All Chapters of 愛される人生、やっと選んだ: Chapter 1 - Chapter 10

12 Chapters

第1話

「お前が隠し子なら、この子は何なんだ?」荒木和也(あらき かずや) は私の手にある妊娠検査報告書を見ながら、突然そう尋ねてきた。私、神代琴葉(かみしろ ことは)は一瞬戸惑い、彼を見つめ返した。「和也、どういう意味?」「つまりこの子も隠し子だってことだよ、琴葉」私がまだ反応するまえに、彼は続けた。「これからは、俺の秘密の愛人として生きていけ。もうすぐお前の姉さんと結婚するんだ。彼女こそ神代家の正真正銘のお嬢様で、俺にお似合いだからな」「……じゃ、私とこの子は何なの?」彼は片眉を上げ、からかうような笑みを浮かべた。「お前が隠し子だってんなら、こいつも同じだろ?」パァン――!私は怒りで全身が震え、手を振り上げて彼の頬を思いきり叩いた。「よくもそんなこと言えたわね?」隠し子という身分は、私にとって一番触れられたくない傷だった。いつかそれを、私が最も信じていた人に、無残に抉られる日が来るなんて思ってもいなかった。でも――それは、現実になった。和也は頬に手を当て、冷めた目で私を見た。「なんだ、なにが悪い?それとも、本気で荒木家の嫁になれるとでも思ってたのか?」その言葉はあまりにも酷かった。一言一言が、ガラスの破片のように胸に突き刺さった。まるで、彼は最初から私を愛してなどいなかったかのようだ。涙を必死にこらえながら、私は掠れた声で叫んだ。「じゃあ、今までの私たちは何だったの!?」「それがなんだ?」彼は眉をひそめた。彼のその言い方は、私がただ駄々をこねているだけだと言わんばかりだった。その瞬間、堪えていた涙が溢れ出した。「なんでそんなに大したことじゃないみたいに言えるの!?私みたいに、生まれた瞬間から隠し子だって白い目で見られる人生を、私の子供に経験させたりしないわ!」私は自分の出自を選べなかった。だからこそ、せめて自分の子どもにはこんな思いをさせたくない。絶対に。「チッ」彼は軽く舌打ちして、冷たく言い放った。「じゃあ、堕ろせばいい」それはあまりにも軽い口調だった。そこには未練など少しも感じられない。私がまだ固まっている間に、彼は続けた。「金はやるから。子供は堕ろせ」私は息を呑み、その言葉が信じられず彼を見つめた。和也は口
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第2話

私は体をひねって、和也の手をかわした。だが彼は気にする様子もなく、むしろ強引に私の肩を抱き寄せた。「信じろ。俺のそばにいればいい。悪いようにはしないし、苦労もさせない」少し間を置き、彼は腕時計に視線を落とした。「市内のジュエリーショップに新作のダイヤの指輪が入ったらしい。一番でかいやつを選んで、お前の姉さんにプロポーズするつもりだ」彼は、私の姉にプロポーズするために、指輪を買いに行くという。その前に、私は彼の「秘密の愛人」として扱われる。突然、強烈な吐き気が喉の奥からこみ上げた。胃の中がひっくり返るように荒れ狂った。だが和也は、そんな私に構う暇もなかった。「俺は行く、お前は自分でタクシーでも呼んで帰れ。ここで厄介を起こすなよ」そう言い残すと、彼の車はあっという間に走り去った。私は一人、街角に取り残された。手にはしわくちゃの妊娠検査報告書を握りしめたまま。……夕暮れになっても、彼の言葉が頭の中にこびりついていた。――お前に価値があるのは、俺のそばにいる時だけだ。そうなのだろうか。私は目を伏せた。誰が決めたというのか、彼のそばにいる時だけ価値があるなどと。数日前、指導教授から海外共同研究への同行を誘われていた。ただ妊娠が分かったばかりで、断っていた。しかし今となっては、もう迷いは一切なかった。私は勢いよくスマホを取り出し、指先で素早くメッセージを打った。【先生、考え直しました。その研究、ぜひ参加させてください】すると指導教授からは、ほとんど即返信が来た。【よかった。明日出発だ。こちらで手配しておく】その瞬間、張り詰めていた神経がようやく少しだけ緩んだ。それでも、まだ平らなままの腹に手を当てると、胸の奥が鈍く痛んだ。明日から、荒木和也――あなたには、もう二度と会うことはない。タクシーに乗り込み、窓を開けると冷たい風が一気に吹き込んできた。思わず体が縮こまる。私の実の母はキャバクラ嬢で、父に近づくため、ある手を使って父のベットに潜り込んだらしい。もともとは金を巻き上げるだけのつもりだったが、よりによって一度で私を身ごもってしまったのだ。父は中絶費用を渡し、堕ろすよう命じたが、母は表向きは承諾しながら、すぐに海外へ逃げ、そして私を産んだ。後になって親
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第3話

