All Chapters of 捨てたのはそちらなので、私は年下御曹司と婚約契約します: Chapter 111 - Chapter 120

123 Chapters

第111話 完成していない報告

 翌朝、出社してすぐ、朱音に顔を見られた。「昨日、ラーメンだった顔してる」「どんな顔?」「普通に楽しかった人の顔」「ラーメンはおいしかったよ」「ラーメンだけ?」「……味噌だった」「味の話に逃げた」 朱音はにやにやしながら、自分の席へ戻っていく。 否定したいのに、できない。 昨日の夜のことを思い出すと、胸の奥がまだ少し温かい。 券売機の前で真剣に悩む玲央さん。 写真の湯気がおいしそうだったから、という選び方。 次も、と自分から言えたこと。 それは、思っていた以上に私の中に残っていた。 けれど、浮かれてばかりもいられなかった。 午前中、上司から声がかかった。「朝比奈さん、少しいいですか」「はい」 会議室へ入ると、事業推進室の担当者も同席していた。 テーブルの上には、結和ケア試験導入の中間共有資料が置かれている。「来月の部内共有で、朝比奈さんから短く話してもらいたいと思っています」「私が、ですか」「はい。成功報告ではありません。現場の声を受けて、どう修正しているか。その過程を共有したいんです」 成功報告ではない。 その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。「まだ完成していませんが」「だからです」 上司は淡々と言った。「完成した資料より、途中で何を削り、何を残したかの方が、他の案件にも参考になります。特に、現場向け資料を作る部署には意味があると思います」 途中の判断。 その言葉は、最近何度も私の周りに出てくる。 完成していないことは、以前なら弱みに思えた。 でも今は少し違う。 迷ったからこそ、説明できることがある。 直している途中だからこそ、話せることがある。「分かりました。準備し
last updateLast Updated : 2026-09-01
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第112話 完成していない資料

 部内共有の日が近づくにつれて、私は何度も資料を開いては閉じていた。 結和ケア試験導入 中間共有。 表紙のタイトルは、もう決まっている。 けれど中身は、見るたびに少しずつ変わっていく。 言葉を一つ削る。 説明の順番を入れ替える。 現場からの指摘を、どこまで載せるか迷う。 最初の利用事例を、大きく見せすぎないようにする。 それでいて、小さく扱いすぎないようにもする。 この調整が、思ったより難しかった。 成功しました、と言えたら楽だと思う。 失敗しました、と言い切れるなら、それもある意味では楽だ。 けれど今の結和ケア試験導入は、そのどちらでもない。 まだ途中。 現場からの声を受けて、直している最中。 一件だけ利用事例が出た。 でも課題も多い。 その中途半端さを、中途半端なまま見せなければならない。 私は資料の一ページ目に置いた一文を見つめた。『利用者さんを見る時間が減るなら、本末転倒です』 何度見ても、少し胸が締めつけられる。 これは私の言葉ではない。 現場から出た言葉だ。 だからこそ、資料の飾りにしてはいけない。 忘れないために置く。 そこから外れたら、すぐに戻れるように。「琴葉、顔が発表前」 隣から朱音が声をかけてきた。「どんな顔?」「資料を信じたいけど、まだ疑ってる顔」「的確すぎない?」「付き合い長いので」 朱音は私の画面をちらりと見た。「また一番上にそれ置いたんだ」「うん。これを外すと、何のための修正か分からなくなりそうで」「いいと思う。琴葉が迷子にならないための旗でしょ」「旗」「現場の人から借りた旗」 その言い方に、少しだけ肩の力が抜けた。 
last updateLast Updated : 2026-09-02
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第113話 途中を見せる

