法廷の空気は、病院の白さとは違う冷たさを持っていた。 高い天井。整然と並ぶ椅子。木目の濃い机。紙をめくる音と、誰かが小さく咳をする音だけが、静かに響いている。詩乃は原告席に座り、膝の上で両手を重ねていた。隣には旭がいる。その存在がなければ、背筋を伸ばしていることさえ難しかったかもしれない。 向かい側には怜司がいた。 黒いスーツを隙なく着こなし、表情はいつも通り整っている。けれど、その目の奥にはわずかな硬さがあった。鷹宮邸でも、病院でもなく、法廷で向かい合う夫婦。その事実が、二人の間に積もった七年を静かに照らしていた。 詩乃側は、婚姻関係がすでに回復不能なまでに破綻していると主張した。 継続的な精神的冷遇。妻として尊重されなかった七年間。芽衣との関係。病院で頬を打たれた事実。妊娠を知らせようとした詩乃の声が届かなかった五年前。そして、奏音の存在を知ったあとも、怜司が離婚を拒み、母娘の生活を管理しようとしたこと。 言葉は淡々としていた。 けれど、その一つひとつを聞くたび、詩乃の身体の奥に過去の痛みが戻ってくる。食卓で待ち続けた夜。呼ばれない名前。玄関で外した指輪。白い病院の廊下で響いた頬を打つ音。 怜司側の弁護士は、それに反論した。 夫婦関係には修復の可能性がある。怜司は自らの過ちを認め、父親としても夫としても改善しようとしている。奏音の治療費を負担し、詩乃の監護を妨げないと明言している。暴力についても、単発の行為であり、継続的な身体的暴力ではない。 さらに、詩乃が五年間奏音の存在を怜司へ知らせなかったこと、怜司の弟である朔弥の住居へ身を寄せたことが示された。 その瞬間、詩乃の指先が冷えた。 朔弥の名前が出るたびに、法廷の空気が少し変わる。夫の弟。避難先。婚約解消。記者会見。感情を否定しなかった男。そこに事実と憶測が混ざるだけで、詩乃の母親としての判断まで曇らせようとする意図が見えた。 怜司は、自分の弁護士が詩乃と朔弥の関係を問題にするたび、表情を硬くした。 裁判官が書面へ目を落とし、それから怜司へ視線を向ける。「被告に確認します。被告は、原告と鷹宮朔弥氏の間に不貞関係があったと考えていますか」 法廷が静まった。 怜司は少し黙った。 詩乃は、呼吸を止めるように彼を見た。ここで怜司が疑いを口にすれば、瑛子側はそれを利用する。朔弥との
Last Updated : 2026-08-30 Read more