周りは野次馬の同級生で埋め尽くされ、嘲るような噂話があちこちから聞こえていた。私は俯いたままその場を離れようとした、その時。ほのかな石けんの香りがする黒い制服の上着が、突然肩にかけられた。顔を上げると、不意に優しい眼差しとぶつかった。彼は背が高く、私の前に立つだけで、周囲の視線をすべて遮ってしまうほどだった。「騒ぎ足りねえなら、俺にでもかけろ」和也は声を張り上げるわけでもないのに、逆らえないほどの迫力があった。晴はそれを見て表情を変えたが、結局悔しそうに仲間を連れて去っていった。周りで見物していた生徒たちも徐々に散っていった。私は上着を脱いで彼に返した。「ありがとう」その頃の私は、もうとっくに麻痺していた。私のような存在は、誰かの好意を受け取る資格なんてないと信じていた。けれど和也は受け取らず、ただ目を伏せて言った。「着てろ。風邪ひくから」彼はそう言うと、私が拒む前に教室へ戻っていった。その日から、彼は明らかに私へ近づいてくるようになった。一人で食堂の隅に座っていれば、彼はトレーを持って私の向かいに座る。クラスメートに意図的に避けられていれば、いつも絶妙なタイミングで助けに来る。放課後、一人で帰る私の後ろを、彼はしばらく黙ってついてくることもあった。私は「世界に捨てられること」に慣れていた。すべての苦しみを一人で抱えることにも慣れていた。こんなふうに、ずっと自分のそばにいてくれる誰かには、出会ったことがなかった。長い冷たさと孤独は、彼の積み重ねる優しさの中で少しずつ崩れていった。ある放課後、彼はまた私の後ろを歩いていた。私は初めて足を止めて振り返った。目は涙で滲んでいた。彼はすぐに歩み寄り、その濡れた瞳を見て静かに尋ねた。「どうして、いつも自分を隠すんだ?」私は何も答えられなかった。ただ、心の中の分厚い壁が、彼の優しさと執着にゆっくりと溶かされていくのを感じていた。……タクシーは車の流れの中を走り抜けていく。窓の外の冷たい風が頬を刺した。流れていく街並みを見ながら、どう考えても分からなかった。かつて、少しずつ私の人生を温めてくれた和也が、どうして突然変わってしまったのか。今の彼は、どうして私をもっと深い闇へ突き落とそうとするのか。答えが
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第4話