 部内共有の当日、私はいつもより少し早く会議室へ向かった。 資料は印刷してある。 投影用のデータも確認した。 昨日の夜に何度も見直したから、もう大きな修正はない。 それでも、席に着くと自然に資料の端を指で押さえてしまう。 会議室には、事業推進室だけでなく、関連部署の担当者も数名来ていた。 大きな会議ではない。 けれど、思っていたより人数が多い。 自治体向け資料を作っている人。 住民向け案内文を担当している人。 別の連携事業で、現場説明を控えている人。 見知った顔もあれば、ほとんど話したことのない人もいる。 私は小さく背筋を伸ばした。「では、朝比奈さん。お願いします」「はい」 立ち上がると、視線が集まった。 以前の私なら、その視線だけで必要以上に身構えていたと思う。 失敗しないように。 不足がないように。 誰にも迷惑をかけないように。 でも今日は、少し違う。 不足はある。 迷っているところもある。 だからこそ、それを話しに来た。「本日は、結和ケア試験導入の中間共有をさせていただきます」 声は少し硬かった。 それでも、続ける。「最初にお伝えしたいのは、これは成功報告ではないということです。現在も調整中で、現場からの指摘を受けて修正を続けています」 私は一ページ目を映した。『利用者さんを見る時間が減るなら、本末転倒です』 会議室が静かになる。「今回の設計で一番大事にしているのは、この言葉です。これは現場から出た言葉です。記録を増やすことが目的になれば、本来見るべき利用者さんを見る時間が減ってしまう。その懸念を出発点にしています」 何人かが資料に目を落とした。 私は次のページへ進める。「当初は、目的説明、運用ルール、記録方法、家族向け
last updateLast Updated : 2026-09-03
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第114話 途中で聞かれる

 説明を終えても、すぐに大きな拍手が起きるわけではなかった。 けれど、何人かが資料をめくりながら頷いている。 その小さな反応に、張っていた肩が少しだけ緩んだ。 上司が口を開いた。「ありがとうございます。成功事例としてではなく、途中の判断として共有できたのが良かったと思います」 私は小さく頭を下げた。「他案件でも、資料を一枚にまとめすぎているものがあります。今回のように、誰がいつ見るのかで分ける考え方は参考になるでしょう」 その言葉を受けて、別部署の担当者が手を上げた。「うちの住民向け案内文も、説明したいことを全部一枚に入れてしまっています。今回の資料でいうと、現場向けと家族向けが混ざっている状態に近いかもしれません」「はい。対象が混ざると、どちらにも少し遠い言葉になることがあります」「途中で一回、見てもらうことはできますか。完成してからではなく、構成の段階で」 途中で一回。 その言葉が、妙に嬉しかった。 完成してから整えるのではなく、途中で聞かれる。 私の意見が、後から補修するためではなく、作っている途中の判断に使われる。「私でよければ」「お願いします」 会議が終わったあとも、いくつか質問が来た。 三行にした時、何を残す基準にしたのか。 現場からの指摘を、どこまで資料に反映したのか。 厳しい声を共有する時、どう言葉を選んだのか。 私は一つずつ答えた。 完璧な答えではない。 でも、自分が迷ったことなら話せる。 間違えそうになったことなら説明できる。 そう気づくと、少しだけ声が出しやすくなった。 席へ戻ると、朱音が小さく拍手した。「お疲れ、途中の女王」「何その称号」「完成してないものを見せられるの、けっこう強いよ」「強いのかな」「強いよ。完成品だけ見せたい人の方が多いもん」
last updateLast Updated : 2026-09-04
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第115話 見ているだけの人

 白藤福祉財団の応接室には、午後の光が静かに差し込んでいた。 紗雪はテーブルに置かれた共有資料を一枚ずつめくる。 地域福祉支援に関する各社の取り組み。 提携先の試験導入状況。 現場負担を抑えるための資料設計。 どれも事務局を通して通常共有されたものだ。 特別に取り寄せたわけではない。 誰かに探らせたわけでもない。 ただ、白藤福祉財団の関係先として届いた資料の中に、朝比奈琴葉の名前があった。「朝比奈さんの件ですね」 向かいに座る理事が、穏やかに言った。 紗雪は資料から目を上げる。「ええ。結和ケアの試験導入ですわ」「先日の部内共有で、鷹宮側では少し反応があったようです。成功報告というより、修正過程の共有だったとか」「そのようですわね」 紗雪は資料の見出しに視線を戻した。『結和ケア試験導入 中間共有』 派手な言葉はない。 実績を大きく見せる数字もない。 そこにあるのは、現場から出た指摘と、それを受けて資料を分けた経緯だった。 初回説明用。 現場向け確認カード。 家族向け説明文。 管理者向け確認資料。 紗雪は指先で紙の端を軽く押さえた。「随分と、地味な資料ですわ」「地味ですか」「ええ。けれど、悪い意味ではありません」 綺麗に整えられた報告書は、いくらでも見てきた。 成功した部分だけを抜き出し、課題を目立たない場所へ押し込み、数字を少し大きく見せる。 そういう資料は読みやすい。 けれど、現場の温度が消えることも多い。 この資料は違った。 まだ迷っている。 まだ直している。 まだ言葉が揺れている。 けれど、その揺れを隠していない。「朝比奈様らしいですわね」「交流会での印象と近
last updateLast Updated : 2026-09-05
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第116話 途中で呼ばれる

