは知ろうとしましたか」「いいえ」 低い声だった。「私は、彼女の連絡を重要なものとして扱っていませんでした。結果として、奏音の存在を五年間知りませんでした」 瑛子側の弁護士が立ち上がった。「被告は、鷹宮財閥の後継者として育てられ、感情より家の秩序を優先する環境にありました。また、瑛子氏の教育方針も大きく影響しており——」「その主張は不要です」 怜司が遮った。 弁護士が言葉を止める。 怜司は、前を向いたまま言った。「行ったのは私です」 法廷が静まった。「母の影響があったとしても、詩乃を打ったのは私です。
last updateLast Updated : 2026-09-09
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第89話 離婚しない理由

 非公開の和解協議は、裁判所の小さな部屋で行われた。 法廷ほど広くはない。けれど、その狭さがかえって息苦しかった。白い壁、長机、低い空調音。机の上には、双方の書面と、裁判所側が用意した和解案の骨子が並べられている。詩乃は旭の隣に座り、向かいにいる怜司を見ないように、手元の書類へ視線を落としていた。 怜司は、新しい条件を提示した。 詩乃と同居しなくてもいい。  夫婦としての接触も求めない。  生活費も、奏音の治療費も、詩乃の母の入院費も怜司が負担する。  奏音の親権と監護は、詩乃を中心とする形で異議を唱えない。 ただし、法的な婚姻関係だけは残す。 詩乃は、しばらくその書面を見つめていた。 以前のような檻ではない。少なくとも表面上は、怜司は詩乃の生活に踏み込まないと言っている。奏音の親権を奪わないとも言っている。母の入院費まで負担すると書かれている。 けれど、その中心には変わらず一本の鎖が残っていた。 妻であり続けること。「なぜ、そこまでして籍だけを残したいんですか」 詩乃は顔を上げた。 怜司はすぐには答えなかった。 和解委員が静かに二人を見守っている。旭も口を挟まない。これは法的な条件である前に、詩乃が聞かなければならない問いだった。「私が妻ではなくなったら、何が変わるんですか」 怜司の指が、机の上でわずかに動いた。 長い沈黙のあと、彼は低く口を開いた。「お前が妻でなくなれば、俺はもう、お前にとって何者でもなくなる」 詩乃の胸が、小さく痛んだ。「奏音の父親です」「それだけでは足りない」 その答えは、あまりにも正直だった。 詩乃は息を呑む。今の怜司は、以前のように無関心ではない。奏音の薬を覚え、面会時間を守り、詩乃の入室が必要な時には病院側へ記録を残させた。自分の過ちを法廷で認め、鷹宮家に不利な証拠も出した。 だからこそ、苦しかった。 無関心なままの男なら、ただ憎めた。けれど目の前の怜司は、遅すぎる後悔を抱え、父親になろうとしながら、それでも詩乃を手放そうとしない。「私を愛しているのではなく、失うことが怖いだけです」 怜司は否定できなかった。 否定してほしかったわけではない。けれど、沈黙はいつも真実の近くにある。詩乃はその沈黙を聞きながら、七年間の自分を思い出した。名前を呼ばれるのを待ち、帰らない夫のために食事
last updateLast Updated : 2026-09-10
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第90話 母の診断書

 瑛子側から新たな資料が提出された時、詩乃は最初、その表紙に書かれた病院名を見ただけで息が止まった。 母の入院先だった。 法廷の空気が、急に遠くなる。旭が隣で資料を受け取り、すぐに目を走らせた。その表情が険しくなるのを見て、詩乃の指先は冷たくなった。 そこにあったのは、神澤澄香の診療記録だった。 父の死後、心中を図ったこと。長期にわたり意識障害と精神的な治療を受けていること。病床で意思表示が難しい状態が続いていること。そして、家族歴を踏まえれば、詩乃にも精神的な不安定さがある可能性を否定できない、という趣旨の意見書。 さらに、詩乃が奏音を出産した後に抑うつ状態にあったとする、出所不明の記録まで添えられていた。 詩乃は、資料の文字を見つめた。 母は何も悪くない。 父を失い、家を壊され、病の中で長く眠り続けている人だ。法廷で晒されるために生き延びてきたわけではない。声を出せない母の傷まで、詩乃を母親失格にするための材料として並べられている。 怒りより先に、身体が震えた。 あの白百合の花束を見た時と同じだった。美しい脅し。上品な手つきで、人の一番柔らかい場所へ刃を入れるやり方。瑛子は、奏音だけでなく、母の病室までもう一度法廷へ引きずり出したのだ。 瑛子側の弁護士は淡々と述べた。「原告の母親には長期にわたる精神的・身体的な治療歴があります。原告自身も出産後に抑うつ状態にあったとされる記録があり、未成年者の監護において情緒的安定性を慎重に確認すべきです」 その言葉の冷たさに、詩乃は唇を噛んだ。 出産後。 奏音を産んだ夜、詩乃は一人だった。父親へ知らせる道は閉ざされ、母は病床にいて、鷹宮家に頼ることもできなかった。泣きながら赤ん坊を抱いた。怖かった。眠れなかった。小さな呼吸が止まらないか、何度も胸に手を当てた。 それを、抑うつ状態という記録にして、今度は母親としての不適格を疑う材料にするのか。 詩乃の視界が滲みかけた時、向かい側で怜司の弁護士が資料へ目を落としていた。 弁護士は慎重に怜司へ顔を寄せる。「怜司様。こちらは離婚を拒むうえで、原告の精神的安定性に疑義を示す資料として利用できます。少なくとも親権や監護の争点と絡めれば——」 怜司は、書類を閉じた。「使用しない」 その声は低く、はっきりしていた。 法廷の空気が変わる。 瑛子
last updateLast Updated : 2026-09-12
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