「この期に及んで、まだ嘘をつくつもりか!」父は大股で私の前まで歩み寄り、その眼差しは凍りつくほど冷たかった。「まだ言い逃れするつもりか!お前以外に、誰がそこまでしてこんなことを仕組むと言うんだ?写真を神代家に送りつければ、昔みたいに揉み消すために、お前をあの家へ嫁がせるとでも思ったのか!お前はあの欲深い母親とそっくりだ。こんな卑劣な手段で人を陥れることしか考えられない」私は勢いよく顔を上げ、信じられない思いで見つめた。「写真なんて送ってない!本当に私じゃない!」和也が「この子は隠し子」と口にしたあの瞬間から、私はもう、この子を産むつもりなんてなかった。その時、リビングのドアが開き、和也が入ってきた。床一面に散らばる写真を目にした途端、彼の動きが一瞬とまった。晴はすぐに彼の胸へ飛び込み、涙をぼろぼろこぼしながら言った。「和也さん、やっと来てくれた……見てよ。この女、あなたの子どもを妊娠しただけじゃなく、わざと写真を家に送りつけて、結婚を迫ろうとしてるの!」その場にいた全員の視線が、一斉に和也へ向けられた。私は最後の望みにすがるように彼を見つめて言った。「違う……私じゃない。そんなこと、絶対にしないから」彼は答えなかった。ただ静かに身をかがめ、一枚の写真を拾い上げた。そして顔を上げると、氷のような冷たい視線を私へ向けた。その目は、私の腫れ上がった額も、血がにじむ腕も一瞬だけ映したあと、何の感情もなく離れていった。そして彼の唇がゆっくりと開いた。「お前、まさかここまで計算高い女だったとは思わなかった」彼は……私を信じなかった。分かりきっていた結末なのに、それでも胸は鋭く痛んだ。今の彼は、記憶の中で太陽みたいに笑っていたあの少年とは、もう何ひとつ重ならない。きっと彼の中で、私は最初から信じる価値のない人間だったのだ。その時、窓の外で突然、風が激しく吹き荒れた。ほどなくして、大粒の雨が窓ガラスを激しく叩き始め、バチバチと耳障りな音を立てる。父は激しい雨を指差し、怒鳴りつけた。「こんな恥知らずなお前には、この家にいる資格はない!外で跪いて反省しろ!私が許すまで絶対に立つな!」言い終わるより早く、晴が突然私の髪をつかみ、無理やり外へ引きずろうとした。容赦なく
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第5話

「和也さん、信じて。私、本当にわざとじゃないの。あなたに約束したでしょう?彼女を受け入れるって。でも、彼女があんな写真を神代家に送りつけてきて、妊娠検査の報告書まで見せつけて私を挑発してきたの。だから……感情を抑えられなかっただけ」全部、でたらめだった。少し調べれば嘘だと分かる話なのに。でも、和也は調べようともしない。彼は低い声で、ただ一言だけ告げた。「分かってる」私は病室のベッドに横たわったまま、シーツを強く握りしめた。大丈夫、子どもはもういない。これで私は自由になれる。そう何度も自分に言い聞かせた。けれど、晴は私を逃がすつもりなんて最初からなかった。彼女は和也の腕を揺らしながら、甘えるように言った。「和也さん、このままだと彼女、きっとまた別の手を使ってあなたに付きまとうよ。私、本当に怖いの」少し間を置いて、意味ありげに続けた。「……あの人の母親みたいにね」その言葉を聞いた瞬間、和也の表情が引き締まった。晴はタイミングが来たと見て、唇を噛みしめながら口を開いた。「和也さん、琴葉に避妊手術でも受けさせよう?そうすれば、もう子どもを利用してあなたを縛れなくなる」「ふざけないで!」私は無理やり上半身を起こして叫んだ。その反応に晴の表情が冷え切った。「ほら、全然反省してない。和也さん、絶対に情けなんてかけちゃダメよ」和也は私をじっと見つめた。そして彼は固く握っていた拳をゆっくりほどき、静かに言った。「お前の言う通りにしよう」その一言に、晴は勝ち誇った顔をしてみせた。彼女はすぐ病室の外へ向かって叫んだ。「入って!」ドアが勢いよく開き、大柄なボディガードが二人、病室へ入ってきた。そして、まっすぐ私のベッドへ歩み寄った。「押さえて。鎮静剤を打って。大人しくなったら、そのまま手術を始めて」命令が下ると同時に、二人は左右から私の肩と腕を力任せに押さえつけた。私は必死にもがいた。だが、流産したばかりで衰え切った体では抵抗できるはずもなく、あっという間にベッドへ押さえ込まれてしまった。「離して!離してよ!」私は叫びながら、和也だけをじっと見つめた。けれど彼は、ほんの少し眉をひそめただけで、静かに顔を背けた。やがて医師が注射器を手に病室へ入っ
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第6話