 部内共有から二日後、私は別部署の小さな会議室にいた。 机の上には、住民向け案内文の初稿が置かれている。 タイトルは丁寧だった。 目的も分かる。 必要な説明も、きちんと入っている。 ただ、一枚目を読んだ時点で、私は少しだけ指を止めた。「どうでしょうか」 担当の女性が、緊張した顔でこちらを見る。「かなり丁寧に作られていると思います」「でも」「でも、最初に読む人が迷うかもしれません」 私は資料の一行目を指で示した。「ここで制度の目的を説明していますよね。大事な内容です。ただ、住民の方が最初に知りたいのは、たぶん“自分が何をすればいいのか”だと思います」「申請方法を先に出す、ということですか」「はい。対象になる人、最初に連絡する場所、必要なもの。この三つを先に出して、詳しい目的は後ろに回してもいい気がします」 言いながら、少しだけ不思議な気持ちになった。 つい最近まで、私はこんなふうに別部署の資料へ意見を言う立場ではなかった。 頼まれたから確認する。 聞かれたから答える。 それだけなのに、手元の資料の重みが前より少し違う。 私の言葉で、誰かの資料の形が変わる。 その責任が、じわりと手のひらに乗っていた。「なるほど。目的を削るのではなく、順番を変えるんですね」「はい。消す必要はないと思います。ただ、最初に置くと少し遠く感じます」 担当者は大きく頷き、赤ペンでメモを取った。「朝比奈さん、やっぱり聞いてよかったです。完成してからだと、ここまで大きく直すのは難しかったので」 途中で聞かれる。 その言葉の意味を、また少し実感した。 完成したものを整えるのではなく、作っている途中で方向を一緒に考える。 それは嬉しい。 でも同時に、怖くもある。 間違えたことを言えば、そのまま進んでしまうかもし
last updateLast Updated : 2026-09-06
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第117話 全部は持たない

 別部署の案内文を見た翌日、私はまた別の相談を受けた。 最初は、昨日の住民向け案内文の続きだと思っていた。けれど共有されたファイルを開いてみると、そこには事業者向け説明資料、窓口担当者用の確認表、住民向けの簡易チラシ、それから問い合わせ対応の想定問答まで入っていた。どれも必要な資料ではある。けれど、全部を一度に見るには量が多すぎる。「朝比奈さん、このあたりも一緒に見てもらえますか。昨日の視点で整理してもらえると助かるんです」 担当者は悪気なくそう言った。むしろ、私を信頼してくれているのだと思う。だからこそ、私は一瞬返事に迷った。 できます、と言いそうになった。 前の私なら、たぶん言っていた。頼まれたなら応えたい。期待されたなら、期待以上に返したい。相手が困っているなら、少し無理をしてでも助けたい。そうやって、自分の時間も負担も曖昧にして、気づけば全部を抱えていた。 でも、今それをやったら、きっと同じところに戻ってしまう。 私は画面に並ぶファイル名を見つめながら、ゆっくり息を整えた。「すみません。全部を私が見ると、逆に責任の範囲が曖昧になると思います」 担当者が少し驚いた顔をした。 責められたわけではないのに、胸の奥が小さく縮む。それでも私は続けた。「私が見られるのは、読む人に届く順番や言葉の置き方です。制度の内容や問い合わせ対応の判断は、担当部署
last updateLast Updated : 2026-09-07
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第118話 頼られる形が変わる

 住民向け案内文の修正版が上がってきたのは、週の終わりだった。 共有フォルダに入ったファイルを開くと、一ページ目の構成が大きく変わっている。以前は制度の目的から始まっていた資料が、今は住民が最初に知りたいことから並んでいた。『対象になる方』『最初に連絡する窓口』『ご準備いただくもの』 その三つが、上部に大きく置かれている。詳しい目的や制度の背景は、その後ろに移されていた。削られたわけではない。ただ、読む人が迷わない順番に置き直されている。 私は画面を見ながら、小さく頷いた。 大きな変化ではないのかもしれない。けれど、最初の一ページで迷わず次の行動が分かるかどうかは、窓口に来る人にとってきっと大きい。制度そのものが良くても、入口で迷わせてしまえば、必要な人に届く前に止まってしまうことがある。 昼前、その部署の担当者がわざわざ席まで来てくれた。「朝比奈さん、先日の案内文、窓口担当からも見やすくなったと言われました」「本当ですか」「はい。まだ配布前なので実際の問い合わせ件数は分かりませんが、少なくとも内部確認では、最初に案内する流れが整理しやすくなったそうです」 その言葉に、胸の奥がふっと温かくなる。 問い合わせが
last updateLast Updated : 2026-09-08
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第119話 陽斗はその名前をまた見る

 ノヴァリンクの会議室で、陽斗は提携候補先の動向資料をめくっていた。 鷹宮グループの生活支援領域に関する取り組みは、以前から確認対象に入っている。小鳥遊ホールディングスとの共同構想を進めるうえで、競合の動きは無視できない。特に地域福祉や生活支援は、数字の規模だけで押し切れる領域ではなく、現場との関係性や運用の細かさが後から効いてくる。 そう説明されれば、陽斗も納得できる。 納得できるのに、資料の中のある名前を見つけた瞬間、視線がそこで止まった。 朝比奈琴葉。 担当者名として、また載っていた。 今回は、結和ケアの試験導入そのものではない。鷹宮グループ内で現場向け資料設計の考え方が共有され、住民向け案内文や窓口向け確認表にも応用され始めている、という外部向けのごく薄い情報だった。具体的な内部資料も、利用者に関わる内容もない。ただ、鷹宮側で朝比奈琴葉という担当者の関与範囲が少し広がっているらしい、ということだけは読み取れた。「また、琴葉か」 口に出したつもりはなかった。 けれど、隣にいた莉愛がこちらを見る。「朝比奈さん?」 陽斗は資料を閉じかけて、やめた。「ああ。前に見た生活支援連携案の続きだ」「そう」 莉愛は資料ではなく、陽斗の顔を見ていた。「気になるの?」「仕事の資料だよ」「分かっ
last updateLast Updated : 2026-09-09
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第120話 手を出さない距離

 鷹宮グループ本社の役員フロアで、玲央は事業推進室から上がってきた中間報告に目を通していた。 結和ケア試験導入の進捗。 現場向け資料の修正過程。 部内共有後の関連部署からの相談状況。 資料の中に、朝比奈琴葉の名前がある。 ただし、特別扱いされた名前ではない。担当者として、報告の中に必要な範囲で記載されているだけだった。玲央はそのことを確認してから、次のページへ進めた。 琴葉の仕事は、少しずつ周囲に見え始めている。 それは良いことだ。 だが、良いことだからこそ、扱いを間違えてはいけない。 会議室に入ってきた事業推進室長は、玲央の前に座ると、静かに資料を開いた。「朝比奈さんの部内共有後、関連部署から資料整理の相談が数件入っています」「内容は」「住民向け案内文、窓口確認表、事業者向け説明資料などです。ただ、朝比奈さん本人が対応範囲を整理したようで、制度内容や判断部分までは引き受けていません。読む人に届く順番と言葉の置き方に限定しています」 玲央は資料から目を上げた。 琴葉らしい判断だと思った。 以前の彼女なら、頼まれた分だけ背負ってしまったかもしれない。けれど今は、自分が見るべき範囲と、相手が責任を持つべき範囲を分け始めている。 それは成長であり、同時に守るべき変化でもあった。「その整理は、部門として支えてください」「承知しています。便利な確認役として依頼が集中しすぎると、本来の担当業務に支障が出ますので」「ええ。朝比奈さんを、都合のいい修正係にしないでください」 玲央の声は静かだった。 けれど、室長はすぐに背筋を伸ばした。「もちろんです」「彼女が出している価値は、文章を整えることだけではありません。読む人の立場を切り分け、情報の置き場所を変え、現場が動ける形に直すことです。それを個人の気遣いとして消費すると、組織として同じ失敗を繰り返します」 室長は頷きながらメモを取った。
last updateLast Updated : 2026-09-10
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