背後から、和也が声を張り上げた。「琴葉、戻ってこい!」しかし、あと一歩というところで、間に合わなかった。ハッチが閉まるその瞬間まで、和也の叫びは響き続けていた。「琴葉!戻ってこい!」和也はヘリコプターへ向かって狂ったように駆け出した。あと少しで、その指先はヘリコプターのスキッド部分に届きそうだった。だが、ヘリコプターはすでに離陸していた。そこへ晴が追いつき、慌てて和也の腕をつかんだ。「和也さん、もう放っておいて……!琴葉が行くというなら、そのまま行かせてあげましょ……」しかし、和也は晴の手を乱暴に振り払った。その目は、空へと小さくなっていく黒い機体だけを、ひたすら見つめていた。黒いヘリコプターは低く垂れ込めた雨雲を突き抜け、そのまま夜の闇へと消えていた。和也は冷たい屋上のコンクリートに膝をついた。全身は雨に打たれ、びしょ濡れだった。残されたのは荒い息遣いだけ。そして最後に、自分にしか聞こえないほど小さな声で呟いた。「本当に……俺が、もう要らないのか……?」答える者は、誰もいなかった。――琴葉がヘリコプターへ乗り込んだとき、その身体は震え続けていた。毛布をさらに身体へ巻きつけ、窓の外の夜空へ視線を向けた。いつの間にか豪雨は止み、厚い雲が裂け、その隙間から小さな星空が顔をのぞかせていた。ふと、琴葉は何年も前のことを思い出した。高校二年生の、あの晩秋の夕暮れ。和也が初めて自分の前に現れた日のことを。あの日、和也はまるで壁のように琴葉の前へ立ち、彼女へ向けられたすべての悪意を受け止めてくれた。あの頃の琴葉は、和也は、自分を救いに来てくれた人なのだと本気で思っていた。しかし、今なら分かる。和也は、自分を救いに来たわけではなかった。ただ教えてくれたのだ。この世に救世主など存在しない。自分を救えるのは、いつだって自分自身だけなのだと。ヘリコプターが着陸した頃には、すでに午前三時になっていた。琴葉は病院へ搬送され、傷の処置を受け、全身検査を行い、栄養点滴も受けた。医師は、琴葉には流産後の感染症を起こす危険があるため、少なくとも二週間は絶対安静が必要だと告げた。その頃――和也はその場に立ち尽くしたままだった。東の空が白み始めるほど長い
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第7話

琴葉はアパートを隅々まできれいに片づけ、窓辺にはいくつかの観葉植物を飾り、キッチンには鍋や食器を一通り揃えた。国内にいた頃、一度だって「自分だけの居場所」を作ったこともなかった。神代家は自分の家ではなく、和也のマンションもまた、自分の居場所ではなかった。ここは、生まれて初めて手に入れた、自分だけの空間。もう誰かの気まぐれで追い出されることのない場所だった。彼女は少しずつ、この生活に慣れていった。毎朝七時に起き、研究所で午後六時まで働く。忙しい日は、そのまま深夜まで残業することもある。指導教授の伊藤幸治(いとう こうじ)は彼女をとても気にかけてくれて、よく同僚たちも誘って自宅で食事をごちそうしてくれた。そんな日々は、一日、また一日と穏やかに過ぎていく。まるで近くの麓に広がる湖のように、静かで、何一つ波風が立たなかった。その後の二か月間、和也は狂ったように彼女の行方を探し続けた。準備が進んでいた結婚式も、結局は中止になった。ついに晴は堪えきれず、目を真っ赤に腫らして和也のオフィスへ押しかけた。「和也さん……あなた、本当にあの女を愛してしまったの?」和也は椅子の背にもたれたまま、無表情で彼女を見つめた。「俺のことだ。お前には関係ない」「関係ないですって?」晴は冷たく笑い、涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。「あの女はあなたの子供を身ごもっていた。今は逃げ出して、あなたは世界中を探し回ってる。それで関係ないなんて言えるの?」和也は何も答えなかった。彼は机の上のコーヒーカップを手に取り、一口飲むと、視線を窓の外へ向けた。晴は背筋を伸ばし、二歩ほど後ずさった。笑い声には、泣き声が混じっていた。「やっぱりね……あなた、あの女を見るたびに、目つきが違ってたもの」和也の指先がわずかに強張る。それでも、その表情は微塵も変わらなかった。「晴」ようやく口を開いた時の声は、ひどく低かった。「自分を何様だと思っている?」晴はその場で凍りついた。和也は立ち上がると、彼女の前まで来て足を止めた。高い位置から見下ろすその瞳は、まるで見知らぬ他人を見るようだった。いや、他人以上に冷たかった。「お前とは結婚してやってもいい。それは荒木家に神代家の人脈が必要だからだ。それだけの話
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第8話

琴葉は承諾した。A市へ向かうその日は、よく晴れていた。機内で、琴葉の隣に座ったのは若い男だった。二十七、八歳くらいだろうか、背が高い。深いグレーのトレンチコートを着ていて、端正な顔立ちをしている。笑うと目がやわらかく細まり、どこか安心感のある雰囲気だった。彼は琴葉の顔を見て、微笑んだ。「あなたもA国人ですか?」琴葉はうなずいた。「奇遇ですね。僕もです」男は手を差し出した。「自己紹介を。僕は平川海斗(ひらかわ かいと)、建築家です」琴葉は少し迷ってから、その手を握り返した。「神代琴葉です。生物医学の研究をしています。出張でA市へ」海斗は雑誌を一冊差し出した。「読みますか?三時間は退屈だと思いますが」琴葉は受け取り、数ページめくった。そのとき、ある記事が目に入ってきた。【C市・荒木グループが債務危機、後継者・荒木和也は追及の可能性】指先がわずかに止まった。記事には、荒木グループが資金繰りに行き詰まり、多くのプロジェクトが停止していること、そして和也が責任者として当局の事情聴取を受けていることが書かれていた。読み終えても、琴葉の表情は変わらなかった。雑誌を閉じ、座席ポケットに戻した。それに気づいた海斗が横目で彼女を一瞥した。何か尋ねようとしたようだったが、結局ただ微笑んだだけだった。「その雑誌、あんまり面白くなかったですね。僕、他に小説持ってますけど、読みます?」彼が取り出したのは、F国語原書の『異人』だった。そこから二人はその本の話をし、機体が着陸するまでずっと会話が続いた。そして彼女は、海斗のことを少し知った。彼は確かに建築家だった。それも業界では名の知られた存在で、国際的な賞もいくつか受賞しているらしい。A市での三日間、海斗は彼女をいろいろな場所へ連れて行った。初日は美術館へ。琴葉はふと、目の奥が熱くなるのを感じた。感動のせいではない。ただ、「世界はこんなにも広いのか」という、説明できない感覚だった。彼女はずっと神代家という小さな世界に閉じ込められていた。その後は荒木和也という世界に閉じ込められた。ここに来るまで、自分がこのガラスのピラミッドから差し込む光の中で、五百年前の絵画を見上げることができるとは考えたこともなかった。海斗は彼女の背後で静かに
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第9話

彼女はしばらく沈黙したあと、ぽつりと言った。「……あまり、そうではなかったです」海斗はそれ以上は聞かなかった。ただ小さく頷き、言った。「じゃあ、今は?」琴葉は川面にきらめく光の揺らぎを見つめながら、少し考えてから答えた。「まだ、幸せになっている途中です」海斗はふっと笑い、コーヒーカップを持ち上げると、そっと彼女のカップに軽く触れさせた。「それなら、ずっと良くなっていく途中でありますように」半年後。琴葉のもとに一通の知らせが届いた。晴が会いたいと言ってきたのだ。琴葉は、それを受け入れた。晴は以前よりずっと痩せていた。顔には丁寧に化粧が施されていたが、目の下の疲れとくすみは隠しきれていなかった。「あなた、変わったわね」と晴が言った。琴葉は彼女を見たまま、何も言わなかった。晴は続けた。その声は小さく、まるで独り言のようだった。「昔のあなたは、いつも俯いていて……まるで、いつでも踏み潰されそうな蟻みたいだった。でも今は違う。背筋を伸ばしてここに座ってる。そんなあなた、見たことがない」琴葉はお茶を一口飲んだ。「人は変わるものよ」「そうね」と晴はため息をついた。「変わる人もいれば、変わらない人もいる」少し間を置いてから、彼女は言った。「彼が今どうしてるか、知りたくない?」「別に」晴は一瞬固まったが、すぐに苦笑した。「聞かなくても、言うわ。荒木グループはもう終わりよ。警察の調査が入り、多くの問題が発覚した。粉飾決算、インサイダー取引、贈収賄……どれも彼に関係しているの。彼の父親はもう連行されて調査中」晴は琴葉の目を見た。「証拠は、彼のスマホとパソコンから流出したものよ。あなたがやったんでしょう?」晴の声はわずかに震えていた。「それにアクセスできるのは、あなたしかいなかった」琴葉は否定もしなければ、肯定もしなかった。ただお茶をもう一口飲み、ゆっくりと顔を上げて、静かに晴を見つめた。「晴」その声は静かで、揺るぎなかった。「私のこと、憎い?」晴の目が一瞬で赤くなった。唇を噛みしめ、長い沈黙のあと、ついに涙をこぼしながら叫んだ。「憎いに決まってる!私はずっとあなたが憎かった!あなたの存在は、私に思い出させるの。お父さん
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第10話

雪は降り続き、外の景色はすべて白に染まっていた。琴葉はその封筒を手に取り、少しだけ迷ってから、それでも封を切った。中に入っていたのは、一枚の写真だけだった。そこに写っていたのは、少し古びた黒い制服の上着。それはきちんと畳まれ、ガラスの額縁の中に収められている。その額縁の横には、ダイヤの指輪が置かれていた。大きく、強く光り、まるで一粒の涙のように見えた。彼女はそれを窓の外の雪が止むまで、長い間見つめていた。カフェの店員が「おかわりはいかがですか」と声をかけてくるまで、ずっとだ。琴葉は首を横に振り、写真を裏返してテーブルの上に置いた。そしてスマホを取り上げ、海斗にメッセージを送った。【あなたがA市に不動産関係の友達がいるって話、まだ有効ですか?】海斗からの電話はすぐにかかってきた。彼の声は笑みを含んでいた。「琴葉さん、空港で出会ったあの日から、僕はその言葉を14ヶ月と7日待っていたよ」……琴葉はまだ知らない。電話を切った翌日、C市の和也もまた一つの報告を受け取っていた。彼の部下はついに、琴葉の居場所を突き止めたのだ。その内容は詳細を極めていた。S国での住所、勤務している研究所、毎朝のランニングコース、さらにはスーパーでの買い物頻度にまで及んでいた。彼はその報告書を手にし、指先がわずかに震えていた。この情報を手に入れるために、半年間。数千万の金を使い、ほぼすべての人脈を動員した末の結果だった。しかし、彼の心に喜びはなかった。報告書の最後の一行に、一枚の写真が添えられていたからだ。そこには、琴葉と若い男が川のほとりを並んで歩く姿が写っていた。彼女は笑っていた。彼がこれまで一度も見たことのない、目に光の宿った笑顔で。その男の手は彼女の肩に軽く置かれており、自然で親密な距離だった。和也はその写真を長い間見つめたあと、突然立ち上がり、大股で部屋を出た。それを秘書が追いかけた。「社長、どちらへ?」「S国だ。彼女が他の男と一緒になることは許さない。彼女は俺のものだ」和也は三日三晩、船に揺られながら移動した。船酔いで七回も吐き、全身から海水の磯臭い匂いが染みついていた。これほど惨めな姿になったことは、彼の人生で一度もなかった。それでも今
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